京都美山 かやぶきの里
六月の初旬、友人に誘われて京都府北桑田郡美山町(2006年1月1日に周辺4町が合併して南丹市となった。)を訪れた。美山町は京都府のほぼ中央、福井県との県境に位置し周囲を三国岳、八ヶ峰、頭巾山、長老山など八百~九百メートルの山々に囲まれた山間の町である。
町の面積は三四〇.四七平方キロメートル、山林が大半を占める京都府内の町村で一番大きな町でもある。
美山町は古来より御食国(天皇の食料を供する国)と呼ばれた若狭と京を結ぶ若狭街道(鯖街道)沿いに開けた町で、町の中央を清らかな由良川が山々を縫うように流れている。
この町が近年、脚光を浴びているのは江戸時代中期以降に建てられた茅葺き民家がおよそ二百五十棟も現存している。(単独の町としては、日本一の残存数)
訪れた美山町の北地区は、古くは知井庄と呼ばれ庄内十一ヶ村の中心地であった。この北地区には今も茅葺き民家で日常の生活を営む三十数棟の集落が有る。
この集落を遠くから眺めると自然景観の中にうまく溶け込み、あたかもゆるやかな斜面の雛壇に置き並べた如く茅葺き民家や神社が立ち並んでいるのが見える。
それは忘れ去っていた里山が有り、田圃が広がり、茅葺き民家が点在する日本の農村の原風景を思い起こさせる懐かしい風景である。
集落の人々が守ってきたこの美しい景観を文化庁も賞賛し一九九三年、特にこの集落を「重要伝統的建造物群保存地区」に選定した。
町中を流れる由良川は清らかな瀬音を響かせ、川には鮎が跳ね、夏の夜は田を潤す水路に蛍が乱舞する。まさに聞かされていた通りの桃源郷の如き長閑な集落である。
今回、この町を訪れた理由はこの町に移築した一心寺の元社務所を拝見する事が大きな目的であった。
十三~四年前(平成元年か二年頃と思われる)、骨仏で有名な大阪天王寺の一心寺(注1)が社務所を建替える事にした。打ち壊され廃材となる社務所は江戸時代に建築された建物であった。
社務所の新築に関係するAさんはまだ数百年は持つどっしりとした建物をつぶさに見て、重要文化財級の建造物を廃材にして良いのかと大いなる疑問を感じた。
Aさんは社務所を移築出来ないものかと思い仲間の建築家に相談を持ち掛けたが巨額な解体、移築費用が大きな壁であった。
そこでスポンサーに頼らず移築はボランティアを募って自分達の手で行なおうと、他に例を見ない無謀な移築計画を立案した。この夢のような話しが広まり、興味津々の仲間が次々と集まって移築計画が本当に動き始めた。友人のHさんも建築関係に知己が多くこの計画を知らされて仲間に加わった。
こうして移築計画が動き始め寺の許可を得て解体移築する事になったが移築する場所が難題であった。移築先を捜し求めた所、幸いにも茅葺き民家の保存に熱心な美山町が快く、土地を無償で提供してくれる事になった。
しかし、移築を前提とした解体工事は容易ではなかった。瓦を一枚、一枚剥がし、柱や梁をはじめ礎石から床板、板戸や欄間、襖、障子、畳、に至るまでことごとく記号を付して美山町に運び込んだ。運搬に必要な大型の重機も或る会社の好意で無償提供を受けた。
解体した資材を美山町に運び込んだがメンバーの大半は三十代後半から五十代の働き盛りで仕事が忙しく復元工事は中々軌道に乗らなかった。
仲間を誘いスケジュールを遣り繰りして美山に通ったが遅々として工事は進まなかった。数年の歳月を経ても復元工事は一向に進まなかったが夢を追い求める皆の想いは変わらなかった。
遅々として進まぬ工事であったが「思う一念岩をも通す」のことわざ通り、礎石を固め、柱を建て、一本の釘も使わず梁を組み、建物の骨組を仕上げて、やっと棟上に漕ぎつけたのは平成九年頃であった。
男のロマンを追い求めてやっと上棟の日を迎えた。およそ二百人の方々が集まって盛大な式が執り行われた。日の丸の扇が棟に飾られた瞬間、参集した人々から一斉に拍手と歓声が上がった。
それからも苦難の連続であった。なにせ、働き盛りの勤め人が休日を利用して、それも古い建物の復元作業である。
瓦を葺くのも休日を利用しての職人のボランティアであった。壁も昔のままの土壁でなければならず、左官の職人が素人のボランティアに本壁の作り方を教え、割り竹を芯にしてわら藁と土を材料に荒壁を仕上げたが、訪れた時は本塗りは施されて居らずこれからの仕事との事であった。
屋根と荒壁が仕上がり、畳を敷き並べる事になったがこれが難問であった。畳は一見すると同じ寸法に見えるが一枚、一枚微妙に寸法が異なっている。
パズルを解くが如く何度も何度も敷き直し、少々、いびつではあるがやっと畳を敷き並べ雨露が凌げる建物になったのはつい数年前の事であった。
外見は立派な建物に仕上がっているが内部はまだまだこれからの仕事で、その後も会員の方々が暇を見つけては美山町に通いこつこつと作業を続けているとの事。皆が持ち寄ったのか作業に必要な道具類と資材が豊富に有る事に驚かされた。
移築した建物は集落の外れに有り、電気は引き込んだが上下水道の設備まで望めなかった。上水道の水は数百メートル先の山間の谷間からゴムホースを引き込み、落差を利用した水道である。
渇水期も涸れなかった水道の蛇口をひねると都会では味わえない冷たい清水が勢い良く噴出した。贅沢にもこの水を蛇口から出しっぱなしにしてビールを冷やした。
トイレは自然に優しい仕組みでドラム缶を据え置き、排泄物の処理を微生物に任せ臭気を除くために杉、檜の大鋸屑を糞尿に散布する自然分解方式である。
杉、檜は腐敗を防ぐ作用があり、排泄物特有の異臭を発せず、虫もわかず、後は隣接する畑の肥やしに利用しているとの由。風呂の完成も間もなくとの事、当然、五右衛門風呂で薪で焚く昔懐かしい風呂が出来上がるであろう。
元社務所の外観は立派に仕上がり、今では美山町の観光案内図に「伝承文化の館」と記されている。
元社務所の前に立ちしばらく眺めてから、移築を成し遂げた方々に敬意を払い「伝承文化の館」の重い引き戸を押し開いた。引き戸を開けて敷居を跨ぐとそこは粘土を打ち固めた広い土間になっていた。
土間の中央に囲炉裏が有り、囲炉裏の周囲には椅子代わりに太い横木が据えられていた。暖を取るのも煮炊きをするのもこの囲炉裏一つとの事。
土間の左に三十数畳の大広間が有り、右手に四畳半の小部屋があった。この小部屋は元社務所の受付で有ったとの事。土間の正面の座敷は客間であったとの事、立派な欄間が取り付けられていた。
奥の一室には布団が積み上げられ布団部屋になっていた。およそ二十組みほどの布団が有るとの事。廊下の奥に薪ストーブが有り、その奥に上棟式に使った日の丸の扇が立て掛けてあった。
あと三~四室ほど有ったように思うが資材が置かれ、どの室もまるで工事半ばの建築現場の様であった。
大広間の壁際に長机が並べられその上に今はもう使われなくなった古い生活道具が所狭しと並べられていた。
それらの中に数台の古い糸繰車が並べられていた。糸繰車の脇に笊が有り、中を見ると糸繰りの残りの綿花が少々残っていた。
Hさんに伺うと「昨年、前の畑に綿の種を蒔き栽培して糸を紡ぐ企画を立てた。時間の許せる会員が訪れて綿を栽培し、収穫期に綿花から糸を紡ぐ講習会を開いた。多くの参加者は綿を見るのも初めてであり白い花を付けた綿畑を眺めてしばし感動していた。参加者全員で畑の綿を摘み取り、綿の種を取り除いて糸繰り車で糸を紡いだ、その時の残りの綿と思われる。」との事であった。
会では「伝承文化の館」の名に恥じぬよう日常生活から消えていった文化、技術を残す草の根運動も行なっていると聞かされ感動した次第。
建物の維持管理も大変な仕事である。春、夏、秋は季節も良く美山の自然を求めて訪れる会員も多いが冬の美山は一~二メートルほどの積雪が有り訪れる会員も途絶えがちになる。
積雪から建物を守る為、雪の季節になると定期的にボランティアを募り、凍てつく寒さに身を震わせながら高い大屋根に登って危険な雪下ろしをしているとの事。
雪下ろしに参加したHさんは大屋根の上から見る美山の雪景色の素晴らしさを語り、我々に是非見せたいとも語った。
大広間で一時、くつろいだ後、集落の散策を兼ねて昼食に出掛けることにした。外に出ると裏山の林の陰から何やらがさがさと音がしたのでよく見ると二~三匹の猿が我々に驚き逃げ去る音であった。
田圃が広がり遠くに茅葺きの集落が見渡せる農道を歩いて集落に一軒しかない食堂に向った。観光客向けに新しく建てたのか広い駐車場の横に茅葺きの土産物店と「お食事処きたむら」の看板が見えた。
丁度その時、駐車場に観光バスが停車し大勢の観光客が降り立った。昼時でも有り小さな「お食事処きたむら」が満杯になる事を怖れていたが観光客はガイドの説明を聞きながら茅葺き民家の集落に向った。
一安心して歩を進め手打ちの美味しい蕎麦が味わえると聞かされていた「お食事処きたむら」の店先に立って驚いた。何と本日休業の札が垂れ下がっていた。美味い蕎麦に見放され、何処か食事に有り付ける場所を探さねばならないはめになった。
集落には数軒の民宿が有り、観光に力を入れていると聞き及んでいたので何処かの民宿なら食事を供してくれるであろうと茅葺きの民家が連なる集落に歩を進めた。
集落の屋敷は緩やかな斜面に石垣を積んで平地を造成し屋敷地と屋敷地の間に里道が通じていた。下の道路から見るとまるで雛壇に茅葺き民家を置き並べた様な景観であった。
集落の入口の辻に昔懐かしい円筒の赤い郵便ポストがあった。遠くから眺めると赤い郵便ポストは茅葺民家と里山の自然の中に溶け込み童画を見るような眺めであった。
緩やかな坂道を登り昼食を供する民宿を探し茅葺きの集落を散策した。どの民家も斜面に石垣を積んで整地した一画が畑地を含め屋敷地であった。
屋敷地には周りを囲うブロック塀や垣根が無く、電線も地中に埋めたのか電柱が無く、狭い里道を歩いていても開放感に溢れていた。里道に沿って用水が縦横に走り、清らかな水が勢い良く流れていた。
食事処を探しあぐね里人に尋ねたいと思えども行き交う人も無く、探し当てた民宿は平日故か無人であった。
一軒の茅葺き農家で老婦人を見掛けたので遠慮勝ちに昼食を供する民宿をご存知有りませんかとお尋ねした。
老婦人は「きたむらさんが休日の水曜日は民宿の「またべ」さんが昼食を供している。「またべ」さんはこの道を真っ直ぐ行って栃の巨木が有る稲荷神社の前を下がった左手の茅葺きの民家が「またべ」さんです」と懇切丁寧に道順を教えられた。
目印の栃の木は確かに今までに見たこともない巨木であった。大きな葉を茂らせた栃の木に暫し見惚れていた。
稲荷神社の前を教えられた通り、左に折れ少し坂を下ると「またべ」の幡が見えた。坂の下から先ほどの観光客の一団がガイドの案内でこちらに向って来た。どうやら目的の場所は同じらしいと気付いたが他に行く当ても無く「またべ」に向った。
「またべ」の幡の辺りで観光客を案内していたガイドに行き合った。ガイドは申し訳なさそうに一礼し、「誠に申し訳有りませんが本日は貸切になっております。」と告げられた。
他に行く当てもなくガイドに他に食事が出来る店は有りませんかとお聞きすると府道を少し行くと「美山町自然文化村河鹿荘が有り食事が出来ます、その手前に商店街が有る。」と教えられた。
里道を下り茅葺き集落の外れに、おとりの鮎を売る葦簾張りの小屋が有ったがまだ解禁前でもあり清流を引き込んだ水槽に鮎はいなかった。
ガイドに教えられた由良川沿いの道を散策気分で歩いていたが行けども行けども商店街は無く、人家もまばらになった。
暑い日差しの中、およそ二キロほど歩いた所で対岸に河鹿荘とおぼしき建物が目に入った。しばらく行くと由良川の河原に下る細い道が有り、その先にコンクリートの橋が架かっていた。橋は幅一メートルほどで手摺も無く由良川が増水すれば水没すると思える潜水橋であった。
橋の中ほどから河原を見るとバイクでツーリングと思しき若者達がバーベキューの火を熾すのに四苦八苦していた。
川の淵には清流に住むハヤと思しき魚が群れていた。橋を渡り果樹園の脇の小径を抜け山裾の道をしばらく歩くと河鹿荘があった。
結局、ガイドに教えられた商店街は見つからなかった。(翌日、芦生の京大演習林に向う途中、三軒の商店を見つけた。ガイドが云っていた商店街とはここの事かと驚いた。)
河鹿荘に到着して真っ直ぐ食堂に向い、テーブルに着くと早速、冷たい水が運ばれてきた。炎天下を歩き、ほてった身体に美山の水は事のほか美味しく感じた。
早速、生ビールと茶蕎麦を注文し、程なく運ばれて来た冷たい生ビールで喉を潤し、若竹を割り割いた器に盛り付けられた茶蕎麦を頂戴した。
食事を終え、照り返しの強い車道を避け山裾に沿った里道を歩いて「伝承文化の館」に引き返した。行き交う人も無く、棚田の稲がそよ吹く風に揺られていた。
蛍を守る為、無農薬と思われる田圃にはお玉杓子が群れ時折、蛙の鳴声が聞こえていた。里道を沢蟹が横切り、用水路には清らかな水が勢い良く流れ、小さな瀬には小魚が群れていた。突然、山裾からがさごそと音が聞こえるのは猿が熊笹を押し分けて逃げ去る音であった。
途中に屋根を葺く茅の貯蔵庫が有った。茅葺の屋根も昔は一度の葺き替えで五十年はもったと云われているが今は三十年ほどしかもたなくなった。
昔の茅葺の家では一年中囲炉裏やかまどに薪をくべ、立ち上る煙が屋根を覆う茅の隙間に充満し虫もつかず、年月を経て縛った縄も茅も炭化して堅く締り、五十年の風雪に耐える茅葺きになった。
今は生活様式が変わりかまどは無くなり、囲炉裏に薪をくべる事も無くなった。便利さと引き換えに先人の知恵を生かせず茅葺の寿命も縮まった。
それでもここ美山では茅葺きの技術を後世に残そうと若手職人の育成に力をそそぎ、脈々とその技術を継承しているとの事。
集落の外れにある八幡神社を過ぎると再び茅葺の集落に入った。山裾の里道を縫って散策していると美山町北地区でただ一軒と思われる洒落た喫茶店があったが平日ゆえか休業していた。
「伝承文化の館」に帰り着き、しばらく休息を取ったが日はまだ高く、茅葺集落の全景が見渡せる西ノ山の鉄塔まで登ることにした。
小川に掛る小さな橋を渡り林に分け入った。少し歩くと竹林が有り、もう少し季節が早ければ竹の子料理が楽しめた事であろうと思いつつ、時季遅れの竹の子を探しに竹林に入ったがやはり季節が遅すぎた。
猿も好物なのかあちこちに竹の子を食いちぎった跡があった。竹林の下草に茗荷が生い茂っていた。引き抜いて根元をかじると心地よい香りと辛味が口中に広がった。
竹林を抜けると鹿よけの金網の柵が設けられていた。柵は必ず閉める様にとの注意書きがあった。柵を押し開き注意書きに従って柵を閉め杉林の中を進んだ。
緩やかな勾配の登りであったが登る人もまれなのか道には杉の落ち葉が積もり行くほどに道幅は狭くなった。
その内、急な登りになり、前方を見るとつづら折れの急な登りが続いていた。時々、がさごそと音がするのは我々の侵入に驚いて猿か鹿の走り去る音であろうか。
杉林を抜けてつづら折れの坂を登り切ると暑い日差しが降り注いだ。潅木の生い茂る坂をしばらく登り急坂を喘ぎ喘ぎ登り切ると鉄塔の橋脚が見えた。
そこは茅葺きの集落を一望出来る格好の場所であった。見渡すと周囲を山々に囲まれた茅葺の集落と棚田があたかも箱庭の様に広がっていた。長閑な農村の景観を飽きもせずしばらく眺めて時を過ごした。
山を下り、カメラのフィルムを求めて例の土産物店に出向いた。フイルムと美山特産の漬物を買い求め、女主人に蛍はまだ早いですかと聞いて見た。
女主人は「今年は例年より大分早く、向こうの水路の辺りでちらほらと出ていますよ。」と教えられた。
ここ美山でも田に水を引き込む用水路の一部がU字溝に変わり昔に比べて近年は蛍が減ったとの事であった。確かに、道路沿いの田圃の用水路は道路補強の為かコンクリートのU字溝が施されていた。
「伝承文化の館」に帰り蛍の話しを伝え、作業を分担して夕食の準備に取り掛った。夕食の献立は料理が得意なHさんにお任せしていた。Hさんは食料を買い整え、今朝早くから起床し数品の料理を調理して持参してくれていた。
我々はHさんの指示に従い、手斧で薪を割り、囲炉裏に火を熾した。乾き切った薪は勢い良く燃え上がり囲炉裏に据えた大きな中華鍋で肉を焼き、野菜を炒めた。
鮎が有れば串刺しにして囲炉裏の隅に突き立て、こんがりと焼けば酒の肴に最高だが生憎、鮎の解禁はまだ先であった。(美山の由良川は鮎釣りで有名)
Hさんが持参した料理を座敷のテーブルに並べ、大皿に焼き肉を盛って夕食の準備を整えた。流水に沈めていたビールはほどよく冷えていた。先ずはビールで乾杯しHさん手作りの料理に舌鼓を打ち、楽しい宴会が始まった。
日暮れと共に灯かりを求めて窓の隙間から多数の虫が侵入してきた。薪を燻べ煙で追い払っても次々に小さな虫が侵入してきた。
天井から吊るした裸電球に虫が群れ飛び、薄明かりの下では料理に落下した虫も気付かずに食したかも知れない。飲むほどに心地よく酔い話題が尽きなかった。
とっぷりと日も暮れ、外は暗闇となった。そろそろ蛍の出る時刻であろうと思い、寝入っているIさんを残して皆で外に出た。天を見上げると満天の星空であった。星が大きく見え、都会では見ることも出来ない星空をしばらく眺め入った。
昼間、土産物店で教えられた水路まで懐中電灯の灯かりを頼りに里道を歩いた。田圃のなかに微かな光を見つけ近寄ると紛れも無い源氏蛍であった。飛騨の高山で見て以来、数十年振りに見る蛍の光は意外に明るく驚きを感じた。
その内、懐中電灯の灯りに吸い寄せられて次々に蛍が姿を見せた。ほろ酔い機嫌でひと寝入りしているIさんをこのままにしておくと翌日怨まれそうなので急いで呼びに行った。
酔いの覚めやらぬIさんは酔眼を見開いてほのかな蛍の光を捜し求めた。闇の中から青白く光る一筋の光が飛来しIさんの眼前を音も無く行き交った。数匹の蛍が弧を描いて舞い飛ぶのを見たIさんは酔いも吹っ飛び感嘆の声を発した。
星明りの下、蛍を追い求めて水路沿いの里道を行き、山裾の小川に蛍を捜し求めておよそ一時間ばかり蛍の乱舞とはいかなかったがちらほらと舞う蛍狩りを楽しんだ。
「伝承文化の館」に戻り時期が早く諦めていた蛍を見た感激に浸り、再びお祝いの酒宴となった。とうとう夜中の十二時頃まで杯を傾け、四方山の話は尽きなかった。
翌朝、夜明けと共に裏山から鶯の鳴声が響き渡り目が醒めた。時計を見ると四時半であった。早過ぎるのでもう一眠りと思ったが鶯は鳴き止まず結局、眠れなかった。
五時前だが外はもう明るく、布団から起き出すと昼間の暑さが嘘のように朝の冷気が漂っていた。寒さを感じ急いで長袖のシャツを取り出して着替えた。
外に出ると朝靄が立ち込めていた。茅葺きの集落の方向を眺めると、集落は薄絹のような霧に包まれ一幅の絵の様に美しい風景であった。しばらく眺め入ってから冷水で顔を洗うと眠気も吹き飛んだ。
六時頃、朝食の準備に取り掛った。まず、手斧で薪を割り囲炉裏に火を熾した。飯は昔懐かしいお釜で炊く事になった。
Hさんが米を磨いだがお釜では水加減が解からないと叫んでいる声が聞こえた。適当で良いだろうと応え、差出されたお釜を囲炉裏に据えた。
時々、蓋を開けて覗くと案の定、水が少し足りなかった。差し水して沸騰させたが差し水が少々多すぎたようであった。
七輪(関西ではカンテキと称す)にからけし(残り火、関西ではからけしと称す)を入れ、余熱で蒸らす事にした。十分に蒸らすとお焦げの美味い飯が炊き上がった。
鉄鍋で味噌汁を作り、大きなヤカンでお茶を沸かし、Hさん持参の佃煮と卵と昨日買い求めた美山の漬物で朝食を摂った。
朝食を済ませ、関西屈指のブナの原生林が残る京大芦生演習林に出掛ける事にした。京大芦生演習林は京都の秘境「芦生原生林」とも呼ばれ、「伝承文化の館」から車で約一時間ほどの距離にある。
火の始末を済ませ由良川沿いの県道三八号京都広川原美山線を芦生に向った。途中、昨日の河鹿荘を過ぎた辺りに小さなスーパーと三~四軒ほどの商店があった。昨日ガイドから教えられた商店街とは此処のことであった。
河鹿荘の有る中地区も若狭街道沿いの集落である。美山町東部地区観光案内によれば中地区から知見の集落まで車道が通じ、知見から若狭街道の名山、八ヶ峰(八〇〇メートル)の頂上まで歩いて約二時間と記されていた。多分、天候が良ければ山頂から若狭湾が一望出来るであろうと思われる。
若狭は古来より天皇の食料を供給する御食国と呼ばれ、小浜では「京は遠ても十八里」と言い伝えられている。
美山は福井(若狭)との県境に位置し、北に聳える山々の五波峠、堀越峠を越えると若狭の小浜は至近の距離である。
古来、小浜から美山を経て京に至る幾筋もの若狭街道(鯖街道)があった。美山の知見を経由する知井坂越への道も若狭街道の一つであった。
小浜から名田庄村を経て八ヶ峰の西の峠、知井坂を越えて知見の集落に下り、中の集落から由良川沿いの道を進み、安掛(安掛のT字路には美山町に二つしか無い信号の一つが有る)から周山街道を経て高雄、嵯峨野に至る街道であった。
又、中の集落から十キロほど先に田歌の集落が有る。田歌も若狭街道沿いの集落であった。小浜から八ヶ峰の東の峠、五波峠(今は田歌から五波峠越えの林道が通じ小浜に至る)を越えて美山の田歌に至り、田歌から佐々里川沿いに南下し、品谷峠を越えて小塩、大野を経て上賀茂に至る道も若狭街道の一つであった。
若狭街道とは若狭で獲れた新鮮な魚介類を京まで運ぶ幾筋もの道を総称して若狭街道と称したのであろう。(小浜から遠敷、上中、朽木、から安曇川を遡って梅ノ木、花折峠、大原を経て京に至る若狭街道が有名である。)
田歌から唐戸渓谷沿いの曲がりくねった道を出合の標識を求めて車を走らせた。由良川と佐々里川が合流する出合で左折し芦生の京大演習林に向った。
地図では凡そ三キロと記されていたが道は由良川の渓谷に沿った一車線の細い道であった。崖を削り取って付けられた道の左側は垂直の崖が続き、右側は水の瀬音も聞こえぬ深い谷であった。時折、カーブに差しかかると木々の間から遥か下を流れる美しい渓谷が見えた。
曲がりくねった道で対向車が来たらどうし様かと心配しながら車を走らせた。幸い対向車に遭う事も無く集落に入った。失礼ながらこんな山奥に集落が有る事に驚きを感じた。
道の行き止まりが京大芦生演習林であった。入林の許可を得るべく構内に入ったが都会の大学の構内とは異なり静かで人の気配もなかった。
構内には木造二階建ての事務所、教室、宿舎、食堂が有り、数棟の平屋の倉庫があった。事務所に向って歩いているとたまたま一人の女子学生が通り掛ったので入林の手続きをお聞きした。
教えられた場所に行くと、演習林の入林許可申請書の用紙が有り、用紙には利用のルールと簡単な地図が記されていた。その用紙に目的はハイキングと記し、入林時間と帰着時間、行き先を記入して受け付け箱に投函した。入林許可が必要と聞かされていたが至極簡単な手続きであった。
構内に演習林を紹介する展示場が有った。展示場に掲げられた京大芦生演習林の説明文には次のように記されていた。
「京大芦生演習林は京都市の北、およそ三十五キロに有り、福井県と滋賀県に接した由良川の源流域に位置している。大正十年(一九二一年)学術研究及び実習の為の使用を目的に旧知井村の所有者と合意し国が九十九年間の地上権を設定したのが始まりである。演習林の面積はおよそ四千二百ヘクタール、事務所の標高は三百五十五メートル、ブナの木峠の標高が九百五十九メートル、約六百メートルの標高差が有り、日本海型気候と太平洋型気候の境目に位置している。その為、樹種が豊富で大規模に残された天然林としては西日本屈指の貴重な森でもある。」
森林軌道(トロッコ)に沿って七瀬谷を目指せば良かったが詳しい地図を持ち合わさず演習林のゲートが眼に入ったので迷う事無くゲートを潜り緩やかな坂道を登った。
しばらく歩き、昨日、河鹿荘で貰った簡単な地図を取り出して行き先を確かめると歩いている道はブナの木峠を目指していた。
演習林内で最も標高の高いブナの木峠にはブナの巨木が有ると記されており特に目的の無いハイキング故そのまま先に進んだ。
杉林の杉の木には何を意味するのかビニールテープが巻かれていた。最初のうちは間伐の目印かと思っていたが良く見るとどの木にも巻かれており識別の為ではなさそうである。植林の盛んな吉野、熊野でも見掛けなかった光景に疑問を感じた。
道すがら説明板が有り読んで見ると杉の木にも色々な種類が有り、どの種の生育が良いか一列毎に異なる杉の品種を植え観察していると記されていた。
一列毎に杉の品種を書き込んだ木の札が掛けられていたがどの杉も素人目には同じに見えた。それにしても杉の木に斯くも多くの種類が有る事に驚かされた。
杉林を過ぎると道の両側はトチノキ、ミズナラ、ブナ等の天然林に変わった。ここ芦生の森にはおよそ二百四十種の樹木が確認されているとの事であるが木々の名前に疎く、時々木々に吊るされた名札を見て木の名前を知った次第。
谷から爽やかな風が吹き抜け暑さは感じなかったが道は相変わらず何処までも緩やかな登りが続いていた。岩の割れ目から流れ出る清水で喉を潤し、森林浴を楽しみながら歩いていると時々、目を見張る巨木に出会った。
ブナ峠を目指したが腕時計を見ると十一時になっていた。峠は間もなくと思えるが時間の都合も有りブナの巨木を諦らめ残念ながら引き返す事にした。
帰り道、川の瀬を覗くと清流に二~三十センチも有る岩魚を見つけた。禁漁区ゆえか歩きながら川の瀬を良く見ると大きな岩が有る深みには何処の瀬にも岩魚が群れていた。
再び京大の構内に戻り、倉庫の様な演習林を紹介する展示場に入った。展示場を訪れて疑問に思っていた杉の木に巻かれたビニールテープの謎が解けた。
ビニールテープを木に巻き付けるのは「熊剥ぎ」防止策であった。「熊剥ぎ」に関する説明文に拠ると何故か理由は良く解っていないが熊が杉の樹皮を剥ぎ取る行動を「熊剥ぎ」と称し、樹皮を剥ぎ取られた杉の木は立ち枯れると記されていた。
お呪いにビニールテープを杉の木に巻くとどういう訳か理由は解っていないが「熊剥ぎ」を防げると記されていた。
展示場には「熊剥ぎ」の被害に遭った実物の杉の木とニホンツキノワグマの剥製が有り、木肌には鋭い熊の爪痕が残っていた。
「熊剥ぎ」の説明に続いて「根曲り」と題した説明文があった。説明文の下に「根曲り」の杉の実物が展示して有り、説明文を読むと急斜面に根付いた杉の木は落石等の影響で根元から曲がる事が有りこれを「根曲り」と称す。根曲りの杉は曲った部分で年輪も歪み、年輪の歪みが原因で木に空洞が出来ると記されていた。
この説明文を見て急斜面に根曲りの巨大な杉の木が有った事を思い出した。その木も木質を知り尽くした先人の知恵が引き継がれ無駄に切り倒さず、巨大な杉に育ったとも考えられる。
演習林内には多くの動物が生息している事を剥製や写真で紹介していた。展示場にはニホンツキノワグマ、ニホンカモシカの剥製が有り、ヤマネ、ムササビ、ヤマセミ、アカショウビンや猛禽類のオオタカの写真も展示されていた。
これほどの天然林が残ったのは美山一帯の山林が享和二年(一八〇二年)、禁裏御料となった事が大いに関係していると思われるが、それにしてもこの広大な森は先人が遺した貴重な遺産である事に代わりはなく、改めて原生林を守った先人に敬意を表さねばならないと痛切に感じた。
京大芦生演習林を後にして危険な崖道を引き返し河鹿荘に向かった。河鹿荘に到着し昼食の前に一風呂浴びて汗を流す事にした。
浴場に向かうと男湯の暖簾には「軽皇子」と染め抜かれ、女湯の暖簾には「衣通姫」と染め抜かれていた。美山に事蹟が有るとは思えないが後ほど伺って見ようと思っていたが湯上がりの後は忘れ去っていた。
衣通姫とは記紀に記された絶世の美女の一人である。容姿絶妙で並ぶ者が無く、麗しい体の輝きが衣を通して外に現れていた。その美しさを称え時の人は衣通姫と呼んた。
古事記では允恭天皇の皇太子、木梨軽皇子と近親相姦の罪を犯し、伊予に流される同母妹の皇女、軽大郎女を衣通姫としているが、日本書記では允恭天皇の妃となる皇后の妹、弟姫の事としている。
軽皇子とは允恭天皇の皇太子、木梨軽皇子の事であろうと思われる。皇子は容姿麗しく見る人は自ずから感動したと記される美男子であった。
同母妹の軽大郎女(衣通姫)もまた妙艶の美女であった。二人は許されぬ仲と知りつつ愛し合い、心は燃え上っていたが添い遂げる事が出来ない虚しさを感じていた。日増しに思いは募り感情を抑え切れなくなった二人は罪と知りつつ終に相通じられた。
ある日、允恭天皇の御膳の羹の汁(野菜や肉を入れた熱い汁)が凍る事があった。天皇は怪しみ占いをさせたところ卜者は「内に乱れが有り、同母の兄妹の相姦が有るのではないか」と占った。
占いの後、幾ばくもせぬ内に木梨軽皇子と同母妹の軽大郎女が通じているとの告発が有り調べさせたところ占いの通りであった。
二人は兄妹相姦の禁を犯したが皇太子を処刑する事も出来ず衣通姫を四国の伊予に流す事で決着した。
允恭天皇が崩御し、葬礼が終わっても木梨軽皇子は淫乱であるとのそしりを受け、群臣は皇太子を践祚(天皇が崩じた後、後継ぎの皇族が位に就く事)しなかった。
穴穂皇子(安康天皇)の人望が高まり、已む無く木梨軽皇子は兵を集め、武器を調えたが群臣も人民も離反していった。
挙兵の失敗を悟った木梨軽皇子は物部大前宿禰の館に逃げ込んだが捕らえられ、宿禰の館で自害した。古事記では伊予に流されたとある。
明らかに皇太子でない穴穂皇子の皇位継承を正当化する為に作られた話と思われるが、衣通姫と木梨軽皇子にはこの様な物語が記されている。
「軽皇子」と染め抜かれた暖簾をくぐると「本日は薔薇湯」と記されていた。浴室に入るとさほど広くは無い湯船に薔薇の花を盛った大きなざる笊が三~四つ浮かび、ほのかに薔薇の香りが漂っていた。
無粋な我々にはさほどの感激は無いが女性客には好まれる事であろう。後ほど、係りの女性に伺うと薔薇園が有り、数日に一度、薔薇の花を摘み取り薔薇湯を催しているとの事であった。
昼食は昨日休業の為、噂の蕎麦にありつけなかった「お食事処きたむら」に行く事にした。「お食事処きたむら」は美山の風景を壊さぬ様、外観は茅葺きの民家風であった。
外観から店内は民芸調であろうと想像していたが入って見ると何の変哲も無い食堂であった。由良川が眺められる席につき、早速「ざるそば」を注文した。待つ事しばし、食した蕎麦はさすがに噂の通り旨い蕎麦であった。
「伝承文化の館」に戻り、帰り支度を整え、外に出てもう一度、成せば成るの一念で壮大な夢を実現し、移築を成し遂げた元社務所の建物に見入った。そしてこの建物の移築先が美山になったのも何かの因縁かも知れないと感じた。
訪れた美山は現代の隠れ里であり癒しの里であった。雛壇に並ぶ茅葺き民家と里山の風景、満天の星、暗闇に舞う蛍、身も心も癒された心に残る二日間であった。
再訪を楽しみに案内して頂いたHさんに感謝、感謝。
平成十四年六月五~六日
注一
一心寺(坂松山高岳院一心寺)は浄土宗の宗祖法然上人源空が創建したと伝えられる寺で京都・知恩院の末寺である。文化・文政の頃、真阿上人が荒れ果てた寺を再興したが檀家を持たない一心寺は莫大な借金を抱え財政難が続いた。一八五〇年、真阿上人が入滅し跡を継いだ品誉顕秀上人は本山に「寺の復興を専一にしたい故、本山のお役ご免と共に宗旨を問わず縁のある者の納骨を認めて欲しいと願い出た。」本山はこれを認め、以来、今日に至るまで一心寺は無役の寺として役僧が羽織るきらびやかな衣を纏わず黒染めの衣を身に纏っている。この様にして一心寺は納骨と施餓鬼法要によって財政基盤を固め、一八八七年(明治二十年)に一八五一年から始まった三十六年分の納骨、二万体とも五万体とも云われる遺骨から世界でも珍しい骨仏、阿弥陀如来像が造られた。以後、十年ごとに一体ずつ阿弥陀如来像が造られたが戦前に造られた六体は戦災で焼失した。一九四七年(昭和二十二年)製作を再開し、一九九七年四月、過去十年間の納骨約二十万人分で十二体目の「お骨仏」が開眼した。