大峯山峯入紀行
修験道で有名な大峯山は古くから霊山として崇められているが大峯山と云う固有名称の山は無く、通常は山上ヶ岳を指している。
修験道で大峯山と云えば紀伊山地の中央を南北にのびる全長およそ百五十キロの大峯山脈全体を指し、山脈全体が修験道の聖地である。
中でも山上ヶ岳(標高一七一九メートル)は役行者(役小角 六三四~七〇一年)が一千日に亘り祈り続け、金剛蔵王権現が湧出したと伝えられており、今も修験道の聖地として日本で唯一「女人禁制」を頑なに守っている。
山上ヶ岳は現在の呼び名で歴史的には吉野から山上ヶ岳一帯を金峯山と呼んでいた。
平安時代には浄土信仰と山岳宗教が結びつき阿弥陀の浄土とされた「熊野詣で」と共に弥勒の浄土とされた金峯山に登る「御嶽詣で」も盛んであった。
当時、御嶽に詣でるには世俗を絶ち、不浄を行わず数十日の精進潔斎の後に出立した。
宇多法皇(五九代、生没年八六七~九三一年)は修験道中興の祖、理源大師聖宝(八三二~九〇九年)の先達で御嶽に詣でたと伝えられている。
昭和五十九年(一九八四年)、大峯山寺大修理の際、発掘調査が行なわれて出土した二体の黄金仏は宇多法皇のご寄進の可能性が高いとされている。
平安時代、栄華を極めた藤原道長(九六六~一〇二七年)も精進潔斎の後、御嶽に詣で自ら写経した法華経、般若心経等々経巻十五巻を銅の筺に納めて埋経した。
元禄四年(一六九一年)に大峯山寺再建の折り、寛弘四年(一〇〇七年)に埋納されたことが記された「金銅藤原道長経筒」が出土し現存している。
白河法皇は寛治四年(一〇九〇年)に初めて熊野に詣でた二年後の寛冶六年に御嶽に詣でている。この様に平安期、「熊野詣で」と共に「御嶽詣で」も盛んであった。
平安の頃の「御嶽詣で」は多分、発心門がある吉野から登ったのであろう。吉野川で禊をして標高四五五メートルの吉野山に登り、修行に入る決意を固めてくぐる第一の門が通称、銅の鳥居と呼ばれる発心門である。吉野は大峰「奥駆け」の北の入り口でもある。
山上ヶ岳に登頂する登山道は洞川から登る一般的な洞川道、五番関のトンネル西口から登るルート(五番関のトンネルまでの公共交通機関は無い)、洞川から稲村ヶ岳に登りレンゲ辻を経て山上ヶ岳に向うルート、川上村の柏木から登る柏木道が有るが、我々は交通の便が良く一般的な洞川から登り、山上の宿坊で一泊して吉野に下る事とした。