柳生街道(奈良春日~柳生~笠置)
笠置寺
笠置寺は後醍醐天皇(九六代、一二八八~一三三九年)ゆかりの地である。後醍醐天皇は正応元年(一二八八年)、二度目の蒙古襲来から八年後に後宇多天皇の皇子として生まれた。
その当時、皇室は後嵯峨天皇以降、後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統の二系に分かれて皇位を争い鎌倉幕府が皇位継承を調停していた。
後醍醐天皇は大覚寺統の血筋で二十一歳の時、持明院統の花園天皇の皇太子となり十年後に即位した。この頃の天皇は十歳前後で即位し上皇が実権を握っていた。
三十一歳の壮年に達して即位した後醍醐天皇は天子が君臨した醍醐朝を夢見て本来死後におくられるべき謚を生前に後醍醐と定め天皇親政に復したいと、大いなる野望を抱いた。
皇位を継承して三年後、後醍醐天皇は院政を廃し父、後宇多上皇から政権を受け継いだが国家権力は鎌倉にあり、聖断を下す余地はなかった。
そこで後醍醐天皇は鎌倉幕府の討幕を画策したが六波羅探題に露見し、謀臣として日野資朝、俊基の二人が責任を負い捕らえられた。
帝は勅使を鎌倉に遣わし弁明に努め、幕府も帝と対決するのは得策でないと判断し、謀臣二人を佐渡に配流の穏便な処置に留め、帝は危難を免れた。(一三二四年の正中の変)
帝はこの失敗に屈せず討幕に向けて再び周到な計画を練ったが信頼を寄せていた重臣の吉田定房の密告により二度目の討幕も瓦解し六波羅探題の知る所となった。
元弘元年八月二十四日、帝は六波羅探題の追求に先んじて京を脱出して奈良に潜幸し、木津川べりの独立峰、笠置山に在所を移した。
帝に付き従った兵は柳生の古城山(十兵衛杉から真東に見える標高三一四メートルの山)に砦を築き、笠置山の天嶮を利して幕府軍と対峙したが攻防一ヶ月、笠置寺は全山焼失してむなしく敗れ、帝は捕らえられた。(一三三一年の元弘の変)
一度ならず二度までも討幕を企てる帝に業を煮やした鎌倉幕府は譲位を強要し、後醍醐天皇も已む無く持明院統の光厳天皇(北朝初代)に譲位し、翌年三月、隠岐に流された。これが南北朝の始まりである。
後醍醐天皇の皇子護良親王(一三〇八~一三三五年、天台座主であった)も還俗して討幕に加わっていたが計画が露見したと知って畿南に逃れ吉野で挙兵した。
帝の配流を知った反幕勢力の一人、河内の土豪楠木正成は赤坂城に拠って兵を挙げ幕府の大軍と戦い、城は陥落したが再び金剛山の千早城に拠って兵を挙げた。播磨の赤松則村も護良親王の命を受け、兵を挙げた。
隠岐に流された後醍醐天皇も隠岐を脱出し伯耆の豪商、名和長年を頼って船上山に拠り、討幕の檄文を各地に発した。
鎌倉幕府は争乱の鎮圧に足利高氏(尊氏)を京に遣わし後醍醐天皇の討伐を命じたが足利高氏は鎌倉に叛き、突如寝返って六波羅探題を攻め情勢は一転した。
こうして後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し天皇親政すなわち「建武中興」を成し遂げ、足利高氏の功に報い帝の一字を賜り尊氏と改名した。(帝の御名尊治)
だが、後醍醐天皇の熱意にも関わらず武士の賛同を得られず足利尊氏が台頭し、帝と尊氏は敵対し再び戦乱を巻き起こした。
戦乱を制した尊氏は持明院統の光巌天皇を奉じ、後醍醐天皇は吉野に逃れた。以後、皇統を巡る南北の争いは六十年続き、争乱は明徳三年(一三九二年)、足利義満の時代に両朝の講和が成立し争乱は終結した。
南北朝の争乱には多彩な人物が登場する。戦前まで南朝を正統と認め逆臣とされた足利尊氏、源氏の頭領になれなかった新田義貞、奥州に独立した政権を樹立しようとした北畠親房とその子陸奥守北畠顕家、義経に議せられる護良親王、摂津湊川で敗死した楠木正成、隠岐を脱出した後醍醐天皇を助けた名和長年、等々、南北朝は大平記の世界である。
この様にここ笠置は南北朝争乱の発端の地であり、かつまた笠置は平安の世、山岳修験道の地でもあった。
笠置寺は鎌倉時代に全盛を極め、後醍醐天皇が在所を移した「元弘の変」で全山焼失し、室町時代わずかに復興したが江戸時代に荒廃し明治初年には無住の寺であった。明治九年、丈英和尚が狐狸の棲みかとなった寺に入り、苦節二十年ようやく今の姿になった。
笠置寺の境内は山岳修験道の名残を留め、切り立った弥勒石に日本最大最古の磨崖仏、弥勒仏が彫られていたと伝えられるが元弘の変で弥勒仏は焼失し、今は巨大な光背(仏像の背後にある飾り)の跡を残すのみとの事。
笠置寺の境内を巡れば一見の価値が有ると聞かされた事でも有り、せめて弥勒仏だけでも見ようかと本坊脇の受け付けで拝観料を聞き、無駄な出費とそれに時間の余裕も無く、結局拝観を諦らめた。