柳生街道(奈良春日~柳生~笠置)

十兵衛杉

 バス停から少し歩いた先、柳生の里のはずれに十兵衛杉に向かう標識があった。道を外れて山の斜面をしばらく登ると墓地が有りその先に十兵衛杉があった。

 柳生十兵衛が植えたと伝えられる十兵衛杉は昭和四十八年の夏、二度に亘る落雷により現在は立ち枯れていた。その杉は立ち枯れたとは云え巨大な杉で真っ直ぐに天を衝き四方に雄大な枝を広げていた。

 風化した木肌は磨かれた様に白く大理石を思わせるにぶい輝きが有り、十兵衛の気迫が宿っているのか見る者を圧倒する迫力を感じた。

 柳生十兵衛三厳みつよしは但馬守宗矩の長男として慶長十一年(一六〇七年)に生まれ、何故か幼名は七郎と呼ばれていた。

 長じて後、三代将軍家光の小姓として仕えたが二十一歳の時、非行の罪を問われ出仕を差し止められた。帰郷した十兵衛は修行の為、諸国遍歴の旅を思い立ち十兵衛杉を植えて柳生を出立した。

 各地を遍歴する事、十年、郷里の柳生に戻り正木坂に道場を開いた。十兵衛の門弟は全国に一万三千六百余人と伝えられている。

 正保三年(一六四六年)父宗矩が没し十兵衛が一万二千五百石の家督を継ぎ但馬守を称したが、十兵衛は弟宗冬と領地を分治し自身は八千石を領し、柳生家は大名の座から転落した。

 十兵衛は慶安三年(一六五一年)三月二十一日、山城国大河原村(京都府相楽郡南山城村、柳生家の領地)で鷹狩り中に急死したと伝えられている。

 十兵衛の死後、柳生家の家督は宗冬が相続し柳生家は再び大名に復帰し、宗冬以降、国替えもなく明治維新の廃藩置県まで一万石の大名として存続した。

 明治四年(一八七一年)廃藩置県が行われた一時期、柳生藩は柳生県となり、その後、奈良県に併合された。


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