柳生街道(奈良春日~柳生~笠置)

坂原峠かえりばさとうげ

 南明寺を後にしてどの道を辿れば良いのか迷っていると、先ほど南明寺でお会いした二十人ほどの一行が「お藤井戸」はこちらですよと教えられた。

 民家の角を曲りしばらく歩むと道端に何の変哲も無い井戸があった。「お藤井戸」とは昔、柳生の殿様が馬上から洗濯中のお藤に声を掛け、頓智問答の末、側室に迎え入れたと伝えられる井戸である。

 その井戸を通り過ぎ水田を眺めながらしばらく歩むと林間に入り坂原峠かえりばさとうげを目指す急坂になった。 奈良から柳生までの道筋で最も厳しい登りであった。昼食を終え、それ程歩かぬ内の急坂ゆえあえぎながら坂原峠を登り切ると後は下りであった。

 坂原峠を下ると高さ三メートルほどの巨岩に刻まれた疱瘡ほうそう地蔵があった。疱瘡地蔵は疱瘡よけに造られたと伝えられる石仏で元応元年(一三一九年)の銘があり徳政一揆の碑文があるとの事。

 中央公論社「日本の歴史巻十、下克上の時代」に柳生の徳政碑文として紹介されている。この本に拠ると、この地蔵尊の右下にもう風化して判読するのも難しいが微かに文字が刻まれている。

 この微かな文字を解読したのは柳生の郷土史家杉田定一氏である。碑文には「正長元年ヨリサキ者カンヘ四カンカウニヲヰメアルヘカラス」と刻み込まれている。

 「正長元年より先は、神戸四箇郷に負目あるべからず」と読み、文意は、「正長元年以後、神戸四ヵ郷にはいっさい負債がない」つまり正長元年以前の借金は棒引きになったと云うことである。

 神戸四ヵ郷とは大柳生、坂原、小柳生、邑地むうちの四村をさす。正長元年(一四二八年)に始まった大一揆で徳政を勝ち取った記念碑として刻み込んだのであろう。

 疱瘡地蔵からしばらく歩くとまた、巨岩に「中村六地蔵」が彫られている。疱瘡地蔵、中村六地蔵、寝仏地蔵と地蔵に迎えられ道路に出るとそこは柳生の里であった。


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