柳生街道(奈良春日~柳生~笠置)
忍辱山円成寺
峠の茶屋から坂を下ると誓多林と名付けられた集落が有る。この珍しい呼び名の集落、誓多林と次の集落を大慈仙と名付けたのは天平八年(七三六年)に来朝し奈良の大仏開眼の導師を勤めた印度僧、菩提遷那によって印度の聖跡からつけたと云われている。
山間にある誓多林の集落では田植えを終えたばかりの棚田が広がっていた。風にそよぐ稲の緑が眩しいくらい美しく、蛙が飛び交い、青大将が道を塞ぎ、久し振りに日本の原風景を見る思いであった。
奈良破石町のバス停から僅か六~七キロ、街中から一山越えるとこのような長閑な棚田が広がっている事に驚きを感じた。
誓多林の集落を過ぎ、緩やかな坂を登ると左、大慈仙の標識が有った。この辺りは茶畑が広がる長閑な野の道であった。
道標に導かれて湧き水が流れる棚田の脇の細い道を登り切るとそこから円成寺まで、杉、桧の林間を歩む下り坂が続いていた。
忍辱山円成寺は柳生街道随一の名刹で創建は古く天平勝宝八年(七五六年)聖武、孝謙両天皇の勅願によって唐僧虚瀧和尚の開山と伝えられている。平安時代に再興されたが応仁の乱(室町時代の応仁元年(一四六七年)に発生し、文明九年(一四七七年)までの約10年間にわたって継続した内乱。)の兵火で伽藍の大半は焼失したがその後、再建された。
山号の忍辱とは仏教の菩薩行である六波羅蜜の一つで、いかなる身心の苦悩をも堪え忍ぶという仏道修行上の大切な徳目を山号としている。(六波羅蜜とは菩薩が行わねばならない六つの実践徳目を完成させること。六つの実践徳目とは、布施(あらゆる生類に限りない慈悲を施す事)、持戒(仏道を歩む者の生活規律、規範を守る事)、忍辱(いかなる身心の苦悩をも堪え忍ぶ事)、精進(菩薩行を一心に努め励む事)、禅定(精神を集中して真理を考える事)、智慧(智慧とは般若波羅蜜多と同義語で真理を見通す知恵のこと)である。)
山門をくぐると池を主とした美しい庭園があり、池を挟んだ正面に重要文化財に指定されている楼門があった。庭園は平安時代の遺構を残す庭として国の名勝に指定されている。
平安時代、よほど栄えたのか池には中島が浮かび、平安貴族が舟遊びに興じる事が出来るようになっている。爽やかな風が吹き抜ける中、手入れの行き届いた庭を巡り、木陰で小休止を取った。