柳生街道(奈良春日~柳生~笠置)

春日奥山

 近鉄奈良駅から歩くつもりであったが二キロほどバスに乗り破石町わりいしちょうのバス停で下車した。近鉄で頂戴した「てくてくまっぷ」に破石町のバス停の記載が無く、滝坂の道(柳生街道)の道しるべを探すのに手間取り、歩き始めたのは丁度、午前九時であった。

 若草山を左に見て高畑の緩やかな登りの街並みをしばらく歩くと右、白毫寺びゃくごうじの標識が有り、其処を過ぎると人家が途切れ、歩いているのは我々だけであった。

 能登川に沿ってしばらく歩くと「左り滝坂の道」と刻まれた石標が有った。滝坂の道は春日奥山と高円たかまど山に挟まれた細い谷に付けられた石畳の道で、奈良と柳生を結ぶ街道である。

 春日奥山は春日大社の神域として承和八年(八四一年)、狩猟、伐採を禁じたことが「続日本紀」に記されている。以来、千百余年、都市に隣接していながら原始の植生を残す山として特別天然記念物に指定され保護されてきた。

 平安、鎌倉の頃、春日奥山は深山幽谷の地であったのか南都七大寺の僧が修行した地であり、滝坂から地獄谷、新池にかけて数多くの石仏が刻まれている。

 時代が下り、江戸中期、奈良奉行によってこの街道に石畳が敷かれ、昭和の初めまで柳生方面から米や薪炭を牛馬の背にくくり付けて奈良に運び、日用品を持ち帰る道として使われていたとの事。

 滝坂の石畳の道は鬱蒼と生い茂った春日原生林の中を能登川の渓流に沿って縫う様に緩やかな登りが続き、数日前の雨の影響か石畳の道は涌き水に洗われていた。

 登りが続き、能登川を渡って左岸を進むと空を覆っていた林が切れ日差しが強く感じられた。しばらく歩くと道端に室町前期の作と伝えられる寝仏ねぼとけ(大日如来が横になったお姿で刻まれている。一説には近くの四方仏の一体が転がり落ちたものとも云われている。)があった。

 この辺りから石仏を多く見掛けるようになった。能登川の川向こうには修行地の名残を留める朝日観音の磨崖仏(鎌倉中期の文永二年(一二六五年)の銘が刻まれている)もあった。

 石切峠と地獄谷への分岐点に荒木又右衛門が地蔵の首を試し切りにしたとの伝説が有る首切り地蔵がある。地蔵は大人の背丈ほどの高さが有り大木の脇に有った。地蔵の首の辺りを良く見ると伝説の通り首の所で横一線に割れていた。

 首切り地蔵を過ぎると石畳の道は終わり、落ち葉が降り積もった緩やかな登りの地道が続き、林を抜け坂道を登ると石切峠の茶屋はすぐ其処であった。

 峠の茶屋は江戸時代から続いていると伝えられる茶屋でいかにも時代劇に出てきそうな茶店であった。昔は柳生に向かう武芸者も立ち寄り飲み代のかたに置いていったと伝えられる古い鉄砲や槍が鴨居に掛けられているとの事。

 峠の茶屋は奈良から円成寺えんじょうじに至る間、この街道で唯一の茶屋である。我々も茶屋で小休止を取るか否か思案していると、茶屋の中からビールを注文する客の声が聞こえた。暑い最中、横でビールを飲まれたら誘惑に負けそうな予感を覚え、小休止を断念して先を急いだ。


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