文明の十字路 トルコ紀行
オスマン帝国
後にオスマン帝国に発展するオスマン一族は族長のスレイマン・シャーに率いられて中央アジアに留まり遊牧生活を送っていたがモンゴル軍の来襲を知り、アナトリアに逃れてルーム・セルジューク朝の保護下に入った。
スレイマン・シャーの没後、息子のエルトゥールル・ベイ(1198年~1281年)が跡を継ぎ、ルーム・セルジューク朝のスルタン・カイクバード一世(在位1188年~1237年)に仕えた。
そしてアナトリア各地を転戦し、認められてアナトリア北西部のビザンチン帝国(東ローマ帝国)と境を接する国境地帯に所領を与えられた。そして、彼が率いるガージ集団(ジハードに参加するムスリム(神に帰依する者)戦士)はビザンチン帝国の領土を蚕食して所領を拡大していった。
一二四三年、モンゴル軍がアナトリアに侵攻しルーム・セルジューク朝はスルタン・カイホスロー二世(在位1237~1246年)が自ら二万騎を率いて出陣し、現在のトルコ東部スイヴァス市の西方キョセ・ダグの地でモンゴル軍と会戦した。
ルーム・セルジューク朝はモンゴルの圧倒的な大軍に抗しきれず大敗しスルタン・カイホスロー二世は首都のコンヤに逃げ帰った。そしてモンゴルに臣従する事を誓い和睦した。
ルーム・セルジューク朝がモンゴルの属国となった頃から、アナトリア各地でルーム・セルジューク朝の部将が自立して君候国を建国し、アナトリアは群雄割拠の時代となった。
1281年、エルトゥールル・ベイが病死し、息子のオスマン・ベイ(オスマン帝国の初代皇帝 1258年~1326年)が族長となりさらに領土を拡大し1299年、ルーム・セルジューク朝の衰退に乗じて独立しオスマン君候国を建国した。
1326年、オスマン・ベイはビザンチン帝国の地方都市ブルサ攻略中に六九歳で崩じ、跡を継いだオルハン・ベイ(1284年~1362年)は即位と同時にブルサに攻め込み、この街を占領して首都とした。
そして、ニケーアも占領し以後、ニケーアはイズニックと呼ばれる様になった。今のイズニックは地方都市に過ぎないがローマ時代の遺跡も残る古い街である。(ニケーアは第四次十字軍がコンスタンチノープルを占領した時(1204年)、皇帝のコンスタンティノス・ラスカリスと弟のテオドロス・ラスカリスが逃れた地である。そして、弟のテオドロス・ラスカリスはニケーア帝国を建国し、コンスタンチノープルを奪還(1261年)してビザンチン帝国を復興するまで約57年間、ニケーアを首都としていた。)
ブルサを占領しマルマラ海への出口を確保したオスマン君候国は抗戦する力を失っていたビザンチン帝国と同盟を結びダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島に進出しヨーロッパでの領土拡大を開始した。(バルカン半島とはヨーロッパの東南部で、トルコのヨーロッパ部分、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナからなる地域)
1359年、三代君主に就いたムラト一世(1319年~1389年)はバルカン半島における軍事行動を継続し、トラキア地方(ブルガリアの南東部、ギリシャの北東部、トルコのヨーロッパ部分を含む地域)に進出して現在のエディルネ(ギリシャとの国境の街)を占領した。
こうしてトラキア地方を領有したムラト一世はエディルネを第二の首都と定めヨーロッパ進出の拠点とした。他方、国政を整備し君主の絶対的な権力を確立し、エジプトのカイロで命脈を保っていたアッバース朝からカリフの地位を禅譲され帝国の基礎を築いた。
以後、オスマン家の当主は全イスラム信者の指導者であるカリフの地位とセルジューク朝に授与されたイスラム君主の称号であるスルタン(皇帝)を継承した。
1389年、ムラト一世はセルビアに攻め込み、コソボの戦いに勝利したがセルビア人によって暗殺された。随行していたバヤズィト一世(1360年~1403年)はムラト一世が殺された事を知ると直ちに同行していた弟達を殺害して帝位に就いた。
バヤズィト一世も積極的に外征を進め、バルカン半島の大半を支配下に治めた。この様にオスマン帝国の草創期はアナトリアに領土を拡大するのではなくヨーロッパに領土を拡大し、軍事力を蓄えてからアナトリアに攻め込んだ。バヤズィト一世の時、アナトリアの諸君候国を次々に併呑し、アナトリア各地の君候国に圧迫を加えた。
この頃、チンギス・ハーンの再来を思わせるティムール(1336年~1405年)が中央アジアに覇権を唱え、東アナトリアに進出を開始していた。(ティムールはチンギス・ハーンの子孫と自称し、チンギス・ハーンの息子達が建国した東チャガタイ・ハン国、西チャガタイ・ハン国、イル・ハン国を征服して、東は中国と国境を接し、西はアナトリア、北は南ロシア、南は北インドにいたる大帝国を築いた。)
アナトリア各地の君候国はオスマン帝国に抗し切れずティムールを頼った。ティムールはバヤズィト一世に君候国の旧領を返還するよう勧告したがバヤズィト一世は応じなかった。
ティムールは攻め込む口実を得て、アナトリア侵攻を開始した。バヤズィト一世はコンスタンチノープルの包囲を解き全軍を率いてティムールとの決戦に向かった。
こうしてバヤズィト一世率いるオスマン帝国とティムール朝との間で1402年、アンゴラ(アンカラ)の戦いが行なわれた。この戦いでバヤズィト一世は大敗を喫し、自身も捕虜となり1403年、獄中で病死した。
アナトリアの君候国は旧領を回復し、オスマン帝国は壊滅的な打撃を受けた。オスマン帝国の領地もバヤズィト一世の息子達四人が互いに自立し、後継者争いが始まった。
1412年、骨肉の争いを制してスルタンの地位に就いたのはメフメト一世(1374年~1421年)である。メフメト一世とその子ムラト二世(1404年~1451年)はティムールの死と共に脅威が去り、外征を開始してアナトリアの君候国を攻め滅ぼしオスマン帝国の旧領を回復した。
1451年、ムラト二世が没すると、19歳の若きメフメト二世(1432年~1481年)は兄弟を殺してスルタンの地位に就いた。
メフメト二世は征服者と呼ばれるほどオスマン帝国の版図を大きく広げた。アナトリア各地に割拠していた君候国を次々に滅ぼしアナトリア全土を統一すると共にコンスタンチノープル攻略を目的に1452年、ルメリ・ヒサールの要塞を築いた。
ルメリ・ヒサールはボスポラス海峡の最狭部(約698メートル)、第二ボスポラス大橋のヨーロッパ側に築かれた巨大な要塞である。
僅か4ヶ月で完成させたと伝えられる要塞は対岸のアジア側にあるアナドル・ヒサール(バヤズィト一世によって1391年に築かれた。)と共に海峡を封鎖し、海峡を通過するビザンチン帝国の船舶に攻撃を加えた。
1453年4月、メフメト二世は十六万の軍隊を率いてコンスタンチノープルを包囲した。ビザンチン帝国の守備兵は僅かに七千であった。
当時、コンスタンチノープルは難攻不落と云われ、中々攻略出来なかった。バヤズィト一世もムラト二世もコンスタンチノープルを包囲したが攻め落とせなかった。
当時のコンスタンチノープルはマルマラ海と金角湾に守られた半島に位置していた。海を避けて攻めるには西からしかなかったが西は三重の城壁に守られていた。
メフメト二世が攻めた時もビザンチン帝国は金角湾の入り口と対岸のガラタの間に太い鉄鎖を渡し艦船の進入を防いだ。これが最大の防御であった。
メフメト二世はこの難問を解決する奇策を考え出した。それは「艦隊の陸越え」と云う奇想天外な作戦であった。ボスポラス海峡から今の新市街を通って金角湾に至るルートに木材で軌道を敷き、軌道の上に油を塗って人力で七二隻の全艦隊を一夜で金角湾に運び込んだ。
そして浮橋を建設して大砲を打ち込んだ。ビザンチン帝国は七千の兵で二ヶ月間抵抗し続けたが、総攻撃に遭いコンスタンチノープルは陥落した。
ビザンチン帝国最後の皇帝、コンスタンティノス一一世(1409~1453年)は戦死し、395年にローマ帝国が東西に分裂し1,000年以上命脈を保っていたビザンチン帝国も遂に滅亡した。
メフメト二世はコンスタンチノープルをイスタンブールと改名しオスマン帝国の首都とした。オスマン帝国はさらに版図を広げアナトリアから東欧、北アフリカ、西アジアに領土を広げた。
第10代君主スレイマン一世(1494~1566年)も軍事行動を起こしてハンガリーを征し、1529年には1ヶ月以上に亘ってハプスブルク家の都、ウイーンを包囲した。しかし、この戦は冬将軍が到来し、オスマン軍は撤退を余儀なくされて作戦は失敗したがヨーロッパ諸国に強い衝撃を与えた。
1538年には地中海の制海権を巡ってスペインの連合艦隊と戦って撃破し、黒海からエーゲ海、地中海の制海権を握った。オスマン帝国はスレイマン一世の時、軍事力で他国を圧倒し最盛期を迎えた。
スレイマン一世の死から5年後の1571年、地中海の制海権を取り戻すべく、ローマ教皇庁がスペイン、ヴェネチアを説き、神聖同盟を結成した。この同盟にジェノバやマルタ騎士団も加わり300隻を超える連合艦隊が結成された。
1571年10月7日の早朝、期せずしてギリシャのレパント湾沖で神聖同盟の艦隊とオスマン帝国の艦隊が遭遇し海戦が勃発した。両軍の艦船はガレー船(人力で漕ぐ大型の艦船)を主体に双方ともにおよそ300隻、兵力も25,000から30,000とほぼ伯仲していた。
正午頃に戦端が開かれ、トルコ艦隊は壊滅的な敗北を喫して午後四時頃に終結した。この戦いでトルコ軍の総司令官アリ・パジャが捕らえられて斬首された。
レパントの海戦はヨーロッパ諸国が初めてオスマン・トルコに勝利した戦いであったがヨーロッパ諸国の足並みが揃わずヨーロッパ諸国とオスマン帝国の軍事的逆転には繋がらなかった。
オスマン帝国も大きな打撃とは受け取らず直ちに艦隊の再建に取り掛かり六ヶ月後には200隻の大艦隊を保有した。しかし、この頃からオスマン帝国は徐々に衰退していった。
1683年、オーストリアのハプスブルク家の領地であったハンガリーで貴族の反乱が勃発し、反乱貴族はオスマン帝国に支援を求めた。
オスマン帝国の宰相カラ・ムスタファ・パシャはオーストリア占領の好機と見て、15万の大軍を率いてハンガリーからオーストリアに侵攻しハプスブルク家の都ウイーンに迫った。
ハプスブルク家の当主であり神聖ローマ帝国の皇帝でもあったレオポルト一世(1640年~1705年)はウイーンを脱出しポーランド王に救援を求めた。
150年前、スレイマン一世がウイーンを包囲した時は冬将軍の季節となり撤退を余儀なくされたが今回の第二次ウイーン包囲は八月の初頭であった。
しかし、オーストリアは第一次ウイーン包囲の経験を生かし城壁はより堅固に造られていた。攻城が長引き、1ヶ月が経過した頃、ポーランド王ヤン三世ソビエスキ(1629年~1696年)率いる連合軍7万がウイーン郊外に到着しウイーン西の丘陵に陣を敷いた。
連合軍は兵数において劣っていたがトルコ軍はウイーンを包囲していたため軍は散っていた。ポーランド王ヤンはトルコ軍の弱点を見抜き到着した夕刻に総攻撃を仕掛けた。トルコ軍は兵を結集する時間もなく、包囲軍を寸断され散り散りに潰走し、惨憺たる大敗を遂した。
独断専行して戦端を開いた宰相カラ・ムスタファ・パシャはイスタンブールに帰還したが処刑された。しかし、戦争は収まらず連合軍にヴェネチアが加わりオスマン帝国の領土であった東ヨーロッパに攻め込んだ。
さらに連合軍にロシアが加わりこの戦争は十六年の長きに亘った。1699年、和平交渉が行われオスマン帝国は史上初めて領土を割譲して講和条約を結んだ。
この条約によりオスマン帝国はバルカン半島と東ヨーロッパから大幅に後退し、東欧の覇権はオーストリアのハプスブルク家に移った。
そして、この戦争を期にオスマン帝国の脅威は去り、オスマン帝国の領土は蚕食され始めた。ロシア帝国が南下して黒海北岸を失い、クリミア半島を失いオスマン帝国の威信は失墜していった。
1821年にはギリシャ独立戦争に敗れギリシャ王国が誕生し、1830年にはエジプトの独立を認めざるを得ない状況に立ち至った。
1877年にはロシア帝国が南下し露土戦争が勃発した。オスマン帝国は完敗してルーマニア、セルビアの独立を認めロシアに領土を割譲する講和を結んだ。1911年にはイタリアがリビアを植民地にし、1912年にはアルバニアが独立を宣言した。
栄華を誇りヨーロッパ諸国に恐れられたオスマン帝国の領土は縮小の一途をたどり20世紀初頭にはアナトリアとアラブそれにバルカン半島の一部にまで縮小した。
この様な状況下の1914年、サラエボ事件を切っ掛けに、オーストリアがセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦(1914年~1918年)が勃発した。
ロシアの南下に苦しめられていたオスマン帝国は旧領の回復とロシアの南下を食い止める好機と見て、ドイツ、オーストリアに加担して同盟国を形成した。
セルビアはイギリス、フランス、ロシアに支援を求め連合国を形成し、後には日本、イタリア、アメリカも連合国に加わり世界大戦に発展した。
オスマン帝国は足掛け五年に亘る大戦に疲弊し、1918年に降伏して屈辱的なセーヴル条約を結び連合国による占領政策が始まった。
敗戦から二年後の1920年、条約に反対するムスタファ・ケマル・アタテュルクがアンカラ国民政府を樹立して独立戦争を開始し、東アナトリアに侵攻していたアルメニアを撃退し、ギリシャが実行支配していたイズミールを奪回してアナトリアからギリシャ軍を駆逐した。
1922年、アタテュルクはスルタン制を廃止すると宣言し、オスマン朝第37代皇帝、メフメト六世はマルタ島に亡命し623年続いたオスマン帝国(1299~1922年)はついに滅亡した。