文明の十字路 トルコ紀行
イスタンブール
シルクロードの起点であり終点であるイスタンブール、この街の名を聞くと何と無く異国情緒を感じさせる。そして、日本から遠く離れた最果ての地に有って華やかな幻想的な街を思い浮かべてしまう。それは輝かしい繁栄を誇ったオスマン帝国の煌びやかな宮殿やハレムを思い起こすからであろうか。
トルコ最大の都市イスタンブールは北の黒海、南のマルマラ海を繋ぐボスポラス海峡の両岸に広がる街である。東のアジア大陸と西のヨーロッパ大陸が狭いボスポラス海峡で接近し、更にヨーロッパ側はボスポラス海峡から西に入り込んだ金角湾によって南北に分けられている。この様に特異な地形に位置するイスタンブールは古くから戦略上の重要な地点であった。
三一二年、ローマ帝国の西の正帝となったコンスタンティヌス一世(二七二~三三七年)は内乱を制する為にミラノ勅令(三一三年)を発布してキリスト教徒を公認し、十字架を旗印に戦って、三二四年、内乱を制してローマ帝国を再統一した。
そして三三〇年、交易都市であったビュザンティオン(現イスタンブール)に新都市を建設して遷都しコンスタンチノープルと改称した。
三九五年ローマ帝国は再び東西に分裂し、コンスタンチノープルはビザンチン帝国(東ローマ帝国)の首都となった。
一〇~一一世紀、ビザンチン帝国の全盛期にはコンスタンチノープルは商工業が栄え三〇~四〇万の人々が暮らす大都市であった。
一二〇四年、第四次十字軍によってコンスタンチノープルは攻撃を受けて陥落し、多くの財宝が十字軍に持ち去られ、帝都は荒れ果てて人々は去り人口は急減した。
以来、紆余曲折が有ったがビザンチン帝国はオスマントルコに滅ぼされるまで約一千年の歴史を刻んだ。
ビザンチン帝国を滅ぼしたメフメト二世はコンスタンチノープルをイスタンブールと改称して遷都し、トルコ人をこの地に呼び寄せた。
メフメト二世はこの地に暮らすギリシャ人、ユダヤ人に寛容であった。彼らに信教の自由を保障しイスラムに改宗する事を求めなかった。そして、ジェノバやヴェネチアの商人達の活動を許し、再び東方交易の拠点となり目覚しい発展を遂げた。
訪れたイスタンブールは古都のイメージとは程遠く、人口一二〇〇万人が暮らす大都会であった。