文明の十字路 トルコ紀行
ボスポラス海峡
イスタンブールを出発し西トルコを一周して再びイスタンブールを目前にしている。地図を広げて見るとおよそ二三〇〇キロも走っている。
そして走ってきた道路は全て一般国道である。(トルコには高速道路が無くイスタンブール~アンカラ間の高速道路を工事中であった)一般国道と云っても郊外に出ると制限速度は九十キロ(都市部は五十キロ)ほとんど信号も無く、バスは百キロ近いスピードで走っており高速道路を走っているのとなんら変わりはなかった。
振り返ってみると不思議なことに標高千メートル以上の高原を走ってきたにもかかわらずトルコの道路にはトンネルが無かった。
アンカラとイスタンブールの標高差は八〇〇メートル有るがこの間一つのトンネルも無い。丘陵の景色に飽きた頃、遠くにモスクの尖塔が見えると街や村が有り、再び丘陵の景色が続き、ようやく湖が見えてくる。トルコの車窓の景色はこの様な光景の連続であった。
春か夏に訪れれば荒野に見えた高原も一変しているであろう。見渡す限りのひまわり畑はソフィアローレンの映画「ひまわり」の迫力を上回るであろう、そしてパムッカレの高原を白一色に染める白い綿の花、見渡す限り緑の絨毯を敷きつめた小麦畑、是非一度見てみたい光景を想像した。
バスはマルマラ地震で大被害を受けたイズミット市を過ぎ、絨緞で世界的に有名なヘレケの街に入った。ヘレケは漁村のような小さな村であった。
この小さな村が伝統産業として企業ではなく地域の個人(婦女子)が高い技術を継承し、世界的に有名な絨緞の高級ブランドを確立している事に驚かされる。絨緞は家内工業として織られているのであろう工場らしき建物は見当たらなかった。
ヘレケからイスタンブールまで六〇キロ、いつのまにか道路は渋滞の様相を呈してきた。ボスポラス海峡に近付いた頃はノロノロ運転であった。
アジアとヨーロッパを隔てるボスポラス海峡は南北に細長く北は黒海、南はマルマラ海、そしてダーダネル海峡を抜けるとエーゲ海(地中海)に通じる海上交通の要衝である。
ボスポラス海峡は南北におよそ三〇キロ、海峡の幅は一~三・七キロ、最も狭い地点で六九八メートルしかなく大きな川の川幅ほどである。
この海峡の制海権を巡って度々争いが起こった。オスマン帝国もこの海の制海権を握ってバルカン半島に進出し東ローマ帝国を滅ぼした。
一八世紀に入るとロシアは不凍港の獲得を目指して南下政策を取り、黒海周辺を領有していたオスマン帝国と度々戦火を交えた。第二次露土戦争に勝利したロシアは黒海での戦艦建造権とボスポラス海峡、ダーダネル海峡の自由通行権を獲得した。以降、この海峡の通行権を巡りイギリス、フランスはロシアの地中海進出を警戒し度々争いが繰り広げられた。
一八五三年~一八五六年に起こったクリミア半島で行われた戦争ではイギリス、フランスがオスマン帝国と同盟を結びロシアに参戦し連合国が勝利しロシアは黒海の中立化と海峡の通行権を放棄した。第一次世界大戦の時もこの海峡が激戦地となった。
この海峡に二本の大橋が架かっている。一九七三年に建設された全長一〇七四メートルの第一ボスポラス大橋(正式名称、ボアズィチ大橋)、一九八八年、日本の資金援助で建設された全長一〇九〇メートルの第二ボスポラス大橋(正式名称、ファーティフ・スルタン・メフメト大橋)である。
第二ボスポラス大橋のアジア側の袂に一三九一年に建築されたアナドル・ヒサールがあり、対岸のヨーロッパ側にはメフメト二世がコンスタンチノープル攻略に備えて一四五二年に僅か四ヶ月で築いたと伝えられるルメリ・ヒサールがある。
この二つの要塞(ヒサール)でこの海峡を通過するビザンチン帝國の艦船を攻撃した。こうしてボスポラス海峡を制したオスマン帝国はコンスタンチノープルを陥落させ、ビザンチン帝國は滅亡した。オスマン帝国は首都をコンスタンチノープルに遷しイスタンブールと名を変えた。
トルコ革命を成功させたアタテュルクは首都をアンカラに遷したがそれでもイスタンブールは人口千二百万人を数えるトルコ最大の街である。
ボスポラス海峡に架かる二本の橋でアジア側の住宅地とヨーロッパ側の商業地を結んでおり、二本の橋の交通量は一日三二万台(一九九七年)に達し慢性的な交通渋滞が発生している。
この交通渋滞を解消するために、二〇〇八年末の開通を目指してこの海峡に日本の技術援助でトンネルを掘り地下鉄を通す計画が進行中である。(日本の大成建設、熊谷組、トルコのガマ重工業とヌロール建設の合弁コンソーシアム 総事業費約一千億円 二〇〇四年六月着工)
バスは第二ボスポラス大橋に差し掛かったが大渋滞でノロノロ運転であった。お陰で海峡の景色をゆっくりと鑑賞出来た。
海峡の至る所に桟橋が有り、ヨットやクルーザーが係留されていた。橋の下をクルーザーが何隻も通過し、海峡の丘の上には瀟洒な住宅が点在していた。
この橋の南のアジアサイドにユスキュダルと云う小さな街がある。この街の名をウスクダラと云えば中高年には聞き覚えが有るはずである。
昔、江利チエミが歌って大ヒットした「ウスクダラ」と云う歌があった。この歌はトルコ人なら誰でも知っているトルコの民謡である。アメリカのミュージカルで歌われてヒットし日本に入ってきた。(一九五四年にSP盤が発売された)
歌詞は
ウスクダラ ギデリケン アルドゥダ ビル ヤームル
ウスクダラ ギデリケン アルドゥダ ビル ヤームル
キャティビミン セティレスィ ウズン エテーイ チャームル
キャティビミン セティレスィ ウズン エテーイ チャームル
ウスクダラはるばる訪ねてみたら、
世にも不思議な噂の通り、町を歩いて驚いた、
これでは男がかわいそう
町中の女を自慢の腕で
恋のとりこにしてみせようと
粋ななりして出かけてみたが
とりこになったのは男だったとさ!?
とりこになったのは男だったとさ!?
ベルマさんはボスポラス海峡が近付くと早速この曲を流し、古いテープが駄目になったので日本の友人に頼んで探してもらい送ってもらったと語っていた。
そして、ウスクダラはユスキュダラが正しく、この橋の南、アジアサイドに有る小さな港町である。オスマントルコの時代には東西交易の拠点として隊商宿やモスクが建ち並び、聖地メッカへの巡礼者が立ち寄った街である。今は丘の斜面に美しい住宅が建ち並ぶ静かな街である。
橋を渡るとオスマン帝国の首都、イスタンブールのヨーロッパサイドである。