文明の十字路 トルコ紀行

北アナトリア断層

 バスはアンカラから北上しボルの街に近付くと山々の景色は一変した。それまでまばらに小さな松が茂る岩山の景色であったが山々は濃緑の林に変わった。黒海沿岸は温暖で年間を通じて雨が多く高原地帯とは異なり豊かな森林を形成している。畑の作物も変わり黒海沿岸では葉タバコやナッツ類が主な生産品目である。

 ところで、我々が走っている道路の下には東西一二〇〇キロに及ぶ北アナトリア大断層が走っている。トルコは世界有数の地震国で一九三九年にこの断層の東端に近いトルコ東部の都市エルズィンジャンでマグニチュード七・八の巨大地震が発生し死者約三万三千人、負傷者約十万人、家屋損壊約十一万七千件にのぼる、同国史上最も甚大な被害をもたらした。

 その後、震源は西に移動しM七・〇以上の大地震が一九四二年一一月と一二月、四三年、四四年、五三年、五七年、六六年、七〇年、七一年、七六年と大地震が多発している。

 一九九九年八月一七日、北アナトリア大断層が活動しイスタンブールから東へ約一一〇キロに位置するイズミット市(人口約五十万人)でM七・四の巨大地震(コジャエリ地震)が発生した。

 トルコ政府は被害者数を死者一万七一二七名、負傷者四万三九五九名と発表したが多くの情報筋は実際の死者数は行方不明者を併せて四万五千名、負傷者も四万五千名と推定しおよそ六十万人が家を失ったと伝えた。

 そして、同年の十一月十二日、再び北アナトリア大断層が活動しイスタンブールから東へ約一七〇キロに位置するデュズジェ(人口約五万七千人)の街でM七・二の巨大地震(デュズジェ地震)が起こった。僅か三ヶ月の間に阪神淡路大震災(一九九五年一月一七日 M七・三)より巨大な大地震が二度も起こり甚大な被害をもたらした。(コジャエリ地震とデュズジェ地震を総称してマルマラ地震と呼ばれている。)

 日本からも緊急無償援助が行なわれ、トルコ政府の要望で阪神淡路大震災の際に西宮市で使用された仮設住宅一九〇〇戸を兵庫県が無償提供し自衛隊の艦船で緊急輸送した。この仮設住宅は一部仕様を変更してアダバザル(イズミット市から東に約四〇キロ)に一一一四戸、デュズジェに七二〇戸建設された。

 地震から五年経ったがデュズジェの街の近くを通ると当時の仮設住宅が建ち並んでいた。市街地から少し離れた丘の上、山の上には政府が罹災者の為に建てたカラフルな住宅が建ち並んでいた。

 これらの住宅は罹災者に非常に安価な価額で提供しているそうであるが地震の経験を生かし地盤の強い地域を選んで建てられた為に、新しい市街地は旧市街から十キロ近く離れた山の上か丘の上に建設された。丘の上のカラフルな街並みを眺めるとマルマラ地震の傷も癒されたように見えるが、政府が提供した安価な家に入る資金の無い人達は今も仮設住宅に暮らしている。


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