文明の十字路 トルコ紀行

エルトゥールル号の遭難

 トルコは最も親日的な国の一つに挙げられている。トルコ人が日本に親近感を持つのはエルトゥールル号遭難事件が切っ掛けである。

 この事件を契機にモンゴル高原から西に行ったのがトルコ人で東に行ったのが日本人だ、元は同根だとの親近感を持つようになったのであろうか。(ガイドのベルマさんの話ではトルコ人は混血が進みすでに蒙古斑点は無いとの事)いずれにしてもトルコ人は非常に親日的である。

エルトゥールル号の遭難、福地源一郎 文明の十字路トルコ紀行  トルコを最初に公式訪問した日本人は後に東京日日新聞(1872年創刊 毎日新聞の前身)の主筆となった福地源一郎(1841~1906年)ではないだろうか。

 福地源一郎は肥前長崎に生まれ蘭学を修めて17歳の時、江戸に出て英語を学び、外国奉行配下の通弁(通訳)として幕府に仕えた。

 そして、1861年(文久元年)、ヨーロッパに派遣した最初の使節団である遣欧使節団に通訳として柴田剛中たけただ(1823年~1877年 大坂奉行、兵庫奉行、神戸港開港に関与)に従って渡欧した。この使節団に福沢諭吉も加わり総勢36名であった。

 1865年(慶応元年)、柴田剛中たけただが製鉄所建設及び軍制調査の正使として再度フランス・イギリスに派遣された。この使節団に多分、柴田剛中たけただの意向であろう福地源一郎も加わった。

 明治維新となり失職した福地源一郎は翻訳と英語、フランス語を教えて生計を立て、旧知の渋沢栄一の紹介で同年齢の伊藤博文と会い意気投合して大蔵省に入省した。(この頃、伊藤博文は大蔵少輔しょうゆう(局長クラス)であった)そして、1870年(明治3年)、財政幣制調査のため渡米する伊藤博文に随行した。

 1871年(明治4年)12月、明治政府は岩倉具視ともみ(47歳)を全権大使とする米欧使節団を派遣した。この使節団には副使として木戸孝允(39歳)、大久保利通(42歳)、伊藤博文(31歳)、等々48名の団員と津田梅(8歳)、団琢磨(13歳)、中江兆民(25歳)など50数名が各国への留学生として参加し、総勢107名の大使節団であった。

 この使節団は米欧12ヶ国を632日を掛けて世界を一周し、日本近代化の原点となる視察であった。この使節団に二度の渡欧経験を買われて(伊藤博文の意向であろう)福地源一郎が一等書記官として一行に加わっていた。

 使節団の一行がヨーロッパを視察した際、彼はオスマン帝國の国情視察の特命を受け、一行と別れてイスタンブールに赴いた。(当時の地名はコンスタンチノープル 公式にイスタンブールと改称されたのはトルコ革命後の1930年である。)

 そして、彼はイスタンブールでオスマン帝国のスルタン、アブドゥル・ハミト二世(1842年~1918年)に謁見する栄誉を得た。これが日本政府の役人がトルコを公式に訪問した最初ではなかろうか。

 この福地源一郎の訪問を切っ掛けに日本とオスマン帝国との間で通商条約締結の交渉が開始されたが、両国は列強との摩擦を恐れて締結を見送った。

 しかし、友好の絆を保つべく1878年(明治11年)、横須賀造船所で建造した日本初の国産軍艦「清輝きよてる(軍艦といってもわずか897トンであった。)がヨーロッパ諸国を歴訪する1年3ヶ月の遠洋航海に出発し、ヨーロッパ各国を訪れた後、イスタンブールを表敬訪問している。

 日本の皇室とトルコとの関係は小松宮彰仁あきひと親王(明治天皇の義理の叔父)・同妃のトルコ訪問が切っ掛けである。(小松宮家は彰仁親王(1846~1903年)の逝去によって断絶した。上野公園に銅像がある。)

 小松宮彰仁あきひと親王・同妃は1年間にわたりヨーロッパ諸国を訪問した途上、1887年(明治20年)オスマン帝国を訪問しスルタン、アブドゥル・ハミト二世に謁見し明治天皇の親書と共に大勲位の勲章を手渡した。これが日本とトルコの公式な友好の始まりである。

 こうしてトルコとの友好が深まりアブドゥル・ハミト二世は1889年(明治22年)7月、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて、海軍少将オスマン・パシャを特使としてエルトゥールル号を日本に派遣した。

 使節以下650名余りの将兵を乗せたエルトゥールル号は2、344トン、全長76メートル、600馬力、速力10ノット、13の砲門を備えた木造船であった。しかし、建造後30数年を経ており出航前から老朽化が心配であった。

 1889年7月14日、アブドゥル・ハミト二世の親書と明治天皇に贈呈するトルコ帝国の最高勲章を携えたオスマン・パシャはイスタンブールを出航し日本への長途の旅についた。

 スエズ、アデン、ボンベイ、コロンボ、と寄港し、シンガポールで越年してサイゴン、香港、福州、長崎、神戸と寄港し、横浜港に接岸したのは出航から11ヶ月弱の月日を要した翌年の1890年(明治23年)6月7日であった。

 当時、各地の港に寄港しながらの航海ではあるが日本とトルコ間の航海日数は通常3ヶ月程度であったがエルトゥールル号は老朽船でスエズ運河では二度の座礁事故で修理に2ヶ月を要し、シンガポールでは長い航海により船体が破損して修理に4ヶ月を要し、寄港地ではイスラム教徒の熱狂的な歓迎を受け滞在が長引いた関係で11ヶ月弱を要した。

 6月13日にオスマン・パシャは明治天皇に謁見しアブドゥル・ハミト二世から託された任務を果たし、国賓として各地で盛大な歓迎を受けた。新聞もトルコ使節の訪問を大々的に報じた。

 トルコ使節は7月には帰国する予定であったが滞在が長引き9月まで月滞在した。滞在が長引いた原因は一人の水兵が横浜市内を散策して帰艦後、当時日本で流行していたコレラに感染して発症し死亡した。

 他の水兵にも感染が広まり数10名が隔離され、死亡者は日本の法に基づき火葬を勧告したが艦長のオスマン・パシャは火葬を拒否しイスラムの教義に基づき水葬で執り行われた。

 そして、エルトゥールル号の艦内で紛れもなくコレラが蔓延しているので政府はオスマン・パシャの同意を得て船舶検疫所がある長浦へ回航し艦内を徹底的に消毒し、コレラ患者を隔離し完治して退院するまで留まる事となった。

 2ヵ月後の9月14日、全員退院して帰艦したので艦長のオスマン・パシャは滞在が予定より大幅に長引き直ちに出港する事とした。

 海軍省は建造後30数年を経た木造船で老朽化しており、おりしも台風シーズンでもあり日本に近づく台風が有る事を告げ出港を延期するよう勧めたが、オスマン・パシャは「本国からの帰還命令も有り、部下も帰国を望んでいるので直ちに出港したい。」と告げ、1890年(明治23年)9月15日、横浜を出航し次の寄港地神戸港を目指して帰国の途についた。

 エルトゥールル号は太平洋を南下して紀伊半島を回って神戸港に入港する予定であった。だが、岩礁が多く最も危険な熊野灘にさしかかった頃、海軍省が予測した通り北上する台風に遭遇した。

 1890年9月16日、夕刻から猛烈な風が吹き、夜には波も大きくなり、マストが折れ船体が破損して浸水し航行の自由を失った。風と波はエルトゥールル号を紀伊大島の東端にある樫野崎灯台(日本最初の洋式灯台の一つ)沖の古来より海の難所として恐れられていた船甲羅の岩礁へと押し流し、船は岩礁に乗り上げて座礁した。そして船底から浸水した水で機関が蒸気爆発を起こし、ボートに乗り移る暇もなく船は二つに裂けて海に沈んでいった。

 こうして海軍少将オスマン・パシャ以下、500名余(実数は不明)の乗組員が死亡し生存者わずかに69名(士官6名、水兵63名)という海難史上まれに見る大惨事となった。

 樫野崎灯台の当直技師は戸を叩く音に気付き、扉を開けると其処には全身ずぶぬれで血をにじませた半死半生の外国人の男、数人が助けを求めて来たのであった。

 彼らは断崖の上に建つ樫野崎灯台の灯りを頼りに絶壁をよじ登って仲間の救援を求めて来たのであった。外国人であることは一目瞭然であり、言葉も通ぜず当直技師は「万国信号ブック」を開いて示すとオスマン帝国の国旗を指し示した。

 居合わせた漁師が半鐘を打ち鳴らして村人を集めた。こうしてトルコの親善使節が遭難した事を知り大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは総出で生存者の捜索と救助を行い翌日には三地区の住民総出で生存者の救助、遺体の引き上げ、漂流物の回収、遺体の埋葬、婦人達は負傷者の看護、炊き出しと村民総出の救助活動を行った。

 生存者を樫野地区の大龍寺と大島地区の蓮生寺に移し3名の医師が治療に当たった。(この頃、大島村は樫野地区、大島地区、須江地区の三地区で構成され各々の地区に医師一人が常駐していたのであろう。)

 9月17日、大島村の村長は電信設備の有る田辺港に人を遣り和歌山県庁に報告し、たまたま神戸に向かう途中台風の難を逃れて大島に入港していた防長丸に生存者士官2名を乗船させ村役人と巡査を付き添わせて神戸に向かった。村長は当時、横浜と並ぶ国際貿易港の神戸ならトルコの領事館が有ると思っていた。

 9月18日夜半に神戸に到着し、領事館が無い事を知り水上警察に出向き兵庫県庁に報告した。9月19日に和歌山県知事、兵庫県知事はそれぞれ独自に東京に打電し事態を報告した。

 遭難の知らせを受けた明治天皇は、政府に対し生存者を東京に移送し負傷者は慈恵病院で手当てするよう、そして可能な限りの援助を行うよう命じた。

 宮内省はただちに官吏と式部官、侍医、侍医医局医員、侍医局薬丁(薬剤師)の現地派遣を決め、日本赤十字社に対して医員と看護婦の派遣を依頼した。

 海軍省は横須賀に停泊中の軍艦八重山に大島に急航せよと命じた。軍艦八重山は潜水夫の手配等々出港準備が遅れ9月20日に横須賀を出港した。

 一足早く9月19日に遭難の第一報を報じた神戸又新ゆうしん日報の号外で海難事故を知ったドイツ領事館は神戸港に停泊中だったドイツ海軍の軍艦ウォルフ号に大島に急行して生存者を収容し神戸港に搬送するよう要請した。ウォルフ号に同乗したのは大島の村役人と巡査それに兵庫県庁の役人であった。(ウォルフ号が大島に向かったのは兵庫県庁の依頼かも知れない。それとも兵庫県知事は政府の訓令に基づき思い留まるよう説得したが聞き入れられなかったので県庁の役人を同乗させたのかも知れない。)

 ウォルフ号は9月20日に大島に着き生存者を収容して神戸港に帰港し、水上警察署が負傷者を和田岬の診療所(現神戸検疫所)に搬送した。

 そして、遅れて9月21日に大島に到着した軍艦八重山はウォルフ号が生存者を収容したと知り、乗組員は村民と協力して遭難死した乗組員の遺体を収容し(一般人の潜水夫が同乗していた。)て手厚く葬り、遺品並びに兵器、諸品を引き揚げ、残務整理の任務を帯びて留まっていた生存者2名を収容して神戸に向かった。(引き揚げた遺品並びに兵器、諸品はフランスの商船に託してトルコに送った。)

 そして、和歌山県庁は大島村で遭難者の治療に当たった医師3名に施術料並びに薬価を請求するよう通知したが3名の医師は連名で次の様な返書を差し出した。(原文抜粋 2000年に串本町の無量寺で見つかった。)

 「本日、閣下より薬価 施術料の清算書を調成して進達すべき旨の通牒つうちょうを本村役場より得たり。

 しかれども 不肖ふしょう もとより薬価 施術料を請求するの念なく、唯唯ただただ 負傷者の惨憺さんたん憫察びんさつ(窮状を察し)し、ひたすら救助一途の惻隠そくいん(救助することのみを)心より拮椐きっきょ(心の底から願って) 従事せし事 故 其の薬価 治術料はがい遭難者へ義捐ぎえん致し度 候間そうろうあいだ(でありますので)此の段 宜しく御取り計らい下さりたく候也。」

 明治23年9月22日 和歌山県東牟婁郡大島村 医師 川口三十郎、伊達一郎、松下秀

 新聞各紙はエルトゥールル号の訪問から悲劇的な遭難に至った経緯を大々的に報じ、各新聞社は義捐金ぎえんきん募集の広告を掲載した。

 時事新報社(福沢諭吉が創刊した日刊新聞)は9月22日に義捐金募集の広告を掲載した。

 義捐金募集広告は次の様な内容であった。(注1 原文通り)

 「…本社此極めて不幸の人63名の心情察しようして止むあたはず日本國人の慈愛義侠あるかかる悲惨の報に接してた座視するあたはざるを知りここに廣く義捐金を世人に募り之を以て罹災者の心情をなぐさむるの資に供し極東の文明國慈愛義侠に富む事を世界に表明せんと欲す此の事たる独り慈愛義侠の心を満足せしむるのみあらずた一國の声価に関するものあり読者幸に此の計画を賛助して義金を本社に投ぜらん事切に企望する所なり

  明治23年9月   時事新報社

 義捐金受取手続

一、義捐金は一口十銭以上とす

一、義捐金を受取りたる時は其金額ならびに義捐者の姓名を本紙上に記載し之を以て金額受領の証とす

一、募集の金を罹災者に贈輿ぞうよするの手続きは取調べの上本社これを定めて更に紙上に公告すべし

一、募集申込の期日は来る十月十日を以て限りとす

 この様な義捐金募集活動は東京日日新聞、時事新報、毎日新聞、大阪朝日新聞、地方紙では神戸又新ゆうしん日報も行い日本で始めて外国人災害被害者を対象とした本格的な義捐金募集であった。

 三週間後、政府はインド洋、地中海方面へ練習航海に向かう予定の軍艦「比叡」と「金剛」をトルコに派遣し生存者送還の任に当たらせた。

 軍艦金剛、比叡はイギリスに発注し1878年に竣工した姉妹艦で総トン数2250トン、全長70メートル、速力14ノット、後の日清戦争、日露戦争に従軍した戦艦である。

 この練習航海に日露戦争の日本海海戦で作戦参謀を務め、有名な電文、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」を起草した秋山真之さねゆき(1868年~1918年)が少尉候補生として比叡に乗艦していた。

 そしてもう一人、比叡に特派記者として時事新報社の野田正太郎(1868年~1904年)が乗艦していた。野田は時事新報社が集めた義捐金ぎえんきんを送り届ける大役を担っていた。

 各新聞社が集めた義捐金の処理は官庁に委ねられたが、時事新報社は他紙を圧倒する4、248円97銭6厘(2万倍と仮定すれば約8千5百万円)という莫大な義捐金を集め、官庁に委ねる事をせず、為替にして自社記者を生存者送還の任を帯びた比叡か金剛に同乗させ、直接オスマン朝の当局に手渡すという極めて異例な送金方法を選択した。

エルトゥールル号の遭難、野田正太郎 文明の十字路トルコ紀行  野田正太郎は1868年(明治元年)1月、八戸藩士野田おくでの長男として青森県八戸市番町で生まれ、1886年(明治19年)に慶応義塾に入塾し、何年に卒業したかは不明であるが、福澤諭吉に認められて時事新報社(福澤諭吉が創刊)の記者となった。

 野田がエルトゥールル号遭難事件(1890年)に遭遇し、トルコに派遣される事になったのは年齢(22歳)から推測して入社まもない頃であったと思われる。

 1890年10月5日、金剛、比叡の両艦は品川を出航し9日、神戸着、神戸で69名の生存者を金剛に士官3名を含め35名、比叡に士官4名を含め34名収容し11日神戸を出航した。

 比叡に乗船していた野田は神戸で時事新報社の同僚から為替証書を受け取り、航海中トルコの士官と懇意になりトルコ語を習い、トルコに到着した頃には片言のトルコ語が話せるようになっていた。

 金剛、比叡の両艦は1890年10月11日神戸港を出航して13日長崎着、21日香港着、11月1日シンガポール着、16日コロンボ着、30日アデン着、12月10日スエズ着、18日ポートサイド着と各港で2~3日停泊して順調に航行し、12月26日ダーダネル海峡の入り口でオスマン帝国の軍艦タリヤ号が待ち構えていた。そして、タリヤ号の艦長は金剛、比叡に停船を命じ近くのベシカ湾に誘導して両艦長に「ダーダネル海峡は1840年に締結されたロンドン条約、並びにクリミヤ戦争後の1856年に締結されたパリ条約に基づき外国の艦船はボスポラス海峡とダーダネルス海峡を通航出来ない。」と告げ、イスタンブールの入港を丁重に謝絶した。(ロンドン条約、パリ条約は共に黒海に駐留するロシア艦隊の南下を封じ込める為に結んだ条約)

 金剛、比叡の両艦長は表敬訪問の艦船であると猛烈に抗議し、取り敢えず生存者をタリヤ号に移送した。タリヤ号の艦長は皇帝の裁可を仰ぐと告げ抜錨してイスタンブールに向かった。

 金剛、比叡も抜錨してエーゲ海に面した港湾都市イズミールで裁可を待つ事とした。

 29日にイズミールに入港し、イズミールでアブデュル・ハミト二世よりイスタンブール入港を許可する旨の電報が届いた。

 31日にイズミール港を出港し、品川を出港しておよそ3ヶ月後の1891年1月2日、金剛、比叡はイスタンブールに入港し、乗組員並びに特派記者野田は市民の大歓迎を受けた。

 そして、金剛艦長日高壮之丞(1848年~1932年)大佐と比叡艦長田中綱常(1842年~1903年)大佐は5日、スルタン・アブドゥル・ハミト二世に謁見し、ユルドゥズ宮殿に於いて晩餐会が催された。(ユルドゥズ宮殿はアブドゥル・ハミト二世の時、旧宮殿、トプカプ宮殿、ドルマバフチェ宮殿に次いで四番目のスルタンの居城となった。)

 晩餐会に赴いた際、両艦長にオスマン朝から日本語の習得ならびにオスマン朝事情に精通させたいので適当な士官数名をトルコに残留させてほしいとの要望がもたらされた。

 オスマン朝はいずれ日本と外交関係を樹立したいとの思惑もあり士官(将校)の残留を望んだ。しかし、両艦長は日本とトルコとの間に外交関係が樹立していない事も有り、貴重な人材であるからと鄭重に断った。

 直接義捐金を届ける任務を帯びていた野田は1月6日にオスマン朝の海軍大臣ハサン・パシャに面会し義捐金募集の経緯を説明して為替証書を手渡した。

 野田は義捐金を手渡した後は公式行事も無く自由に行動していたが両艦長は公式行事が続いていた。1月13日~14日の政府高官との会談に於いても再び士官の残留を要請され、今回の乗員から残留させるのが不可能ならば帰国後に適当な士官を派遣してほしいと要請された。

 しかし、両艦長は士官候補生の教育に当たる貴重な人材であり要請に応じられないと再び謝絶したが、送別の宴の席で再びハミト二世から士官の残留を要請された。両艦長は窮余の策として士官に代わり野田の了解も無く野田正太郎を推挙した。

 ハミト二世は両艦長が推薦する民間人の野田正太郎とはどの様な人物なのか一度会って見ようと思ったのか、2月8日、野田はハミト二世に謁見する栄誉を得た。この時、野田は航海中に覚えた片言のトルコ語で返答したのであろうか。

 野田はこの時の模様を次のように記している。(注2)

 「......皇帝は近くに進み寄られて余の手を握り賜ひ「僅かの間に我土耳其トルコ語を學ばれたるは深く満足に思ふ所にして此一事足下のアクルル(賢き)と證す可し」とあり是丈けは了解せしが夫より五分間許り引續きて御話ありたれとも式部長官は余に限り充分土耳其語を解し得るものと思ひてか英語に通辯つうべん(通訳)して呉れず其跡そのあとは鼓膜に震動したるのみに止まりしのみを遺憾あれ或は彼の義捐金の禮詞もありしあらん或は記憶に存す可き妙句もありしならんかあれども前後の場合「余は左様までは土耳其語に通ぜす通辯を願ふ」と申す機を得ざりしをり謁見の印にとて皇帝は凡百箇計りダイヤモンドを鏤めたる金巻煙草入を贈られ......(中略)......けだ(かなりの確信をもって推量するさま。)土耳其皇帝が余の如き一少年記者の手を握りて斯る優涙の待遇ありしは前代未聞の事なりと都下の新聞は又も驚けるが如く言囃いいはやせり」と記している。

 金剛、比叡は2月10日までイスタンブールに留まる事になっていた。出航が迫る2月9日、オスマン朝は窮余の策として野田に白羽の矢を立て、野田のもとにハミト二世の使者が訪れ日本語教師としてトルコに留まって頂きたいと要請した。野田は固辞したがハミト二世は謁見の時よほど好印象を持ったのか使者は三度訪れた。

 「......十日の夕刻より夜に掛て土耳其トルコ皇帝の急使三たび比叡に到る、其使命の略にいわく土耳其皇帝は時事新報記者野田イフエンヂーをして一層我國の事情に通暁つうぎょうせしめて従て我國の真情日本に知らしめんが為め且つ我國の事情を熟知するの料として土耳其語を學ばしめんが為め野田イフエンヂーの滞留を望む。本人は我子も同様に直々之を保護して滞留中は無論帰國の折とても一切不自由なからしむし......」(注2)

 オスマン朝は比叡の田中艦長に説得を依頼し、同時にオスマン朝は陸軍大学校長のゼキ・パシャを比叡に送って説得に当たらせた。ついに野田も折れてトルコに留まる事となった。

 「.......明けて十一日即ち両艦出発の當日匆々そうそう行李こうりを携へて土耳其陸軍大学校の奥の間、土耳其皇帝の為に設けある一室に引移りたり皇帝は余の為めに6千ピアスタを同校に下し調度装飾残る所なく......」(注2)と慌しくイスタンブールに留まる事になったと野田は記している。

 こうして野田はトルコに留まり日本語教育の教材として小学生向けの図書や墨、硯、筆等の筆記用具を時事新報の同僚に頼んで取り寄せ、陸軍大学校(士官学校)で日本語を教える傍ら、オスマン朝関連の記事を時事新報に送り続けた日本最初の海外駐在記者である。

 そして、1891年、野田はイスラム教に改宗しアブデュル・ハリムの名を得て、日本人最初のイスラム教徒となった。

 もう一人、エルトゥールル号遭難事件に関してトルコと深い関わりを持ったのが山田寅次郎(1866年~1957年)である。山田寅次郎は新聞各紙の報道に触発されて健筆を振るい、新聞広告を出して義捐金募集活動を開始した。

エルトゥールル号の遭難、山田寅次郎 文明の十字路トルコ紀行  山田寅次郎は沼田藩(三万五千石、土岐家、群馬県沼田市)の江戸家老中村家の次男として1866年(慶応2年)に生まれた。その後、母方の親戚に当たる、茶道の宗家「宗徧流そうへんりゅう」の山田家に養子に入り山田の姓を名乗った。

 宗徧流は千利休の孫、千宗旦の高弟、山田宗徧(1627年~1708年)を祖とする茶の湯の流派である。山田宗徧は赤穂義士大高源五に12月14日に吉良邸で茶会が有る事をそれとなく知らせた人物である。

 寅次郎は宗徧流八世家元・山田宗有としての教育を受けると同時に、横浜で英語、仏語、漢文を学んだ教養人であった。寅次郎がエルトゥールル号の遭難を新聞で知ったのは24歳の時であった。

 義侠心に富む寅次郎は新聞紙上に義捐金募集広告を打ち「近い将来、日本と修好条約を結ぶべくアジア大陸の西の端から東の端の日本に一年も掛けて来日し役目を終えて帰国の途に着いた直後、不運にも嵐に遭って座礁し多数の乗組員の人命が失われた。トルコに残された遺族の心情を思えば耐え難くなり、・・・」といった文面で掲載し、複数の新聞社とも連携しながら日本各地で演説会を開き遺族に贈る義捐金を呼びかけた。

 真偽のほどは定かではないが当時の金で5千円(2万倍と仮定すれば約一億円)もの巨額の義捐金が集まったと云われている。

 因みに各新聞社が義捐金を呼びかけて集まった額は、時事新報社の4、248円97銭6厘を筆頭に東京日日新聞434円、大阪朝日新聞154円、毎日新聞128円、地方紙の神戸又新日報は53円であった。山田寅次郎の集めた義捐金が如何に巨額であったかが解る。

 寅次郎は外務省に赴き青木周蔵外務大臣に面会しトルコへの送金を依頼したが、外務大臣より「之は君の義心から出でしもの、なれば君自ら携え土耳其トルコに赴きて如何・・中略・・就ては海軍省へ貴下の便乗を許可ありたく本職よりも申入るべくけれど、貴下もまたその方面に願い出られては如何」と云われ、寅次郎はイスタンブールから帰国した比叡の艦長田中綱常大佐に面会しその紹介状をもって、海軍省がチャーターした英国船に便乗し1892年1月30日に出立し、4月4日にトルコのイスタンブールに到着した。

 野田正太郎は山田寅次郎の突然の到来を歓迎し、二才しか違わない二人は意気投合した。(山田寅次郎が二才年長)そして野田正太郎は時事新報の連載記事に次の様に記している。

 「...客は東京三々文房主山田寅次郎氏にして今度日土貿易の端緒を開かんが為め若干の商品並に彼の頃より残りしエルドグロー号の義捐金を携え此地に到りしものと....」

 山田寅次郎は野田のつてであろうオスマン帝国の外務大臣サイド・パシャに面会し義捐金を手渡した。そして、山田寅次郎はスルタン・アブドゥル・ハミト二世に謁見する栄誉を得、中村家(寅次郎の実家)伝来の甲冑と太刀を献上した。(この甲冑と太刀はトプカプ宮殿博物館の武器展示室に展示されている。)

 日本との修好を強く望んでいたオスマン朝は山田寅次郎に対しても日本語教師としてイスタンブールに留まる事を要請した。山田寅次郎も義捐金の受け渡しだけが目的ではなく、日本とトルコとの貿易が真の目的であった。オスマン朝の要請を快諾した山田寅次郎はイスタンブールで日土の貿易商を営む傍ら、野田正太郎と共に陸軍大学校(士官学校)で日本語を教えた。

 後継者を得た野田正太郎は二年間(1890年~1892年)イスタンブールに留まり、病と称して1892年12月中旬頃帰国の途に着いた。イスタンブールから汽車でウイーンに入り、ヨーロッパからアメリカを回って帰国した。

 帰国した野田正太郎は時事新報にオスマン朝の社会風俗等のエッセイを執筆したが一年もせずに時事新報社を退社し、その後、私文書偽造の罪を犯し慶應義塾も除名され晩節を汚して37歳の若さで死亡した。

 日露戦争(1904年(明治37年)2月~1905年9月)の時、山田寅次郎は黒海に配備されていたロシアのバルチック艦隊の動静を監視し、ロシアの義勇艦隊の三隻が貨物船に偽装してボスポラス海峡を通過すると艦船名と通過日時をいち早く日本に伝えた。この通報が日本海海戦の勝利に繋がったと云われている。(外国の艦船はボスポラス海峡とダーダネルス海峡を通航出来なかった。)日露戦争終結後、時の外相、小村寿太郎は寅次郎の功績に対し感謝状を渡した。

 当時のトルコは隣接する北方の大国ロシアの南下政策に苦しめられ1568年~1878年まで11度戦火を交えたが二勝七敗二分けと大敗し大幅な譲歩を余儀なくされていた。

 そのような時、極東の小国日本が日露戦争に勝利した事を知り、トルコの国民は大きな衝撃を受けた。そして民衆は日本の勝利はすなわち我々の勝利であると我が事のように熱狂し、生まれた子供に「トーゴー」、「ノギ」と名付けるのが流行ったと伝えられている。

 山田寅次郎は当時の様子を次のように記している。

 「日露戦争起こるや、トルコの上下の我に対する情誼じょうぎは、実に誠愨せいかく(真心がこもっている)敦厚とんこう(人情深い)を極め、皇帝陛下は直に陸軍少将ペルテヴ・パシャを日本軍に従軍させ、日々その報告を上奏させた。国民は赤十字社や新聞社に寄付金を送るなど、私は日清戦争、北清事変、日露戦争を通じてトルコにいたが、新聞などで日本の武勇義侠が他国に卓絶していると驚嘆し、オスマン帝国の祖先も同じアジア人であることを誇りにし、日本人を敬慕する感情深く、上は帝室より、下は一般大衆に至るまで、われを歓待すること他に比すべきことなし。」

 山田寅次郎の生徒の中に、真偽の程は確かではないが後に建国の父となるムスタファ・ケマル・アタテュルクがいたと伝えられている。

 アタテュルクは日露戦争に勝利した1905年に陸軍大学校を卒業し、明治天皇を崇拝していたとも伝えられているので寅次郎が日本の精神文化を講義したかも知れない。

 山田寅次郎はイスラム教に改宗し通算22年間トルコに滞在し、第一次世界大戦の勃発を契機に1914年に帰国した。

 その後、トルコでは第一次世界大戦後、オスマン朝が滅び1923年にトルコ共和国が成立し、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが初代大統領になった。

 その二年後の1925年、日本とトルコは国交を樹立し、山田寅次郎は日土貿易協会を設立して再び日土の民間交流に尽力し、1926年に日土協会(日本・トルコ協会)が設立された。

 1928年8月6日、山田寅次郎が奔走して大阪日土貿易協会の発議により第一回遭難追悼祭が催され、翌年の1929年4月5日、弔魂碑が建立された。

 昭和天皇が和歌山地方を御巡幸された折の1929年6月3日、樫野崎の慰霊碑(明治24年に有志の義金と義捐金の一部を供出して墓碑と慰霊碑が建立された。)を訪問され遭難者に祈りを奉げた。以後、5年毎に和歌山県、串本市、トルコ大使館共催で慰霊祭を執り行うようになった。催行日はエルトゥールル号が遭難した6月16日ではなく昭和天皇が慰霊碑に祈りを奉げた6月3日を慣例としている。

 昭和天皇が慰霊碑を訪れ祈りを奉げたとの報告を受けたトルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクはいたく感動し日本との友好の証としてエルトゥールル号が沈んだ海を見下ろす樫野崎灯台のそばに国費で慰霊碑を建立する事を決断した。

 和歌山県に設計、施工を委託し高さ13メートルの御影石の慰霊碑が1937年に完成した。中央に碇を、左にトルコ国旗、右に日本の海軍旗を配した「日本とトルコの友好の証し」を表現している。除幕式は昭和天皇が慰霊碑を訪問された同じ日(6月3日)に遭難者追悼祭と併せて挙行された。

 山田寅次郎は明治、大正、昭和と激動の時代に生きトルコと日本の友好親善並びに両国の貿易発展に尽力し1957年91歳で亡くなった。

 トルコ人は特に親日的であると云われているが、その起点となったのがエルトゥールル号遭難事件である。この事件は日本では忘れ去られているがトルコでは脈々と語り継がれ、歴史の教科書にも記載されておりトルコ人の誰もが知っている。(ガイドのベルマさんも小学校の歴史教科書で習ったと話されていた。)

 そしてトルコではエルトゥールル号遭難事件があった1890年を日本との修好の始まりとしている。

 1980年9月に起こったイラン・イラク戦争の時、イラク軍はイランの首都テヘランを空爆し、1985年3月17日イラクのフセイン大統領は48時間以降イラン上空を飛行する航空機を無差別に撃墜すると宣言した。イランにはまだ多数の日本人が残留していた。ヨーロッパ各国は救援機を派遣して自国民の救出に当たったが日本政府は救援機の手配が出来なかった。

 自衛隊機は法律の関係で救援に向かえなかったので政府は直ちに日本航空にチャーター便の派遣を依頼したが日航の労働組合が安全を確保出来ない事を理由に政府の要請を拒絶した。

 イランの日本大使館は欧州、中東の各国に救援を要請したが各国共にその余裕はなかった。

 唯一、救援機を飛ばしてくれたのはトルコであった。日本人215名がトルコ航空機でイラン領空を脱出したのはデッドライン一時間前であった。

 エルトゥールル号遭難からほぼ一世紀、トルコ政府が差し伸べた救援の背後にエルトゥールル号の記憶が残っていたのであろう。

注1

1890年オスマン朝に対する義捐金募集活動「エルトゥールル号事件」の義捐金と日本社会 著者三沢伸生から抜粋

注2

1890~93年における時事新報に掲載されたオスマン朝関連記事:日本人初のイスラーム世界への派遣・駐在新聞記者たる野田正太郎の業績 著者三沢伸生から抜粋


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