文明の十字路 トルコ紀行
アンカラ
トルコの首都、アンカラは人口およそ三七〇万人、広大なアナトリアの中央部に位置し、標高およそ八五〇メートル、肥沃な大地に恵まれ郊外は一面の小麦畑である。
アンカラの歴史は古く紀元前2000年前のヒッタイト帝国時代から存在していた。現在のアンカラの旧市街は古代にはアンキュラと呼ばれていた。
その後、アナトリアがローマ帝国の領土となりアンキュラの街はアンゴラと呼ばれるようになった。この街がアンカラと名称変更したのは1930年である。
ペルシャ猫をはじめ世界にいるほとんどの長い毛を持つ猫の祖先アンゴラ猫、軽く細く柔らかく丈夫で光沢が有り、モヘアと呼ばれているアンゴラ山羊、軽く柔らかい手触りで羊の毛の七倍の暖かさを保ちアンゴラウールと呼ばれているアンゴラウサギはこの地方に由来する動物である。
アンカラには古代ローマの遺跡があり、ビザンツ帝國時代にはアラブの侵攻に備えて城壁が築かれた。オスマン帝国の時代には東に向かうキャラバンの重要な交易地であったが大航海時代を迎え徐々に衰退して行った。
アタテュルクがトルコ共和国を建国しアンカラを首都と定めた当時、この街の人口は2万5千人に過ぎない農業を中心とした小さな地方都市であった。
第一次世界大戦によってこの小さな地方都市も戦火に見舞われ、1920年4月23日、アタテュルクがアンカラで第一回大国民会議を開いた頃は荒廃した状態であった。
1923年10月29日、アタテュルクはトルコ共和国の成立を宣言しアンカラを首都と定め、翌年の1924年からアンカラの首都建設計画がスタートした。
計画は旧市街を元の状態を保って保護し、新たに国会議事堂を中心とした官庁地区、商業地区、官僚の住居地区、高等教育機関を集めた文教地区を開発する計画で青写真が描かれた。
計画時に想定した56年後の1980年の都市人口は30万人、市街地面積は2000ヘクタールと予測していた。
しかし、急速に人口が増え一九四五年の段階で人口は20万人に膨れ上がり、市街地面積はすでに1900ヘクタールに達した。1950年代以降、都市化のスピードは加速し年率10数パーセントの勢いで人口が増え続けた。
1955年、新たな都市計画が立案され、45年後の2000年の都市人口は75万人と想定し、11,000ヘクタールを市街地開発地域とした。そして自動車時代が到来すると予測し環状道路も計画された。
しかし、都市人口の増加は計画を大きく上回り、1960年には65万人に達し、65年には2000年の想定人口75万人を突破した。
1969年、再び計画を練り直し都市の郊外化を進めたが人口増加に歯止めは掛からず、1995年のアンカラの人口は320万人、市街地面積は25,700ヘクタールに達している。
この様に首都アンカラの都市計画は人口増加に追い付かず今もアンカラの西と南に都市が広がっている。因みに1990年から2000年の10年間にアンカラの人口は27%も増加している。
都市人口が増加した要因の一つに農村の機械化が挙げられている。1950年代、政府は耕地面積拡大と大規模農場を目指してアメリカからトラクターを大量に輸入し、富裕農家に資金を貸し付けてトラクターの導入を進めた。
トラクターを購入した地主はそれまで小作人に貸していた土地もトラクターで耕すようになり、荒地も開墾され農地は飛躍的に拡大した。こうして一部の富裕農家によって大農場が形成された。一方、耕作地を奪われた多くの小作人は仕事を求めて都市に流れ込んだ。
牧草地も農地化され土地所有の概念を持っていなかった遊牧民も土地を追われて小作人同様に都市に流れ込んだ。これを裏付けるようにアンカラの人口は1950年代以降急速に増え続けている。
大都市に流れ込んだ彼らは住居を確保すべく郊外の国有地を不法に占拠し、一夜でバラック小屋を建てて住み着いた。こうした彼らをゲジェコンドゥと呼び、貧民層を形成している。そして止まらないインフレがゲジェコンドゥの増加に拍車を掛けた。
ゲジェコンドゥは職を求めて大都市に流れ込んだが大都市にも彼らを吸収する雇用力はなく、彼らは出稼ぎ労働者としてEUに流れ込んだ。
特に旧西ドイツは高度成長期に労働力が不足しトルコと二国間協定を結んでトルコ人労働者を受け入れた。この協定によって大量のゲジェコンドゥがドイツに流れ込んだ。
ドイツ側は一定の期間が経過すれば本国に帰ると思っていたが彼らは本国に帰っても職はなくそのままドイツに定住し、友人、知人を呼び寄せた。こうしてドイツに定住したトルコ人は270万とも300万人とも云われトルコ人社会を形成している。
トルコがEUに加盟できない理由の一つにゲジェコンドゥの存在がある。EU各国(特にドイツ、フランス、オーストリア)はトルコの加盟を認めると域内自由往来となり、豊かな社会を求めて400万人のゲジェコンドゥが一気に流れ込むとの予測も有り、EU各国はトルコの加盟に消極的となっている。
又、トルコの都市人口の把握を困難にしているのもゲジェコンドゥの存在である。特に、アンカラやイスタンブールの大都市はゲジェコンドゥの最も顕著な都市であり、イスタンブールやアンカラの人口は資料によって大きく異なっている。
トルコの首都アンカラの朝も寒さが厳しくホテル(エタップ アルティネル ホテル)の玄関に有った温度計を見ると氷点下3度であった。アンカラからイスタンブールまでおよそ450キロ、今日も長距離移動である。
ホテルを出発したのは朝の7時、まだ日の出前の時刻であった。街路樹が植えられた官庁街もまだ人通りもなく、昨日の夕刻に通った時は若者で賑わっていたアンカラ大学の前もひっそりとしていた。1946年創立のアンカラ大学は日本の東大のような存在の総合大学である。
庭付き一戸建ての官僚の住居との説明があった高級住宅街の前を通り、高速道路の高架に入るとアンカラの街が一望出来た。モスクが点在し、遠くに丸い大きな帽子を被ったようなアタクレ・タワー(一二五メートル)が見えた。
トルコの速度制限は市内50キロ、郊外90キロであるが、郊外に出るとバスは100キロを超えるスピードで走っていた。郊外には高層マンションが建ち並び、建設中の高層マンションが幾棟もあり、クレーンが建ち並んでいた。
市域を過ぎた頃、岩山の斜面に軒が擦れ合うほどゲジェコンドゥの小屋がびっしりと建ち並んでいた。途中で見た官僚の庭付き一戸建ての住居とは雲泥の差が有り貧富の格差を感じる光景であった。
饒舌なベルマさんも観光客に見せたくない光景であったのか国有地に一夜で建てたゲジェコンドゥの小屋は法律の不備をついて建てられており撤去出来ないと簡単な説明であった。
確かにゲジェコンドゥはトルコ政府の政策の失敗によって引き起こされた経済難民である。ゲジェコンドゥの存在そのものがトルコの恥部であり、観光客には見せたくない光景であろう。
政府も対策に乗り出し、1966年ゲジェコンドゥ法を制定し無許可住宅を許容する方向性を定めた。この法律によって代替住宅なしにゲジェコンドゥを撤去する事が出来なくなり、ますますゲジェコンドゥを増加させた。ベルマさん曰く、この法律も選挙対策として制定された法律で選挙になると土地を払い下げると甘言を弄し票を集めているとの事。