文明の十字路 トルコ紀行
絨緞屋
ツアーではお決まりのお買い物案内で絨緞の工場に案内された。その絨毯工場は半官半民の工場であった。工場では村の娘さん達に絨毯の織り方を教えている。
そして、研修を終えた娘さん達は自宅で絨毯を織り、織り上げた絨毯に織り手の名前を記したラベルを縫いつけてこの工場で販売してもらうシステムになっている。
従ってこの工場には研修用の織機しかなく、ここで販売している絨緞は家内工業で織り上げた全て手織りの絨緞である。
日本人の観光客が多いのか工場の説明者は流暢な日本語で絨緞の製造工程の説明が有った。そして、繭から糸を紡ぎ、細い糸を撚って太い糸にして、絨緞に織り上げるまでの工程を見学した。
まず最初は繭から糸を紡ぐ工程であった。ぐつぐつと煮えたぎる大鍋の中に繭を入れ、すばやく繭の糸口を探して糸を引き揚げ、何本か束ねて撚り機に掛ける方法は中国や日本のやり方と少しも変わりはなかった。
染め工程に行くと恰幅の良いおばさんが大鍋で染料にする干した植物を煮ていた。大鍋は7~8個有り鍋の後ろに干した植物が吊り下げられていた。
染色に使われているのは天然染料であった。赤は茜の根、青は藍、黄色はレモンの皮、「皇帝の黄色」と呼ばれるロイヤルカラーに染め上げるのは一輪の花にたった3本しかないサフランの雌しべ、オレンジはポプラの葉、柳の葉、緑はオリーブの葉、胡桃の実、茶は茶の葉、タバコの葉、等々であった。
煮えたぎる大鍋に束ねた糸を入れると薄く染め上がり、乾かしては又入れて薄い色から濃い色まで濃淡のある何種類もの糸を染めるそうである。壁には染め回数によって色の濃淡が解るように染め回数毎に束ねた染め糸を展示していた。手織りのトルコ絨緞はこのように草木染めの糸を使って織り上げる。
次の部屋に行くと壁に絨緞が掛けられ、台の上には巻かれた絨緞が所狭しと並べられていた。その部屋の奥に数台の織機が有り、多分十代と思える数人の若い娘さんが織機に向かって絨緞を織っていた。織っているのは実習生であった。後ろから見ていると振り向いてにっこりと微笑んだので写真を撮らせて頂いた。(トルコはイスラム教の国なので女性の写真を撮るには特に了解を得なければならない。)
織機は足踏み式であった。絨緞を織るのは方眼紙に書かれた図案を見ながら織機に掛けられた長い(経糸にスティック(杼)を使って(緯糸を通し、指で引き出した二本の経糸に紋様に合わせたパイル糸(毛足、起毛)を選んで結び(ノット)、毛足を整えるために余ったパイル糸の両端を切り取って平坦にする。パイル糸を結ぶ事によって紋様が描き出される。
こうしてパイル糸を一列結ぶと緯糸を通して筬打する。この一連の作業を根気よく繰り返すのである。(筬とは織機の付属具の一つで筬羽(糸目)の隙間に経糸を通し(経糸の密度を一定にし、織り幅を定める。)、杼で通された緯糸を筬で強く打ち込むことによって布の織り目を密にする為に用いる。)
パイル糸の結び方にシングルノットとダブルノットがある。シングルノットは一本の経糸にパイル糸を結んでいく、ダブルノットは二本の経糸にパイル糸を結んで織り上げる。ダブルノットはシングルノットに比べおよそ倍の織り日数が掛かる。
シングルノットは細かな模様を表現できる利点があり、世界的に有名なペルシャ絨緞や中国の段通はシングルノットで織られている。
一方、ダブルノットは耐久性に優れ、テントで暮らす遊牧民にとって耐久性が優先したのであろう、トルコの絨緞は歴史的にダブルノットで織られている。
この工場の説明者はトルコの絨緞はダブルノット織りなので丈夫で長持ち、耐久性に優れ百年は持つと話していた。
絨緞は遊牧民に欠かせない生活必需品であり4000年前から5000年前にはすでに織られていたと云われている。
現存する最古の絨緞は1949年、ロシアの考古学者が南シベリアのアルタイ山脈のバジリク渓谷で遊牧民の墓稜を発掘中に氷河の中から発見した絨緞である。(ロシアのエルミタージュ美術館にある。)
この絨緞は約2500年前に織られ、織り方はトルコ式のダブルノットで織られていた。絨緞の歴史はモンゴル高原で遊牧生活を送っていたトルコの方がペルシャより古いかも知れない。
絨緞の素材は経糸、緯糸にコットン(綿糸)かウール(羊毛)、紋様を織り出すパイル糸にシルク(絹)かウールが使われている。(駱駝の毛が使われる事もある。)
ウールは耐久性と色持ちに優れ、シルクは滑らかな感触と光沢による色の変化が楽しめるが日光による変色が難点である。絨緞の素材の選び方は使う場所によって選ぶのが賢明な絨緞の買い方だそうである。
世界的にも有名なヘレケ絨緞はイスタンブールの南東六十キロに有る小さな村ヘレケで織られている。ヘレケを有名にしたのは1843年、オスマン帝国のスルタン、アブドゥルメジド(1823~1861年)がヘレケを訪れた際、献納された絨緞に感動し、ヘレケに工場を作り宮廷のためだけに絨緞を織らせた。
そして、新宮殿として1842年から建設を始めていた豪壮なドルマバフチェ宮殿(1856年に完成した)をヘレケの絨緞で飾った事から有名になった。
訪れたカイセリも絨緞の産地で説明者はヘレケの絨緞は高価だがカイセリの絨緞も技術的にはヘレケに劣らないと自慢していた。
写真を撮らせてくれた彼女が絨緞を織るのを見ていると右手にナイフを持ち、パイル糸を素早く結んで余分な糸をナイフで切り取る、無造作に切っているように見えるがこれで毛足が整っている。彼女達はこうして一平方メートル当たり二十万ノット、つまり20万回パイル糸を結んでゆくのである、その手先の器用さと根気強さに感心させられた。
九十センチ幅ほどの織機で織っていたが一日に数センチしか織れず、大きな絨緞で色彩と図柄が複雑なものになると数年の歳月を要するものも有ると話していた。正にトルコの手織り絨緞は芸術品であり値段が高いのは当然かも知れない。
次の部屋に案内された。そこが即売場であった。飲み物は何を注文しても全て無料であった。メニューはチャイ、コーヒー、ジュース、イングリッシュ・ティー、ミネラルウォーター、カッパドキア・ワイン、ウイスキー、ビール、コーラ、ラクであった。
ラクはトルコの地酒で度数45度、日本で云えば焼酎である。別名ライオンのミルクと称され葡萄酒から蒸留した酒にセリ科の植物アニス(ケーキやクッキーに利用するスパイス ヨーロッパでは昔から薬として利用されてきた。)の実を入れ二~三ヶ月寝かせて熟成させた酒で無色、透明、水で割ると白く濁る酒である。
一度、飲んでみたいと思っていたので迷わずラクを注文した。ウエイターは日本語でラクを飲むと楽になりますよと冗談を云って、水を注いで飲めと教えてくれたが生で飲んでみた。飲むとウオッカ並みの度数が有り何とも云えぬスパイスの強い香りがした。
水を注ぐと白濁し、水で薄めたミルクの様になった。ライオンのミルクとは上手い命名の仕方だと感心した。トルコでは何か儀式が有るとこの酒を飲むそうであるが余り美味い酒とは感じなかった。
さて、絨緞屋の商売が始まった。再び良い絨緞とそうでない絨緞の違いを実物で説明を始めた。見ると良い絨緞は表裏共に同じ図柄が現れていた。
次に広げられたのはシルクの絨緞であった。光沢、手触り、角度によって色彩が変わり、図柄も繊細であった。240センチ×330センチ程の大きさが有り価額は数百万円であった。
次々にシルクの繊細な色柄を表現した絨緞、ウールの大胆な紋様を織り出した絨緞、全く染色せずに羊の毛色その物のアイボリーから茶の淡い色、濃い色を使い分けて織った絨緞(華やかさは無いが自然な色合いで非常に素晴らしかった。)、等々を次々に床に広げ、日本人は金持ちと思っているのか盛んに購買欲を誘った。どれも値段を聞くと数百万~数十万円もする品物ばかりであった。
確かに彼女達が一年も掛けて織り上げた手織りの絨緞であり、彼女達の年収を払うと考えれば安い買い物かも知れないがとても手の届く金額ではなかった。
売り子は流暢な日本語で床に広げた絨緞を必死に売り込んできた。彼女達の苦労を情に訴え、いかにトルコの絨緞が素晴らしいか、日本で買えば四~五倍の値段がすると盛んに売り込んできた。
流暢な日本語を話すので聞いて見ると殆ど東京に長期滞在した経験があった。売り込みの激しさに閉口した小生は日本の家屋の状況を説明し、日本ではカーペットとして利用することになる。この絨緞が譬え百年持つとしても日本では汚れたら数年で新しいカーペットに買い換える。カーペットなら数万円で買えるので当家にはこの様な高価な絨緞はいらないと答えると、それなら壁飾りは如何かと小さな絨緞を持ってきた。
トルコ土産に壁に飾るのも良いかなと思い値段を聞くと十万円との事。高くて買えないと答えると、七万、五万、三万と値下げをはじめた。それは猛烈な売り込みであった。
そして最後にいくらなら買うかと問われたので、これは値段が有って無いような物だと感じ一万円なら買うと答えると二万円まで値下げした。これでは半値、八掛け、五割引であり手織りかどうか疑わしいので結局買わなかった。ツアーの一行の中に五十万円もする絨緞を買った人が三人いたのには驚かされた。
日本に帰りインターネットでトルコ雑貨を調べてみると2万円まで値下げした同じサイズのカイセリの絨緞は40万円していた。買ったほうが良かったのか、しかし我が家には飾る場所もなく猫に小判であったかもしれない。