文明の十字路 トルコ紀行

カイマクルの地下都市

カイマクルの地下都市 文明の十字路トルコ紀行  カイマクル周辺の民家は洞窟に郷愁が有るのかレンガを積んだ家ではなく、近辺で切り出した凝灰石(ぎょうかいせき)を積み上げて造った家がほとんどであった。

 夏は猛暑、冬は極寒となるこの地方では石積みの家が最も快適との事。特に凝灰石は脱臭効果の高いゼオライトを多く含み防音、防湿に優れ、夏は涼しく冬暖かい建築資材である。(栃木県宇都宮市大谷町で採掘される大谷石も凝灰石である。大谷町の採掘跡は地下30メートル、野球場がすっぽりと入ってしまうほどの地下空間がありコンサートに利用されている。)

 バスを降りると降り積もった雪が固く凍り、道はアイスバーンになっていた。前方に岩山が有り、まさか此処に地下都市が有るとは考えられない何の変哲も無い岩山である。その岩山を掘り抜いて地下都市が作られている。

 この岩山の中に1万5千人(数千人とか数万人とか諸説有り)が暮らしていた地下都市があるとは誰も考えられなかったであろう。

 1960年代の始め春の長雨の影響か岩山が崩れて大きな洞窟の入り口が姿を現した。村人がランプをかざして中に入ったが余りに深くそれ以上踏み込まなかった。

 1965年、トルコの考古学者が政府の援助を得て調査に乗り出し想像を絶する巨大な地下都市を発見した。

 その後の調査でカッパドキアにはこの様な地下都市が推定400以上有ると云われ、その中でも、カイマクル、デリンクユ、オズコナークと呼ばれる三か所はカッパドキアを代表する地下都市である。そしてこれらの地下都市はトンネルで繋がっているのではないかと推定されている。

 しかし、不思議なことに10万人近い人々が暮らせる地下都市に生活の痕跡を思わせる壺、食器、調理器具、衣服、それに岩を掘る鉄器、運び出すロープ、籠、ネット等々の道具類はおろかゴミ等々の遺物が何一つ出土していない。それ故、何時頃、どのような民族、集団が何の目的で地下都市を建設したのか謎に包まれている。

 カイマクルの地下都市は1965年に発見され地下八階まで確認されている巨大な地下都市である。今も地下何層まであるのか調査が続いており観光客が入れるのは地下4階までである。

 作られた年代は謎に包まれているがヒッタイトによって作られ、その後、ローマ帝国の迫害を逃れてこの地に辿り着いたキリスト教徒が掘り進めて隠れ住んだと考えられている。

 最初に鉄を使用したヒッタイトは紀元前1680年頃アナトリアを支配して王国を築き、紀元前1190年頃謎の滅亡を遂げた王国である。

 凝灰石ぎょうかいせきの岩盤は柔らかく鉄器で穿(うが)てば容易に掘れる岩山ではあるがそれにしても人力の凄さに驚きを禁じ得ない。

 外は少し気温が上がったとは言えマイナス五度、滑って転びそうな凍りついた道を歩き地下都市の入口に向かった。朝が早かったのかオフシーズンの為か入場口はまだ閉まっていた。寒い中でしばらく待つと年配の係員が現れ洞窟の入口に有る鉄格子を開けてくれた。

 鉄格子の先に有る洞窟は穀物の貯蔵庫の様な何の変哲も無い小さな洞窟であった。この先にとほも無い地下都市が有るとは想像できないほど洞窟の入り口は小さかった。

 洞窟の中に入ると通路は背を屈めないと通れないほど狭く、背が高くて肥り気味の人はちょっと無理かも知れないほど狭い箇所もいくつかあった。

 狭い通路を下って行くと徐々に気温が上がってきた。地下一階(およそ地下5メートル)まで下るともうコートはいらないほどの暖かさであった。

 洞窟の中は迷路のように入り組み真っ暗な横穴があちこちに有った。住居部分になると通路の天上は高くなりおよそ2メートルほども有る。

 住居は通路に面して横穴が掘られ、やはり狭い入り口を入ると天井も高く広々とした空間であった。この様な住居が通路を挟んで両側に作られていた。

 通路は蟻の巣の様に無数に有り、それは地上の街並みを地下に移し、平面を立体にしたまさに地下都市である。

 教会が有り、学校が有り、広い食堂が有り、台所には井戸が有る。井戸は地下70メートルの水脈まで垂直に掘られている。覗いてみたが真っ暗で深さは想像も出来ない。

 台所にはまな板と思しき大きな平面の石が5個ほど有り、ガイドの説明では食材によって使い分けたのではないかと考えられているとの事。そして、粉を挽くための石臼、穀物の貯蔵庫もあった。壁にはランプを置く台が穿たれていた。

 この地下都市は下に降るほど時代が新しくなり、部屋の作りも広くて精巧に作られ、ベッドやテーブル、棚と設備も良くなっている。(もちろん石で造られている)

 そして、この地方は葡萄の産地でありカッパドキア・ワインは有名である。地下都市にもワイナリーが有った。それは平らな石を削って作られた深さ20センチほどの二段式のプールになっており、上のプールで葡萄を踏み潰すと果汁が下のプールに溜まる仕掛けになっている。こうして壷に入れワインを造ったのであろう。因みにワインの発祥地は古代ヒッタイトの時代にこの辺りのユルギュップで造られたと云われている。

 そしてこの地下都市には通路の下に下水道も完備されている。地下八階となるとおよそ40メートル通気はどうなっていたのか気になるが通気孔として地下50メートルから地上まで垂直の竪穴が掘られている。地下都市を拡張した時に出土する砂礫の運び出しもこの竪穴を利用したのであろう。

 排尿、排便は通路に掘られた穴で済ませ石板で蓋をすれば凝灰石の脱臭効果で臭くないそうである。そして、定期的に外に運び出した。狭さと暗闇を我慢すれば温度も湿度も一定に保たれる地下空間は快適な住居であったかも知れない。

 この地下都市に住んだのはローマ時代に迫害を逃れてきたキリスト教徒達であったと云われている。彼らはこの地に辿り着きヒッタイトが住居とした地下都市を見つけ避難場所とした。そして迫害に備え掘りやすい凝灰石の岩盤を何年も何年も掛かって掘り進み、通気と水と下水の問題を解決して地下都市を築いたのであろう。

 外敵(おおむね異教徒)がこの地に進入すると村人は一人残らずこの地下都市に逃げ込み、外敵が立ち去るまで長い時は数ヶ月間避難した。外敵に地下都市の入口を見つけられると狭い通路を塞いで進入を防いだ。

 地下都市には外敵の侵入を防いだ遺構として通路を塞ぐ巨大な丸い石臼の様な石があった。ころがすと通路を塞ぐ仕掛けになっており、そのほか落とし穴もあった。

 これらの遺構を見ると多分に地下都市は常時使用したのではなく危険が迫ると村人全員を収容できる避難場所として作られたのではないだろうか。しかし、出土品が無いのが不思議である。

 迷路の様な通路を歩き順路の最後は一気に地上に出る急な階段と上り坂であった。その出口の所に洞窟の入り口から付き纏っていた猫がいた。

 洞窟の入り口に数匹の猫がおり、教えられている訳ではないと思うが猫は観光客が洞窟に入るとその内の一匹が案内役の如く付き纏って先導する。時には突然姿を消していなくなり、ガイドの説明の場所に来ると再び我々の前に姿を現した。

 地下都市を知り尽くしているのか時には先回りして我々が現れるのを待っていた。何時の間にかいなくなったと思っていた猫が出口に向かう階段の下で我々を待っていた。そして我々が近づくと猫は出口に向かう階段の下で先導の役を果たし終えたかの如く我々をじっと見て姿を消した。


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