文明の十字路 トルコ紀行
十字軍
アナトリア全土を支配下に治めたルーム・セルジューク朝に1096年、第一次十字軍が押し寄せてきた。
事の発端はセルジューク朝にアナトリアを占領されたビザンツ帝国(東ローマ帝国)のアレクシオス一世が大義名分として異教徒のイスラム教国に奪われた聖地エルサレムの奪回をローマ教皇ウルバヌス二世(在位1088年~1099年)に訴えた。
アレクシオス一世の魂胆はイスラム教徒に奪われた古来からの領土である小アジア(アナトリア半島)の奪還であった。
要請を受けたウルバヌス二世はカトリック教会の覇権を東方正教会圏まで広げる好機と捉え、フランス東部のクレルモンで公会議を開き、集まった修道士やフランスの騎士たちに聖地エルサレムを奪回するためにイスラム教徒に対し聖戦を起こす事を提唱した。
教皇に賛同したフランス騎士団が中心となり、それに南伊のノルマン人が呼応して1096年、第一次十字軍(1096年~1099年)、クルセード(十字軍)が組織された。
十字軍は教皇ウルバヌス二世の名演説(記録は残っていない。)が功を奏し王侯、貴族、それに修道士、農民までもが兵士として参加し、騎兵4,000~5,000、歩兵15,000それに修道士や農民が加わり30,000~40,000の大軍団に膨れ上がった。
コンスタンティノーブルでビザンチン帝国軍と合流し、アナトリアに怒涛のごとく押し寄せた。
強襲されたルーム・セルジュークは敗退を繰り返し、十字軍の兵士は行く先々で戦利品として金品を奪い、略奪、暴行、殺戮の限りを尽くした。
こうしてアナトリア西方の領土を奪われたルーム・セルジューク朝はニケーア(イズニック)を捨てて内陸のコンヤに遷都した。
その後も十字軍は快進撃を続け、シリア・セルジュークも敗退し、1099年十字軍はエジプトのイスラム国家、ファーティマ朝(911年~1171年)が支配する聖地エルサレムを奪回した。
聖地エルサレムの奪回を提唱したローマ教皇ウルバヌス二世は奪回を知ることなく14日後にこの世を去った。
エルサレムを奪回した十字軍は見境もなく殺戮を繰り返し老若男女7万人のムスリム(イスラム教徒)を虐殺したと伝えられている。
そして、十字軍の騎士団は制圧した地を己が領土として領有し、長期に亘り聖地を防衛するとの大義名分を掲げて、エルサレム王国(1099年~1291年)、エデッサ伯国(トルコ南東部の街ウルファを首都とした。1098年~1144年)、アンティオキア公国(シリア北部の都市アンティオキアを首都とした。1098年~1268年)トリポリ伯国(レバノンのトリポリを首都とした。1102年~1187年)を樹立した。
この十字軍の遠征に従軍した貴族や兵士それに農民や修道士も異文化に触れ、格段に進歩したビザンチン文化、イスラム文化を知り、西欧は強い衝撃を受け東方へ眼を開かせた。そして、兵士が略奪して持ち帰った品々はヨーロッパ貴族に珍重され高値で買い取られた。
十字軍に席巻され領土を奪われたムスリムはジハード(聖戦)を掲げて十字軍国家に反攻を開始した。
マムルーク出身の武将ザンギー(1087年~1146年)は1144年、エデッサ伯国の領主ジョシュランの不在の隙をつきエデッサを包囲して陥落させ、ヨーロッパ人を虐殺した。ザンギーによるエデッサ伯国の陥落とヨーロッパ人の虐殺はヨーロッパを震撼とさせた。
危機感を募らせた教皇エウゲニウス三世(在位1145年~1153年)の呼び掛けで第二次十字軍(1147~1148年)が結成された。
第二次十字軍にはフランス王ルイ七世(1120年~1180年)、神聖ローマ帝国(962年~1806年、ドイツを中心とした国家連合体)皇帝コンラート三世(1093年~1152年)も自ら軍を率いて参加し、多くの従軍者が集まった。
しかし従軍者の多くは前回の遠征から帰還した兵士から十字軍の遠征は金になると聞き知って従軍した者が多く聖戦の意識も低く統制が取れていなかった。
フランス王ルイ七世と神聖ローマ帝国皇帝コンラート三世は別々に行動し、コンラート三世の軍は小アジアを行軍中にルームセルジューク朝軍に襲われほぼ全滅、ルイ七世の軍は海岸線を行軍したがルームセルジューク朝軍に襲われ大打撃を受けたがかろうじてエルサレムに到着した。
なんの成果も得ていない第二次十字軍は軍議を開きダマスカス(シリアの首都)を攻めたが反撃に遭い僅か四日で退却した。こうして第二次十字軍は失敗に終わった。
1187年、エジプトにイスラム国家のアイユーブ朝(1169年~1250年)を建国したサラディン(1137年~1193年)がシリアに領土を拡大し、エルサレム王国を滅ぼして九〇年ぶりにイスラム国家がエルサレムを奪回した。
教皇グレゴリウス八世(在位1187年~1187年)は聖地奪回の為に十字軍を呼びかけ、英国のリチャード一世(一一五七年~一一九九年)、フランスのフイリップ二世(1165年~1223年)、ドイツの神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ一世(1123年~1190年)が参加して第三次十字軍(1189年~1192年)が結成された。
1189年、第三次十字軍が再びルーム・セルジューク朝に押し寄せてきた。ルーム・セルジューク朝は国力も充実したクルチュアルスラン二世(1156年~1192年)の時であった。
十字軍と共に来襲したビザンチン帝国は聖地奪回よりもセルジュークに奪われた領土奪還が目的であった。十字軍はルーム・セルジューク朝の打倒を目指し首都のコンヤに向かった。
ルーム・セルジュークはデニズリ近郊で十字軍(ビザンチン帝国との連合軍)と対峙し、十字軍を撃破して逆にビザンチン帝国に奪われていたアナトリア西方の領土を奪還した。
第三次十字軍はコンヤを落とせなかったがアナトリアを東に進み、キリキアで川を渡ろうとして神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ一世が落馬し鎧を着用していたために溺死した。
英国のリチャード一世とフランスのフイリップ二世はエルサレムを目指したが、二人は元々敵対関係に有り別々にパレスチナに到着した。
フリードリヒ一世が率いていたドイツ軍を司令官であったオーストリア公レオポルト五世が率いてパレスチナに到着しフイリップ二世の傘下に入った。
そして、軍議を開きアイユーブ朝のサラディンに奪われたパレスチナのアッコンを攻める事とし、包囲して陥落させた。
この時、レオポルト五世が自身の旗を掲げたがリチャード一世はこの旗を引きずり下ろした。激怒したレオポルト五世は十字軍を離脱し帰国した。フランスのフイリップ二世も病気を理由に帰国した。
残った英国のリチャード一世はエルサレムを攻めたがサラディンの頑強な抵抗に遭い、軍勢は長期の戦争で疲弊し帰国を願う兵士の不満を抑えきれず、リチャード一世はサラディンと休戦協定を結びエルサレム奪回は失敗に終わった。
1198年、教皇インノケンティウス三世は聖地奪回を説き、全欧の王侯、貴族に第四次十字軍派遣の教書を送った。教皇の呼び掛けに応じたフランスの騎士団が中心となり翌年、第四次十字軍(1202年~1204年)が結成された。
しかし、遠征費用は自前で負担しなければならず遠征費用に窮したフランス騎士団の指揮官モンフェッラートはヴェネチアに戦利品を代償に軍団の輸送を持ち掛けた。
ヴェネチア総督エンリーコ・ダンドロは思惑も有り、聖地奪回の使命を帯びた十字軍を利用して、ヴェネチアに反旗を翻すダルマティア地方(クロアチアの沿岸部)を鎮圧する深慮遠謀な計画を巡らし自らも遠征に参加した。
ダンドロの思惑通り十字軍はザーラ(ダルマティア地方の都市)に寄港しようとしたがザーラはヴェネチアが加わった十字軍の寄港を拒否した。
ダンドロは聖戦の軍を受け入れないザーラはイスラムと同様であると指揮官モンフェッラートをけしかけ十字軍の名においてザーラを攻撃し攻め落とした。そして翌春、十字軍はコンスタンティノーブルに進軍した。
この頃、ビザンチン帝国では帝位を争う内紛が勃発していた。帝位を追われた前帝イサキオスの息子、アレクシオスは十字軍を利用して帝位に返り咲く事を画策した。
アレクシオスは密かに十字軍の指揮官モンフェッラートを訪ね、もし復位が叶えば遠征費用の負担と武器の提供、そして東西両教会に分裂した教会の統合に尽力すると共に、自らビザンチン帝国の軍を率いて聖地奪回に参加する事を約束した。
遠征費用に窮していた十字軍の指揮官モンフェッラートはダンドロの進言も有りアレクシオスの甘言に乗り支援する事に決した。
一方、アレクシオスの策謀を知ったビザンチン帝国の皇帝コンスタンティノス・ラスカリスと弟のテオドロス・ラスカリスは密かにコンスタンティノーブルを抜け出しニケーア(現在のトルコの都市イズニック)に逃れた。
こうして前帝のイサキオスが復位し、指揮官モンフェッラート候はアレクシオスに密約の履行を強硬に迫ったが、アレクシオスは何かと理由を付けて十字軍との約束をなかなか履行しなかった。
月日と共にアレクシオスが十字軍と交わした密約が漏れ、十字軍兵士の乱暴、狼藉に辟易していたコンスタンティノーブルの住民は怒りを爆発させて反乱を起こした。
武器を取って立ち上がった民衆は宮廷に乱入し、皇帝のイサキオスとアレクシオスを捕らえ皇帝の廃位を宣言して二人を殺害した。
オリエントを知り尽くしビザンチン帝国の弱体を知るダンドロはコンスタンティノーブルに拠点を築く好機と見て、指揮官モンフェッラート候にコンスタンティノーブルの制圧を進言した。
指揮官モンフェッラート候にとっても暴動鎮圧を理由にビザンチン帝国を奪う、願ってもない機会が到来し、コンスタンティノーブルを制圧する事に衆議一決した。
十字軍は事も有ろうに聖地奪回の使命を忘れ、コンスタンティノーブルを攻め数度の戦闘の末、陥落させた。
勝利した十字軍はビザンチン帝国を分け合い、ヴェネチアは黒海交易の重要拠点であるコンスタンティノーブルの大半とイオニア海沿岸の島々を手に入れ、十字軍の指揮官モンフェッラート候に与えられたクレタ島を買い取りエーゲ海の制海権を握った。
そして、ダンドロとフランス騎士団が話し合い、フランドル伯ボードゥアン一世を新皇帝に選び、ラテン帝国(1204年~1261年)を樹立した。
ローマ教皇もラテン帝国の樹立を認めざるを得ず、ラテン帝国にエルサレム奪回を要請したが実施されなかった。
この様な経緯で第四次十字軍はエルサレム奪還の使命を果たさず失敗に終わり、教皇インノケンティウス三世は再度十字軍の派遣を提唱したが翌年、失意の内に没した。
ニケーア(イズニック)に逃れたビザンチン帝国の皇帝コンスタンティノス・ラスカリスと弟のテオドロス・ラスカリスはニケーア帝国を建国し弟のテオドロス・ラスカリスが帝位に就いてラテン帝国に対抗した。
ニケーア帝国の五代目の皇帝ミカエル八世はヴェネチアに地中海の制海権を握られ交易に窮していたジェノヴァにコンスタンティノーブルの自由通行権、免税権、黒海への通行権等々の好餌を示して密約を結び、ジェノヴァにヴェネチア艦隊を襲撃させた。
ミカエル八世も軍を率いジェノヴァの攻撃に呼応してコンスタンティノーブルを攻め、1261年コンスタンティノーブルは陥落し、ラテン帝国は崩壊した。こうしてビザンチン帝国はミカエル八世の手によって復活を遂げた。
その後も聖地エルサレム奪回を大義名分に十字軍が結成され、第五次十字軍(1218年~1221年)から戦略を転換しエルサレムを領有するエジプトを直接攻めるようになったがいずれも撃退され、大規模な遠征は第八次(1270年)で終焉したが、その後も小規模な遠征が1464年まで続いた。
十字軍がエルサレムに向かう経路に位置していたルーム・セルジュークにとって十字軍との戦いはいわれなき侵略者との戦いであり、まさにジハードであった。
十字軍の遠征に翻弄されたルーム・セルジュークはスルタン・アラエッディン・ケイクバト一世(在位1220~1237年)の時代、ビザンチン帝国に支配されていたアナトリア西方の地を奪還し、モンゴルに追われたホラズム(モンゴル帝国に滅ぼされるまで中央アジアからイラン高原に至る広大な領域を支配した。)のアナトリア進入を断念させ、ルーム・セルジューク朝が最も繁栄した時代であった。
1237年、ケイクバト一世は軍を招集して新たな遠征に出発した途上、トルコの中央部に位置するカイセリの街で急逝した。毒殺との説も有り、いずれにしても国は混乱し、混乱に付け込むように1243年、モンゴル軍がアナトリアに来襲した。
ルーム・セルジューク朝のスルタン・カイホスロー二世(在位1237年~1246年)は自ら2万騎を率いて出陣し、現在のトルコ東部スイヴァス市の西方キョセ・ダグの地でモンゴル軍と会戦した。
ルーム・セルジューク朝は大敗しスルタン・カイホスロー二世は首都のコンヤに逃げ帰った。そしてモンゴルに臣従する事を誓い和睦した。
ルーム・セルジューク朝がモンゴルの属国となった頃から、急速に衰退して実力を失いアナトリア各地でルーム・セルジューク朝の部将が自立して君候国を建国し、アナトリアは群雄割拠の時代となった。それでもルーム・セルジューク朝は日本の天皇家のような存在となり、1308年まで命脈を保った。