文明の十字路 トルコ紀行

ルーム・セルジュークの首都コンヤ

 ベルマさんのトルコの歴史を聞いている内にバスは美しい湖が点在する湖水地帯を走っていた。それまでの景色は一木も生えていない広大な平原の連続であったが湖水地帯に来ると湖岸の向こうは鬱蒼とした森林であった。

 国道はエイルディール湖の南端を回って、湖に沿って北上し、半円を描くように南東に向かいしばらくするとトルコで三番目に大きな湖であるベイシェヒール湖に至った。

 ベイシェヒール湖は自然がそのままに残っており国立公園になっている。冬枯れの赤茶けた土を見続けてきた眼には久し振りに木々の緑を見たような感じがした。ベイシェヒール湖は大きな湖で湖水の景色をしばらく堪能した。

 ベイシェヒール湖からコンヤまでさほど時間はかからなかった。トルコでは平原の彼方にモスク(ジャミイ)の尖塔が見えると、そこには人家が有り、街があった。小さな集落にも必ずモスクがあった。

 コンヤに近付くとモスクの尖塔ではなく、まず目にしたのは広い土地のあちこちに建築中の高層ビルであった。

 コンヤは標高およそ1,100メートルの高地にあり人口およそ70万人、ツアーのパンフレットには「トルコの古都コンヤ観光」と記載されていたので歴史的建造物が数多く残っている街を想像していたが大都会であった。

 コンヤはトルコ最古の都市と云われている。それはコンヤから南に約100キロ、車でおよそ一時間半の所にチュムラという街がある。1951年この街の郊外、チャタルホユックの丘でアナトリア最古の約9,000年前までさかのぼる新石器時代の大集落の跡が発見された。

 発掘が行なわれ(現在も続いている)この集落に数千人の人々が暮らしていたと推測されている世界最古の巨大な都市遺跡である。

 発掘された品々から人々は農耕と畜産を営み、交易を行なっていたと考えられている。(発掘された黒曜石は五〇〇キロも離れたハサン山から産出された石であった。)出土品の多くはアンカラのアナトリア文明博物館かコンヤの考古学博物館に展示されている。

 コンヤの街は古くはイコニオンと呼ばれていた。ギリシャ神話ではペルセウスが怪物メドゥサの首を切り落とした場所として描かれている。又、ローマ時代には十二使途の一人、聖パウロが伝道の旅に出て、聖女テクラと邂逅かいこうした街でもある。

 コンヤが大きな街に発展したのは十字軍に敗退したルーム・セルジューク朝がニケーア(イズニク)を捨ててアナトリア内陸部に撤退しコンヤを首都とした事に始まる。コンヤはその後およそ200年間、ルーム・セルジューク朝の首都として栄えた。

 ルーム・セルジューク朝が最も栄えた時代にメヴラーナ・ジェラルディン・ルミはコンヤで神秘主義的なイスラム教の教えを説いた。

 メヴラーナは1207年アフガニスタンに生まれ、父は高名なイスラム学者であった。この頃中央アジアはモンゴルの脅威にさらされていた。

 メヴラーナの住む街にもモンゴル軍が押し寄せ、一家は故郷を追われ各地を転々としていた。1220年、父の名声を聞き知っていたルーム・セルジュークのスルタン、アラエッディン・ケイクバト一世は父をコンヤに招請した。

 ケイクバト一世の時代、ルーム・セルジュークは最も繁栄していた。一家が招請された1220年は現在も残るアラアッディン・モスクがコンヤ城内に起工された年である。

 こうして、メヴラーナはコンヤに住む事となった。父と父の友人達に教育を受け、彼らの教育と環境によってメヴラーナの人格が形成された。

 メヴラーナに転機が訪れたのはイスラム神秘主義(スーフィー)を信奉するシェムセッディン・テブリズィとの出会いであった。

 スーフィーとは「神に限りなく近付き、神と一体化する」事であった。メヴラーナは神と一体化するためには神をもっと知りたいと思った。そして、神が創造したものを神が創造したままの姿で認識したいと思った。

 メヴラーナが求めたのは神(アッラー)との合一であった。神との合一とは自他の区別が無く、忘我の境地に達し、自己も他者も融解した状態を体験する事であった。この様な状態を体験した者には神の恩顧によって超自然的な霊感が得られるとスーフィー教団は説いた。

 メヴラーナは自分が得た知識や思想(哲学)を多くの人々に伝えようと25,700もの詩を書き残し、1273年12月17日コンヤで逝去し、現在のメヴラーナ博物館(メヴラーナ霊廟)内の石棺に眠っている。

 彼の死後、使徒達によって教団が設立されメヴラーナの思想「この世に存在するものはすべて無限に回転する。」を音楽とダンスによって表現し「セマ」と呼ばれる旋回舞踏の儀式が行なわれるようになった。そして、教団は学校や修行場を各地に建て、メヴラーナの教えはイスラム世界全体に広がっていった。

 アタテュルクの改革の一つにイスラム学院(宗教教育の専門機関)の閉鎖とイスラム神秘主義(スーフィー)の禁止が行なわれた。

 メヴラーナ教団もイスラム神秘主義と見なされ1925年、解散を命じられて修行場は閉鎖され、1927年メヴラーナ霊廟は博物館として公開された。ツアーで鑑賞できる旋回舞踏も禁止されていたが1970年の緩和策によって再開された。

コンヤ、メヴラーナ博物館 文明の十字路トルコ紀行  メヴラーナ博物館は美しい緑色の尖塔が印象的なモスクであった。このモスクがかつてはメヴラーナ教団の総本山であった。

 メヴラーナはケイクバト一世から彼の父に贈られた土地に埋葬され霊廟が建てられた。そして、ルーム・セルジューク朝が滅びカラマン君候国(1327~1471年)の時代の1396年に緑色の尖塔を持つメヴラーナ霊廟が建てられた。

 持参したビニール袋に脱いだ靴を入れ、中に入ると最初の部屋はコーランを読む部屋との事、壁に掛けられた豪華な額縁には絵でもなく文字でもない不思議なものを描いた作品が額に収められていた。(帰国して調べてみるとカリグラフィーであった。カリグラフィーとは毛筆書道の外国版で、書道にも多くの書体が有る様に、アルファベットにも様々な書体が有り、特殊な筆を使って描いたのがカリグラフィーであった。メヴラーナ博物館で見たものはアラビア文字を装飾的に描いたカリグラフィーであった。)

 次の部屋はメヴラーナが眠る霊廟であった。入り口の扉は「銀の扉」との事。中に入ると霊廟とは思えないほど豪華絢爛、装飾が部屋中に施され、柱も壁も金箔が貼られ目映まばゆいほどであった。

 豪華な絨毯に覆われたメヴラーナの棺は緑色の尖塔の真下に置かれており、その奥に父の棺、そして教団の指導者の棺が並び、棺の総数は65との説明であった。

 メヴラーナ博物館はイスラム教徒にとって今も霊廟であり、見学者の大多数はトルコ人であった。女性は全て頭にスカーフを被り、メヴラーナの棺の部屋で敬虔な祈りを奉げていた。

 次の部屋は「セマ」を行なう広い空間が有り、中央が「セマ」のステージで一階が男性用、二階が女性用の観覧席があった。高い天井からワイヤーで鉄製の巨大な輪っかが吊り下げられ輪っかの上に数十個のランプが据え付けられていた。

 毎年メヴラーナの逝去した日に因み12月10日~17日までメヴラーナの追悼祭が行なわれている。今もこのランプに明かりを灯し聖堂の舞台で「セマ」と呼ばれる幻想的な旋回舞踏を行なっているのであろうか。

 次の部屋は巨大なシャンデリアが吊り下げられた豪華な部屋であった。元は礼拝所で今はメヴラーナに関する品々が展示されていた。展示品にメヴラーナの顎鬚あごひげを納めた立派な小箱があり、ガラスケースに収められていた。

 そして、旋回舞踏で使用した古い楽器の数々があり、楽器の中には日本の尺八に似た楽器もあった。展示品の一つに大きな珠を連ねた数珠があった。この数珠はコーラを何回読んだかを数える為に使ったそうである。

 展示品を見て出口に向かう所で教師に引率された大勢の子供達に出会った。子供達は我々を見てはしゃぎまわり数人の教師と思しき女性が子供達を制止していた。

コンヤ、メヴラーナ博物館-2 文明の十字路トルコ紀行 子供達の目はキラキラと輝き表情もしぐさにも純真さが溢れていた。思わずカメラを向けると子供達はいっせいにこちらを向きモデルになってくれた。

 外に出ると又、トルコの子供達がいた。先ほどの子供達より年長であったが目が合うとにっこりと微笑んだ顔が印象的であった。

 家内が手招きすると二人の少女が駆け寄ってきて家内と並んで写真を撮った。コンヤ、メヴラーナ博物館-3 文明の十字路トルコ紀行その様子を二人の少年がじっと見ていた。言葉は通じないが少年に向かって手招きするとにっこり微笑んで近付き家内と一緒に写真を撮った。

 次に向かったのはカラタイ神学校であった。カラタイ神学校は街の真ん中にこんもりと盛り上がった丘、アラアッディンの丘の北斜面にある。

 アラアッディンの丘はルーム・セルジュークの都城があった所である。都城の遺跡は何も残っておらず、丘の上には1223年に建てられたアラアッディン・ジャミイ(モスク)が有る。

 カラタイ神学校は1251年「コーラン」や「ハーディス」それにイスラム法を教える、現代の学校で云えば学者を養成する高等教育機関であった。イスラム世界では有名校の一つであった。学校を建てたのはルーム・セルジューク朝の宰相さいしょうジェラレッディン・カラタイである。

(ハーディスとはイスラム教の創始者、ムハンマド(マホメット)の言行げんこうに関する伝承集で、イスラム教徒はコーランと共にハーディスも思想、行動のかがみとした。)

 カラタイ神学校もイスラム学院の一つで有りアタテュルクの改革によって1925年に閉鎖され、1955年に陶器の博物館として公開された。

 マロニエの小径を歩き門に至った。門の正面には幾何学文様、植物文様の装飾が施され、裏には何やらアラビア文字と思しき文様が浮き彫りされていた。この文様は「コーラン」の一節や「ハーディス」の一説を浮き彫りにしているそうである。

 神学校の建物は三階建てほどの高さが有るが実は一階建てである。入り口の扉を開けて入ると広い廊下になっていた。廊下の中央の扉を開けて中に入るとそこは直径十二メートルも有るドームであった。

 ドームの壁は黒と紺のモザイクタイルで覆われ、天井が驚くほど高くドームを見上げると吸い込まれそうな美しいドームであった。

 ドームは円形になる過渡期の建物であろうか四隅からモザイク文様の三角形を組み合わせてせり上がり最上部の明り取りの窓の部分は八角形であった。

 ドームのタイルはかなり剥げ落ちていたが天窓から差し込む明かりを受けて青く輝いていた。このタイルにはトルコ石やコバルトが使われているそうである。

 往時、中央にはプールが有り、水が湛えられていた。学生達はプールの周りで水の流れる音を聞きながら瞑想に耽ったそうである。

 学生達の部屋が展示室となり、そこにはセルジューク朝、カラマン君候国、オスマン朝と年代順にタイル、陶器、ランプ等々が展示されていた。


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