文明の十字路 トルコ紀行

アナトリアに進出

 1063年、トゥグリル・ベグが没した。彼には家督を継ぐ息子がいなかったので甥のアルプ・アルスラーン(1029年~1072年)がスルタン位を継承した。

 アルプ・アルスラーンは翌年、積極的に外征を行い、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領土であったアルメニアに侵攻し、更にアナトリアに軍を進めた。

 侵攻するイスラムを撃退すべく1071年、ビザンツ帝国の皇帝ロマノス四世(在位1068年~1071年)は自ら六万の軍勢を率いて親征した。

 ロマノス四世ディオゲネスは元ビザンツ帝国の将軍であった。彼が皇帝になったのはコンスタンティノス十世ドゥーカス皇帝(在位1059年~1067年)の死去に伴い皇后のエウドキア・マクレンボリティサ(1021年~1096年)が女帝として即位したが、翌年ロマノスと結婚し彼を皇帝として即位させた。

 国民や貴族はイスラムの侵攻に悩まされ、ロマノス四世に強い軍事力を望んでいた。ロマノス四世は北方から侵攻して来たロシア人、ノルマン人と和睦し彼らを傭兵として雇い入れ軍備を増強させた。そして自ら軍を率いて親征した。

 戦場はトルコの東南ヴァン湖の北岸から50キロ北方にある城塞都市マラズギルトであった。迎え撃つアルプ・アルスラーン率いるセルジューク軍は15,000、対するロマノス四世の軍勢は60,000、絶対的に兵数の劣るセルジューク軍に不利な戦いであった。

 しかし、アルプ・アルスラーン率いるセルジューク軍の士気は高く、一方のビザンツ帝國軍は圧倒的な兵力を擁していたが所詮、傭兵軍団であった。戦いはビザンツ帝國軍が大敗したばかりか皇帝のロマノス四世が捕らえられ捕虜となった。

 この戦いを突破口にセルジューク軍はアナトリアの奥深くまで侵攻しビザンツ帝國の首都コンスタンティノーブル(イスタンブール)近くまで達した。こうしてセルジューク朝の領土となったアナトリアに大挙してトルコ人が進出した。

 セルジューク朝は中央アジアからイラン、イラク、シリア、アナトリアと広大な領土を有し、王族に封土を与えて統治を許した事からしだいに分裂していった。

 トゥグリル・ベグの兄弟カーヴルト・ベグはイラン東南部のケルマーン地方を領有し、ケルマーン・セルジューク朝(1048年~1187年)を建国した。

 第三代スルタン、マリク・シャーの弟、トゥトゥシュはエジプトを本拠地とするファーティマ朝の領土であったシリアを攻略してダマスカスに入りシリアを中心としたシリア・セルジューク朝(1085年~1117年)を建国した。

 セルジューク朝はイラクにも触手を延ばしマフムード二世がイラクを領有しイラクを中心としたイラク・セルジューク朝(1118年~1194年)を建国した。

 アナトリアを統治したのはトゥグリル・ベグの従兄弟に当たるスライマン・ブン・クトルムシュである。彼はマラズギルトの戦いの後、アナトリアの奥深く入り、コンスタンティノーブルに程近いニケーア(イズニク)を占領して、1077年、ルーム・セルジューク朝(1077年~1308年)の独立を宣言しニケーアを首都とした。ニケーアは紀元前2世紀頃、ローマ帝国の領土となった街である。今もローマ時代の遺跡が数多く残っている街でもある。こうして、アナトリア全土がトルコ人の領地となり多数のトルコ人が移住して来た。


次のページ 十字軍

前のページ セルジュークの建国


objectタグが対応していないブラウザです。