文明の十字路 トルコ紀行
セルジューク朝の建国
アナトリアにイスラム国家を建国したセルジューク一族はトルコ系の種族(テュルク)で現在のカザフスタンから南の砂漠地帯に定住する遊牧民であった。彼らはイスラムに改宗し族長に率いられてさらに南下し現在のウズベキスタン、タジキスタンに入り、マムルークとしてサーマーン朝(八七三年~九九九年)に仕えた。この頃サーマーン朝では騎射に優れたテュルク系の遊牧民をマムルークとして大々的に採用していた。
トルコ系の遊牧民(テュルク)は幼少の頃から乗馬に慣れ親しみ騎射に優れていたので幼少の頃に奴隷として買い入れて訓練し兵士とした。
元はこの奴隷身分の兵士の事をマムルークと呼んでいたが、次第にリーダーを中心とする軍団を傭兵として雇い入れ、この傭兵軍団もマムルークと呼んだ。トルコ系の遊牧民を傭兵として盛んに採用したのはアッバース朝(750年~1258年)の頃から始まった。
アッバース朝から自立したサーマーン朝もテュルク系の遊牧民と境を接していたので大々的にマムルークを採用し、セルジューク一族もマムルークとしてサーマーン朝に仕えていた。
サーマーン朝の滅亡によってセルジューク一族も分裂し一部はアフガニスタンのガズニ朝(962年~1186年)に仕えた。
残ったセルジュークの族長トゥグリル・ベグ(993年~1063年)は集団を率いてサーマーン朝を滅亡させたトルコ系国家のカラハン国(940年~1212年)に仕えたが次第にカラハン国と対立するようになった。
1035年、族長のトゥグリル・ベグは再び集団を率いてイラン北東部のニシャプールに入り、1038年、その地の支配者に迎えられた。この年がセルジューク朝建国の年とされている。
支配者となったトゥグリル・ベグはトゥルクマーン(遊牧生活を守りながらイスラムに改宗したテュルク)を呼び集め戦力を増強した。
そして、1040年、サーマーン朝から独立したガズニ朝と戦い現在のトルクメニスタンを支配下に治めた。
1042年には現在のウズベキスタン西部(ホラズム)を占領し、1050年にはイラン高原に転戦しエスファハーン(テヘランの南約340キロに位置するイランで三番目に大きい都市)を占領しイランの大部分を掌中にした。
1055年、トゥグリル・ベグはイラクを統治していたブワイフ朝を倒しバグダッドに入城した。そして、カリフの地位を継承し名目上の王朝として存続していたアッパース朝(750年~1258年)からスルタン(君主)の称号が授与され、イスラム世界において初めてスルタンが君主の称号となった。