文明の十字路 トルコ紀行

モンゴル高原から中央アジアへ

 840年にウイグル帝國(トルコ系の民族)が滅び部族はモンゴル高原から四散し、王族の一人アティ氏一派は中央アジアの東トルキスタン(現在の中国領新疆ウイグル自治区、トルキスタンとはトルコ系民族が居住する地域名称)方面に西走し、西ウイグル国を建国した。

 10世紀に入ると西ウイグル国にもイスラム教(注一)の波が押し寄せてきた。西ウイグル国の王族の一人、ベラサグン候の太子サトゥク・ブグラハンがイスラムに入信し家督を継ぐと家臣に入信を強要した。

 そして、940年、ブグラハンは当時仏教国であった西ウイグル国から離脱して、中央アジアにカラハン国(カラ汗国 940年~1212年)を興した。

 カラハン国は現在のキルギス共和国のトクマクを都とし国王以下、遊牧民に至るまでイスラム教に集団改宗した。この集団改宗によりトルコ人によるイスラム国家が誕生した。

 そして、カラハン国はジハード(聖戦)を掲げ、一族の西ウイグル国を併呑してイスラム化し、仏教国の于闐ホータン亀茲クチャ(現在の中国新疆ウイグル自治区)を征服した。

 カラハン国と境を接していたイスラム王朝(注二)のサーマーン朝(873年~999年)では権力闘争から弱体化が進み、サーマーン朝の領土であったアフガニスタンではマムルーク系(注三)の将軍アルプテギーンが自立しガズニ朝(962年~1186年)を開いた。

 カラハン国は弱体化したサーマーン朝に付け込み南下を開始し自立したガズニ朝と手を組み、999年にサーマーン朝を南北から挟撃して滅亡させ、カラハン国はウズベキスタンを領土に加えた。

 こうしてトルコ系の民族国家カラハン国は、東は現在の中国領新疆ウイグル自治区の西部から、西はウズベキスタンに至る広大な領域を支配しイスラム化した。

 後にこれらの領域がトルキスタン(トルコ系住民が住む地域で現在の中国領新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、カザフスタン、タジキスタン)と呼ばれている。


注一、イスラム教
イスラム教は612年頃、(推古天皇、聖徳太子の時代)創始者のムハンマド(570頃~632年 マホメット)が40歳の時、メッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていると天使のジブリール(キリスト教の天使ガブリエルの事)が現れ、そなたは唯一神アッラー(イスラム教では天地万物の創造主)の使徒であると告げた。(イスラム教ではアダム、ノア、アブラハム、モーゼ、イエスの次に現れた最後の預言者がムハンマドであると説いている。)
その後も神の使徒ムハンマドに次々と啓示が下され、ムハンマドは預言者として目覚めメッカでイスラムの教えを説き始めた。
しかし、メッカでは迫害を受け、622年、ムハンマドは母の故郷、メディナに移住(イスラム教では聖遷)した。
この年がイスラム暦(ヒジュラ暦)の始まりの年となっている。そしてムスリム(イスラム教徒)が増え、ムハンマドはイスラム共同体を組織した。
イスラム共同体は急速に勢力を拡大し631年にはアラビア半島を統一しイスラム国家を築いた。ムハンマドはメッカ(サウジアラビア)で生まれ、メディナ(サウジアラビア)で没した。
それ故メッカとメディナそれにムハンマドが昇天したとされるエルサレムがイスラム教の三大聖地である。

注二、イスラム王朝
イスラム教の創始者ムハンマド(神の使徒)の死後、イスラム共同体はイスラム教の指導者であり、かつ国家の指導者としてムハンマドの親友のアブー・バクルを後継者に選んだ。
選ばれた彼は「神の使徒の代理人」即ち、カリフと称した。その後、カリフの地位はムハンマドの血族であるウマイヤ朝、アッバース朝に世襲されたがイスラム教もスンナ派、シーハ派、等々に分派しカリフを推戴するのはスンナ派のみとなった。
カリフの地位を世襲していたアッバース朝も九世紀に入ると政治的指導力は衰退し日本の天皇家の様な存在になった。
そして自立して支配権を確立した将軍達はカリフの地位を世襲するアッバース朝の名目的な支配を認めて王朝を創始した。
この様な経緯からイスラム国家はXXX朝と呼ばれている。現在のイスラム世界ではカリフの称号は消滅している。

注三、マムルーク
奴隷身分出身の軍人で騎馬民族の少年を幼少の頃に購入し乗馬、弓射、槍術などを徹底して訓練した騎兵のエリート軍人。後にリーダーを中心とする軍団を傭兵として雇い入れ、この傭兵軍団もマムルークと呼んだ。


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