文明の十字路 トルコ紀行
トルコ系諸民族(テュルク)の勃興
トルコ人は古くはトルコから遠く離れたバイカル湖の南方で遊牧民として暮らしていた。史記の匈奴列伝に記されている丁零がトルコ系の民族(テュルク)ではないかと云われている。
匈奴とは北方諸民族の総称で複合的な民族の連合体であったと考えられている。トルコ系民族の丁零も匈奴と同時代であり連合体に属していたのであろう。
匈奴は古くは周の時代から中国の北方を侵していた。春秋戦国時代(紀元前770~前221年)、燕、韓、魏、趙、斉、秦、楚の七雄が覇を競っていた頃、北方の匈奴と境を接していたのは燕、趙、秦の三国であった。三国はしばしば匈奴の侵略に悩まされ共に長城を築いて匈奴を防いだ。
紀元前221年に再び中国を統一した秦の始皇帝は蒙恬に30万の兵を授け匈奴を北に追い返し、燕、趙、が築いた長城を繋ぎ合わせて、西は臨洮(甘粛省)を起点として、東は遼東に至る 万里の長城を築いた。
秦を滅ぼして中国を統一した漢も匈奴の侵入に悩まされ、漢は毎年、匈奴に一定数量の秫(もちあわ)、麹、金、帛(絹)、絮(綿)その他を贈る事と漢の公主の入嫁を条件に和平した。
漢の六代皇帝武帝の時、皇帝は対外政策を改め守りから攻めに転じ、衛青、霍去病を登用して匈奴討伐に向わせ、匈奴を北方に追いやった。匈奴はこの頃から衰退し内紛が起こり分裂した。
匈奴が衰退した3~4世紀ごろ丁零は南下して高車丁零を建国した。高車丁零は6世紀前半に滅んだが同じ頃にトルコ系の種族テュルクの音訳と思われる突蕨が台頭し6~7世紀頃、東は中国の北方から西はカスピ海に至る大帝国を築いた。
しかし、遊牧諸民族の集団であった突蕨は巨大になりすぎ内部分裂を起こして東西に分裂した。東突蕨は隋に朝貢したが隋の支配が弱まると再び力を増し、唐に変わると唐を圧迫し六二七年、突蕨は唐に攻め入り長安の近く渭水にまで迫った。二年後、トルコ系の種族、鉄勒が叛き突蕨は唐軍と鉄勒の挟撃に遭い衰退していった。
突蕨に変わって鉄勒の一部族ウイグル族が台頭し七四四年、突蕨を滅ぼして漢北のモンゴル高原にウイグル帝国を築いた。唐はウイグルとの対決を避け初代可汗(カガン又はハーン)、キョル・ビルゲに壊仁可汗という称号を与えて懐柔しウイグルの求めに応じて公主(皇室の女性)を降嫁させた。
840年、ウイグルで大規模な内乱が発生した。ウイグル族は九姓鉄勒と称し九つの部族の連合体であった。内乱の最中、キルギス(トルコ系部族)の大軍に攻められ帝国は崩壊し、ウイグル勢力の一部は中央アジアに移住した。