文明の十字路 トルコ紀行

トルコ人はどこから来たのか?

 セルジューク・トルコ以前のアナトリア

 景色も変わらずコンヤまでたっぷり時間が有り、ガイドのベルマさんがトルコの歴史について語り始めた。それはトルコ人がどこから来たかを語るための歴史であった。

 アナトリアはエジプト、ギリシャと並ぶ古い歴史を有する地域である。紀元前5000年前の青銅器文明の遺跡も出土している。

 そして、トロイの遺跡から紀元前3000年~2500年前にエーゲ海沿岸のトロイやエフェソスにギリシャ人の都市国家が形成され、中央アナトリアには紀元前2000年頃黒海の北方から移住してきたヒッタイト人が小国家を形成していた。

 紀元前1680年頃、中央アナトリアでは小国家を統合してヒッタイト帝国(紀元前1680~紀元前1190年)が建国された。

 中国の歴史では湯王が夏王朝(紀元前2070頃~紀元前1600年頃)を滅ぼし殷(商)王朝(紀元前1600年頃~1046年)を樹立した時代である。

 最盛期のヒッタイト帝国は当時のエジプトと並んで世界の二大強国であった。ヒッタイトは人類史上始めて鉄器を使った民族として有名である。このヒッタイトも紀元前1190年頃謎の滅亡を遂げている。

 紀元前1200年頃からアナトリアに移住してきたのがフリュギア人(現在のブルガリアに住んでいた民族)、ウラルトゥ人(アルメニア人)であった。

 ヒッタイトが滅亡して紀元前1100年頃フリュギア人が中央アナトリアにフリュギア王国(紀元前1200年~695年頃)を興した。

 アナトリアの東部に移住してきたウラルトゥ人はウラルトゥ王国(紀元前900年~585年頃)を建国し、アナトリアの西部には先住民族のリディア人がリディア王国(紀元前670年~546年頃)を建国し紀元前620年頃フリュギア王国を併呑した。リディア王国は世界最古の貨幣を鋳造した国である。紀元前五八五年頃ウラルトゥ王国もスキタイ人(イラン系遊牧騎馬民族)に滅ぼされ領土はメディア王国(紀元前715年頃~550年頃)の支配下となった。

 紀元前550年、メディア王国の属国であったアケメネス朝ペルシャ帝国(紀元前550~330年)がメディア王国を滅ぼしてアナトリアに侵攻し紀元前546年、リディア王国を滅ぼしアナトリア全土を征服した。

 紀元前334年、ギリシャの北方にあったマケドニアのアレクサンドロス(通称アレクサンダー大王、前356~前323年)がマケドニアとギリシャの兵4万を率いて東方遠征に出発し、ダーダネル海峡を渡りペルシャ帝国の領土アナトリアに攻め入った。そして、アナトリアを横断しペルシャ帝国のメソポタミアに進攻した。

 ペルシャ帝国の王ダレイオス三世は10万の兵を率いてガウガメラに布陣した。対するアレクサンドロス軍は4万、兵力は圧倒的にペルシャ軍が勝っていたが、紀元前331年、アルベラの戦で騎兵を駆使したアレクサンドロスに敗れペルシャ帝国のアケメネス朝は滅んだ。

 アレクサンドロスはその後も東方遠征を続け、紀元前326年にはインダス川を渡りインドに攻め入った。

 凱旋帰国したアレクサンドロスはペルシャ帝国の後継者としてバビロン(イラクのバグダード南方90キロに有った古代都市)に留まったが紀元前323年に急死した。

 アレクサンドロスの死後、将軍達が自立してアナトリアは小国家に分裂したがアナトリアの東部で独立したペルガモン王国(注一)が小国家を駆逐しアナトリアの大部分を領土とした。

 紀元前133年、ペルガモン王国最後の王アッタロス三世の遺言によりペルガモン王国はローマに譲り渡されアナトリアはローマの支配下となった。

 西暦395年、ローマ帝国は東西に分裂し、アナトリアは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の領土となった。

 この様にトルコの古代遺跡はヒッタイト、 ペルシャ、ギリシャ、ローマの遺跡であり、アナトリアにトルコ人が現れるのはもっと後の事である。


注一 ペルガモン王国の遺跡は1878年、ドイツの遺跡調査団によって発掘が開始され、出土した大理石の円柱や彫像等々の多くの出土品はベルリンに持ち帰った。ベルリンのペルガモン博物館に復元した「ゼウスの大祭壇」と多くの彫像が展示されている。


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