文明の十字路 トルコ紀行

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881~1938年)

文明の十字路 トルコ紀行、アタテュルク  ガリポリの街が近付いた頃、ガイドのベルマさんが「この辺りは第一次世界大戦(1914~1918年)の時の激戦地であった。丘のあちこちに祖国を守った戦士を慰霊するモニュメントが立ち並んでいる。」と話された。

 第一次世界大戦は1914年6月28日、セルビアの民族主義者がオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク家による君主制)の皇太子夫妻を暗殺する事件(サラエボ事件)を切っ掛けに勃発した。オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告しドイツ帝国がオーストリアを支援した。

 ロシア帝国はセルビアを支援し、ドイツ帝国の暴走を恐れたフランス、イギリスはロシアと三国協商(連合国)を結びドイツに宣戦布告した。こうしてヨーロッパを中心に30ヶ国以上が参戦した世界規模の戦争に発展した。(後に日本、イタリア、アメリカも連合国側に立ち参戦した。)

 オスマン帝国は1877年にロシア帝国との戦争に敗れアルメニア等の領土の割譲と多額の賠償金を課されロシアの南下(地中海への通路であるマルマラ海の制海権の獲得)に悩まされていた。この戦争はロシアの南下を阻止し奪われた領土を奪還する好機と見てドイツに味方し参戦した。

 1915年、ロシア帝国はコーカサス地方でオスマン軍の猛烈な反撃に遭い連合国に支援を求めた。イギリス等の連合国はオスマン帝国の首都イスタンブールを占領出来ればボスポラス海峡を通じて黒海でロシア軍と連絡が可能になると考え海軍力でダーダネル海峡侵攻作戦が行なわれた。しかし、作戦はオスマン軍が敷設した機雷に阻まれて失敗し連合国はガリポリ半島上陸作戦に切り替えた。

 1915年4月、連合国はガリポリ半島上陸作戦を開始したがオスマン軍は上陸予想地点に兵力を増強し、堅固な陣地を構築して待ち構えていた。連合国は半島の先端へレス岬に上陸し橋頭堡を築いたが当時大佐であったムスタファ・ケマル(アタテュルク)率いるオスマン軍の猛烈な抵抗に遭い多大な犠牲を払って上陸作戦は失敗に終わった。

 この戦いでムスタファ・ケマルは救国の英雄として名声を獲得し、軍功により准将に昇進しパシャの称号(オスマン帝国の高官(将軍とか大臣)に授けられた称号。)を授けられた。そしてこの戦いで戦死した兵士の栄誉に報いガリポリの丘に多数の彫像が立てられた。

 しかし、オスマン帝国はガリポリの勝利以外は各地で敗北を重ね、1918年、降伏してセーヴル条約を結び連合国による占領政策が始まった。この条約によってオスマン帝国はヨーロッパ側の領土の大部分を失い、さらに油田地帯のメソポタミア(イラク)、パレスチナはイギリスの委任統治領となり、シリアはフランスの委任統治領となった。

 残ったアナトリア(小アジア、現在のトルコ共和国の領土)もイギリス、フランス、イタリア、ギリシャによって各方面ごとに分割占領された。

 さらに治外法権、連合国による財政管理、軍備の制限などを認める屈辱的な内容だったが帝国政府は王朝の保身に走り連合国の意に沿って唯々諾々いいだくだくとして従った。

 1919年、ギリシャはギリシャ人の居住地帯を自国領に拡大する好機と捉え、連合国の同意を得てアナトリア西南部に上陸し、ギリシャ人が多く住むイズミールを中心とするエーゲ海沿岸一帯を占領した。東部アナトリアではアルメニア共和国軍が侵攻していた。

 こうした状況下、アナトリア各地で占領に反対する抵抗運動が起こり黒海沿岸のサムスン(サムスン県の県都)でギリシャ系武装組織とトルコの民衆の間で武力衝突が起こった。連合国は混乱の解消を迫り、オスマン帝国政府は衝突を収束させるため少将に昇進していた大戦の英雄ムスタファ・ケマル・パシャを第九軍監察官に任命した。

 帝国政府は軍が抵抗運動に加担する事を最も恐れていた。軍を説得出来るのは大戦の英雄ムスタファ・ケマルしかいないと考え、帝国政府は抵抗運動の激しい東部アナトリアにムスタファ・ケマルを派遣し説得に当たらせた。しかし、要請を受けたムスタファ・ケマルは帝国の崩壊を感じ取っており抵抗運動に加わる事をひそかに決意していた。

 1919年5月19日(この日をトルコ祖国解放戦争開始の記念日(アタテュルク記念日)としている。)、ムスタファ・ケマルは海路アナトリア北部黒海沿岸の港町サムスンに上陸し帝国政府の意に反して抵抗運動の指導者となった。そして、各地に分散していた帝国軍の司令官や活動家を集め、占領に反対する抵抗運動を開始した。

 1920年4月23日(独立記念日)、ムスタファ・ケマルはアンカラで第一回大国民会議を開き、議長に選ばれてカリフ制(全イスラム信者の指導者でスルタンがカリフであった。)を廃止して臨時政府を樹立し、セーヴル条約を否認して独立戦争を起こした。

 そして、アンカラの国民政府は東部アナトリアに侵攻していたアルメニア共和国軍を撃退して東部アナトリアで支配地域を拡大した。

 1921年7月、ギリシャは10万の大軍を進発し、アナトリア中央部のアンカラ目指して侵攻しアンカラの西部の要衝エスキシェヒルを占領してアンカラに迫った。

 非常事態に直面した議会は全軍の指揮権をムスタファ・ケマルに委ねた。ムスタファ・ケマル率いる国民政府軍の兵力はギリシャ軍の半分にも満たなかったがサカリヤ川の戦いでギリシャ軍を敗走させた。(8月30日を勝利の日として祝日にしている。)

 そして、ムスタファ・ケマルは「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ」と命じてギリシャ軍を追撃し1922年9月、ムスタファ・ケマル率いる国民政府軍は西南アナトリアの拠点都市でありトルコ第二の都市であるイズミールを奪回しアナトリアからギリシャ軍を駆逐した。

 こうしてアンカラ国民政府の実力を連合国に認めさせ、1922年10月スイスのローザンヌにおいて連合国と講和会議が開かれる事となった。

 連合国はこの会議にアンカラ国民政府とオスマン帝国政府を招聘したがムスタファ・ケマルはトルコ国家の一元化をはかり11月1日に大国民議会を開きスルタン制廃止を決議させた。こうしてオスマン朝第三七代皇帝、メフメト六世はマルタ島に亡命し600年以上続いたオスマン帝国(1299~1922年)はついに滅亡した。

 1923年7月、この会議においてセーヴル条約を破棄し新たにローザンヌ条約を結んだ。この条約によってトルコ帝国の往時の領土は一気に縮小したがイスタンブール周辺、イズミール、東トラキアなどを回復し、治外法権や軍備制限を撤廃させて完全に独立を回復した。

 そして、この会議でギリシャとトルコの間で住民交換協定が結ばれギリシャ正教徒はギリシャ人と看做して100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、イスラム教徒はトルコ人と看做して50万人のイスラム教徒がギリシャからトルコへ強制移住を余儀なくされた。

 1923年10月29日(トルコ共和国宣言記念日)、アンカラ国民政府はイスラム国の中で始めて共和制を取り入れトルコ共和国の成立を宣言し、ムスタファ・ケマルを初代大統領に指名した。

 ムスタファ・ケマルは大統領に就任するとオスマン帝国の消滅まで約850年間続いたイスラム国家を根底から覆す脱イスラム国家主義を一気に推し進めた。

 それはスルタンやカリフによって支配された時代錯誤の帝国主義ではなく国民のための独立国家を築き上げる事であった。

 ムスタファ・ケマルが共和国宣言をした時、「新しいトルコ共和国は人民の国であり、人民によって作られる国である。」と演説した。

 1924年4月20日、「トルコ共和国憲法」を発布し、前文に「主権は無制限かつ無条件にトルコ国民に帰属する。」と記した。そして、最大の改革は三権の分立と政教分離、信仰の自由であった。

 宗教は個人の倫理であり、イスラム教徒もキリスト教徒もユダヤ教徒も全ての国民は自由な思想の下に生活できる宗教の自由と非宗教的社会を実現させた。

 憲法からイスラム教を国教と定める条文を削除し、スルタン制(皇帝)、カリフ制(全イスラム信者の指導者)と戒律管理局を廃止し、シャーリア法廷(イスラムとして生きる為に定められた民事、刑事法等の法律規範から生き方の全てを規制し規定するイスラム法に基づく法廷)を廃止し、新たにスイスに範をとった民法、イタリアに範をとった刑法、ドイツに範をとった商法を施行し、宗教色を排除した裁判所を設立した。(1924年に発布した憲法第二条には「トルコ共和国の国教はイスラム教である。」と定めていたが1928年に憲法を改正してこの条項を削除し完全な政教分離を実現した。そして、第四条で第一条(国家の形態)、第二条(共和国の性質)、第三条(公用語、国旗、国歌、首都等の国家の全体性)は改正することも、改正を提案することも出来ないと定めた。)

 1925年11月には政教分離を徹底すべく地方に根を張るイスラム神秘教団を解散させ修行場を閉鎖させた。旋回舞踏で有名なメヴラーナ教団もこの時解散を命じられた。

 そして、ムスタファ・ケマルは近代化を推し進める改革にはイスラムの呪縛を解き放つ意識改革が必要と考え、聖典コーランの規制に従い数百年に亘り着用していた男子のトルコ帽、ターバンを禁止し、婦人のチャドル(スカーフ)も禁止した。

 ムスタファ・ケマルは明治維新に倣い国内改革を断行したとも云われており、明治天皇を崇拝し、陛下のポートレートを書斎の机に飾っていたという有名な逸話がある。

 トルコ帽の禁止も明治天皇が近代化の象徴として自らまげを切り落とした事から明治4年に発令された断髪令と同様の理由であろうか。

 教育制度についても大きな改革が行なわれた。それまでの宗教学校制度を廃止し教育統一法を施行して全ての教育機関および教育業務は、国家教育省に統合した。

 そして国家教育省はトルコ語の表記をアラビア文字からラテン文字(ラテン・アルファベット)に改める文字改革を断行した。この改革によって識字率が高まりトルコの近代化における重要な偉業とされている。

 そして婦人解放政策として一夫多妻制の廃止と婚姻、離婚や遺産相続についても男女平等の権利を認め女性の権利改善が行われた。1934年には女性の参政権を認めた。

 因みに日本が女性の参政権を認めたのは終戦の年の1945年、ドイツは1918年、米国は1920年、英国は1928年、スペインは1931年、フランス、イタリアは1945年、韓国は1948年、アラブ諸国のエジプトは1956年、イランは1963年、イラクは1964年である。サウジアラビアでは現在も女性の参政権は認められず、女性が車を運転する事も禁じられている。1934年、ムスタファ・ケマルは西欧諸国に倣って創姓法を施行し国民全員が姓を持つように義務づけた。この法律を機に大国民会議はムスタファ・ケマルにアタテュルク(父なるトルコ人)の姓を贈った。

 ケマル・アタテュルクはイスラムの戒律に縛られていた国民を解放し、現在のトルコ共和国の基本路線を敷いた建国の父として死後も現在に至るまでトルコ国民の深い敬愛を受けている。

 因みに、イスタンブールの空港は彼にちなんでアタテュルク空港と名付けられ、エルズムにはアタテュルク大学が有り、トルコの通貨、トルコリラは最小貨幣5千リラから最大紙幣2千万リラまで全てアタテュルクの肖像が刻印、印刷されている。(トルコは2005年1月1日に100万分の一のデノミを行った。2千万トルコリラは20新トルコリラになった。)


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