文明の十字路 トルコ紀行

エフェソスの遺跡

 例によってなかなか読み取ってくれない入場券を何度も読み取らせて入場すると、そこはイタリアのポンペイの遺跡と同様に石畳の道が続き、石柱が林立する古代ローマの遺跡であった。

 ヴァリウスの浴場

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 石畳を歩いて最初に案内されたのが1926年に発掘されたヴァリウスの浴場であった。当時、この浴場はローマ様式の浴場に倣いオンドル式の床下暖房の設備が有り、脱衣場、冷浴室、微温浴室、高温浴室の設備が有ったそうである。

 バシリカ

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 少し歩くと円柱が二列に並ぶ細長い一画があった。そこはバシリカ(長方形の聖堂)と呼ばれローマ時代、商取引や両替、金融の中心だった。

 オデオン

 バシリカの近くにオデオンと呼ばれる小劇場があった。小劇場と云っても下段に13列、上段に10列並び、1500人収容出来たとの事。

 プリタリオン

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 プリタリオン(市役所)はエフェソスの市政と宗教を統括する重要な建物であった。この建物の中央の大ホールには女神ヘスタに捧げる聖火が何時も燃えていた。聖火が消えた時がエフェソスの最後と信じられ実際600年間も聖火が燃え続けたと伝えられている。

 プリタリオンは1956年に発掘され、この建物は紀元前一世紀に建築が開始され、3世紀頃まで増築が繰り返されたと推測されている。

 メミウスの碑

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 緩やかな石畳の坂を下ると、有翼の勝利の女神ニケ(世界的スポーツ用品メーカ「ナイキ」は女神ニケ(NIKE)の英語読み。アテネ・オリンピックのメダルの表側に採用されたのが勝利の女神ニケの像である。以後のオリンピックメダルにはこの図柄が採用される。)を浮き彫りにした大きな大理石が目に付いた。

 メミウスの碑はローマから派遣された独裁官スラの孫メミウスが一世紀頃に建てた記念碑で裏手は泉になっている。

 ポリオの泉

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 西暦97年にC・S・ポリオと云う名の富豪が市民のために建設した泉で、前面に大きな水槽を備え泉水殿と共に十分な水を供給する記念碑的な設備であった。

 クレテス通り

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 我々が歩いている石畳の道はクレテス通りと呼ばれ、エフェソスのメインストリートである。この通りに面して公共施設が配され、通りの両側には商店が立ち並び、エフェソスの名士の大理石像が飾られた華やかな道であった。

 道の中央には街灯用の穴があけられ、夜はこの穴に松明を差し込んで街灯としたのであろうか。通りの突き当たりにケルススの図書館がある。

 トラヤヌスの泉

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 二世紀に建設されたこの二階建て、高さ12メールの泉水殿はローマ帝国皇帝トラヤヌス(53~117年)に捧げられた。トラヤヌス皇帝は五賢帝の二人目で、ダキア(現ルーマニア)を征服し、治世中にローマ帝国の領土は最大に達し、東はメソポタミア、西はイベリア半島やブリテン島の一部、南はエジプト、北は現在のルーマニアやハンガリーに及んだ。

 エフェソスの市民も偉大な皇帝に敬意を払い、トラヤヌスの巨大な像が中央に立ち、その足元から水が流れ出て、前面の水槽に貯める泉を捧げた。今は中央にトラヤヌスの足の一部だけ残っている。

 ハドリアヌス神殿

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 トラヤヌス皇帝の後を継いだのがハドリアヌス皇帝(76~138年)である。ハドリアヌス皇帝は治世中にローマ帝国全域を巡行した。ローマ帝国アジア州の重要な都市であるエフェソスを訪れたのであろう、この神殿は規模が小さく2世紀に市民が建設したと推測されている。

 スコラスティカの浴場

 この公衆浴場は三階建てで1千人収容出来る規模が有り、休憩室、図書室、スポーツサロンも付属していたと推測されている。ここも、ローマ浴場の様式どおり、脱衣室、プールを備えた冷浴室、温浴室は大理石の浴槽である。そしてサウナであろう熱浴室があった。

 公衆トイレ

 公衆浴場の裏手に大理石板に丸い穴を開けた公衆トイレがあった。U字形に穴は50人分有り、間仕切りもなく開放的なトイレである。衛生面では現代と変わりなく水洗であった。公衆浴場からの排水が絶えず流れ込み清潔を保っていた。トイレの座席の前には小さな水路が有り、きれいな水が流れ人々は用をたした後、この水で清めていた。この様に古代エフェソスの街は上水道、下水道を完備した街であった。

 娼婦の館

 イタリアのポンペイの遺跡にも有ったが、エフェソスの街にも同じように娼婦の館があった。通りの敷石にもこの娼館への道標となる落書きが残っている。そこには女性の顔とハートそして「私についてきて」の文字と矢印が刻まれていた。

 ケルススの図書館

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 ケルススの図書館はローマの執政官であったティベリウス・ジュリウス・ケルススが114年に70歳で亡くなり、息子のティベリウス・アクイラが父の墓の上に記念図書館の建設を始めた。彼の死後も建設は続けられ125年頃ようやく完成した。図書館の地下にケルススの大理石の棺が今も残っている。

 ケルススの図書館はエフェソスの遺跡のシンボルとも云える白大理石のまさに壮麗な建物である。二階建ての華麗なファサード(正面の装飾)は現代の図書館や美術館が真似た円柱が建ち並び、一階の壁面の窪みには高潔の女神アテナ、聡明の女神エンノイア、学識の女神エピスティム、智恵の女神ソフィアを象徴する四体の女神が安置されている。

 ケルススの図書館には最盛期、一万二千巻の書物を蔵し、古代の世界三大図書館の一つに数えられている。(古代の世界三大図書館 エジプトのアレキサンドリア図書館、トルコ・ベルガマのベルガモン図書館、エフェソスのケルスス図書館)

 この図書館は265年、ゴート族の侵略により破壊、炎上した。1904年に発掘され、1970~1978年にかけて正面の壁面だけが復元され、かつての華麗なオリジナルに近い姿が再現された。

 大理石通り

 ケルススの図書館から大劇場に至る道は美しい大理石で舗装されていた。道は多数の馬車が行き交っていたのか道の両側は歩行者のために一段高い歩道が造られていた。この通りの左にアゴラと呼ばれるエフェソス最大の市場があった。市場の跡は正方形の広大な中庭を中心に、回廊が取り巻きたくさんの店舗や工房が店を構えていた。

 大劇場

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 大劇場はトラヤヌス皇帝の時代に完成した。大劇場は丘の斜面を利用して半円形に造られており、半円の要がステージになっている。観客席の高さは38メートル、直径158メートル半月形、客席は24,500人収容可能で、今もオペラに使用されている現役の劇場である。

 客席は22段毎に踊り場で区切られ全体は三階建てになっている。6つの大きな門が造られ、観客は6ヶ所から入れるようになっている。大劇場には屋根が無かったので雨水の排水路が設けられている。客席に相当する四角い石にも様々な彫刻が施されていた。

 ローマ帝国時代、この劇場でも剣闘士と野獣の戦いが人気を呼んだのか、観客の安全のため高い壁を巡らしている。 

 大劇場に隣接して役者や剣闘士の稽古や訓練に使われた大きな体育館があった。体育館には30×70メートルの道場が有り、列柱の回廊で囲まれ、浴室、学習室、図書館が隣接していたと推測されている。

 又、大劇場の規模からエフェソスの最盛期には人口、25万人を数える大都市であったと推定されている。

 港大通り

 大劇場から港まで530メートル、道幅11メートルの大理石で舗装された道が走っていた。道の両側に商店が軒を連ねていたのか円柱が建ち並んでいた。

 エフェソスの港に上陸した商人や船乗りはこの道の真正面に見える壮大な大劇場に驚いたのではないだろうか。港大通りをしばらく歩き振り返って見ると大劇場は圧倒される大きさであった。

 アルテミス神殿

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 世界の七不思議(注一)の一つに数えられるアルテミス神殿は石片が散乱する中に大理石の円柱を積み重ねて復元した柱が一本残っているに過ぎなかった。

 アルテミスはギリシャ神話に登場する女神でゼウス(ギリシャ神話の主神、神々の王)とレトの娘でアポロンと双子の兄弟である。アポロンが太陽の神として崇められたのに対してアルテミスは月の女神である。(ローマ神話ではディアーナ、英語読みでダイアナ、亡くなられた美貌の英国皇太子妃ダイアナも父母が女神アルテミスにあやかって名付けたのであろうか。)

 エフェソスでは特に永遠の処女、女神アルテミスが崇敬された。アルテミス神殿の発掘の結果、少なくともこの場所に紀元前八世紀から四度に亘って神殿が建設された事実が確認されている。

 エフェソスの街は港が埋まるごとに移動し、アルテミス神殿も街の移動に伴ってその都度移築された。女神アルテミスはエフェソスの守護神であり、神殿は移築される度にその規模を拡大した。

 三度目の移築の時、神殿は正面16・3メートル、奥行23・2メートルになっていた。しかし、この神殿も紀元前三五六年狂人の放火により焼け落ちた。

 エフェソスの市民はさらに大規模な神殿の再建を決意し、アテネのパルテノン神殿を上回る規模の神殿を計画した。

 アテネのアクアポリスの丘に建つパルテノン神殿は正面31メートル、奥行70メートル、高さ14メートル、大理石の円柱58本が使われていた。

 エフェソスの市民はその倍近い正面55メートル、奥行115メートル、高さ19、大理石の円柱127本を使用する壮大な神殿を計画した。神殿の建設は長期にわたりおよそ百年かかったと云われている。

 この神殿も紀元後263年ゴート族の侵入により破壊された。その後、キリスト教が盛んとなり、アルテミス神殿は忘れ去られ、神殿の石材は建設資材として流用され、神殿も川が運んでくる土砂により埋まってしまった。

 1869~1874年、イギリスのJ・T・ウッドによって発掘が進められ地下7メートルから遺構が発掘された。この時出土した貴重な出土品の多くはイギリスに持ち去られた。

 注1

 世界の七不思議 

一、ギザのピラミッド、
有名なエジプトの三大ピラミッド。七不思議で現存する唯一の建築物。

二、ビロンの空中庭園、
バビロニア帝国の首都バビロンに紀元前600年頃有ったとされる立体型の庭園。

三、アレックサンドリアの大灯台、
紀元前280年頃エジプトのアレクサンドリア港の沖合いに有るファロス島の岩礁に造られた高さ120メートル以上もある灯台。796年の大地震で半壊し、1375年の大地震で倒壊した。

四、ロードス島の巨像、
マケドニアの侵攻を退けた記念に敵の青銅製の武器を鋳潰して、島の守護神アポロ像を制作した。
一五メートルの白大理石の台座に全長36メートルの巨像が立っていた。
紀元前227年の大地震で膝が折れ倒壊した。

五、オリンピアのゼウス像、
紀元前456年頃、ギリシャのオリンピアに正面27メートル、奥行64メートルの巨大な神殿が造られた。
この神殿の中に安置されたのが台座を含め12メートルも有るゼウスの巨像であった。その後、ギリシャはローマ領となり異教禁止令によって見捨てられ、地震、地滑り、川の氾濫で神域全体が埋り、ゼウス像は流された。
又、コンスタンチノーブルに移設されたがその後焼失した等々諸説有る。

六、ハリカルナッソスの霊廟、
カリア王国の首都、ハリカルナッソス(エーゲ海に面したトルコの南西)にあったマウソロス王の霊廟。
霊廟は紀元前353年に建設が開始された。
霊廟は基礎が縦38メートル、横32メートル、高さ34メートル有ったと考えられている。
階段状の基壇が六段あり、その上の基壇の四面に戦いの様子が彫刻され、その上に外周三六本の円柱が並び、中央に霊室が有った。
頂部には二四段のピらミット状の石段が有り、最上部には四頭立ての
馬車と高さ三メートルのマウソロス王、女王アルテミシアの彫像が設置されていた。
1402年、十字軍が要塞の建築資材として解体された。
その後、マウソロス王と女王アルテミシアの彫像は発掘され、大英博物館に運ばれた。

七、エフェソスのアルテミス神殿、


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