文明の十字路 トルコ紀行

エフェソス

 翌朝は6時起床、7時出発、イズミールから南に九十キロほど走るとクシャダスの街があり、クシャダスの街から北に18キロほど行ったセルチェクの街の近くに古代都市エフェソスの遺跡がある。

 バスの中でベルマさんは例によってエフェソスの歴史を語り始めた。エフェソスはギリシャ神話のトロイ戦争にも登場するアマゾネスがいた土地でもある。一説に拠るとエフェソスとはアマゾネスの女王の名とも云われている。

 アマゾネスは黒海沿岸から此処に移住してきたと伝えられている好戦的な女性の種族である。伝説に拠ると弓を引くのに邪魔になる右の乳房を切り取り、戦闘では最も勇敢な戦士に等しいと伝えられている。

 トロイ戦争の時、若い女王、ペンテシレイアは部下を率いてトロイアに味方した。ペンテシレイアは馬車による戦闘ではなく馬に跨りギリシャの勇士を次々と射殺した。そして戦場でギリシャの勇士アイアースやアキレウスに戦いを挑んだ。

 アキレウスが応戦し、ペンテシレイアの投げた槍は神から贈られたアキレウスの楯に阻まれ、アキレウスの投げた槍はペンテシレイアの胸当てを貫いて胸に突き立った。

 それでも彼女は馬を馳せ、剣を引き抜きアキレウスに向かっていった。アキレウスは疾走する馬を槍で突き刺し、馬も乗り手も怒涛のように倒れてペンテシレイアは死んだ。この様に紀元前1200年頃のトロイ戦争に登場する伝説のアマゾネスの支配地がエフェソスであったと伝えられている。

 エーゲ海沿岸のイズミールやエフェソスには紀元前二千年前からギリシャ人の一種族イオニア人が住み着いていたと云われている。彼らは紀元前11世紀頃、エーゲ海沿岸に都市国家を築いた。エフェソスもイオニア人が築いた都市国家の一つである。

 古代からエフェソスは交易で栄えた街であった。当初のエフェソスはクチュクメンデレス川がパナユル山の裾野を縫ってエーゲ海に注ぐ河口に拓かれた港町であった。

 しかし、クチュクメンデレス川の流れに運ばれて来る土砂によって湾が浅くなり港の機能を失って行った。交易で栄えていたエフェソスにとって港は生命線であった。港の機能を失ったエフェソスは河口に移動しブルブル山の麓に第二のエフェソスを建設した。

 第二のエフェソスの港も年月と共に土砂に埋まり、住民は再び下流に移動して新しい港と街を建設した。(この街がエフェソスの遺跡である。)

 エフェソスの市民は古代からギリシャ神話のアルテミスを守護神として信仰していた。新しい街にもアルテミスを祀る神殿を建設した。その神殿はアテネのアクアポリスの丘に建つパルテノン神殿を上回る壮大な神殿で世界の七不思議の一つに数えられる巨大な神殿であった。

 交易都市として栄えていたエフェソスも西アナトリアを征服したリディア王国(紀元前7世紀~紀元前547年)の支配下に入り、リディア王国がペルシャに滅ぼされるとペルシャの支配下に入った。

 紀元前334年、マケドニアの王、アレクサンダー大王(紀元前356~紀元前323年)がアナトリアからペルシャを追い払った。アレクサンダーの死後、紀元前一八九年ペルガモの属国となったが紀元前133年ペルガモのアタロス三世の遺言によりペルガモ王国はローマに譲り渡された。こうしてエフェソスもローマの領土となった。

 262年にはゴート族(フン族(匈奴)の西進により南下したゲルマン人の一派)の攻撃を受け壮大なアルテミス神殿も破壊され、その後かつての栄光を取り戻す事はなかった。

 港は再三の改修工事もむなしく川が運ぶ土砂で港が埋まりついに交易港としての機能を失い衰退していった。

 1090年セルジューク・トルコがエフェソスを征服し一時賑わいを取り戻したがやがて完全に見捨てられた。オスマン帝国の時代には土砂に埋まり廃墟と化していた。

 エフェソスは川が運ぶ土砂で港が埋まる都度、街は移動を繰り返し、現在見るエフェソスの遺跡は陸地が広がり海も見えない内陸に位置している。

 エフェソスの遺跡は1863年から発掘が行なわれ、姿を現したのは紀元前2世紀頃のローマ帝国時代のもので、エフェソスの黄金時代の遺跡であった。発掘は140年以上続いているがまだ全体の20%に過ぎないとの事である。


次のページ エフェソスの遺跡

前のページ イズミール


objectタグが対応していないブラウザです。