文明の十字路 トルコ紀行
アヤ・ソフィア大聖堂
ボスポラス海峡と金角湾に挟まれたセラグリオ岬に最初に聖堂を建てたのはコンスタンチノープルに遷都したコンスタンティヌス一世である。
東方正教会(ギリシャ正教)の総本山として三六〇年に建造され、五世紀ごろからハギアソフィア(神の叡智)と呼ばれるようになった。
しかし、聖堂は暴動によって二度破壊され、現在の聖堂はユスティニアン皇帝(527年~565年)によって537年に再建された。
聖堂の建設には5年の歳月が掛かり、エフェソスやデルフィなどの古代神殿の円柱を利用し、マルマラ海の白い大理石、テッサリアの緑、フリギアのピンク、カッバドキアの象牙色、等々各地の大理石を取り寄せて築かれた壮大華麗な聖堂であった。
1204年、第四次十字軍がコンスタンチノープルを陥落させ、略奪、狼藉の限りを尽くし、異教徒が神殿を荒らすが如く大聖堂の金品も略奪の対象となり、価値有る物は全て持ち去った。
イタリアのヴェネチアに有るサン・マルコ教会の正面二階テラスを飾る、金鍍金が施された四頭の馬のブロンズ(レプリカ 本物は教会内の博物館にある。)もこの戦いの戦利品として持ち帰った。
1261年、ミカエル八世によってコンスタンチノープルを奪回し、ハギアソフィアの修復を命じドームの重みを支える壁を配したが帝国は衰退に向かっていた。
1453年、オスマントルコによってコンスタンチノープルは陥落し、征服者メフメト二世は東方正教会(ギリシャ正教)の総主教座が置かれていたハギアソフィア大聖堂に入ってアッラーの神に勝利を祈り、この聖堂をモスクに改造する事を命じ最初にミヒラブ(メッカの方角を指し示す祭壇)が作られた。
そして、イスラム寺院の象徴であるミナレット(尖塔)が一本建てられハギアソフィア大聖堂はトルコ語でアヤ・ソフィアと呼ばれるようになった。
メフメト二世はこの聖堂がビザンチン帝国随一の聖堂であった事に敬意を払ったのか偶像崇拝を禁止するイスラムの教えに反してイエスキリストやマリア像のモザイク画を破壊しなかった。(メフメト二世はキリスト教徒に寛容であった。東方正教会(ギリシャ正教)の総主教座を金角湾に面したフェネル地区に遷し、現在も総主教座はフェネル地区に建つ聖ゲオルギオス教会に置かれている。)
メフメト二世の跡を継いだベヤズイット二世(1447年~1512年)もキリスト教の聖画を破壊せずにイスラム寺院の象徴としてのミナレットを一本建てた。
モザイク画を消し去ったのはスレイマン一世(1494~1566年)の時代と伝えられている。スレイマン一世は偶像崇拝を禁じるイスラムの教えに従い、ドームの天井や壁に描かれていたイエスキリストやマリア像の全てのモザイク画を傷つける事無く、人目につかない様に漆喰で塗り固めた。
スレイマン一世がオスマン帝国のスルタンに就いたのは1520年である。メフメト二世がコンスタンチノープルを征服した1453年から少なくとも67年間イスラム寺院でありながらキリスト教のモザイク画がモスクの中に存在していた事になる。
メフメト二世がコンスタンチノープルを占領した後も居住するギリシャ人やユダヤ人に信教の自由を保障した。それ故、キリスト教徒の信仰の対象であった聖画を削り取り、破壊する等々のキリスト教徒の反感を買う行為を行わなかったのであろう。
現在、修復されてモザイク画やフレスコ画が数多く残っているカーリエ博物館もビザンチン帝国時代は聖救世主教会であった。
この教会がモスクに変えられたのはベヤズイット二世の時代と伝えられているので、少なくともベヤズイット二世がスルタンに就いた1481年までおよそ三〇年間は教会として存続していた事になる。
この教会がモスクとなり、アヤ・ソフィアと同様にモザイク画やフレスコ画を人目につかない様に漆喰で塗り固めたのはおそらくスレイマン一世であろう。
その後、アヤ・ソフィアはセリム二世(1524~1574年)が二本のミナレットを建設し、形の異なる四本のミナレット(尖塔)を持つイスラム寺院となった。
1931年、アメリカの調査隊が漆喰の中からビザンチン帝国時代のモザイク画を発見し、500年間、漆喰に埋もれていたモザイク画を蘇らせた。
それ故、アヤ・ソフィアは外から眺めると形の異なるミナレットが四本建つモスクであるが中に入るとイスラム教とキリスト教が共存する不思議な空間であった。
大聖堂の広さは回廊を含めて7,570平方メートル(2,294坪)、世界で四番目に大きい聖堂と云われている。ドームは完全な円形ではなく30・8メートルと31・88メートルの楕円形で、高さ55・6メートル、ドームには四〇の窓が開けられている。
ドームの壁にはイエスキリストや洗礼者ヨハネ、幼いキリストを膝に抱いた聖母マリア、キリストに跪(ひざまず)くビザンチン帝国の皇帝等々のモザイク画が描かれ、このアヤ・ソフィアはかつてビザンチン帝国随一のキリスト教の大聖堂であったことを今に伝えている。
一方、ドームの天井には金箔でコーランの一節を記したカリグラフィー(アラビア文字を装飾的に描いた文字)が描かれ、階上には直径7・5メートルもある大きなパネルが8枚も掛かっていた。このパネルにも金箔でコーランの一節をカリグラフィーで描いている。
柱や壁にはイスラムの幾何学的な文様とカリグラフィーが描かれ、イスラム教としても重要なモスクであったことを示している。
この様に漆喰に埋もれていたモザイク画を蘇らせたアヤ・ソフィアはキリスト教の聖画とイスラム教のカリグラフィーが同居する不思議な聖堂である。
1934年、アタテュルクはアヤ・ソフィア大聖堂を歴史的建造物として国の博物館に指定し一般に公開した。