文明の十字路 トルコ紀行

ギョレメ野外博物館

ギョレメ野外博物館 文明の十字路トルコ紀行  日本の感覚で渓谷とか深い谷は山中を思い浮かべるがカッパドキアの渓谷は遠くから見ると大地が引き裂かれ大きな地割れが走って深い谷となった様に見える。この谷は何万年も掛けて水が浸食して造り上げた跡であり、両岸は切り立った断崖となり、谷底には木々が生い茂って豊かな緑に覆われている。

 カッパドキアは荒涼とした大地で木々が豊かに茂っているのはこれらの谷底である。見慣れない光景であるがカッパドキアでは木々は下から見上げるのではなく上から見下ろす事になる。

 ギョレメの谷も高さ数十メートルの岩山と切り立った断崖が百メートル近く有る深い渓谷が続く景観である。

 近くに妖精の煙突岩が有り、彫刻家が時間を掛けて岩を削って作り上げたとしか思えない芸術的な作品でとても自然が作ったとは思えないラクダ岩が有り、岩山と深い渓谷、地表には潅木も茂らないこの様な特異な景観を呈しているこの地になぜ営々と労力を注ぎ込んで岩窟教会を造ったのであろうか。

 この地に特別な思いが有ったのか10世紀~13世紀のビザンツ帝國からセルジューク・トルコの時代に岩山と断崖の岩壁を掘り抜いて数多くの修道院や岩窟教会が造られた。

 これらの岩窟教会を造ったのはトルコ人が西方から移住してくる以前からこの地に住み着いていたギリシャ人である。

 西方からイスラムを信奉するトルコ人がアナトリアに侵攻しルーム・セルジューク朝を樹立したが彼らはキリスト教に寛容であったのであろう、セルジューク・トルコの時代にも岩窟教会が造られている。

 そして、東ローマ帝国を滅ぼしてギリシャを併呑し巨大な帝国を樹立したオスマン・トルコも東方正教会(ギリシャ正教)の存続を認め、キリスト教に寛容であった。(現在も東方正教会の総主教座であるコンスタンティノープル総主教庁はイスタンブールにある。)

 カッパドキアのギリシャ人はセルジューク・トルコの時代もオスマン・トルコの時代も迫害を受けることなくキリスト教を信奉しギョレメの谷の教会に通う信仰生活を送っていた。

 1920年、トルコ共和国が誕生し、アタテュルク率いるトルコ軍はアナトリアに侵攻していたギリシャ軍を駆逐し、1922年、ギリシャとトルコは休戦協定を交わした。この時ギリシャとトルコの間で住民交換協定が結ばれ、この協定によってカッパドキアのギリシャ人もギリシャに強制移住させられた。

 トルコ人がアナトリアに進出して800年以上も経過しており混血が進み、ギリシャ人かトルコ人かの判別は難しく最終的にはキリスト教徒かイスラム教徒かで判別された。

ギョレメ野外博物館、岩窟教会 文明の十字路トルコ紀行  時々、雪がちらつく中を岩窟教会に向かった。道は凍りつき滑って転ばないように足許に気をつけながらの見学であった。

 岩窟教会の中は真っ暗でガイドと用意の良い数人の人達が持つ懐中電灯の明かりを頼りに中に入った。ガイドは懐中電灯で壁や天井に描かれたフレスコ画(下地に漆喰を塗り、乾かない内に水溶性の顔料で描いた絵。)を照らし出した。

 暗闇の中、何処に何が描かれているのか、それはガイドのみが知っている。ガイドが明かりを指し示すと闇の中に受胎告知、最後の晩餐、イエスの磔、等々を描いたフレスコ画が忽然と現われる。それは、映画館の中で静止画を見ている様な感じであった。(フラッシュの閃光はフレスコ画を傷めるので内部の写真撮影は禁止されている。)

 ギョレメの谷にはりんごの教会(昔、入口にりんごの木があった)、サンダルの教会(足跡が残っている)、ヘビの教会(ヘビ退治の壁画がある)等々およそ30の岩窟教会が公開されている。

 大きな岩山全体を掘り抜いて作られた巨大な女子修道院は6~7階建てに相当し、一階に食堂、台所が有り二階が礼拝所であった。


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