大峯山峯入紀行
清浄大橋~洞辻茶屋
清浄大橋も皇太子浩宮殿下の大峯登山に際し架け替えられたのか朱塗りの色も鮮やかな新しい橋であった。
橋を渡ると昔はなかったと思うが小さな門があり、道の両側に大峯講の三十三度峰入り記念の碑が林立していた。
そして、「女人結界門」の手前にも大峯山は女人禁制である旨の看板が設置されていた。
看板には「この霊山大峯山の掟は宗教的傳統に従って女性がこの門より向こうに登ることを禁止します。大峯山寺」と日本語と英語で記されていた。
清浄大橋から百メートルほど歩くと江戸時代の関所を彷彿とさせる冠木門が有り、門の横木には墨跡が薄れているが「女人結界門」と記されていた。(冠木門とは二本の柱の上に一本の横木をわたした門。)
その門の脇に昭和四十五年(一九七〇年)に設けられた女人結界を示す「從是女人結界」と刻まれた大きな石柱がある。
ここからが大峯山の登山口で杉林の中を尾根に向って登る事になる。門の脇の標識には山頂まで三時間~四時間、山頂まで五五七〇メートルと記されていた。
大峯山は「十三詣り」の山でもある。吉野一円では男子が十三歳の年を迎えると大人になるための通過儀礼として大峯山に登って「西の覗」の試練を受けるのが習わしであった。
我々の大先輩のU氏も東吉野村のご出身でやはり十三歳の時、白装束の行者姿で大峯に登ったとお聞きした。
「あの時は苦しさでハーハー云いながら油こぶし、鐘掛け岩の岩場を登りやっと尾根に着いたと思ったら崖っぷちに連れていかれ「西の覗」の行を体験した。覗き岩から吊り下げられた時の恐怖は今も忘れない。」と話されていた。
大阪生まれの司馬遼太郎氏も「街道をゆく 巻十二 十津川街道 トチの實」の章に「中学一年生のとき、十三詣りということで兵隊帰りの叔父につれられて大峯山に登ったときなどひどかった。口から心臓が飛びだすのではないかと何度思ったかわからず、前をゆく叔父の背中がうらめしかった。」と記している。
又、「空海の風景 下巻 あとがき」に「私を山頂の岩場へ連れてゆき、胴に太いロープを巻きつけ、体をさかさまにしてそれこそ千仭の谷底をのぞかせ、「親孝行するか、勉強をするか」などと問いかけるのである。」と記している。この頃、大峯山に登る「十三詣り」は奈良、大阪一円の習わしであったのであろうか。
そして、司馬遼太郎氏は「この山をひらいた役行者だけでなく大峰山の山ごと気に入ってしまい、二十になるまでのあいだに、四度も登った。」と記している。
「女人結界門」を眺めてしばし休息を取っていると親子と思われる行者姿の二人ずれが下山してきた。年の頃、十四~五歳の息子は遅めの「十三詣り」であろうか、二人から「よう、お参り」と声を掛けられた。
大峯では昔から登山者も修験者も区別無く山に入れば「峯入り」であり、すれ違う人々はおしなべて「よう、お参り」と声を掛けてくる。
山伏姿の修験者の姿と「よう、お参り」の挨拶を聞くと大峯が信仰の山である事を実感する。
「女人結界門」から杉の大樹が林立する緩やかな登りが続き、うねった道を二、三十分登ると一ノ世茶屋に着く。
無人の一ノ世茶屋で少々休憩し、茶屋を通り抜けると左(北西)側が開け、毛又谷を隔ててなだらかな三角形の大天井ヶ岳(一四三九メートル)が見えるはずであるがこの日はガスに覆われ見えなかった。
一ノ世茶屋からおよそ四十分の登りで一本松茶屋に着き小休止を取った。一本松茶屋の内部は広々とした休憩スペースで道の両側に大きな床几が並べられ、雨風がしのげるようになっている。茶屋は平日ゆえか登山者もなく店は閉まっていた。
皇太子浩宮徳仁親王殿下もここで休息を取られたのか小屋の脇に石碑が建っていた。
一本松茶屋から洞辻茶屋までおよそ一時間半、杉林の中、急坂の登りが続いた。昨日雨が降ったのか道は濡れていたが皇太子殿下の登山に際し整備したのであろう道幅が広くなったのか歩き易く濡れた道も苦にならなかった。
相変わらず曇り空でその上、杉林の中は薄暗く小雨を案じつつ登った。標高を稼ぐにつれ風は無いが涼しさが増し、登りには丁度良い気温であった。
吉野美林と呼ばれる杉檜の林の中をさらに登ると「お助けの水」と呼ばれる水場が有る。この水場に昔はなかったと思うが「役之行者慈悲之助水」と刻まれた石碑が建っていた。
登山口からここまで水場は無く、夏の登山では冷たい水で喉を潤して一息入れる場所でもある。
夏場は日照りが続くと枯れている時も有るそうだがこの日は幸い祠の中の岩の裂け目から湧き出していた。柄杓が有り、喉を潤すと冷たくて本当に美味であった。
「お助けの水」で一息つき再び急な登りを喘ぎ喘ぎ登り杉林を抜けると自然林に変わり空が明るくなり小雨の心配はなくなった。
つづら折れの急な坂道を登り切ると尾根に有る洞辻茶屋が見え隠れした。
洞辻茶屋は洞川道と吉野道の分岐点に位置している。分岐点に標識が有り「吉野まで約二十四キロ、洞川まで約八キロ、本堂まで約二キロ。」と記されていた。
登山口の女人結界門には山頂まで五五七〇メートルと記されていたが「洞川まで約八キロ」とは登山口の女人結界門ではなく我々が下車したバス停までの距離であろうか。
茶屋の手前に丁石が有り「吉野百八十丁、洞川八十丁」と刻まれていた。(一丁は一〇九メートル)この丁石は大正時代に吉野から洞辻茶屋まで五丁毎に建てられたようだが今は大半が失われている。
ここから龍泉寺の宿坊と山上ヶ岳が見えるはずであるが、まだ山上は曇り空で宿坊も山頂も見えなかった。
大峯登山洞川道には一ノ世茶屋、一本松茶屋、洞辻茶屋と三つの茶屋が有るが、いずれの茶屋も登山道の上に建ち、茶屋の中に道が通っている。
茶屋の中の道の両側には休息用の縁台があり、どの茶屋の柱も梁も板壁も昔と変わらず登山記念の落書きが記され、全国の講の張り紙と共に所狭しと名刺が貼り付けられている。
洞辻茶屋の柱や梁も書き込む余白を探すのに苦労するほどびっしりと登頂記念の住所、氏名が書き込まれていた。
我々も三十数年前に登った時、洞辻茶屋のどこかの柱に名刺を貼り付けた記憶が甦った。幸いな事にこの日は登山者もなく洞辻茶屋は休業日であった。
無人の茶屋を良い事にあちらこちらと歩き回って眺め回し、柱の上の方に貼った記憶を頼りに、くまなく探したが見つからなかった。
小屋が新しくなったのではと思い当時と同じ建物かどうか古い年号が記された落書きを探した。
探して見ると昭和四十年代前半の落書きが有り、我々が登った当時の建物である事が解かった。しかし、残念ながら我々の古い名刺は見つからなかった。
洞辻茶屋を抜けると右手にいくつもの三十三度登拝記念の石碑があり、大きな青銅製の不動明王が祀られている。
その先に「陀羅尼助丸」の看板を掲げた売店が有る。昔も有ったがこんな山中に売薬の店が今も有る事に少々驚かされたが店は閉まっていた。
「陀羅尼助丸」は役行者が大峯山で修行中、里に疫病が流行し人々が苦しんでいると聞き、山中の黄柏(キハダ)の木の皮を剥いで煎じ、薬として人々に施薬したのが始まりである。
その後、下痢止めと整腸の両方の作用を兼ね備えた和漢胃腸薬として山伏たちの持薬、施薬となり、役行者は従者「後鬼」の子孫が住む洞川の村人に製法を伝授したと伝えられている。
「陀羅尼助丸」を創薬したと伝えられる役小角(役行者)は実在したのであろうか、因みに「日本霊異記」に拠ると、「役優婆塞(役小角)は舒明天皇の六年(六三四年)一月一日、大和国葛木上郡茅原村(御所市大字茅原)に生まれたとされている。生家は賀茂氏の流れを汲む分家で賀茂役君と呼ばれていた。
役小角は幼くして神童の誉れ高く三歳で字を書き、五歳で梵字を書き、八歳の時、奈良の都に上った。
十三歳にして学問に限界を感じて故郷に帰り、十五歳の時、山に登るのを日課とした。十七歳の時、奈良の霊山、葛城山(葛城山、金剛山の総称)に籠って、山中の岩屋に棲み、葛の衣を着、松葉を食し、清水をあびて修行を重ね、孔雀明王の呪法を修めた。」と記されている。
「続日本記」の文武天皇三年(六九九年)の記述に、「役君小角は初め葛木山に住み、呪術をもって称えられたが、弟子の韓国連広足に、「師は妖惑の術を用いている」と讒訴され、伊豆島に流された。」とあり、続いて「世間の伝えるところでは、小角はよく鬼神を使い。水を汲ませ、薪を採らせた。もし鬼神の命に従わない時は、呪をもってこれを縛った。」とある。二書を信じるなら実在した人物と云う事になる。
「陀羅尼助丸」は江戸時代に入り役行者の創薬と云う広告宣伝が功を奏し、大峯講に参加した人々が持ち帰り次第に全国に広まったと云われている。
「陀羅尼助丸」には大峯山と高野山の二つのルーツが有り、大峯山の「陀羅尼助丸」は役行者の創薬と伝えられ、高野山は弘法大師、空海が創薬したと伝えられており、今も洞川と吉野で製造され広く親しまれている。
陀羅尼とは密教の真言の事である。製造時には毒を取り除く神として崇められる孔雀明王の真言、「オン マユラ キランデイ ソワカ」を唱えながら製薬した丸(薬)ゆえ、霊験に助けられると言う意味が込められているのであろうか。