大峯山峯入紀行
洞辻茶屋~龍泉寺宿坊
洞辻茶屋から「鐘掛岩」までおよそ四十分ほどの登りであるが難所が続く。
今は大峯講が寄進した鉄の網橋が架けられ、岩場には木梯子が架けられているが昔はここ洞辻茶屋から気を引き締めて登ったのであろう、陀羅尼助茶屋の少し先に「草鞋履き替え所」がある。この先には「油こぼし」「鐘掛岩」「西の覗き」などと称される鎖場の難所(表の行場)があり、ここで草鞋を履き替えたと伝えられている。
洞辻茶屋から稜線の道となり、杉林にかわってブナやトウヒ、ウラジロモミの林が続く中を、鉄の網橋を渡り、足元に注意を払い「く」の字、「く」の字に架けられた長い長い木梯子を登った。
毎年五月三日の戸開式の頃に大峯山を訪れると行者姿の大峯講の一行が足場の悪いこの辺りで先達の独特の節回しに唱和して「ざーんげ、懺悔。ろっこんしょうじょうー(六根清浄)」と唱えながら登る姿をよく見掛けた。(六根清浄とは目、耳、鼻、舌、身体、心を六根と称し六根から起こる欲望を断ち切り、身を清らかにする事)
余談だが大峯の先達になるには大峯山寺の護持院(桜本坊、竹林院、東南院、喜蔵院、龍泉寺)の大峯山行者講社が主催する大峯山登山参拝を三年(年一回)行い講社に推挙されて山伏と認められ、袈裟・法螺等、山伏の法衣・法具の着用所持が許可される。そして、大峯山行者講に参加して十一回以上登頂して初めて先達の免許状が与えられる。三十三度登頂すれば大峯行者協会の山上講から大先達の免許状が与えられる。
ジグザグに折れ曲がった長い長い木梯子を登り切ると通称「油こぼし」と呼ばれる小鐘掛岩の岩場に至る。十メートルほどの岩場に鎖が垂れ下がっている。
鎖に掴まり、昔の様に軽快とは言えないが岩場を登り切ると大峯の行場の一つ鐘掛岩が前に聳えている。
鐘掛岩の由来は役行者が駿河の長福寺の住職に毎年布施を求めていたがその住職が没し、後任の住職に例年の如く布施を求めると「貧乏寺で金目のものは無い、あの釣鐘で良ければ布施として持って行け。」と放言した。
翌朝、住職が鐘楼に行くと釣鐘が鐘楼から外れ、轟音を残して大和の大峯山に向かって空を飛び山上ヶ岳の岩鼻にかかったとの伝承が有る。
鐘掛岩はおよそ二十メートルの高さが有り、切り立った崖が岩鼻と形容されるようにオーバーハングになった張り出し岩である。
岩に大きな裂け目が有り、そこに崖の上から鎖が垂らされておりその鎖を握って登るのだが、若かりし頃はリュックを背に垂らされた鎖を握ってこの崖を苦も無く登ったが、歳を重ね、いかがなものかと鎖を探したが見つからなかった。
大峯講の一行は先達が崖の上から右足、左足と足場を指示して登攀しており、危険な箇所ゆえ事故を恐れて案内人がいないと鎖を引き上げているのかも知れない。
残念では有るが鐘掛岩の登攀を諦め、迂回して尾根道を進み、急坂に丸太で作られた階段を上る途中に役行者が座禅修行したと伝えられる玉垣で囲まれた禁足地の亀岩があった。
説明板に「お亀石踏むなたたくな杖つくなよけてとおれよ旅の新客」と行場歌が記されていた。行者は昔から亀岩に向かって行場歌を斉唱するそうです。
亀岩の先に等覚門がある。吉野から大峯山寺までの修行道には発心門(発菩提心)、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの四つの段階を象徴した門が設定されている。(発心門は俗界との結界門で吉野の銅鳥居、修行門は金峯神社の鳥居、妙覚門は大峯山寺の山門)
等覚門をくぐり岩の埋まる緩やかなアップダウンを行くと右「西の覗」の標識が眼に入った。マスコミで度々紹介される有名な「西の覗」は登山道から少し外れた岩場にあり、垂直に切り立ったおよそ三百メートルの絶壁である。
「西の覗」と彫られた大きな岩が有り、その横に説明板が有り「ありがたや西の覗きに懺悔して弥陀の浄土に入るぞ嬉しき」と行場歌が記されていた。
「西の覗」は東京タワーのテッペンから腹這いになり身を乗り出して下を覗くのと同じ高さである。
「西の覗」の修行とは介添役に命を預けて絶壁に張り出した覗き岩から身を投げ出して、こびりついた穢れ、悪行を拭い去る捨身行の事である。
昔はロープを用いず介添役の二人の山伏に足首を握られ、腹這いになって少しずつ絶壁の先端に進み、覗き岩から上半身を乗り出して合掌すると、足首を握った介添役の山伏が奈落の底に突き落とすが如く絶壁から上半身をズリ落し上下にゆすった。
頭から突き落とされた恐怖が頂点に達し、早く引き揚げてくれる事を願っても奉行役の山伏がたてつづけに問いかける問いに答えねば、なお上下にゆする恐ろしい行である。
山伏に命を預け、死を賭した行であるが故か、昔は六文銭(三途の川の渡り賃)を口に咥えて行をしたとも云われている。
三十数年前に登った時は太いロープが有り、我々もそのロープを使って荒行を試みた。命綱を介添役の友人達に托して両腕をロープの輪に通し、もう一本のロープを腰に巻き、腹這いになって恐る恐る崖の先端に進み、手を真っ直ぐ伸ばして合掌し(両腕をロープの輪に通しているので背中で吊り下げられる様になる)、意を決っして崖から身を乗り出して谷底を覗いた。
友人達が引っ張るロープに命を托して、三百メートルの高さから崖下に吊り下げられると恐怖が先に立ち谷底を見る余裕は無く、引き揚げられても足が震えるほどの恐ろしい体験であった。
その後も大峯に登る都度、試みたが恐ろしさに変わりは無いが谷底が見えるようになった。遥か下に樹海が広がり確かその中に赤い社か鳥居が見えた記憶が有る。
大峯講に参加すれば先達が「両親に孝行すっかー!、奥さんを大事にすっかー!」と二度、三度とロープを緩める(腕に通したロープを緩めると体が崖下にずり落ちる。)のが「西の覗」の慣例である。
我々も若い頃、大峯が初めての新客(大峯では初参加の人を新客と呼ぶ。)を誘い「西の覗」で覗き岩から突き出して怖がらせた記憶がある。
因みに今はロープを掛けて覗き岩から突き出す「突き出し屋さん」が居り、勝手に行う事は禁じられている。なを、「西の覗」の修行料は千円と記されていた。
この日は濃霧で視界が遮られ金剛、葛城の山並みも見えなかった。覗き岩の先端まで進んでみたが千尋の谷は湧き上がる白い霧のベールに隠され絶壁の高さも感じられなかった。それと共に、平日ゆえか「突き出し屋さん」が居らず残念ながら「西の覗」の修行は出来なかった。
山上ヶ岳には表と裏の行場が有り、「鐘掛岩」、「西の覗」は表行場である。裏行場には「東の覗」、「蟻の戸渡り」等々の恐ろしい行場が有り、事故が絶えず三十数年前も案内人なしでは入る事を許されなかった。
三十数年前に登った時、たまたま大峯山寺で修行中の若い僧と知り合い、宿坊で酒を酌み交わした。
その修行僧から裏行場の話を聞き興味を持ったので案内をお願いした。翌日の早朝、修行僧に案内されて裏の行場を巡った事がある。
高さ百数十メートルの絶壁にへばりついて右足、左足と修行僧の指示を受けて恐る恐る「蟻の戸渡り」を横切った時の怖さは今でも忘れられない。今では千銀を積まれて誘われても裏の行場に挑戦する勇気はない。
「西の覗」に「皇太子浩宮徳仁親王殿下登山記念」と刻まれた石碑が有り、年号を見ると「平成二年(一九九〇年)六月十三日」と刻まれていた。
皇太子も「西の覗」の修行を行なわれたのであろうか、皇太子が是非にと望まれたらさぞ「突き出し屋さん」も困惑した事であろう。
「西の覗」から宿坊に至る道筋の両側には三十三度峯入記念の石碑が林立していた。
役行者は熊野から吉野へ峯入りする順峰を三十三度、吉野から熊野へ峯入りする逆峰を三十三度、都合六十六度の峯入り修行を行なったと伝えられている。
この様な伝承からか大峯講の行者にとって三十三度の峯入は役行者にあやかる記念すべき回数で大先達の免許状が与えられる。それを記念して造立するので、大半の石碑は三十三度の峯入記念と刻まれている。
中には巨大な石碑が有りここまで運ぶのも容易ではなかったであろうし、それに莫大な費用が掛ったであろうと想像しつつ、岩場の道を登っていると上から山伏姿の行者が身軽な足取りで下りてきた。
見ると弁慶の勧進帳でお馴染みの山伏姿であった。白い浄衣を着て頭には兜巾を戴き、篠懸に結袈裟、手甲脚半に身を固め白足袋に草鞋履き、右手には錫杖、左手に念珠を持ち、法螺貝を肩に掛け、尻に引敷を付け、背に笈を背負っていた。
(兜巾とは大日如来の宝冠を擬したもの。篠懸とは修験者の法衣。結袈裟とは修験道独特の袈裟を折りたたんだ帯状のもので六波羅蜜をあらわす六つの房が付いている。錫杖とは人々を悟りに導く智杖であり、修験道では六輪の菩薩の錫杖を用いる。念珠も修験道独特でそろばん玉の形をした百八の珠からなる数珠。引敷とは獣皮の小さな敷物。笈とは修験者が背負う足のついた法具等を入れる箱)
岩場に立ち止まって見惚れていると例の大峯山の挨拶「よう、お参り」と声を掛けられ、岩場を走り去っていった。
岩場を過ぎると道の両側に杉の大樹が立ち並ぶ参道の趣に変わり、しばらく砂利道の坂を登り、上を仰ぎ見ると鳥居が見えた。
丸太で土留めした階段を登り切り鳥居をくぐると右手前方に昔懐かしい龍泉寺の宿坊があった。
龍泉寺の宿坊は昔と全く変わりがなかった。ガタガタと建て付けの悪い入り口のガラス戸を開けると広い土間が有り、通路の右には簡素な机と長椅子を並べた食堂が有り、左手に帳場と仏間が有る。
食堂の先と仏間の先が畳を敷いた宿泊客の部屋が続いている。我々の部屋は土間を右手に折れ東に向いた六畳二間を自由に使わせてくれた。
宿坊に着いたのは午後二時過ぎであった。時間も有りリュックを宿坊に置き大峯山寺に向かった。