大峯山峯入紀行
洞川~清浄大橋
山上ヶ岳に向う道筋は昔と変わらず道の両側に木造二階建ての旅館、土産物店が軒を連ねていた。昭和四十年代、娯楽が少なかった事も有り山登りが手軽なスポーツとして一つのブームであった。
ここ洞川も全国から訪れる大峰講の参拝者と共に、女人禁制を守る信仰の山に興味を惹かれ、登山を楽しむ若者達が大勢訪れた。我々も土日を利用して度々、大峯山に登った。
当時の洞川の旅館街は毎年五月初旬の大峯山寺の戸開式から九月下旬の戸閉式までの季節営業であったが、今は時代も変わり一九八〇年代に温泉を掘り当て通年営業のひなびた山間の温泉地の風情に変わっていた。
当時の洞川は活気に満ち、先達に引率された大峯講、行者講の一行は定宿を定め、我々のような登山グループや少人数の行者姿の一行、十三参りと思われる一団には旅館の縁側から精進落しは是非うちの宿でとあちこちから声が掛った。どの宿も登山客や大峰参拝の人々に茶を振舞い精進落しの客引きに余念がなかった。
昔は不浄を行わず酒色を絶ち数十日の精進潔斎の後、身を清めて大峯山に登り、参拝を済ますと再び洞川に下って、精進落しと称してドンちゃん騒ぎをした宿場町でもある。洞川は精進落しにかこつけた山間の色町でもあった。(戦前まで遊郭が有った。)
道の両側に建ち並ぶ旅館は昔と変わらず木造二階建てで統一され道路に面した部屋は開け放たれ、大勢の講中の方々が一度に行者装束で出入り出来るように長い上り框があり、庭先には大峯山の御神木である石楠花が植えられていた。
旅館は昔のままの佇まいを残していたが客引きの女性の姿は消え、茶を振舞ってくれる店もなく、昔のような華やかな洞川の風情は消え失せていた。
洞川の雰囲気が昔と様変わりしたとは云へ見たところ廃業した店も無く、昔ながらに陀羅尼助丸を製造販売する店、お食事処、豆腐屋、土産物店、旅館が軒を連ねていた。
精進潔斎を怠った故か歩き始めて山を見上げると山の中腹から上は黒い雲に覆われていた。雨の心配をしながら人通りのない温泉街を通り抜け、昔と同じように舗装道路を約一時間、登山口を目指して歩いた。
途中の道路脇の駐車場に七、八台の乗用車が駐車していた。何か有ったのかと近付いて見ると「名水百選」に選定されている洞川湧水群の一つ「ゴロゴロ水」の水を汲みに来た人達であった。
昔はこの様な光景を見掛けなかったし、この様な駐車場の脇に蛇口など無かった。
洞川湧水群が「名水百選」に選定された事が契機となって汲みやすい様に水道管を引き、駐車場を整備したのであろう。
(「名水百選」は昭和六十年(一九八五年)環境庁によって選定された。選定の条件は各都道府県が推薦した湧水又は河川を対象とし、
一、水質・水量、周辺環境(景観)、親水性の観点からみて、保全状況が良好なこと。
二、地域住民等による保全活動があること。
を必須としその他・規模・故事来歴・希少性・特異性・著名度等を勘案して選定された。
名水百選に選ばれた洞川湧水群は「ゴロゴロ水」と「神泉洞」と「泉の森」の三ヶ所。)
「ゴロゴロ水」は五代松鍾乳洞の真下に有る為か水の流れる音がゴロゴロと聞こえるところから「ゴロゴロ水」と名付けられた。
この名水を求めて平日にもかかわらず車で大勢の人が水を汲みに来ていた。見ると業務用に使うのか二十リットルのポリタンクを十個も運んで水を汲んでいる人も見かけた。
我々も名水を一口味わって見ようと思ったが水汲みの列を見て遠慮した。
ゴロゴロの水場を過ぎ、朱塗りの母公堂に至った。母公堂は役行者が母の白専女にここから先は女人結界であると母を諭し、ここで母に見送られて大峯山に入ったと伝えられている。
母公堂の前に「從是女人結界」と刻まれた大きな石柱が有り、昭和四十五年(一九七〇年)まではここが女人結界の場所であった。
母公堂の脇に洞川湧水群と同じ水脈と思われる清水が湧いており柄杓で喉を潤した。
母公堂からしばらく歩くと右手に稲村ヶ岳登山口の標識があった。三十数年前の事ゆえ定かでは無いが稲村ヶ岳は女性も登れるので、当時はここに女人禁制の看板と監視小屋が有った様な記憶が有る。(稲村ヶ岳も女人禁制で有ったが昭和三十四年(一九五九年)に禁制を解いた。)
そこから十五~六分、洞川温泉から小一時間歩き川瀬谷に懸かる清浄大橋に至った。
女人禁制区域が縮小されて洞川側は清浄大橋まで二キロ、吉野側は五番関まで十二キロ後退したのは昭和四十五年(一九七〇年)の事である。
橋を渡ると橋の袂に大きな立て看板があった。
看板を見ると「お知らせ」と題して
「平成九年(一九九七年)十月に一部の報道機関等、により大峯山の女人禁制が、然も解禁のごとく報道されましたが、この件につきましてはこれら報道関係の一方的な報道によるものであり、大峯山としては決定も発表もしておりません。大峯山は今まで通り女人禁制でございますのでこの事を遵守されましてご参拝されますようお願いを申し上げます。大峯山寺」と記されていた。
霊山には古くから女人禁制の風習が有り、最澄が開いた比叡山や、空海が開いた高野山をはじめ富士山、立山、白山、出羽三山、御嶽山、石鎚山、等々多くの山岳霊場は女人結界を定めていた。
女人結界を定めたのは空海が高野山に密教の聖域を定めるため弘仁七年(八一六年)朝廷に勅許を願い出て許され、七里四方の浄刹結界を定め「女人ならびに牛馬」の出入を禁じたのが始まりと思える。二年後、叡山も浄刹結界を定めた。山岳修験も密教の影響を強く受け女人結界を定めたと思える。
明治五年(一八七二年)三月、明治政府は女人禁制を野蛮の風習と見て太政官布告をもって禁を解くことを諸国の社寺に命じた。
この布告によって富士山、立山、白山、比叡山、等々の霊山が禁を解いた。しかし、従わぬ社寺も多く御嶽山が禁を解いたのは明治一〇年(一八七七年)、高野山が禁を解いたのは明治三十九年(一九〇四年)であった。
終戦直後、大峯山の女人禁制をGHQ(占領統治下の最高司令部)が問題にし、解禁を求めたが地元住民は当時、泣く子も黙ると恐れられたGHQに対し「当山は修道院のようなもの」と答弁し一歩も引かなかった。
大峯と並ぶ修験道の聖地、出羽三山も禁を解かず、平成五年(一九九三年)、出羽三山御開山千四百年祭を機に「女人禁制」を解き女性の入山を認めた。
大峯山の女人禁制も宗教上の理由は薄れ、平成九年(一九九七年)、山頂の大峯山寺を預かる五ヶ寺(吉野の東南院、喜蔵院、桜本坊、竹林院、洞川の龍泉寺が輪番で大峯山寺の護持院を務めている。)が開祖の役行者、没後千三百年御遠忌を西暦二〇〇〇年に執り行うのを機に、女性の入山を認める方向で信者や地元住民へ説明を始めた。
しかし、「女人禁制」を頑なに守り抜いてきた洞川の地元住民や修験道の講社は女性の入山に強く反対した。
女性の入山を拒む理由の
第一は修験道発祥の地として千三百年の長きに亘り女人の入山を禁じ、今や日本で唯一の女人禁制の山となった事。
第二は大峯山は女人禁制を守る事に価値が有り洞川も繁栄する。
第三は禁を解けば大峯山は普通の山となり、洞川も山間の小さな温泉地に過ぎなくなり 特長が無くなると主張して禁を解く事に強く反対した。
この様に女性の入山について協議を重ね結論に至らない内に、一九九七年一〇月三日付の毎日新聞が「大峯山が「女人禁制」を解き女性の登山を認める方向で信者に説明を始めた。役行者の一三〇〇年忌にあたる二〇〇〇年から女性解禁を目指す。「戸開け式」の五月三日を区切りに女性の入山を認め、山中の行場も開放する。」と云う内容の報道であった。
この報道を知った地元住民はこのまま放置すれば既に「女人禁制」は解かれたとの誤解を招く事態となる事を危惧し、平成十年(一九九八年)四月、大峯山寺の「戸開け式」を前に、女人禁制である旨の看板と共に「お知らせ」の大きな看板を設置した。
看板は「女人結界門」が有る洞川道の清浄大橋と吉野道の五番関、稲村ヶ岳から山上ヶ岳に向うレンゲ辻、川上村柏木から登る柏木道と奥駈道との合流地、第六五番靡き阿弥陀ヶ森の四箇所に設置された。
縦約百八十センチ、横約九十センチの大きな看板を設置したにも関わらず、平成十一年(一九九九年)八月、奈良県教職員組合の「男女共生教育研究推進委員会」所属の女性教員十名が男性八名に付き添われ、大看板を無視して事もあろうに洞川の「女人結界門」から入山し山頂に到達した。
女性教員が所属する奈良教職員組合は同年十一月、組合の委員長が記者会見を開き「女人禁制は女性差別だがやり方に問題があった。」として関係者に謝罪した。
この事件を切っ掛けに禁を解き女性信者に門戸を開く、柔軟な姿勢を見せていた寺側も態度を硬化させ、大峯山寺は委員長謝罪の翌日、記者会見を開き「信仰者の心を踏みにじる大変遺憾な行為である。」と述べ、女人禁制を当面堅持する方針を正式に表明した。
大峯は千数百年、修験の山として女人禁制を堅持してきた歴史があり、禁を犯して登頂した女性教員とサポートした男性の暴挙に怒りを感じると共に、洞川の人々の主張と大峯山寺の方針に賛辞を贈りたい。
大峯山の女人禁制は女性蔑視とか穢れを云々する以前の問題で、役行者が開山して以来、連綿と引き継いできた文化であり伝統である。 古来の文化、伝統が失われていく中、この様な特異な山が日本に一つぐらい有っても良いではないか、大峯山は永遠に女人禁制であってほしいと思う。