熊野古道 中辺路

近露~小広王子

 翌朝、我々は五時に起床し出立の準備を整え、五時半に朝食を済ませた。多分、民宿のご家族は四時には起床して我々の為に朝食と昼の弁当を準備してくれたのであろう、洗顔の時にはすでに朝食が用意されていた。 

 朝食を終えると宿の主人から本日の大まかな行程の説明を受けた。近露から小広こびろ王子までの六・三キロは緩やかな登りが続く生活道を歩き、小広王子からは再び山道となり、わらじ峠に登って本日の難所の一つ、女坂の急坂を谷筋まで下り、今度は男坂の急坂を一気に尾根まで登って岩神王子に至る。岩神王子から下って再び登ると三越峠に至る。峠は眺めも良く、ここで昼食を済ませ、後は発心門ほっしんもん王子に向う登りが有るのみで、発心門王子を過ぎると後は本宮大社まで下り道だと教えられた。

 宿の主人とご家族の方々に無理をお願いした礼を述べ、宿の主人から川原を歩くのが近道と教えられ六時過ぎに出立した。

 熊野本宮まで二四キロ、歩き通せるか不安があったが、日置川の瀬音を聞きながら河原を比曽原ひぞはら王子目指して歩き出した。 

 昨日渡った橋のたもとで日置川に別れを告げ、近露の目抜き通り(郵便局、役場、それに少しばかりの商店が点在していた。)を過ぎると緩やかな登りになり、道筋には農家が点在していた。

 農家には自家用の茶畑が有り、新茶の摘み取りの姿を其処ここで見かけた。庭に藁筵わらむしろを敷き、蒸した茶葉を干している農家も見かけた。

 どの農家も道を隔てる塀が無く、庭先には必ずと云っていいほど草花が植えられていた。草花は澄んだ空気と日中と夜間の寒暖の差の大きさに育まれ都会で見る花とは一味も二味も違って生き生きと鮮やかな色彩であった。道すがら路傍の桐の木は枝いっぱいに紫色の花を付け、目を楽しませてくれた。 

 農家が途切れると道の両斜面は手入れの行き届いた杉と檜の林が続き、林を抜けると視界が広がり幾重にも重なった熊野の山並みを望み見た。うぐいすが何時までも鳴き交わす初夏の長閑な田舎を満喫しながら歩を進めた。 

 近露を出立しておよそ一時間ほどで比曽原ひそはら王子に到着した。比曽原王子には社は無くただ石碑が建つのみであった。社殿は江戸中期に既に消滅していたため跡地に石碑が建てられた。 まだ疲れを感じるほどの距離でもなく滝尻の土産物店で頂戴した中辺路町と本宮町の観光協会が発行したスタンプ帳に印を押し、先を急いだ。

 継桜つぎざくら王子までおよそ二十分、途中に有る「日本名水百選」に選ばれた「野中の清水」に立ち寄り名水を賞味する積もりであったが、案内板を見ると斜面を下って五〇〇メートルと記載されており、下り口から下を見ると急峻な下り坂であった。下って再び登るのが億劫おっくうになり名水を味わうのを断念した。


 (名水百選は昭和六十年環境庁によって選定された。選定の条件は湧水又は河川を対象とし、

一、水質・水量、周辺環境(景観)、親水性の観点からみて、保全状況が良好なこと。

二、地域住民等による保全活動があること。を必須としその他・規模・故事来歴・希少性・特異性・著名度等を勘案して選定された。)


 桜並木の道をしばらく歩くと継桜王子に至った。この辺りで標高およそ五〇〇メートル、近露から登りが続いていたがいつの間にか二〇〇メートル登っていた。

 継桜王子社は野中地区の氏神様との由、昔は社前に檜に桜を継いだ銘木が有りこの銘木に由来して継桜王子と名付けられたとの由。この桜が植え継がれ今は東に一〇〇メートルほどの所に有る。 

 継桜は野中の秀衡ひでひら桜とも呼ばれ熊野権現の霊験を物語る民話が残されている。秀衡とは奥州平泉の覇者藤原秀衡(一一二二~一一八七年)の事である。

 秀衡は四十歳を過ぎても子宝に恵まれなかった。この頃すでに熊野権現の霊験が遠く奥州まで広まっていたのか、秀衡は熊野権現に願を掛けた。願いは叶えられ、妻は身ごもり七ヶ月が経った。

 秀衡は妻と共に懐妊のお礼参りに遠く奥州から熊野に旅立った。平泉から京に上り、京の下鳥羽から船に乗り淀川を下って、攝津の国、今の大阪天満橋辺りに上陸して熊野九十九王子の第一王子、窪津王子に参拝し「熊野詣で」の第一歩をしるした事であろう。 

 河内を過ぎ、和泉の国から紀伊の国に入り六十五の王子社に参拝して、紀伊田辺の地で海に別れを告げ、みそぎ潮垢離しおごりをして中辺路なかへち滝尻たきじりに向かった。

 奥州平泉を出立し、永い旅路を重ねようやく滝尻に着き、滝尻の王子社に参拝したところ、未だ臨月に達しないのに妻が急に産気づき出産した。

 その夜、夢枕に熊野権現が現われ、赤子を乳岩(胎内くぐりの巨岩の上方に有る。)の岩穴に残し熊野へ参詣せよとのお告げがあった。

 秀衡は赤子の事が気掛かりであったがお告げに従い赤子を岩穴に残して旅を続けた。野中まで来て不安がつのった。引き返すべきか否か大いに迷ったが熊野権現を信じ、持っていた桜の杖を地面に突き立て、「赤子の命、絶えればこの桜も枯れよう、熊野権現の御加護ありて、もし命あるならば、参詣の帰途、花が咲くであろう」と祈り参詣の旅を続けた。

 無事、参詣を終え、野中まで引き返すと、桜の杖は見事に根付き花を咲かせていた。我子も無事であろうと喜び秀衡は急ぎ滝尻の岩穴へ急いだ。

 岩穴に着くと我子は一匹の狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで無事に育っていた。この子が後の藤原忠衡である。

 秀衡はこれこそ神のご加護、ご恩に報いたいものと滝尻に七堂伽藍を造営して諸経や武具を堂中に納めた。

 一説には秀衡が杖を突き立てたのではなく近くの桜の枝を手折り檜に挿して祈った。この桜の枝が花を咲かせた事から継桜と命名された。

 継桜王子社の社殿は急な石段を登った高所にある。その境内の急な斜面に樹齢千年と云われる県指定の天然記念物「一方杉いっぽうすぎ」の巨木が真っ直ぐ天に向かって伸びている。

 一方杉は社殿に向かう石段を挟んで八~九本ほど現存し、最も大きな木は幹の周りがおよそ八メートルも有るとの事。どの木も大樹で名の通り斜面の山側には枝が無く南の熊野那智大社の方向に向かって枝を伸ばしているところから「一方杉」と呼ばれるようになった。

 この王子社も神社合祀令の犠牲となり明治四十二年、近野神社に合祀され、一方杉も切り倒される危機を迎えたが南方熊楠が必死に保存運動を展開し伐採を中止させた。

 南方熊楠の「神社合祀に関する意見」には次のように記されている。

 以下原文の通り

 「また野中王子社趾には、いわゆる一方杉とて、大老杉、目通り周囲一丈三尺以上のもの八本あり。そのうち両社共に周囲二丈五尺の杉各一本は、白井博士の説に、実に本邦無類の巨樹とのことなり。

 またこれら大木の周囲にはコバンモチというこの国希有けうの珍木の大樹あり。托生たくせいらん石松類なんかくらんるい等に奇物多し。

 年代や大いさよりいうも、珍種の分布上より見るも、本邦の誇りとすべきところなる上、古帝皇将相が熊野詣りごとに歎賞され、旧藩主も一代に一度は必ずその下をよぎりて神徳を老樹の高きによそえ仰がれたるなり。

 すべてかかる老大樹の保存には周囲の状態をいささかも変ぜざるを要することなれば、いかにもして同林の保存を計らんと、熊楠ら必死になりて抗議し、史蹟保存会の白井、戸川二氏また、再度まで県知事に告げ訴うるところあり。

 知事はその意を諒とし、同林伐採を止めんとせしも、属僚ぞくりょう(下役)やからかくては県庁の威厳を損ずべしとて、その一部分ことに一方杉に近き樹林を伐らしめたり。

 過ちを改めざるを過ちと言うとあるに、入らぬところに意地を立て、熊楠はともあれ他の諸碩学の学問上の希望を容れられざりしは遺憾なり。

 かくのごとく合祀励行のために人民中すでにかん輩出はいしゅつし、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹木著しく少なくなりゆき、濫伐らんばつのあまり、大水風害年々聞いて常事となすに至り、人民多くは淳樸じゅんぼくの風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落ちょうらくし行くこそ無残なれ。(平凡社、南方熊楠全集巻七より抜粋)

 継桜王子社は合祀の後も社殿は残され祀り続けられていた。戦後になってご神体を戻して復社し今は野中の氏神として祀られている。

 樹齢千年と云われる一方杉の大樹に触れ、木のオーラを授かって中ノ川王子を目指し先を急いだ。

 継桜王子から数分の所に古道に相応しく情緒たっぷりの茅葺の「とがの木茶屋」があった。築二五〇年を越えると云われる建物は江戸時代から「熊野詣で」の参詣者を泊める旅籠はたごであった。茶店の軒先にはわらじが吊り下げられ、入口は今時珍しい腰板を張った障子の引き戸であった。

 障子戸の前に緋毛氈ひもうせんを敷いた床几が置かれ入り口には一服を促す様に菅笠が吊り下げられていた。障子に「とがの木茶屋」と墨書するのみで看板も何も無く、時代劇に登場する街道沿いの茶店の風情が有った。

 古道を歩いて始めての茶店でも有り、我々も一服しようと思ったが平日ゆえか、朝が早い為か閉まっていた。茶店には入れなかったが昔の旅人の気分で緋毛氈に腰を下ろししばしの休息を楽しんだ。(滝尻から本宮大社まで茶店はここ一軒だけであった。)

 一方杉から十分ほど歩いた所に植え継がれた秀衡ひでひら桜の高札が目にとまったが休息を取るほどの疲れも無く先を急いで中ノ川王子に至った。

 王子社はなく車道の脇に「中川王子」と記した説明板が有るのみであった。説明板の横の脇道を五〇メートルほど登った山中に中川王子と刻まれた石碑が有り、かつての古道はここを通っていたそうである。 

 中ノ川王子でスタンプ帳に印を押そうと開いたところ、秀衡桜の地で押印が必要であった事に始めて気が付いた。押印は九十九王子社の社と早合点していた我々はスタンプ帳を詳しく調べていなかった。 

 引き返すべきか迷ったがH氏の素早い決断で急ぎ引き返し、一・六キロおよそ三〇分ほどのロスをきたした。平坦な道でほっとした次第。 

 中ノ川王子からしばらく進むと緩やかな登りが続く生活道を小広峠目指して歩を進めた。小広峠の道端に上部が破損した小さな小広こびろ王子跡の石碑があった。説明板が無ければ見過ごしそうな石碑であった。


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