熊野古道 中辺路
滝尻~近露
平安の昔、「熊野詣で」は京から往復六〇〇キロ、一ヶ月の長旅であった。庶民は伊勢参りと同様に「講」を組み、銭を積み立て、毎年数名の者が講を代表して一世一代の大仕事として晴れやかに別れを告げ旅立った。
法皇、上皇、公家は京、下鳥羽から船に乗り宇治川、淀川を下って、攝津の国、今の大阪天満橋辺りの渡辺津(窪津)に上陸して熊野九十九王子の第一王子、窪津王子に参拝し「熊野詣で」の第一歩をしるした。
大勢の供を引き連れ南に向かって歩を進め、河内を過ぎ、和泉の国から紀伊の国に入り六十七の王子社に参拝し紀伊田辺の地に至った。
田辺の地で海に別れを告げ中辺路に向う参詣者は出立王子社の前方に広がる潮垢離浜で禊の潮垢離をして滝尻に向かった。田辺から滝尻までに秋津、万呂、三栖、八上、稲葉根、一之瀬、鮎川の王子社がある。
同行したIさんの友人は大阪天満橋から昔の「熊野詣で」に倣い徒歩で本宮に詣でたとの事であるが、我々は滝尻まで電車とバスを乗り継いで行く事にした。
紀伊田辺駅で下車し、バスの時刻表を見ると一時間に一本しか無く発車時刻まで四十分近くあった。
この時点ではまだ熊野博の宣伝写真のイメージが頭にあり、熊野古道は杉木立の石畳の平坦な道を歩く程度にしか思っていなかった。昼食の事も深く考えず観光地ゆえ何処かに茶店か食堂が有るであろうと高を括っていた。
同行のKさんが昼食に多少不安を覚え念の為、駅前の観光案内所に立ち寄り茶店の有無と場所を尋ねた。係りの女性はKさんの質問にけげんな表情を浮かべた。
後で解ったが熊野古道の事をまったく調べもせずに来た我々に問題が有ったのだが、係の女性は親切に対応してくれた。
係りの女性の説明によると滝尻から近露までの熊野古道はほとんど山中を歩き食事を提供する店は一軒も無いとの事。
驚いて早速、駅の売店に走りお握りを買った次第。観光案内所に立ち寄らず、バスに乗り込んでいたら大変な事になっていた事を気付かされた。
バスで田辺からおよそ四〇分、市街地を離れ山間部に入ると乗客は僅かになり、我々四人と中年のご婦人の三人連れ、それに早朝の飛行機で千葉から来られたご夫婦のみとなった。
声を掛けて尋ねてみると皆さん熊野古道を歩く仲間であった。熊野博等で宣伝が行き届いている割には以外に訪れる人々が少ないのに少々驚いた次第。
滝尻でバスを降り、富田川に掛る滝尻橋を渡って滝尻王子社に詣でた。滝尻王子は熊野九十九王子の中でも五体王子(王子社の中でも特に地位の高い社、藤代、切部、稲葉根、滝尻、発心門の五社。)の一つとして重要視された由緒ある王子である。
社は富田川(かつて岩田川と呼ばれた。)と石船川の合流地に有り、この地から先が熊野の霊域とされた。
岩田川を流れる水は観音菩薩の補陀落浄土から流れ落ちた水であり、石船川を流れる水は薬師如来の浄瑠璃浄土から流れ落ちた水であると信じられ、法皇、上皇もこの滝尻の河原で水垢離(冷水を浴びて、身と心を清めること。)をして禊を行い、社前で経を唱え神楽が舞われた。
建仁元年(一二〇一年)十月、後鳥羽上皇の四度目の熊野御幸に随行した藤原定家(一一六二~一二四一年、新古今集、小倉百人一首の撰者。)は日記「明月記」に参拝した王子社をはじめ歌会が行われた場所等々熊野御幸の様子を克明に記している。
(現存する明月記は治承四年(一一八〇年)から嘉禎元年(一二三五年)までの五十六年間に亘る克明な日記である。明月記に拠ると定家が後鳥羽上皇の熊野御幸に随行したのは三十九歳の時であった。)
定家は「明月記」に稲葉根王子から滝尻に至る行程を次の様に記している。
「馬、此所より停め、師に預け置く。是より歩みて、石田河を指して渡る。先ず、一ノ瀬の王子に参じて、之を渡る。次いでアイカ(鮎川)の王子に参ず。河の間、紅葉浅深の影、波に映ず。景気珠に勝る(河の深き処、股に及ぶ。袴を褰げずと云々)。次いで崔嵬嶮岨(石や岩がごつごつした険しい山)を昇りて、滝尻の宿所に入る。河灘の韻、巌石を犯すの中なり。夜に入りて、題を給はる。」と有り、稲葉根王子を過ぎてから馬を下り、深い川を渡り、険しい山を越えて滝尻に到着し、後鳥羽上皇は社前で歌会を催した事が記されている。定家の日記に拠ると京を出立して滝尻まで八日間掛かっている。
滝尻王子社でくつろいでいると以前にも歩いた経験が有ると聞かされていた中年のご婦人達から滝尻の土産物店で熊野古道ウォークのスタンプ帳を頂けると教えられた。
スタンプ帳に定められた場所で押印し後日、中辺路町役場に送付すると記念品が贈られるとの事、早速、一軒しかない土産物店に引き返しスタンプ帳を頂戴した。
滝尻王子でしばしの休憩の後、急坂とは知らず軽い気持ちで山道に足を踏み入れた。林の中を暫く歩くと急な斜面の登りになった。後に知ったがこの坂は「熊野詣で」の難所の一つと云われる急坂の一つであった。
剣ノ山の中腹に有る不寝王子を目指して急峻な山道を喘ぎ、喘ぎ、岩を踏み、木にすがり、ひたすら上を目指して一歩又一歩と歩を進めた。
不寝王子に向かうほぼ中間地点に胎内くぐりと称する巨岩に行き着いた。他に道が有る事を知らず、人一人やっと通れる岩の隙間をやっとの思いでくぐり抜けた。
しばらく歩いて先を見ると中年のご婦人達に追い越されていた。どうやら胎内くぐりを迂回する道が有ったようである。
呼吸を整え、一息ついて再び急坂を登り先を急いだ。不寝王子は標高およそ三三〇メートルの剣ノ山の山頂近くに有り、滝尻の標高は八〇メートル程度と思われるので高低さ二五〇メートルを一気に登り、さすがに息切れしてしばし休息を取った。
古道の事を詳しく下調べもせず平安貴族が歩いた道、それは杉木立の中につけられた石畳の苔むした道であろうと高を括っていたが、滝尻から熊野古道に足を踏み入れて始めてそれがとんでもない間違いであった事に気付かされた。
不寝王子を後にして急坂を一気に渓筋まで下ると車道に出た。車道を横切り再び急峻な坂道を登り、再び下った所に高原熊野神社があった。およそ一時間四十五分の行程であったが予期せぬ登り下りが続き古道の厳しさを知った。
高原熊野神社は高原地区の氏神として祀られ、高原王子とも呼ばれている。(熊野九十九王子には入っていない。)
境内には樹齢一千年以上と推定される樟の大樹が数本有り枝葉が天を覆っていた。
高原熊野神社の社殿は檜皮葺で朱塗りの柱、室町時代の様式を伝える古い神社との由、樟の巨木を見てさもありなんと感じた。
高原熊野神社も明治の神社合祀令の対象であった。明治政府が明治三十九年十二月に施行した神社合祀令では一町村に一社を標準とし、特別の由緒あるものは合祀に及ばずと云うものであった。特別の由緒とは次の五項目であった。
一、延喜式神名帳および六国史に所載の社、
二、及び創立年代がこれに準ずる社。
三、皇室の御崇敬ありし神社
四、武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし神社
五、祭神、当該地方に功績また縁故ありし神社
又、神社には必ず神職を置き、村社は年に百二十円以上、無格社は六十円以上の報酬を出さなければならないと定めた。
そして神社には基本財産積立法を設け、村社五百円以上、無格社二百円以上の現金、またはこれに相当する財産を現有蓄積しなければならなかった。
(延喜式神名帳とは全国の神々、神社を明神大社、大社、小社に分類、格付けし、官社として認定した神社の一覧で神名帳に記載されている神社を式内社と呼ぶ。醍醐天皇の延喜五年(九〇五年)に編纂を開始し延長五年(九二七年)に完成したと伝えられている。六国史とは日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録の総称。)
この法令は記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々を排斥する乱暴な法律であった。
この法令によって古来の自然崇拝を基調とする熊野の神々は壊滅的な打撃を受け、多くの神社が合祀された。特に熊野は産土神(生まれた土地を守る神、氏神)が多く施行後の明治四十四年には六分の一にまで激減した。
和歌山県田辺市に暮らしていた明治の奇才、南方熊楠(一八六七~一九四一年、博物学者)は政府の強引な神社合祀に怒り、「神社合祀に関する意見」を東京帝国大学農学部教授であった白井光太郎(一八六三~一九三二年)に宛てた。その書簡のなかで高原熊野神社について次のように記している。
以下原文の通り
「次に熊野第二の宮と呼ばるる高原王子は、八百歳という老大樟あり。その木を斲りて神体とす。この木を伐らせ、コミッションを得んとする役人ら、毎度合祀を勧めしも、その地に豪傑あり、おもえらく、政府真に合祀を行なわんとならば、兵卒また警吏を派して一切人民の苦情を払い去り、一挙して片端から気に入らぬ神社を潰して可なり。
しかるに、迂遠千万にも毎々旅費日当を費やし官公吏を派し、その人々の、あるいは脅迫し、あるいは甘言して請願書に調印を求むること、怪しむに堪えたり。
必竟合祠(合祠を必ず終える)の強行は政府の本意にあらじ、小役人私利のためにするところならんとて、五千円の基本金を一人して受け合う。
さてその金の催促に来るごとに、役人を近村の料理屋へ連れ行き乱酔せしめ、日程尽き、役人忙て去ること毎度なり。そのうちに基本金多からずとも維持の見込み確かならば合祀に及ばずということで、この社は残る。」
(現代語訳、熊野第二の宮と呼ばれる高原王子(高原熊野神社)には推定樹齢八百年と称される樟の大樹があり、その樹を削ってご神体としている。この大樹を伐採してコミッションを得ようとたくらむ悪徳役人達は毎度合祀を勧めに来た。しかし、その地に一人の豪傑がいた。その豪傑が思うには政府が本気になって合祀を行おうとしているのであれば、反対すれば軍隊か警察を派遣し強行するであろう。しかるに、反対派の人々を脅迫しあるいは甘言をもって請願書に捺印を求めるのははなはだ怪しいと思わざるを得ない。合祀を必ず終えると強行するのは政府の本意ではなく、小役人が私利私欲のために推進しているに過ぎない、と考えて神社を存続させるに必要な五千円の基金を一人で負担すると申し出た。さて、その金の催促に役人達が来る度に、役人を近くの村の料理屋に連れて行き酔っ払うまで飲ませた。役人は日程の都合もありあわただしく去って行くのが毎度の事であった。そのうちに、基本金が多くなくても神社を維持する見込みが確かならば合祀しなくても良いと云う事になり、この社は残った。)
原文は平凡社、南方熊楠全集七より抜粋、現代語訳は筆者の訳につき間違いがあればご容赦願いたい。なを、南方熊楠も明治三七年(一九〇四年)勝浦から大雲取、小雲取を越え本宮に参拝し中辺路を経て田辺まで歩いている。この時、一方杉の巨木や高原熊野神社の樟の大樹を検分したのであろうか。
神社合祀令によって熊野の神社の八割から九割が合祀され五体王子として格別の尊崇を受けた稲葉根王子や発心門王子も合祀された。
そうした中で南方熊楠が記している豪傑の奮闘のかいあってか高原熊野神社は合祀を免れ、樹齢一千年以上と推定される樟の大樹も伐採を免れた貴重な神社である。
神社の横に雨露がしのげる程度の休憩所が有り、無骨に作られた頑丈なテーブルの上に紀伊田辺駅で買い求めた握り飯を広げ昼食を取った。
昼食を終えて再び樟の巨木を見上げていると若い女性の二人ずれが神社を訪れ軽やかな話し声が聞こえた。
話し掛けてみると昨夜は龍神温泉に泊まり熊野古道をドライブ中との事、車を降りて少し歩いて行ける範囲の九十九王子を訪れているとの由、古道はとても歩けませんとの返事が返ってきた。
後に知ったが古道に沿って国道三一一号線が走っている。国道と旧国道を利用すれば車を降りて少し歩けば大半の九十九王子を訪ねて本宮に参拝出来る。
若い女性の二人ずれは樟の巨木をしばし見上げてから、神社に拝礼し軽やかに去っていった。我々も出立の支度をして高原熊野神社を後にした。
高原地区は標高三三〇メートルの傾斜地に拓けた集落である。早朝には幻想的な朝霧が立ち込め「高原霧の里」とも呼ばれている。又、眺望も素晴らしく一望百峰、幾重にも重なる熊野の山並みが見渡せ、滝尻からの登りの苦労も吹き飛ぶほどの眺めであった。
高原熊野神社からしばしの間、道の両側に家が建ち並ぶ狭い路地と云った感じの結構、急な勾配の有る生活道を歩いた。
高原地区は「熊野詣で」が盛んな頃、主要な宿泊地として旅籠が軒を連ね、この狭い路地を「旧旅籠通り」と呼ぶそうである。道の両側の家々はその頃、旅籠であったのであろうか。
狭い路地を歩いたが人に出会う事もなく、集落はまるで廃村の様に物音一つ聞こえず静まり返っていた。
後に知ったがこの集落の高台に大阪弁を操る外人タレントの草分けの一人、イーデス・ハンソンさんの住まいが有るとの事。
イーデス・ハンソンさんは山深い田舎に住む事を望まれ、作家の津本陽氏の紹介でこの地に移り住んで十数年になるとの事。交通の不便を厭わず熊野の山並みが一望できるこの地が相当気に入ったのか終の棲家と決めているとの由。
熊野古道の道標を見つけて生活道に別れを告げ、杉木立の中をしばらく歩むと大門王子に至る登り口に差し掛かった。
路の脇に小さな休憩所が有り立て札に「これより先、大坂本王子まで八キロ、約四時間、山中につき人家なし。」と記されていた。
大門王子に向かう道は杉の丸太で土止めした急坂の道であった。ただ黙々と喘ぎながら登っては下り、又、登って杉林の中を歩く事、およそ一時間、大門王子に至った。
大門王子には平成四年に建てられたまだ新しい小さな社殿があった。元の社殿は江戸初期にはすでになくなっていた。社殿の奥に大門王子の石碑と石造の笠塔婆があった。
この地は平安の頃から休息地とされ水飲み場が有った。熊野は山深く岩を滲み通った水はミネラルを豊富に含んでいるのか柄杓で汲んだ水は冷たく一息に飲み干すと疲れた体の五臓六腑に滲みわたる感じがした。
休息の後、十丈峠を目指して杉木立の中を歩くこと四〇分、杉林の中に十丈王子跡の標識に至った。平安の頃は重點王子と呼ばれ定家の日記にも重點王子と記されているが何時の頃からかつまびらかではないが十丈王子と呼ばれる様になった。
十丈王子跡は今は無人の山中になったがかつては集落があり氏神として祀られていたが明治の神社合祀令によって廃社され、集落も廃村となった。
十丈王子から次の目的地、大坂本王子を目指した。大坂本王子に至るには悪四郎山を越え、下っては又、登る山越えを繰り返して大坂本王子に至る、熊野古道の難所の一つに数えられている。
途中に「悪四郎屋敷跡」の案内板があった。解説文に拠ると、悪四郎屋敷跡、(町指定)と有り、「享保七年(一七二二年)の熊野道中記に、「立場茶屋、昔十丈四郎と云者住し処也」とある。十丈悪四郎、南北朝時代の人とも云うが、生没年はもとより事蹟は一切不明である。此処は悪四郎が母と住んだ屋敷跡(又彼を祀った宮跡)とも伝えられ、親孝行で機知に富み、強力無双は理想の熊野伝説の人であろう。前方の山はその名にちなみ「悪四郎山」という。」と記されていた。(平安の頃、「悪」字は今と異なり悪いと云う意味には使われていなかった。「悪」は武勇において優れて強い豪勇の者をさす敬称であった。)
急坂を登って標高七八二メートル、熊野古道中辺路の中で最も標高の高い悪四郎山に向かった。
頂上に程近い所に炭焼き小屋が有った。夏には小学生が炭焼きの体験学習をする場所になっているとの事、今は使われていないが相当に古いと云われている粘土で固めた炭焼き釜を拝見した。
悪四郎山から二つ山を越えて逢坂峠から急坂を一気に下り、坂尻の谷に大坂本王子跡があった。王子跡には石造の笠塔婆が在るのみで、元禄の頃には社殿があったと伝えられている。杉林の中に社殿の跡であろうか石積みが埋もれていた。
大坂本王子は逢坂峠と箸折峠の谷間に有り、再び箸折峠まで登りである。箸折の地名の由来は花山法皇が昼食の弁当を開いたが箸がなかったので、ススキの軸を折って箸にしたところから箸折と名付けられたと伝えられている。
箸折峠には花山法皇の法衣と経を埋めた跡に建てたと伝えられる宝篋印塔(鎌倉時代の作で県の文化財に指定されている。)が有り、その傍に僧服姿で牛馬二頭の背に跨った小さな牛馬童子像が有った。この石像は花山法皇の「熊野詣で」の旅姿と伝えられている。(宝篋印塔とは「宝篋印陀羅尼経」というお経を納めた供養塔で、基壇の上に台石、塔身、笠石(上方に反った石)、相輪(九輪)を乗せて構成されている。)
京の法皇、貴族は輿に乗って山坂を越えたと想像していたがこの像を見ると法皇も馬に乗り、山道では牛に乗り、時には歩いて難路の熊野路を旅したのであろうか。当時が偲ばれる石像であった。
近露も近付き、近露の集落を眼下に遠望できる場所で田辺からのバスで御一緒したご婦人方が優雅にも野点を楽しんでいた。
聞けば山行きには必ず茶道具一式を持参して景勝の地で野点を楽しむとの事、山中での野点とは、如何にも趣が有り、風雅を楽しむご婦人達に恐れ入った次第。
近露の集落を眺めながら尾根筋をさらに下ると、山裾に鮎釣りで名高い日置川が瀬の音を響かせて流れていた。
日置川に架かる橋の対岸に近露の集落が目に入った。一日の行程を歩き終えた安堵感も有り、近露の集落に親近感を覚えた。
近露は日置川の上流に位置し、日置川と支流の野中川に挟まれた海抜およそ三〇〇メートルの盆地である。日置川の流域ではここから先、人家は無いとの事。
周囲に山が棚引き棚田が広がるのんびりとした佇まいの静かな村で桃源郷とはこの様な地を云うのかも知れない。
汗ばんだ肌に初夏の風を受け、心地よい足取りで日置川に架かる橋を渡った。橋の上から辿った難路を振り返ると大木の枝先に紫色の藤の花が今を盛りと咲き誇っていた。
村人に五時の時報を告げるメロディが流れた頃、近露王子跡に着いた。近露王子社はかつてはこの地の産土神として祀られていたが明治末期の神社合祀令で廃社され、十数本の杉の木の巨木も伐採された。今は自然石に刻んだ碑が有るのみでここにも神社合祀令の傷跡があった。
「熊野詣で」が盛んな頃、参詣者達は貴賎を問わず日置川の水で身を清め近露王子社に参拝したと伝えられている。
平安の昔もこの地で一夜の宿をとったのか、対岸に行宮(天皇の旅先での仮御所、行在所。)が有り、後鳥羽上皇はこの地で歌会を催したと伝えられている。
藤原定家の「明月記」には「滝尻より此所に至りて、崔嵬陂池、目眩転し、魂恍々たり。昨日河を渡りて、足聊か損ず。仍て偏へに輿に乗る。」
定家も滝尻から近露の行程は険しい山を越え沢を渡り、目眩がし、魂もぼんやりするほど苦しかった事が記されている。そして足を挫き輿に乗ったと記している。
我々も一日の行程を無事歩き通した安堵感も有り、今宵の宿、「なかの」を尋ね、蓮華の花咲く田舎道をのんびりと歩いた。
田舎道は都会の人工的に作られた真っ直ぐな舗装された道路とは異なり、自然の地形に沿って緩やかに幾つもの弧を描いて棚田の中を縫って地道が続いていた。
通りすがりの農家の人々も穏やかな表情で「熊野古道を歩いてこられてお疲れさんです。」と我々に言葉を掛けてくれた。
今宵の宿、「なかの」は日置川の河原に面した広地にこぢんまりとした佇まいの平屋であった。主人に案内されて部屋に入り、リュックを下ろして直ぐに教えられた浴場に向った。
浴場は別棟に有り、からころと下駄を履いて砂利を敷き詰めた庭を横切り、苔むした石垣の先に有った。
湯屋は日置川に面し湯治場の風情がある木造平屋建ての大きな建物であった。引き戸を開けると下駄箱が有り、その先の引き戸を開けるとそこが脱衣場であった。
浴場に入ると湯船は温泉地の並みの旅館よりかなり広く、湯は天然の温泉で沸かし湯ながら湯量が豊かなのか湯船から湯が溢れていた。日置川に面した窓を開け放つとまるで露天風呂に入って居る様な気分であった。
今の温泉は平成三年のボーリングで湧き出た湯であるが、平安の頃、近露は近津湯と呼ばれており温泉が自噴していたのであろうか。
それにしても日置川の清らかな流れが有り、温泉が有り、山裾には棚田が広がる、忘れ去っていた田舎の素晴らしい景観を残す近露が何故、温泉地として発展しなかったのであろうか。と思う反面、古道の半ばを歩き人に知られぬ温泉に入るのも山歩きの冥加かも知れぬ。
一日、歩き疲れた身体をどっぷりと湯船に横たえ、川の景色を楽しんで身も心も癒された。湯は程よい湯加減で、しっとりと肌を包み、汗を洗い流した体はつるつるに磨き上げられた様な心地よい湯上りであった。
風呂上りのいい気分で宿に帰ると奇しくも、滝尻までのバスで御一緒し、山中で野点を楽しんでいた中年のご婦人達三人と玄関でバッタリ出会った。近露には他にも民宿が有るにもかかわらず不思議な奇縁で同宿となった。
夕食は「あまご」の甘露煮をはじめ山菜のてんぷらに舌ずつみを打ち、大きな鉄なべに温泉の湯を入れた水炊きを賞味した。温泉の湯が野菜に滲みわたり白菜の甘みが口中に広がった。
豆腐も「日本名水百選」に数えられる「野中の清水」と同じ水脈から汲み上げられた井戸水で作られ厭味の無いとろける様な舌触りであった。
鍋を囲み今日一日、急峻な山坂を一四キロ歩き通した健脚を称え合い酌み交わす酒も又、甘露、甘露、と杯を重ねた。翌日の事を思いやって程々に酒を切り上げ、温泉の湯で炊いた山菜御飯を頂いた。
食事を終え宿の主人に翌朝、六時に出立したい旨申し出ると、朝食は六時で七時に出発しても十分であるとの返事が返って来た。
我々は歳の事も考え、主人に無理を聞いて頂いた。ご婦人達も賛同し朝食は六時前と云う事になった。