熊野古道 中辺路
熊野詣で
平安中期から江戸時代にかけて、上皇、貴族から庶民に至るまで多くの人々が「蟻の熊野詣で」と称されるほど列を成して詣でた道筋が中辺路であったと伝えられている。
難路を厭わず、苦行と受け止めて古人が詣でた熊野本宮は崇神天皇(第一〇代、前一四八~前三〇年)が紀元前三二年に旧社地、大斎原の地に社殿を創建し家津御子神(素戔嗚尊の別称)を祀ったのが始まりと伝えられている。
熊野には三社有り、家津御子神を祀る熊野本宮大社(東牟婁郡本宮町)、速玉大神(伊奘諾尊の別称)を祀る熊野速玉大社(新宮市)、夫須美大神(伊奘冉尊の別称)を祀る熊野那智大社(東牟婁郡那智勝浦町)である。「熊野詣で」とはこの三社を巡拝するのが習わしである。
三社は互いの主祭神を勧請して祀っている。又、三社は全国にその数、四千と云われる熊野神社の総本社でも有る。
今は三社共に古に帰り神として祀っているが、平安中期頃から熊野の神々は仏が神に化身して現われた権現であるとして、家津御子神は阿弥陀如来、速玉大神は薬師如来、夫須美大神は千手観音とされた。そして、三社の神々を三所権現と称し三社共に神仏混淆の社であった。
そしてまた熊野本宮は神仏混淆の宗教であった修験道の聖地として崇められ、修験者は熊野本宮の春の大祭に合せて、吉野から熊野まで百二十キロの大峯山脈を縦走する「奥駆け」道を七日で走破して本宮の大祭に馳せ参じたと云われている。
平安中期から江戸時代にかけての長い間、人々を魅了した「熊野詣で」は新たな甦りを願う祈りの道でもあった。
熊野権現の霊験を信じて疑わぬ法皇、上皇から民衆まで救いを求めて難行苦行を厭わず踏みしめた道が熊野古道であり、「蟻の熊野詣で」と称された。
事実、中辺路には道中の無事を祈って熊野権現の御子神を勧請して祀った九十九王子の社の跡が数多く残されている。
熊野の地名が始めて文献に登場するのは日本書紀である。日本書紀には伊奘冉尊が火の神の軻遇突智を生む時に身体を焼かれてお亡くなりになり、紀伊国の熊野の有馬村に葬った。そして、伊奘冉尊の御子、素戔嗚尊も母について根の国に行きたいと云って泣き止まなかった。伊奘諾尊も亡くなった伊奘冉尊を追って黄泉の国まで行き、汚らわしいものを見て逃げ帰ったとある。また、伊奘冉尊の御子、素戔嗚尊も熊成峯からついに根の国におはいりになったと記している。
この様な伝承から熊野は黄泉の国、根の国とされ死者に近い国とされたのであろう。又、伊奘諾尊が亡くなった伊奘冉尊を追って黄泉の国まで行き、逃げ帰った話から熊野は甦りの地と考えられたのであろうか。そして修験者は鬱蒼とした森に神霊を感じ、験力を得られると信じたのであろうか。
その後、浄土教の広まりと共に死者の国、即ち浄土と結び付けられ熊野は現世の浄土に位置づけられ、生きながら阿弥陀の浄土に生まれ変わる事を願って「熊野詣で」が盛んとなった。その究極の思いが熊野灘から船出する補陀落渡海ではなかろうか。(浄土教は仏教伝来と共に教義は伝えられていたが広まったのは平安中期頃からである。)
記録によれば最初に熊野を訪れた上皇は宇多上皇(第五九代、生没年 八六七~九三一年)と伝えられている。
宇多上皇は光孝天皇の第七皇子として生まれ一度は源の姓を賜り臣籍に下ったが、光孝天皇の崩御直前に朝廷の実権を握っていた藤原基経(八三六~八九一年)の推挙を受けて親王となり、翌日践祚して第五十九代の天皇に即位した数奇な運命を持つ天皇であった。
三十歳で譲位した宇多天皇は出家して法皇となり十年後の延喜七年(九〇七年)十月熊野に御幸した。(当時の天皇は在位中に京を出る事はなかった。従って、退位した後に熊野等に御幸した。)
宇多上皇は真言密教の信仰が篤く、修験道中興の祖、理源大師聖宝(八三二~九〇九年)の先達で御嶽(大峯山)に詣でと伝えられている。
宇多上皇の熊野御幸から八十五年後、西国三十三番札所を開いた花山法皇が正暦三年(九九二年)に熊野を訪れている。
花山天皇(第六五代、九六八~一〇〇八年)は藤原道長(九六六~一〇二七年)が栄華を極める少し前、二歳にして立太子となり十六歳で即位した。花山天皇は大納言藤原為光の娘祇子をことのほか寵愛していた。そしてこの最愛の女御祇子が死ぬと、この世が嫌になり悲嘆に暮れる日々を過ごしていた。
嘆き悲しむ天皇の心の隙に乗じた藤原兼家(九二九~九九〇年、道長の父)は自らの孫である懐仁親王(一条天皇、第六六代 九八〇~一〇一一年)の即位を画策し、天皇に出家を勧め、夜陰に乗じてひそかに宮廷を抜け出し山科の元慶寺に輿を廻した。
こうして藤原兼家の陰謀により花山天皇は在位二年、十八歳の若さで退位し出家の道を選んで頭の飾りを落とした。法皇となった天皇は花山院(兵庫県三田市)に隠棲し女人禁制の地で過ごした。
法皇を慕う十二人の女官達は山麓の集落に庵を結び、山中の法皇に琴の音に想いを託し慰めたと伝えられている。
法皇はその後「播磨国書写山円教寺」、「比叡山延暦寺」で修行を積まれ、永延二年(九八八年)徳道上人(生没年不詳)が発願したが結願に至らなかった三十三所観音霊場の復興を思い立ち、上人が中山寺(兵庫県宝塚市)の「石の唐戸」(古墳の玄室にある石棺)に納めた閻魔の宝印を掘り起こして巡礼の旅にでた。
(閻魔の宝印とは大和の長谷寺を開基した徳道上人が亡くなり、冥途の入り口で閻魔大王に会った。大王は徳道上人に衆生を地獄に来させぬよう娑婆に帰り三十三ヶ所の観音霊場を広めよと起請文と三十三の宝印を授け現世に追い返した。上人は三十三ヶ所の霊場を設けたが、人々は上人を信用しなかったので、やむなく宝印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられている。観音菩薩は三十三の姿に化身して衆生を救う仏。)
正暦三年(九九二年)、熊野に詣でた法皇は那智大滝の上流にある「二の滝」近くに庵を結び一千日参篭の修行を積まれた。満願の日、熊野権現から三十三所観音霊場の復興を託されたとの伝説もある。
そして花山法皇は観音の慈悲にすがる観音巡拝の出発地には裸形上人が那智の滝の滝壺から得た観音像を祀る如意輪堂(青岸渡寺)が一番札所に相応しいと考えられたのであろう。法皇が如意輪堂を一番札所と定めたのも「熊野詣で」が契機になったとも考えられる。
花山法皇が復興した西国三十三番札所めぐりでは満願の後、花山法皇ゆかりの地として番外の元慶寺(花山天皇が落飾した寺。京都市山科区)と花山院それに徳道上人を祀る法起院(徳道上人像が本尊。奈良県桜井市初瀬)を巡拝する習わしがある。
花山法皇の「熊野詣で」から百年後に白河法皇(第七二代、一〇五三~一一二九年)が熊野に御幸し、以来、院政を敷いた法皇、上皇の熊野御幸が盛んとなり、本格的な「熊野詣で」が始まった。
白河法皇は三十三歳の時、七歳の堀河天皇に譲位し、その後も上皇として実権を握り院政を開始した最初の上皇である。四十三歳の時、出家して白河法皇となった。
法皇は皇居の護衛として北面の武士を創設し権謀術数を巡らして源平の対立を画策し、七十七歳で崩御するまで四十三年間に亘り実権を握った。
白河法皇は寛治四年(一〇九〇年)に初めて熊野を訪れてから崩御するまでの三十四年間に九度、熊野に詣でたと伝えられている。
僅か、五歳で即位した鳥羽天皇(第七四代、一一〇三~一一五六年)は白河法皇の院政を嫌い二十歳の時、白河法皇に養育されていた僅か五歳の第一皇子顕仁親王(崇徳天皇)に譲位し自らは上皇となった。
しかし、鳥羽上皇は白河法皇の意に沿って譲位した崇徳天皇(第七五代、一一一九~一一六四年)は法皇の子ではないかと疑っていた。
鳥羽天皇は白河法皇の孫に当たり、皇后の待賢門院璋子は権大納言藤原公実の娘で白河法皇の寵妃・祇園女御の養女であった。法皇は璋子を寵愛しいつしか法皇の寵を蒙るに至ったと云う。
時の摂政藤原忠実は娘、泰子を入内させようと考えていたが、白河法皇はこれを妨げ、璋子を入内させた。
祖父の愛妾を皇后に迎えた鳥羽天皇は十六歳、璋子は十八歳であった。そして翌年の六月、皇子が誕生して顕仁(崇徳天皇)と命名された。
しかし、皇子顕仁は白河法皇の子であるとの噂が流れ鳥羽天皇もこの噂を耳にしていた。それ故、鳥羽天皇は皇子顕仁を叔父子(叔父でもあり、子供でもある。顕仁が白河法皇の子であれば鳥羽天皇にとって父の弟にあたる。)と呼び敬遠した。
璋子は容姿優れ、鳥羽天皇は祖父の愛妾であった事を知りつつ璋子との間に四皇子二皇女をもうけた。白河法皇はおのれの落胤顕仁が鳥羽天皇の即位した五歳に達すると鳥羽天皇を退位させ顕仁を即位させた。崇徳天皇である。
鳥羽天皇が退位して六年後、白河法皇が崩じると、鳥羽上皇は直ちに院政を開始し実権を握った。璋子との仲は疎遠になり、泰子を后に迎え入れ、藤原長実の娘、得子を入内させた。
得子が躰仁親王(近衛天皇)を生むと、鳥羽上皇は生後三ヶ月の躰仁親王を立太子とし、東宮が三歳になると即位を画策し天皇に譲位を迫った。
譲位を強要された崇徳天皇は二十二歳の若さで退位しわずか三歳の近衛天皇(第七六代、一一三九~一一五五年)が即位した。鳥羽上皇は翌年、三十九歳の時、東大寺で受戒し法皇となった。
崇徳天皇を強引に退位させて近衛天皇を即位させたが、近衛天皇は病弱で十七歳の若さで崩御された。鳥羽法皇は天皇が早世したのは崇徳上皇が呪詛に及んだのではないかと疑いを抱いていた。
一方、崇徳上皇は「治天の君」(上皇の中で実権を握り院政を行う上皇の事。)に就くべく実子、重仁親王の即位を画策したが、法皇は許さず法皇の第四皇子、雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。
保元元年(一一五六年)鳥羽法皇が崩じると崇徳上皇は弟の後白河天皇と争い、源平の武士を巻き込んだ保元の乱を引き起こしたが敗北して讃岐に遠流された。崇徳上皇は康冶二年(一一四三年)、鳥羽法皇の十回目の熊野御幸に同道している。
保元の乱の遠因を引き起こした鳥羽法皇は五十四歳で崩御するまでに二十一度、熊野に詣でた。
後白河天皇(第七七代、一一二七~一一九二年)は二八歳で即位し在位僅か三年で十五歳となった二条天皇(第七八代、一一四三~一一六五年)に譲位し、その後、五代に亘って三八年間、院政を敷いた。
後白河法皇の時代は保元の乱、平治の乱(一一五九年)、そして源平の戦いを経て鎌倉幕府の成立に至る武家政治への転換期であった。
平治の乱は平清盛が一家こぞって熊野詣でに出掛けた虚をついて源義朝が挙兵したクーデターであった。清盛が知ったのは和歌山県日高郡印南町の切部の宿であった。清盛は急ぎ帰京し六条河原で義朝を討ち平氏政権が確立した。
後白河法皇が最初に熊野に御幸したのは「平治の乱」の翌年の永暦元年(一一六〇年)であった。この時、平清盛も同道したと伝えられている。
法皇の熊野御幸は一一六九年にはすでに十二回を数え、その後も度々熊野に御幸し歴代の上皇、法皇の中で最多の三十四度も熊野に詣でている。
源平の争いから八歳で崩御した安徳天皇の後を継いで、四歳で即位した後鳥羽天皇(第八二代、一一八〇~一二三九年)は十八歳で土御門天皇(第八三代、一一九五~一二三一年)に譲位し院政を敷いた。
承久元年(一二一九年)、源実朝(鎌倉幕府の三代将軍、一一九二~一二一九年)が暗殺されると、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の倒幕に傾き、承久三年(一二二一年)挙兵し承久の乱を起こしたが敗れて出家し隠岐に遠流された。
後鳥羽上皇は度々熊野に詣で実に三十一回を数え、十ヶ月に一度の割合で詣でたと伝えられている。尼将軍、北条政子も一二〇八年と一二一八年(源実朝暗殺の前年)の二度、熊野に詣でている
承久の乱からおよそ二十年後の一二四二年、皇位にあった四条天皇は僅か十二歳で崩御し皇子女も皇兄弟もいなかった。皇嗣を誰にするかという大問題がおこった。候補者として土御門上皇の皇子邦仁親王と順徳上皇(後鳥羽上皇と共に承久の乱を起こし、敗れて佐渡に遠流された。)の皇子忠成親王のお二人であった。
時の執権北条泰時は順徳上皇が佐渡に存命中でも有り、承久の乱の二の舞を恐れて忠成親王の即位に強く反対した。土御門上皇は承久の乱に加担しなかったが自ら進んで土佐に流された。北条泰時は僧籍に入る予定であった邦仁親王を選び即位して後嵯峨天皇(第八八代、一二二〇~一二七二年)となった。日陰の身から皇位に登りつめた後嵯峨天皇は在位四年で上皇となり熊野に三度詣でた。
法皇、上皇の熊野御幸も亀山天皇(第九〇代、一二四九~一三〇五年)が譲位して上皇となった七年後の弘安四年(一二八一年)の御幸をもって途絶えたと伝えられている。
弘安四年は蒙古が再び来襲した弘安の役の年である。(最初の襲来は一二七四年の文永の役。)上皇は伊勢神宮に勅使を派遣して蒙古調伏を祈願させ、自らは熊野に御幸して熊野の神に蒙古降伏を祈願したと伝えられている。
亀山天皇も権力を握っていた後嵯峨上皇が没すると兄の後深草上皇を差し置いて、治天の君に就くべく我子の後宇多天皇(第九一代、一二六七~一三二四年)に譲位して上皇となった。
後深草上皇は後嵯峨上皇に無理やり退位させられた経緯があり、幕府に願い出て熙仁親王(伏見天皇)を後宇多天皇の皇太子に定めるよう求めた。
当然、亀山上皇も幕府に働きかけ結局、鎌倉幕府が介入し時の執権北条時頼は後深草上皇の願いを入れ熙仁親王(第九二代伏見天皇、一二六五~一三一七年)を即位させ、以後、後深草系統と亀山系統が交互に皇位を継承する事で決着させた。こうして天皇家の皇位継承は二系統に分かれ南北朝の争いに発展した。
伏見天皇が即位し治天の君は後深草上皇に移り、皇位継承権の争いに敗れた亀山上皇は出家して法皇となった。
この様に上皇、法皇の熊野御幸を眺めるといずれの上皇も治天の君たらんとして凄まじい権力闘争を勝ち抜いた上皇である。
そして、熊野御幸は治天の君となって権力と財力を掌中にした上皇の特権であったのか、白河上皇の院政期の堀河上皇、後白河上皇の院政期の二条、六条、高倉上皇、後鳥羽上皇の院政期の土御門、順徳、仲恭、後堀河上皇、亀山上皇の院政期の後深草上皇は熊野に詣でていない。
それにしても白河上皇は院に在した四十四年の間に九回、約五年に一度、鳥羽上皇は三十四年の間に二十一回、約一年7ヶ月に一度、後白河上皇は三十五年の間に三十四回、約一年に一度、後鳥羽上皇は院に在した二十四年の間に二十八回、約十ヶ月に一度の割で熊野に御幸された。何故、苦行を重ね、多大の出費も厭わず度々熊野を訪れたのであろうか、そして亀山上皇以後、熊野御幸が途絶えたのは何故であろうか。
余談ですが平成四年(一九九二年)五月、皇族としては実に七一一年ぶりに皇太子殿下が中辺路を歩き熊野に参詣されました。
上皇、貴族の「熊野詣で」は従者、運搬人、護衛、女官等々を引き連れた一大行軍であった。多い時は八百四十人を数え、少ない時でも五十人程度の供の者が従い、平均すると四百人の行列であったと伝えられている。
道中の大半は山中であり、今も人、一人通れる程の一筋の道を八百人の行列が延々と続けば想像しただけで「蟻の熊野詣で」と称された言葉も成るほどと思える。
江戸時代に入り慶長の役に勝利した家康は紀州に徳川頼宣を封じ紀州藩主とした。徳川頼宣は熊野三山の復興に尽力し再び「蟻の熊野詣で」と称される最盛期を迎えた。
民衆に熊野三所権現の名を広めたのは熊野聖や山伏が諸国に散り、烏文字(字画に烏を配して描いた文字。)で描いた護符「熊野牛王宝印(牛王とは素戔嗚尊の別称)」を売り歩いて熊野の神を諸国に知らしめた。
諸国を遊行して護符を売り歩く熊野の聖に熊野三山の神官は鈴木の姓を与えた。彼らは各地に根を下ろして熊野三所権現を勧請してその地に祀った事から熊野神社が全国に広まり、熊野の神と共に鈴木の姓も全国に広まったとの由。
この様にして熊野は民衆の熱い信仰に支えられその数四千と云われる熊野神社が全国に祀られ「伊勢へ七度、熊野へ三度」と云われるほど物見遊山を兼ねた参詣者で賑わった。
熊野は又、山岳宗教の聖地でもあった。そして熊野の特異性は他の霊山(大峯山、立山、白山、富士山、出羽三山、比叡山、高野山、等々)が女人結界を定めていたのとは異なり女人を排さなかった。それゆえ平安の頃から熊野比丘尼と呼ばれる尼僧が諸国を遊行して「熊野牛王宝印」の護符を売り歩き、時には歌を歌い、色を売ったとも云われている。