熊野古道 中辺路

小広王子~祓戸王子

 小広峠を下ってわらじ峠の登りに差し掛かって間もなくの所に熊瀬川王子が有った。藤原定家の「明月記」には九十九王子社が丹念に記されているが小広王子と熊瀬川王子は記されていない。定家が歩いた頃はまだ祀られていなかったのであろう。

 熊瀬川王子跡から少し歩くと古道の標識が有り生活道に別れを告げ再び山道になった。ここからが民宿「なかの」の主人に教わった本日の難所の一つ、わらじ峠への登りである。昔はこの難所を前にしてわらじを取り替えたのであろうか、この峠はわらじ峠と呼ばれている。

 道は昔も今も変わらず細い山道をひたすら登り続ける事になる。わらじ峠を登りつめると今度は標高差百二十メートルの険しい女坂の急坂を一気に栃ノ川の河原まで下り、川を渡って再び標高差二百メートルの険しい男坂を登り切ると岩神峠である。

 昔は女坂を下り男坂の登りになる谷に茶屋があり仲人茶屋と称したと説明板に記されていた。険しい男坂を前にこの茶屋で一息ついたのであろう。それにしても仲人茶屋とは小粋な命名である。

 男坂はわらじ峠の登りよりもなを厳しい登りであった。急坂を登りきると岩神峠である。峠の傍に岩神王子跡の石碑が有り、江戸中期には社殿が有ったと記されていた。

 岩神王子から曲がりくねった比較的緩やかな坂を下ると林道に出た。林道をしばらく歩むと道標が有り、熊野古道の矢印と蛇形じゃがた地蔵への矢印が有った。 

 秀衡桜で押印をうっかりして引き返した経験上、次は蛇形地蔵との思いが頭から離れなかった。そして、悪いことに蛇形地蔵は熊野古道から少し離れて位置している事も知っていた。我々は地図を確かめず蛇形地蔵への矢印に従って林道を歩いた。 

 二~三百メートルも歩けば蛇形地蔵が有り引き返して古道に戻れば良いと高をくくって林道を進んだ。

 曲がりくねった砂利道の林道は行けども行けども蛇形地蔵の有りそうな景色に行き当たらなかった。三〇分、二キロほど歩いて不安になり引き返す訳にもいかず五万分の一の地図を確かめた。 

 地図を見ると先ほど標識の有った林道を横切り一気に下って湯川川の河原に出て少し道をそれた所に蛇形地蔵が有り、林道の先を地図で確かめると林道は蛇形地蔵の手前で途切れていた。

 今更、引き返せず標識を信じて林道を進む事とした。曲がりくねった砂利道をどれほど歩いた事か、広い林道が途切れ、道の脇に蛇形地蔵の方向を示す小さな標識を見つけた。

 標識が指し示す細道に入ると道は荒れ果て、杉林の急な斜面にジグザグに下る一筋の道が続いているのが見えた。 

 我々は不安を覚えつつ標識を信じて急斜面を下った。足を痛めた者には辛い下りであった。杉林が辺りを覆い薄暗く何処まで下るのか川音も聞こえなかった。足元に注意を集中して黙々と下った。

 急斜面をどれほど下った頃か、斜面の谷筋から涌き出た水を引き込むゴムホースが見え、蛇形地蔵が近い事を知った。それからしばらく下ると微かな川の瀬音が聞こえた。 

 難行苦行の末に辿り着いた蛇形地蔵は鬱蒼とした杉林の中に有った。やっと辿り着いた安堵感からどっと疲れが出て、地蔵尊に参拝する前にリュックを下ろし冷たい水を柄杓で二~三杯飲み干した。

 それまで間違え様が無いほど完備していた標識を信じて歩いて来たが、不用意に立てられた蛇形地蔵の矢印が悔やまれてならなかった。一時は不安を覚えたが無事に蛇形地蔵に着き、地蔵尊に手を合わせスタンプ帳に押印して、しばらく休憩を取った。 

 蛇形地蔵から古道に戻り川に沿って一〇分ほど下り、小さな橋を渡ると湯川王子であった。この辺りにかつては道湯川どうゆかわ村があったが昭和三十一年に最後の一軒が去って廃村となった。

 村がまだ存在していた頃、湯川王子は道湯川村の氏神として祀られていたが例の神社合祀令によって近野神社に合祀され、近年土地の出身者らによって小社殿が再建された。

 昔、この地は熊野詣のみそぎの場所であった。上皇、貴族も湯川川で禊を済ませ、宿泊や休息を取ったと伝えられている。 

 湯川王子に着いた頃、道を間違えて遠回りしたので昼時を少々過ぎていたが近露の宿の主人の薦めも有り、昼食は眺めの良い三越峠で摂る事とし、スタンプ帳に押印を済ませ休息も取らずに先を急いだ。

 三越峠への登りは難所の一つと聞かされていたが、遅れを取り戻すべく標高差一五〇メートルの急な登りを一気に登りつめた。

 三越峠(標高五五〇メートル)は宿の主人が薦める通り、千メートル級の果無山脈の山々が見渡せる素晴らしい眺望であった。

 熊野は山深く幾重にも折り重なる山々を古人は熊野三千六百峰と形容している。まさにここからの眺めは三百六十度どこを見渡しても幾重にも折り重なる重畳ちょうじょうたる山並みであった。

 峠には休憩所が有り予定より少々遅れて昼食を摂った。宿の主人が用意してくれた大きな三個の握り飯を平らげ、友人が持参したオレンジをデザートに昼食を済ませ、山の景色を眺めてしばらく休憩した。

 三越峠から猪鼻いのはな王子に行くには関守せきもりはいないが関所の冠木門かぶきもん(二本の柱の頂部近くに横木(冠木)を通した門。)をくぐらねばならない。

 今から凡そ九〇〇年ほど昔の平安中期頃の歌人源俊頼みなもととしより(一〇五五~一一二九年)が古道を歩いた頃すでに関所は無くなっていたのか次のような歌を残している。

    「まもりける 関所のあとも あれはてて 木枯し寒し 三越の山」

 源俊頼は白河法皇より二歳年下で法皇と同じ年に亡くなった歌人である。法皇は九度、熊野に御幸しているので源俊頼も法皇に随行して熊野に詣でたのであろうか。

 詠われている三越峠の関所が廃止されたのは白河法皇が始めて熊野に御幸した寛冶四年(一〇九〇年)、熊野検校と熊野別当を置いて熊野三山を統括した時からであろうか。

 この時、白河法皇の先達せんだつを務めたのが園城寺おんじょうじ(三井寺)の僧、増誉ぞうよ(一〇三二~一一一六年)であった。増誉は大峯・熊野修験で熊野別当が修験者を配下に持ち、新宮を根拠地に強力な水軍を従えていた事を法皇に話したのであろう。

 法皇は熊野別当(熊野三山を実質的に支配し藤原氏を名乗っていたが後の南北朝の頃、後醍醐天皇を吉野に救い出した功により九鬼くきの姓を賜った。)長快ちょうかい法橋ほうきょうと云う地位を与え正式に承認し、熊野三山に紀伊国の田畠百余町を寄進した。白河法皇の熊野御幸のもう一つの目的は熊野別当を郎党にする事であったかも知れない。

 法皇は増誉の功に報い初代の熊野検校けんぎょう(熊野三山を統括する役職。)に任命し、聖体護持の二字を取って聖護院(本山修験宗総本山)を賜った。以降、上皇の熊野御幸の先達は聖護院が務める事となり、聖護院は修験道の中心的な寺院となった。

 こうして熊野を支配していた熊野別当は正式に承認され三越峠の関所も不要となったのであろうか。

 三越峠は中辺路町と本宮町の境界に位置しここから先は本宮町である。峠から猪鼻王子へは緩やかな長い下り坂であった。鬱蒼とした杉木立に囲まれた道と異なり、雑木が生い茂る自然林の快適な道であった。 

 誰にも出会わないであろうと思っていたが突然、熊野の山中にぴったりの法螺貝ほらがいを吹き鳴らす音が遠くから聞こえた。法螺貝の音は長い余韻を引いて静かな山中に響き渡った。熊野の山中ゆえてっきり修験者であろうと想像していたが、程なく行き逢った法螺貝の主は女性の二人連れであった。さすがに熊野では女性も法螺貝を吹く事に感じ入った次第。 

 下るにつれ微かな瀬音が聞こえ音無川の源流に至り、川に沿っていくつもの小さな橋を渡った。「熊野詣で」の盛んなりし頃、音無川は熊野の代名詞でもあった。参詣者はこの地に至り瀬音が大きくなった音無川を見て本宮が近い事を感じた事であろう。(熊野本宮(本宮旧社地「大斎原おおゆのはら」)は音無川が熊野川に合流する中州に有る。)

 音無川の川沿いに本宮大社の奥の院に当たると伝えられる船玉神社があった。こんな山奥になぜ船の神かと調べて見ると、昔この地に玉滝と云う滝があり神様が住んでいた。この神様が川にさかきの葉を投げ入れて溺れる蜘蛛を救った。蜘蛛は榊の葉に乗り手足を動かして岸に泳ぎ着いた。この様子を見ていた神様は楠をくりぬいて丸木舟をお造りになった。(玉滝は明治二二年、大斎原おおゆのはらの本宮旧社地の社殿を押し流した大水害で埋没したとの事。)

 船玉神社を過ぎると猪鼻王子はすぐであった。猪鼻王子は杉、檜の林の中に跡地を標す石碑が有るのみであった。これから古道の難所と云われる発心門ほっしんもん王子に向かう急坂を前にしばし休息をとった。 

 この登りは近露の宿の主人から本日の難所の一つと聞かされていた通り標高差およそ一〇〇メートル、垂直に付けられた急坂であった。

 しかし昨日も今日も何度となく登り下りを繰り返してきたのでこの急坂も苦にならず途中で休息も取らずに一気に登った。尾根近くになり上を見上げると古色を帯びた小さな木の鳥居が有り、鳥居の先が発心門王子であった。

 発心門王子は五体王子の一つに数えられる地位の高い社であったが明治末期の神社合祀令によって廃社され大樹も伐採された。近年になって整備され平成二年社殿が復元された。 

 平安、鎌倉の往時、発心門と呼ばれる大鳥居が有り、この大鳥居から先が熊野本宮の聖域であった。発心とは菩提心を起こす事であり、この門をくぐって熊野権現に帰依する事を誓う門である。

 平安の頃、先達の案内で発心門に辿り着いた上皇、貴族もこの地に立ち、この大鳥居の前で祓いを受け難路を踏破した万感の思いを込めて大鳥居をくぐり王子社に参拝し、無事にここまで辿り着けた感謝の意を奉げた事であろう。

 藤原定家はこの地で次のような歌を詠んでいる。 「いりがたき みのりのかどは けふすぎぬ いまよりむつのみちにかへすな 」

 (入ろうとして入れない法の門をくぐったからには ふたたび六道苦(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界)の道に引き返さぬようにしたい)

 我々も熊野本宮大社の入り口にあたる社前の鳥居をくぐり王子社に参拝してしばし休息の後、水呑みずのみ王子を目指した。 

 発心門王子から水呑王子までは舗装された生活道を約二キロ歩き、廃校になった小学校の分校(三里小学校水呑分校)の脇に水呑王子の碑が有った。

 古道は廃校の前を通り、杉林の中に一筋の道が延びていた。緩やかな登りが続き、杉林を抜けると点在する農家の庭先、山の斜面に茶畑が有った。

 熊野は山深く、立ち昇る霧が茶の生育に適しているのであろうか道中で見掛けた農家の庭先には必ずと云っていい程、少なくとも一うねか二畝の茶畑を見かけた。 

 水呑王子から二キロほど歩き、十数段の石段を登った所が伏拝ふしおがみ王子で有った。

 伏拝王子は小高い丘の上に有り、見下ろすと熊野川が深い渓を刻み、遠く本宮旧社地の森、大斎原おおゆのはらが遠望出来る場所であった。

 北に果無はてなし山脈が横たわり、北東には熊野三山の奥の宮ともいわれる玉置神社が鎮座する玉置山、南に大雲取の峰々を望む絶景の地である。

 長旅を歩き通した平安、鎌倉の参詣者は難行苦行の果てにこの地に辿り着いて始めて大社の社殿を遠くに臨み、感涙の余り思わず土下座してこの地から大社を伏し拝んだと伝えられている。この事からこの王子社を伏拝王子と名付けられたと伝えられている。(明月記に伏拝王子は記載されていないので後世になって祀ったのであろう。)

 我々が伏拝王子に着いた頃は、生憎と今にも雨が降りそうな曇り空で雲行きが怪しく残念ながら旧社地の森を遥拝ようはいする事は叶わなかった。

 伏拝王子には小さな石の祠が祀られていた。その脇に和泉式部いずみしきぶ(平安中期の女流歌人、九七六年頃~没年不詳)の供養塔と伝えられる笠塔婆が有った。

 平安の昔、和泉式部も熊野に詣で、本宮はもうすぐのこの地、伏拝王子に至り、月のさわりが始まった。

 参詣が叶わぬ身となった式部は

 「晴れやらぬ身の浮雲の棚ひきて月のさはりとなるぞ悲しき」

 と詠んだ。

 この式部の歎きを聞いた熊野の神が、その夜夢枕に立たれ

 「もろともに塵にまじはる神なれば、月のさわりも何かくるしき」

 と返歌された。

 熊野の神は他の神々とは異なり女人結界も無く浄不浄を問わなかったので、一度はあきらめかけた参詣を神のお告げにより式部はそのまま熊野詣を続ける事が出来たと伝えられている。(昔は女性の月のさわりは不浄であった。)

 湯峰の秋の祭りの籠かきレースでは平安衣装に身を包んだ娘さんを和泉式部に見立てて籠に乗せ山道を駆けるとの事。古道を歩いた印象では籠に乗って難路を行き交う旅も又、難行苦行の旅であった事が偲ばれる。 

 (和泉式部の生没年は不詳であるが紫式部、清少納言と同時代であり、紫式部と共に一条天皇の中宮彰子(藤原道真の長女)に仕えていた。通説では九七六年に生まれ一〇四八年に没したとされている。「熊野詣で」がさかんとなったのは白河法皇が熊野に御幸された寛治かんじ四年(一〇九〇年)からであり、和泉式部の「熊野詣で」の話は熊野の神は穢れた女人をも拒まなかった事を語り継ぐ譬え話であろう。)

 伏拝王子を後にしてしばらく歩くと雨がぱらついて来た。林に入って傘を取りだし、傘を差して杉林の快適な道を祓戸はらいど王子に向かった。

 雨は小雨の内にほどなく止みほっとしたが雨にたたられるとこの快適な道もぬかるみ旅人を苦しめる悪路に変身し難渋する事を思った。 

 伏拝王子から一時間ほど歩いた頃、林間のはるか下に人家が見え、祓戸はらいど王子が近い事を知った。林を抜けて長い長い石段を下り道路に出てしばし歩くと本宮大社の裏門とおぼしき鳥居が見え、その手前に祓戸王子の標識が見えた。 

 平安の昔、祓戸王子の地で旅の穢れを祓い清めて本宮旧社地に向かったと伝えられている。祓戸王子には小さな石の祠が祀られ周囲は杉や樫の大木が空を覆っていた。

 辿ってきた王子社はほとんど杉、檜の人工林の中に祀られていたがここ、祓戸王子は大樹に囲まれた自然林の中に祀られ、小さな祠では有るが神々しい厳粛な雰囲気に包まれていた。

 平安、鎌倉の頃の九十九王子社はこの様な如何にも神が坐し給うが如き鬱蒼とした大樹の森の中に祀られていたのであろう。 

 昔は眼下に見える大斎原の大社を目前にして、この地で旅のけがれを祓い清めたのであろう。

 「明月記」には「祓殿より、歩み融りて御前に参ず。山川千里を過ぎて、遂に宝前に奉拝す。感涙禁じ難し。」と記している。


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