皇位争乱
第五話 倭建尊
倭建尊の策謀
帝(景行天皇)は尾張から東へ逃亡し、行方知れずになっていた倭建尊(以下、尊)が東国から戻り兵と共に尾張に留まっていると知り度々、使者を遣り復命を迫ったが、尊はその都度、使者を鄭重に持て成し数日の内に復命すると告げて使者を追い返していた。
尊が復命しない事に業を煮やした帝は武内宿禰(孝元天皇の孫、蘇我氏の祖 以下 宿禰と記す。)を勅使として尾張に遣わし、「尊の東征は帝の意を呈した行いであった。東国平定を終えた今、直ちに復命すべし。」と勅命を申し渡した。臣下の礼を取らずに勅命を聞き終えた尊は「長旅の疲れも癒えた、近日中に尾張を発つ。」と約し宿禰を追い返した。
軍を率いて尾張を発った尊は尾張一宮から弥冨、桑名、亀山と進軍し鈴鹿の柵を越えて大和街道を伊賀に向かわず、臣下が訝るのも構わず現在の国道一号線を進軍し鈴鹿峠を越えて草津、石山と進軍し近江の大津に至り軍を留めて、諸将に「しばらくこの地に駐留する。」と申し渡した。
近江の豪族、意富多牟和気は尊が大津に留まったと知り、何れ皇位奪還の兵を挙げるであろうと思い館を提供し盛大な酒宴を催した。
酒宴の席に姫の布多遅媛を伴い、尊に引き合わせ妃の一人にお加え願いたいと奏上した。布多遅媛は近江で聞こえた美貌の姫で有った。その夜、尊は布多遅媛と褥を重ね妃に迎え入れた。
そして、尊は大和に復命せず近江の大津に志賀高穴穂宮(滋賀県大津市坂本穴太町)の造営を始めた。都にも尊が大津に留まり宮の造営を始めたと噂が伝わった。
帝は怖れていた事が現実となり、再び宿禰を勅使として近江に遣わし復命を迫ったが、尊は東国の兵を背景に応じる事無く、帝の即位を糾弾し復命の意志の無い事を告げた。
宿禰は逆上し兵を以って大津を攻める事も辞さないと語気を荒めて語り大津を後にした。宿禰は都に立ち帰って帝に事の次第を奏上し、尊は叛逆を企てていると語った。
帝は尊が叛逆の狼煙を上げる夢を何度も見た。遂に、怖れていた事が現実となり帝は宿禰に当たり散らし即刻、兵を差し向けよと宿禰に迫った。
しかし、宿禰は討伐の兵を差し向けても皇軍に勝ち目は無いであろう、敵は歴戦の勇者が揃い、戦となれば忽ち大和、近江の豪族も尊に加担し大和を攻めるであろう、尾張の豪族、乎止与も加担し大和は尊に包囲されるであろう、と考えていた。
宿禰は戦乱を避け和解の道を探るべきと説き帝に出兵を思い留まらせた。そして、帝は苦渋の選択をして再び宿禰を大津に赴かせた。
宿禰は言葉を選び速やかに復命して帝に遅参を詫びれば帝は罪を問わないであろう、東征の疲れから病を得て床に臥せていたと奏上願いたいとまで云い添えた。しかし、剛直な尊は勅命に服する事無く、逆に宿禰に向かい、「大足彦(景行天皇)は太子であったが熊襲討伐に向かい行き方知れずとなって七年、先帝は戦死したと思い大足彦を廃嫡して我を太子に就けた。皇統を継ぐのは我であり大足彦は皇統を簒奪した。速やかに禅譲すべきである。」と迫った。
宿禰は一瞬言葉を失い尊を正視して、怒りの感情を押し殺して申し述べた。「帝が皇位を簒奪したのではなく尊が誰にも告げず東に去ったのは皇位を大足彦にお譲りになった証であろう。古来、神武天皇が崩御した時、手研耳命の乱が有り、太子の神八井耳命は自ら皇位を弟の神渟名川耳尊(綏靖天皇)に禅譲した先例が有る。帝は皇位を譲り受けた恩顧に報い、且つ又、帝に代わり東国を平定された功に報いたいとのお考えである。申し添えると古来、帝位に就いた帝が生前に退位した例は聞かない。帝は神の御子であり崩御を以て、帝の血筋を践祚して御位に就けるのが習わしである。速やかに復命し帝に謝意を奏上願いたい。」
尊は宿禰を見据え「大足彦に伝えよ、戦を避け速やかに皇位を禅譲せよ、さもなくば兵を差し向ける。」
帝は復命した宿禰の報告を聞き、激怒してすぐさま兵を差し向けよと命じた。宿禰は重臣を集め、策を練ったが戦を仕掛ける力は失っていた。吉備、美濃、尾張、三河を初め東国、北陸、山陰、の豪族は競って大津の尊に朝貢し畿内の豪族も密かに大津に朝貢しすでに南北朝の様相を呈していた。
尊は武力による皇位簒奪を躊躇、帝に禅譲を迫った。帝と宿禰は拒絶を繰り返し、丹波、但馬、吉備に御子を勅使として遣わし尊の非を論じ、大津に兵を向けよと各地の豪族を説かせたが豪族は応じなかった。
数年の歳月が過ぎたが事態は好転せず、むしろ尊の人望が高まり、豪族も尊の即位を望んでいた。帝も事態を認識し宿禰に後事を託した。
帝には七十七人の皇子女がいたが帝は後の后、八坂入媛(崇神天皇の孫娘)が生んだ若帯日子(後の成務天皇)を事のほか溺愛し、大半の皇子を諸国に分封し若帯日子を太子に就けた。
帝が後事を託した武内宿禰は孝元天皇の曾孫に当たり、父は屋主忍男武雄心、母は紀の国の豪族、莵道彦の娘、影媛である。武雄心が紀の国の平定を命じられ、紀の国に留まっていた時、影媛を娶り若帯日子と同年同月同日に武内宿禰が生まれた。
帝は不思議な縁を持って生まれたこの御子を召し出し若帯日子の良き友として兄弟の如く育てさせ、二人は位を超えて刎頸の友となった。
帝は幼き頃から利発な宿禰を可愛がり長じて後、臣下となった宿禰の異才を見抜き補佐役として政務を委ねた。
帝が最も恐れる事は尊が兵を挙げて都に攻め寄せ、若帯日子の太子の位を奪い、遠国の国造、県主に追い遣る事であった。宿禰も同じ思いを抱いていた。帝は若帯日子を守れるのは宿禰しかいないと強く思っていた。宿禰もその時は身を賭して阻止する覚悟を固めていた。
数年の時が過ぎ、尊は名実共に朝廷の実権を握る事とした。その為にも帝に魑魅魍魎が跋扈する大和を棄てさせ、この大津の坂本にお遷しする事とした。
吉備武彦に兵を授け御輿を設え、有無を云わせず纏向日代宮(奈良県桜井市)から帝を志賀高穴穂宮に遷した。
大津に軟禁状態となった帝は日に日に気力も萎え、程なく病を得て、景行一七年(三二六年)冬十一月七日、失意の内に四十四歳の生涯を閉じ崩御された。
帝の崩御を聞き宿禰と群臣は急ぎ若帯日子を践祚して皇位に就けた。尊は何の相談も無く若帯日子を践祚して皇位に就けた宿禰の謀略を怒り、吉備武彦に命じて宿禰の館を囲ませた。
宿禰は驚く風も見せず、家人に武器を全て集めさせ庭の隅に積み上げ、家人も一カ所に集め門を開いて吉備武彦に告げた。「尊に刃向う積りは無い。尊に存念を申し述べたい。願わくば尊の来駕を賜りたい。」吉備武彦は直ちに事態を知らせる使者を送り尊の来駕を乞うた。
宿禰は尊が館に現れたと知り、装束を改め、門前に進み出て尊の前で跪いて申し述べた。「死は畏れておりません、死を前にして申し述べたき事が御座います。何卒、館にお入り願いたい。」
尊を館に招きいれた宿禰は平伏して申し述べた。「先の帝は若帯日子を太子と定めておられました。立太子の儀は纏向日代宮で執り行う手筈となっておりましたが、尊の命により、突然に都を志賀高穴穂宮に遷されました。都を遷してから帝の体調は優れず、立太子の儀を急げと何度も申されましたが、我々群臣は尊にこの事を申し上げるのを躊躇い、歳月が経ち、帝は失意の内に崩御なされました。今、先帝が立太子の儀を執り行わなかった事を以て、太子の定め無きとするは如何なものかと存じ上げます。若帯日子は帝が定めた太子である事を知らぬ群臣は居りませぬ。それでもなを尊はこの機を捉え若帯日子を弑して皇位に就く御所存か、帝は既に亡く最早、尊を太子と定める勅は下りません。皇位に就くには若帯日子を弑し、皇位を簒奪する他に道は御座いません。今までの輝かしい事跡を棄て、民の謗りを受けて即位しても、後世に悪名を残しましょう。今は先帝の御子、若帯日子を皇位に就け、速やかに尊の御子、帯中日子(後の仲哀天皇、母は布多遅能伊理媛)を太子とする事が皇位を継承する最善の策と感得致します。朝廷の実権は旧のまま尊が掌握し宿禰は今まで通り臣としてお仕え申し上げます。」
尊は宿禰の申し述べる事を苦々しく感じたが他に取るべき手段もなく宿禰の進言を受け入れざるを得なかった。
翌年春一月五日、尊は若帯日子を志賀高穴穂宮にお迎えして即位の儀を執り行い成務天皇(在位三二七年一月五日~三三七年六月一一日)となられた。帝はこの時、二十三歳であった。
帝(成務天皇)は先帝を山辺道上陵に葬り景行天皇の謚を奉った。帝は尊の意向に従い都を遷す事無く滋賀の志賀高穴穂宮を都と定めた。
宿禰は天皇即位の儀式が終わると直ちに群臣を集めて朝議を開き苦渋に満ちた顔を隠さず帯中日子を太子に推挙して帝に奏上した。
帝は我が御子、和訶奴気を差し置き帯中日子を太子とする事に不快の念を覚えたが抗する術も無く宿禰の申す通り、帯中日子を太子とお決めになった。
宿禰は帝の手を取り屈辱に屈した事を耐え忍び何時の日か皇室を旧に復す事を誓い合った。帝は身を挺して尊の即位を阻み、群臣を説き伏せた労苦に報い宿禰を大臣の位に就けた。
尊は、帯中日子の立太子の儀を見届け、先行き皇位継承の争いが起こらぬよう、帝の名の下に景行天皇の皇子八十人の内から有力な皇子を国や郡に封じ任地に赴く事を命じた。任命を受けた皇子は尊の策謀と知りつつ都を辞し任地に赴いた。