皇位争乱

第五話 倭建尊やまとたけるのみこと 
倭建尊の東征

 都を抜け出した倭建尊やまとたけるのみこと(以下、みことは伊勢街道を東に向かい伊賀から加太かぶと峠を越えて鈴鹿の柵を目指した。付き従ったのは吉備武彦きびのたけひこと十数人の兵に過ぎなかった。

 鈴鹿の柵を越えて伊勢に逃れ、伊勢で天照大神あまてらすおおみかみに仕える異母妹の倭姫やまとひめに会って事の次第を話し一旦東国に落ち延びて再起を期すると告げた。

 話を聞き終えた倭姫やまとひめはこの剣で身を守れと伊勢の宮に祀る天叢雲剣あめのむらくものつるぎ(注一)を授け、お守りとして邪気を払う火打ち石を皮袋に入れ肌身離さず身に付けておくよう申し渡した。

 尊が伊勢に留まっていると知った葛城の宮戸彦みやとひこは美濃の宮戸弟彦みやとおとひこを誘い、宮戸弟彦みやとおとひこは伊勢の石占横立いしうらのよこたちと尾張の田子稲置たごのいなき乳近稲置ちぢかのいなぎを誘って馳せ参じた。

 伊勢を後にした尊は尾張の乎止与おとよ天香山尊あめのかぐやまのみことの十一世)を頼って尾張一宮に至った。乎止与おとよも都の騒動を聞き知っていたが尊に恭順を誓い、証として熱田の神に仕える娘の宮簀媛みやすひめを妃の一人に御加え願いたいと差し出した。宮簀媛みやすひめを一目見た尊はその美しさに心打たれ一夜の契りを結び妃の一人に加えた。

 秋八月、尊が尾張に留まっていると知った大足彦おおたらしひこは御子の大碓おおうすと共に兵を率いて尾張に向かった。

 尊は大足彦おおたらしひこが兵を率いて美濃に迫ったと知り尾張に災禍が及ぶのを避けて東に逃れる事とした。そして、乎止与おとよを召し尾張の国造くにのみやつこに任じ、同行を強く願う宮簀媛みやすひめに必ず尾張に戻ると告げた。

 乎止与おとよ宮簀媛みやすひめの兄、建稲種たけいなだねに尊をお守りせよと命じ随行させた。尊は建稲種たけいなだねの兵に守られ南に駒を進めて熱田(伊勢湾は現在より北に湾入し熱田は湊であった。)から建稲種たけいなだねが率いる軍船に乗り東に船出した。

 大足彦おおたらしひこは尾張に入ったが尊はすでに東に去った後であった。大足彦おおたらしひこは御子の大碓おおうすに後を追わせ自身は引き返して伊勢の綺宮かにはたのみや(三重県鈴鹿市加佐登町)に留まりみことを待ち受けたが、尊を追って東に向かった大碓おおうす参河みかわ許呂母こもろ猿投さなげ(愛知県豊田市猿投 猿投神社 主祭神 大碓命おおうすのみことの地で土蜘蛛に遭遇し戦に敗れて戦死したとの報せを受け止む無く纒向まきむく珠城宮たまきのみや(奈良県桜井市)に立ち帰った。

 そして、群臣の反対を押し切って即位し景行けいこう天皇 在位三〇九年七月一一日~三二六年一一月七日)先例に倣って都を纏向の日代宮ひしろのみや(奈良県桜井市穴師)に遷した。

 一方、尊は建稲種たけいなだねが率いる軍船に乗り知多半島、渥美半島を回って遠州灘に差し掛かると荒波に揉まれ潮に翻弄された。それまでの穏やかな海とは異なり強い風が吹き荒れ海は大しけとなった。黒々とした大波が押し寄せ船は潮にもてあそばれた。

 大波が迫り船は舳先を天に向けて波の頂きに押し上げられ、次は奈落の底に引き摺り込まれた。船の激しい揺れと共に多数の兵が船酔いに苦しみ激しく嘔吐を繰り返した。

 建稲種たけいなだねが率いる水軍の兵は荒波を物ともせず交代しながら間断なく櫓を漕ぎ続けた。船団は日が暮れなずむ頃、入り江に投錨し夜を明かした。翌早朝、波もおだやかになり船出した船団は遠淡海とおつあわうみ(浜名湖)に至った。

 建稲種たけいなだね雄踏ゆうとう(静岡県浜松市西区雄踏町)の辺りの水路に船を留め、海浜で夜を明かす支度に掛かった頃、雄踏の豪族、印岐美いにきみが現れ一行を館に招き、恭順の証として大御食おおみけ(帝に奉る御膳)を奉った。

 翌早朝、尊は近くの金山(浜松市西区雄踏町宇布見 金山天神社)に登り雄々しく踏み固めた事からこの地を雄踏と名付け、印岐美いにきみ遠淡海とおつあわうみ国造くにのみやつこに任じた。

 尊は更に東に向けて船出した。船団は潮に乗って御前崎の岬を回り込み大井川の河口、駿河の焼津の地に至った。大井川は幾筋もの支流に枝別れしていた。建稲種たけいなだねは夕闇が迫る頃支流の一つに船団を導き投錨する地を選び船団を留めた。

 この地を支配する駿河、廬原いおはら(西は大井川東は富士川の領域)国造くにのみやつこは尊と大足彦おおたらしひこが帝位を争い、尊が東に逃れた事を聞き知っていた。尊を討ち取り都に上れば栄達は思いのままであろうと野心を膨らませていた。

 尊の動静を探る内に兵力は多寡たかだか二百余りと知り、事と次第に因っては一戦を交えるべく密かに戦の支度を調え、焼津の湊に投錨した事を知った国造くにのみやつこは一計を案じて自ら宿営の地に出向き館の提供を申し出た。

 そして、みことを居館に招き大御饗おほみあへ(天皇にたてまつる御膳、服従を示す)を奉って恭順の意を示し、この地は狩りの猟場に恵まれ鹿や猪も冬に備え肥え太っており、船旅の疲れを癒すには狩りが最適で有ると尊を狩りに誘った。

 翌日、みことは数名の供を従え国造と馬を並べて狩り場に向かった。狩り場は身丈ほどの立ち枯れた草が生い茂り、木々は疎らな山裾であった。黄色く枯れた草を分けて馬を進めた。

 その日、晩秋の空は晴れ渡り風が少し強く木々の梢を鳴らしていた。野に在る鹿も猪も冬に備え肥え太り、鹿の角は立派に生え揃って、狩りの獲物が楽しみであった。

 一方、国造の兵は勢子になりすまして狩り場に向かい、狩り場を囲む様に草に身を潜め合図の時を待った。国造は巧みに尊を誘い獲物を追った。随行した兵も国造の態度に謀略の気配を感じ取れなかった。彼らも獲物を追って野を駆け、尊は国造に促されるまま駒を進め、いつの間にか国造と二人になっていた。国造はその内、家人も追い付いて来るであろう、もう少し先へ行こうと誘った。

 尊は疑わず駒を進めた。突然、国造は馬を疾駆させ天に向かって矢を射り薮の中に消えた。それを合図に草陰に潜んでいた国造の兵が枯れ草に火を放った。

 乾き切った枯れ草は瞬く間に燃え上がり野火と為って一面に燃え広がった。煙が空を覆い風が炎を駆り立てた。尊は欺かれたと気づいたが見る見る内に火に囲まれ、進退はきわまった。煙に苦しめられ、火は刻々と近づいて来た。火勢の弱い所を探したが、一面、火の海に見えた。

 火と煙に囲まれ思いを巡らしたが策はなく、天叢雲剣あめのむらくものつるぎを握り締めて願わくば危難を逃れる策を授け給えと伊勢の神に祈った。斎宮いつきのみや倭姫やまとひめから天叢雲剣あめのむらくものつるぎと共に伊勢の神に伝わる火打ち石を授かり片時も肌身離さず腰に吊している事を想い出した。

 天叢雲剣あめのむらくものつるぎで背丈程に生い茂る廻りの草を刈り、急ぎ袋を解いて迎え火を放った。火は攻めぎ合い野火は鎮火して煙が立ち込める焼け野の中にみことが剣を構えて待ち構えていた。焼け死んだ筈の尊が立ち上る煙の中から鬼人の如く現れて立ちはだかる姿を見た国造くにのみやつこの兵は驚きと恐れを感じ我先にと逃げ散った。

 駆け付けた家人も炎の中から剣を構えて甦った尊を見て神の化身ではないかと感じその場に平伏して赦しを乞うた。尊は家人の落ち度をとがめる事なく平然と馬に跨り露営の陣に還り建稲種たけいなだねに戦の支度を命じた。

 一方、国造は策を労し罠に掛け今一歩で取り逃がした事を悔やんだ。急ぎ館に還り防御を固め来襲に備えたが炎の中から生還した尊を畏れ兵の半ばは逃亡した。

 翌朝、尊は日の出と共に軍を発し国造の館を囲み、館から一兵も逃すなと命じて館に火箭を射させた。館は見る見る燃え上り炎に追われて逃げ惑う兵が門に押し寄せたが燃え盛る館に追い返せと命じた。

 館は燃え尽き国造とその兵はことごとく焼き殺された。尊は野火に遭ったこの地を焼津と名付け吉備武彦きびのたけひこの子、思加部彦しかべひこ国造くにのみやつこに任じこの地に留まれと命じた。

 そして、東を目指して船出し天然の良港、折戸湾の宮加三みやかみの地(静岡県静岡市清水区清水港)に至り海上から秀麗な富士の嶺を仰ぎ見た。あまりの美しさに船団を留めた。

 翌朝、尊は有度山うどやま(日本平)に登り富士を仰ぎ見た。臨み見る富士は冠雪を頂き裾野まで遮るものを寄せ付けない豊かな広がりを見せていた。腰を下ろし富士を眺めているだけで船旅の疲れが癒された。

 宮加三みやかみを船出して西伊豆の良港、戸田湊へだみなとに暫し留まり、再び船出して駿河湾を南下し伊豆半島の突端、石廊崎の絶壁に打ち寄せる白波を眺め相模湾に入った。伊豆の山並みを左手に見て船団は下田、真鶴、相模川河口と投錨を重ね三浦半島の走水(横須賀)に碇を降ろした。

 走水に数日滞在し土地の豪族、弟武彦おとたけひこの求めに応じて冠を下賜かしされ相武さがむ国造に任じた。この冠はこの後、石櫃せきひつに納められその地に社殿を建てたのが走水はしりみず神社(神奈川県横須賀市走水)と云われている。

 冬十一月、対岸の富津ふっつ(千葉県富津市)を目指して走水を船出した。船団は波も無く穏やかな海を進んだ。

 みことは穏やかな海を見てこの波なら立ち走っても上総かずさに着けると口走り船首を対岸の上総に向け内海うちつうみ(東京湾)を横断する海路を取らせた。三浦半島が地平に没する頃、神は海を甘く見た事を怒り海は荒れ始めた。

 船団は走り水(早い流れ、浦賀水道)に行き当たり船は流され早瀬を乗り切れなかった。出立の時の晴天が嘘の様に空は黒雲に覆われ強風と雷雨が船団を襲った。

 波はいよいよ高くなり潮が激しく流れ、船の舵も思うように取れなくなった。尊は神の怒りに触れた事を悟り一心に罪を詫びたが神は鎮まらなかった。嵐はますます激しくなり雷鳴が轟き、強風が吹き荒れて高波が押し寄せ船は木の葉の様に波にもてあそばれた。余りの恐ろしさに身を縮めて船室にうずくまっていた后の弟橘媛おとたちばなひめはこの嵐は怒り荒れ狂う海神の仕業であろうと思った。

 この身を海神に奉げて海を鎮めようと決意した弟橘媛おとたちばなひめは尊が無事にこの海を渡り東国の兵を引き連れて都へ還る事を願い、この身を海神に奉げると尊に告げ、船室を走り去って舳先に立ち、菅畳、皮畳、絹畳をそれぞれ八重に重ねその上に飛び降りてしまわれた。

 尊は流れ去る畳の上で神に祈る后の姿に神の加護を祈ったが畳は波に翻弄ほんろうされ瞬く間に后の姿は波間に没した。暫くして嵐は過ぎ去って波は穏やかになり船は軽やかに進み上総に到った。

 尊は我が為に神に身を捧げた后を想い、哀しみが心の底から沸々とこみ上げてきた。数隻の船が難破し数十名の兵も后の弟橘媛おとたちばなひめと共に波間に没した。最も愛しき人の命と引き替える荒振る神に怒りを感じ、抗しがたい神を畏れ、犠牲を強いる神に祈る己がみじめに思えた。

 みことは后の弟橘媛おとたちばなひめが運良く浜に打ち寄せられていないか一帯の海浜を探させた。四日の後、天照大神あまてらすおおみかみの化身である鏡を祀る船が船橋に漂着した事を知らされた。尊は船橋に赴きうやうやしく鏡をささたてまつりこの地に社を建て、天照大神あまてらすおおみかみを祀った。意富比おおひ神社 千葉県船橋市宮本 通称、船橋大神宮)

 七日の後、浜に弟橘媛おとたちばなひめがお使いになっていた御櫛と袖が流れ着いた。尊は御櫛と袖を握り締め、嘆息して、

   「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影を見るぞ悲しき」 と詠んで袖が流れ着いた地をなかなか去らなかった。

 尊は御陵を造りその中に櫛を納め橘の樹を墓標として植え(橘樹神社 千葉県茂原市本納)、袖を社に祀り(吾妻神社 千葉県富津ふっつ市、木更津市)海浜を袖ケ浦と名付けた。(木更津、君津の地名は尊の詠んだ「君去らず」に由来し木更津と呼び習わす事となったと伝えられている。)

 一方、南房総を支配していた阿久留王あくるおうは尊が后の弟橘媛おとたちばなひめを捜し求めて房総の海浜に探索の兵を走らせたのを見て侵略の兵が押し寄せたと疑い、君津の南方、鹿野山かのうざん(千葉県君津市)に砦を築き各地に柵を設けて防備を固め、后を葬り悲しみに沈む尊の一行に兵を差し向けた。

 尊は来襲した兵を一蹴し、鹿野山に拠る阿久留王あくるおうが差し向けた兵と知った。阿久留王あくるおうは六人の勇猛な将と数百の兵を従えて南房総を支配し土地の豪族に上納を強いていた。大和に刃向かう賊の存在を知った尊は土地の豪族に兵を出させ賊帥の阿久留王あくるおうを討伐する事とした。

 冬十一月、尊は阿久留王あくるおうの拠点の一つである滝口の柵、次いで高坂柵を激戦の末に攻め落とし阿久留王あくるおうの出方を待った。

 阿久留王あくるおうは尊の猛攻に会い二つの柵が攻め落とされたと知り鹿野山を出て鬼泪山きなだやま(千葉県君津市)に布陣し待ち構えた。尊は鬼泪山に攻め上り激戦となった。

 阿久留王あくるおうは六尺(一八二センチ)も有る大鎌を振るって襲いかかり次々に兵の首をねた。兵は近寄れず遠巻きに阿久留王あくるおうを囲んだ。弓の名手、宮戸弟彦みやとおとひこはこれを見て矢を放ち阿久留王あくるおうの右肩を射抜いた。

 兵は一斉に阿久留王あくるおうに斬りかかったが阿久留王あくるおうは矢傷を物ともせず大鎌を振るって逃れ、配下の将と共に敗走した。尊の兵はこれを追い六手むて(千葉県君津市六手)の地で阿久留王あくるおうを追い詰めた。

 捕えられた阿久留王あくるおうは尊に命乞いをしたが尊は聞き入れず八つ裂きにせよと命じ、捕らえた阿久留王あくるおうの五体をばらばらに切り刻み別々に埋葬した。そして、敗走する賊の一味を追わせ尽く斬り殺した。

 十日に亘る激戦の間、近隣の民は戸を固く閉ざし、家から一歩も外に出ず、訪ね来る者にも戸を開かなかった。討伐を終えた尊は近隣に賊は討ち取ったと触れを出し、阿久留王あくるおうの残党を追ってさらに東へ軍を進め銚子まで遠征した。

 銚子で建稲種たけいなだねが率いる水軍と合流し尊は崇神天皇の御世、大毘古おおびこ武渟川別たけぬなかわわけが出会った相津あいず(会津)より北の蝦夷の地、日高見国ひたかみのくに(北上川流域にあった蝦夷の国)を平定して武を示し都に帰還しようと思った。

 天照大神の象徴である大鏡を舳先に掲げ、銚子を出航した船団は北に向かった。蝦夷えみしの地、大隅川(阿武隈川)の河口、葦の浦(宮城県亘理わたり郡亘理町荒浜)に碇を降ろし蝦夷の襲来を警戒しつつ数日留まり、玉の浦(宮城県岩沼市東部海岸)から日高見国ひたかみのくに竹水門たかのみなと(宮城県宮城郡七ヶ浜町湊浜)に至った。

 蝦夷の首魁、島津神しまつかみ国津神くにつかみは尊の来襲に備え竹水門たかのみなとで迎え撃つ準備を整えていた。しかし、近づいて来た軍船の多さにとても勝ち目は無いと悟り尊に帰服を願い出て兵を差し出した。

 上陸した尊は多賀城(宮城県多賀城市大畑)に布陣し蝦夷を北に追い遣り日高見国ひたかみのくにを制し、東征の地も此れ迄と思い建稲種たけいなだねが率いる水軍と別れ自身は陸路、北限の地を去って帰還の途についたが、行く手は蝦夷の支配する地であった。

 名取(宮城県名取市)に至ると蝦夷との戦になった。苦戦を強いられ尊は皇壇ヶ原(宮城県名取市閖上ゆりあげに祭壇を設え神に祈った。この祈りが通じたのか蝦夷を敗走させた。

 名取から岩沼(宮城県岩沼市)を過ぎ、阿武隈川に沿って南下し白石川(阿武隈川の支流)の渡渉地を求めて大河原に至ると白石川の対岸に蝦夷の軍が見えた。尊は大高山神社(宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬字神山 祭神 日本武尊)の地に布陣し、未明に白石川を渡河して蝦夷を敗走させた。

 大河原から再び阿武隈川に沿って南に軍を進め遭遇する蝦夷を撃破して角田かくだに至った。角田で斗蔵山とくらさんに拠る蝦夷を討ち、国見、桑折れと進軍し福島の飯坂に至り豊富な湯量を誇る温泉(飯坂温泉)が湧きだしていると知り軍を留めて行軍の疲れを癒した。

 飯坂から二本松、郡山、須賀川と進軍し磐城棚倉に至り蝦夷と遭遇し戦となった。元々、この地は磐城彦が支配していたが八溝やみぞ山を根城に略奪を繰り返す蝦夷との戦いに敗れ蝦夷が支配する地となっていた。

 蝦夷は尊の進軍を知り八溝やみぞ山に塁を築き磐城棚倉に布陣して尊を待ち受けていた。尊は鉾立山に布陣し蝦夷と激戦を繰り広げたが戦は一進一退で尊は苦境に立たされた。尊は山の中腹にある磐座に座し一心に神に祈った。すると都都古別神つつこわけのかみが顕れ鉾を授けられた。

 尊はこの鉾を掲げて軍の先頭に立ち待ち構える蝦夷の軍に突き進んだ。鉾を一閃すると数十人の首が飛び蝦夷は鉾を恐れて我先に敗走した。

 尊は軍を進め都都古別つつこわけ神社(福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場)の地に布陣し八溝やみぞ山に攻め上り激戦を制して蝦夷を追い詰め皆殺しにした。戦を終えた尊は再び鉾立山に登り山頂に鉾を突き立て社を建て都都古別神つつこわけのかみを祀った。

 尊は磐城棚倉から南に軍を進め久自(茨城県日立市・常陸太田市周辺、旧久慈郡)に近づくと竹水門たかのみなとで別れた建稲種たけいなだねに到着を知らせる先触れの兵を出した。

 建稲種たけいなだねは一足早く久慈川の河口に停泊し久自の豪族、船瀬足尼ふなせのすくねの館に留まっていた。船瀬足尼ふなせのすくねは物部連の祖、伊香色雄命いかしこおのみことの三世の孫と称し久自を支配し常陸太田に居館を構えていた。

 先触れの兵の知らせを受け船瀬足尼ふなせのすくねは一族郎党を引連れ建稲種たけいなだねと共に尊を出迎え、館に招き大御饗おほみあへ(天皇にたてまつる御膳、服従を示す)を奉って恭順の意を示した。尊は数日留まり別れに際し船瀬足尼ふなせのすくねを久自の国造くにのみやつこに任じた。

 そして、久慈川河口に停泊していた建稲種たけいなだねが率いる軍船に乗り南を目指して出帆し、那珂川の河口、阿多可奈湖あたかなのみなと(那珂川の河口は涸沼ひぬままでをも含む広大な内海であった。)を航行して那賀なかの水戸に至り吉田神社(茨城県水戸市宮内町祭神 日本武尊)の地に碇を降ろした。

 那賀なかの豪族、建借間たけかしまは尊の軍船が停泊したと知り急いで駆け付け館に招いて恭順の意を示した。尊は兵を休め数日留まって去るに際し那賀なかの豪族、建借間たけかしま那賀なかの国造に任じた。

 那賀なかの水戸を出航した船団は鹿島灘から香取海(香取海は霞ヶ浦(西浦、北浦)、印旛沼、手賀沼をひと続きにした広大な規模の内海だった。)を航行し常陸の新治にいはり(茨城県新治郡新治村 現在は土浦市)に至った。

 新治にいはりの豪族、比奈羅布ひならすも尊の軍船が停泊したと知り急いで駆け付け館に招いて恭順の意を示した。尊は兵を休め数日留り、建稲種たけいなだねが率いる水軍と別れ自身は筑波(茨城県つくば市、つくばみらい市)、武蔵(埼玉県、東京都の一部)、相模(神奈川県)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)の国を巡って兵を集め尾張で落ち合う事とした。去るに際し比奈羅布ひならす新治にいはり(土浦市、かすみがうら市)の統治を許し国造に任じた。

 尊は常陸の新治にいはりから筑波を経て武蔵に至った。武蔵の豪族、兄多毛比えたもひの館で歓待を受け長かった旅の疲れを癒した。館に留まる内に都の暮らしが想い起こされ望郷の念が募った。尾張の宮簀媛みやすひめの事も気掛かりと為り都に還る事にした。

 氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町)に詣でて武運長久を祈り兄多毛比えたもひを武蔵の国造くにのみやつこに任じて武蔵を出立した。

 そして、浅草のおおとり神社(東京都台東区千束)に詣で、戦勝を謝す祈りを奉げ、社前の松に武具の「熊手」を掛けて暫しの休息を取った。その日が十一月酉の日であった。(この故事により鷲神社例祭、酉の市が始まった)

 相模に入り足柄坂あしがらさか(静岡と神奈川の県境)に至った。峠に立ち東南に広がる海を見てああ我妻よと弟橘媛おとたちばなひめしのんで三度嘆かれた。これより後、足柄峠より東を吾嬬あずま(我妻)あずまと呼び習わす様になった。

 尊は峠を越え御殿場から富士吉田、大月を経て甲斐(山梨県)に至った。甲斐は狭穂彦王さほびこのみこの三世の孫、臣知津彦公おみちつひこのきみの子と称する塩海足尼しおのみのすくねが支配していた。塩海足尼しおのみのすくねは館を提供して尊を歓待し暫しの逗留を勧めた。

 その夜、尊は誰に問うでもなく「新治にいはり、筑波を過ぎて幾夜か寝つる(新治、筑波を過ぎて、幾夜寝たことであろうかと)」と家臣達に問い掛けたが誰も答えられなかった。すると、火焚の翁が「日々(かが)(なべ)て、夜には九夜、日には十日を(日数を重ねて、夜で九夜、昼で十日でございます)」と答えた。この問答歌が連歌の始まりと伝えられている。

 尊はこの館を酒折宮さかおりのみや(山梨県甲府市酒折 酒折神社)と称し数日、滞在された。そして、尊が酒折宮さかおりのみやを発つ時、塩海足尼しおのみのすくねを召して「行く末はここに鎮座しよう」と申され塩海足尼しおのみのすくねを甲斐国造に任じ、焼津で野火から身を守ってくれた「火打嚢ひうちぶくろ」を授けた。塩海足尼しおのみのすくねはこの「火打嚢ひうちぶくろ」を尊の分身と崇め御神体として御鎮祭した。

 酒折宮さかおりのみやを発った尊は甲斐の甲府から富士川を遡り、八ヶ岳の麓、小淵沢を経て科野しなの(信濃 長野県)の山浦(長野県茅野市)に至った。山浦で吉備武彦きびのたけひこに一軍を授け「ここより越に赴き越の地形と人民の順逆(恭順か反逆か)を調べよ。」と命じ吉備武彦きびのたけひこを越に遣わした。

 尊は山浦から崇神すじん天皇の御代、大毘古おおびこが東国からの帰路に辿った道を踏みしめ、杖突峠を越えて高遠(長野県伊那市高遠)から天竜川に沿って下り伊那の宮田(長野県上伊那郡宮田村)から赤須の里(長野県駒ヶ根市赤穂)に至った。

 この地の豪族、赤須彦はみことが当地に向ったと知り、杉の大樹の下に仮宮大御食おおみけ神社 長野県駒ヶ根市赤穂)を設け、道に御旗を立て並べてお迎えしていた。

 これを見た尊は「汝は何者か」と問うた。赤須彦は「吾は思兼尊おもいかねのみことの子、表春命うわはるのみこと饒速日命にぎはやひのみことに随行して天降った神)の末裔で赤須彦と申します。尊がお越しになると聞き及び仮宮を設けてお迎えに参上いたしました。」と申し述べ仮宮に案内して大御食おおみけ大御酒おおみきを献じてもてなした。尊は赤須彦のもてなしを称え、これより後は御食津彦みけつひこと名乗れと名を与えた。

 饗宴の席には赤須彦の娘、押姫も末席にはべった。尊は押姫を見て我が眼を疑ぐった。押姫をお側近くに呼び寄せまじまじと見た。押姫は尾張に残した宮簀媛みやすひめに瓜二つで有った。尊は懐かしさの余りこの地に三夜留まり押姫としとねを共にした。去り難い気持ちを断ち切り尊は美濃を目指し軍を進めた。

 赤須の里を発ち育良いくら(長野県飯田市殿岡)阿智あち(長野県下伊那郡阿智村)に至った。阿智から信濃と美濃を分ける東山道最大の難所である信濃坂(神坂峠)に向かった。この峠を越えて美濃の坂本(岐阜県中津川市駒場)に至り、坂本から多治見、小牧から尾張一宮に至る。

 尊は霧が立ち込める信濃坂を目指して山中を進んだが山道はますます険しくなった。その時、尊を迷わそうとする神が白鹿に化けて尊の前に現れ道を塞いだ。

 尊は不思議に思いながら噛んでいたひる(ノビル)を白鹿に投げつけた。投げつけた蒜は偶然にも白鹿の目に当たり白鹿は死んでしまった。すると突然、濃霧が立ち込め辺りを包んで方向を定められず道を見失った。その場に留まり霧の晴れるのを待ったが霧は一層濃くなり兵を不安にさせた。

 霧は邪神の仕業かと疑い辺りに気を配った。突然、白い霧の中から白い犬が姿を現した。犬は尊の前に歩み寄り一声吠えて促すが如く歩み始めた。尊は神が遣わした道案内で有ろうと察し犬の後に付いて軍を進め、犬に導かれて山中を脱し無事に美濃の地に入った。

 美濃と尾張の境、内津うつつ(愛知県春日井市と岐阜県多治見市の境)に差し掛かった時、早馬で駆けて来た建稲種たけいなだねの従者、久米八腹くめのやはらから常陸の新治にいはり(茨城県新治郡新治村 現在は土浦市)で別れ船団を率いて帰途に就いた建稲種たけいなだねが駿河の海で珍しい鳥を見つけみことに献上しようと追い回す内に突風が吹き乗船していた船が転覆して溺死したと聞かされた。

 尊はこれを聞き「ああ(嗚呼)うつつ(現)かな、ああうつつかな」と嘆き悲しみ建稲種たけいなだねの霊を祀った。内々うつつ神社 愛知県春日井市)

 尊は悲しみの内に軍を進め、東征の長い旅も終わりを告げ尾張に還り着いた。軍律を解き、兵を休め、自身は宮簀媛みやすひめの館に入り長い旅の疲れを癒した。


注一 天叢雲剣あめのむらくものつるぎ

後にこの剣は倭建尊やまとたけるのみことによって草薙剣くさなぎのつるぎと改称され、三種の神器の一つになった。


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