皇位争乱
第五話 倭建尊
本牟智和気
帝(垂仁天皇)は亡くなった最愛の后、狭穂姫の願いを入れて丹波の美智宇斯王の五人の姫を召し出した。
丹波から都に上った五人の姫を一目見た帝は一番上の姫、日葉酢媛(兄比売)を皇后とし渟葉田瓊入媛(弟比売)、真砥野媛、薊瓊入媛を妃に迎え入れた。五人目の竹野媛は男勝りで気性が強く帝の御気に召さず故郷に帰された。
竹野媛は帰される理由を問いただし、容姿が醜い故と聞かされ耐え切れずその場に泣き崩れた。同じ腹から生まれた姉妹でありながら容姿が醜いが故に帰される恥辱を受けた竹野媛は生きる気力を失い食も摂らず数日泣き暮らした。
供の者に促され丹波に向かって帰路についた竹野媛は山代の相楽に至り、このまま故郷に帰り恥じを曝して生き長らえる事が出来ようかと木の枝に腰紐を掛け死のうとしたが供の者に見つかり死に切れなかった。(この地を懸木といったが今は訛って相楽(京都府木津川市相楽)という)
姫は身も心も虚ろで供の者に促されて山城の国の乙訓に辿り着いた時、悲しみに耐えきれずとうとう深い淵に身を投げて自らの命を絶った。(この地を堕国と呼ばれるようになりこれが訛って弟国、乙訓となった。(京都府長岡京市))
后に上った日葉酢媛は三男二女を生み渟葉田瓊入媛と薊瓊入媛は共に一男一女を生んだが、帝(垂仁天皇)は最愛の后、狭穂姫の忘れ形見本牟智和気を事のほか可愛がった。
御子が船に興味を抱くと帝は尾張の相津に有る二股の杉から二股の小舟を造らせ、それを大和に運んで市師池や軽池に浮かべて御子と遊んだ。
しかし、本牟智和気は成長してもお声を発する事はなかった。帝は思い悩み狭穂彦の怨霊が御子に乗り移ったのではないかと巫女を召して神に問わせたが神は応えなかった。
帝は本牟智和気を太子にと強く望み、声を発する事を待ち望んだが、五歳を迎えてもお声を発しなかった。
十八歳の春を迎えた本牟智和気は堂々たる体躯を持ち立派な髭を蓄え風貌を見る限り皇子が唖である事を気付かせなかった。
しかし、御子は相変わらず言葉を発しなかった。思い悩んだ帝は再び巫女に占わせたが神は応えなかった。
唖の皇子に皇位を継がす訳にもいかず逡巡した末に帝は五十瓊敷入彦(母は日葉酢媛)と同母弟の大足彦(後の景行天皇)を召し二人に欲するものをお尋ねになった。
五十瓊敷入彦は武を好み弓矢を欲した。大足彦は身の丈、六尺も有る大男であったが状況を的確に把握し大いなる野心を内に秘めていた。
五十瓊敷入彦が帝位に執着せず武を好み、太子の御位を望んでいないと知った大足彦は父帝に取り入って太子の御位を強く望んだ。帝は本牟智和気を太子に就ける事を諦め大足彦を太子とした。
十八年冬十月八日、何処からともなく鵠(白鳥)が飛来し本牟智和気は鵠を見て突然、声を発し近侍の者に鳥の名を聞いた。近侍の者が鳥の名を告げたが御子は再び押し黙って声を発する事はなかった。
この話しをお聞きになった帝は山辺之大鷹に命じてこの鵠を追わせた。山辺之大鷹は紀伊国から播磨、但馬、丹波と追い求め、近江から美濃国、尾張、信濃、と追いかけ越国で網を張ってようやく捕らえ都に馳せ戻って献上した。
帝は大いに喜び早速、本牟智和気に見せたが眺めるばかりで声を発する事はなかった。落胆した帝は塞ぎ込み板戸を固く閉ざした御殿の内に篭りしばらく外に出る事は無かった。
暗闇の中で思い詰め疲れ果てた帝は知らず知らず眠りに就いていた。夢の中に高々と燃え盛る炎の内に神が現れ出雲の大神であると告げた。
はっと目覚めた帝は神の崇を解く事が出来るかも知れないと思い、直ぐに巫女を召し夢の中の出来事を告げて占わせた。巫女は崇神天皇が出雲を攻め高殿を焼き払った事に出雲の大神がお怒りになっていると告げた。
帝は本牟智和気が声を発する様になれば昔に劣らぬ神の高殿を出雲に建立する事を出雲の大神と誓約(神との誓約)する事を巫女に命じた。
そして、日子坐王の孫、曙立王、莵上王の兄弟に本牟智和気を託し御子と共に出雲へ禊の旅に出る事を命じた。
本牟智和気を伴って出雲に至った曙立王は櫛御気野命(素戔嗚尊の別名)を祀る厳神の宮、熊野大社(島根県松江市八雲町熊野 出雲一宮)に詣でて御子の禊を行った。
そして、簸の川(斐伊川)に至り出雲国造、岐比佐都美(宇賀都久怒の孫)が仮宮(曾枳能夜神社 島根県出雲市斐川町神氷)を建てて御子を出迎え大御食(帝に奉る御膳 服属の儀礼)を献った。
食事を終えて岐比佐都美と曙立王の会話を聞いていた本牟智和気が突然「簸の川の川下に岩隈之曾宮に鎮まる葦原醜男神(大国主神の別名)を祀る大庭(神事を行う場)が有るのではないか。」と仰せられた。
曙立王は「今、何とおっしゃいましたか?」と問い返すほど驚き、再び御子の御言葉を聞いて「ああ、神との誓約がなった。」と飛び上がらんばかりに喜び早速、御子を蒲葵(ビロウ)の葉で屋根を葺いた長穂宮にお迎えして、早馬を仕立てて帝に「神との誓約が成り、御子が言葉をお話になった。」と報告の使者を遣わした。
そして、曙立王と莵上王は本牟智和気が言葉を発した岩隈之曾宮に鎮まる葦原醜男神を祀る大庭が何処にあるのか岐比佐都美に尋ねた。
岐比佐都美は「その地は昔、高さ十六丈(約五〇メートル)に及ぶ大きな高殿(出雲大社 旧社名杵築大社)が有り、出雲の神をお祀りし代々、天穂日命の神裔がお仕えしておりました。十世の神裔、出雲振根が国造の地位に有った時、先帝の崇神天皇が代々の国造が秘匿してきた神宝を見たいと仰せられました。武諸隅が勅命を伝えるべく出雲に赴いたが振根は筑紫に出向き不在でした。弟の飯入根が勅命を受け賜わり出雲の神宝を息子の宇賀都久怒と末弟の甘美韓日狭に持たせ武諸隅と共に都に上り帝に奉りました。筑紫から帰ってきた振根は飯入根から神宝を帝に奉ったと聞かされ怒り心頭に発し飯入根を責め諍いの末に殺してしまった。宇賀都久怒と甘美韓日狭は都に上り訴え出たので帝は出雲に軍を差し向けました。出雲振根は高殿に籠って防ぎましたが防ぎ切れず自ら火を放って高殿は焼け落ちました。そして、帝から出雲国造に任じられた宇賀都久怒は高殿の跡地に小社を建て大国主神を祀る事を憚り葦原醜男神と名を変えて出雲の神をお祀り致しました。出雲の民はその社を岩隈之曾宮(出雲大社)と申しております。」と答えた。
この頃、簸の川(斐伊川)の流路は宍道湖ではなく西に流れ神門の水海(神西湖)に流入し日本海に注いでいたので出雲大社は簸の川の川下にあった。
曙立王と莵上王は岐比佐都美の案内で本牟智和気を伴い岩隈之曾宮を訪れ岐比佐都美に教わって出雲の神に二拝、四拍手、一拝の祈りを奉げた。(神社の拝礼は二拝、二拍手、一拝が一般的)
長穂宮に立ち帰った本牟智和気は疲れを覚え横になるとそのまま眠ってしまわれた。すると夢枕に出雲の神が顕れ「そなたは出雲で生まれ変わった。今日より倭建尊と名を改めよ。」と告げられて目が覚めた。
禊の旅を終えて大和に帰着した曙立王と莵上王は本牟智和気を伴って直ちに帝に拝謁し、神との誓約が成り御子が言葉を発する様になった事と出雲の神から倭建尊と名を授けられた事を申し述べた。帝は大いに喜ばれ、曙立王と莵上王をねぎらい盛大な宴を催した。
そして、神の祟りから解き放たれた倭建尊は異母妹の布多遅能伊理姫と忍山宿禰(穂積臣)の媛、弟橘媛を妃に迎え入れた。
帝は出雲の神との誓約を実行すべく再び莵上王を召し、出雲に立ち返って大国主神を祀る壮大な社を建てる事を命じた。
出雲に赴いた莵上王は岐比佐都美を召しだし高殿の造営を告げ、古の出雲の社を知る者を探し出せと命じた。
岐比佐都美が連れ帰った古老は庭先の枯枝を折り地面に古の出雲の社を描き莵上王に指し示した。描かれた高殿は都の御殿に勝る棟高十六丈(約四八メートル)の壮大な建造物であった。
高殿造営の許しを得た岐比佐都美は自ら山に分け入って千年を越える巨木を切り出し往時と違わぬ棟高十六丈の壮大な高殿を造営し、帝は竣工した高殿を天日隅宮と名付け、天穂日命(出雲の神を鎮めるために遣わされた天照大神の第二子)の十四世の孫、岐比佐都美に大国主神を迎え入れる火熾しを命じた。
帝の許しを得た岐比佐都美は火鑚臼と火鑚杵を用いて新しい火を熾して神を蘇らせて出雲の神、大国主神を迎え入れた。
出雲の高殿を再建し大国主神を祀った帝は先帝が宇陀の笠縫邑(元伊勢の檜原神社 奈良県桜井市大字三輪)から丹波宮津(籠神社 京都府宮津市字大垣)にお遷しした天照大神を鎮め祀らねば再び神の争いが起こるであろうと思った。
二十年春三月、帝は幼き頃から天照大神に仕え年老いた皇女、豊鍬入姫の任を解き、后の日葉酢媛の皇女、倭姫に天照大神を託し鎮め祀る地を探し求めさせた。
倭姫は天照大神を丹波宮津からお迎えし大和の宇陀、近江、美濃、尾張を巡って伊勢に至った。浪の打ち寄せる伊勢国をご覧になった天照大神はこの国は都から遠く離れているが美しい国である。この地に坐すと倭姫に申された。
天照大神は大和の宇陀の地を離れ美濃、尾張、駿河、丹波と転々としておよそ五十年の歳月の後、やっと伊勢、度会の地に鎮め祀られる事となった。
帝は大神のお言葉のままに伊勢、度会の山田原の地に社(伊勢神宮)を造営して天照大神を祀った。それと共に、五十鈴川の辺に斎宮を建て倭姫を神に仕えさせた。
二十年秋七月、皇后の日葉酢媛が病の床に就かれ、侍医は良薬を処方したが后は回復しなかった。帝は侍医から海を渡った神仙の国に「非時の香果(常に香りを放つ木、橘の木)」と云う不老不死の良薬が有ると聞かされ、近臣の多遅摩毛理(天之日矛の五世の孫)を遣わして求めさせたが、二十二年秋七月六日、皇后の日葉酢媛は亡くなられた。
帝は服喪の期間を定め、后の死を悲しみ殯斂宮に籠られた。群臣が殉死を願う侍女の名を挙げ、地底で暮らす日常の様々な品について帝にお伺いを立てた。
帝は四年前、弟の倭彦が亡くなられた時、古式に倣い陵の周りに倭彦の近習の者を生きたまま埋め殉死させた。殉死の者は日を経ても死なず昼夜泣きうめき、死して後、犬や鳥が死肉を漁った。
帝は殉死の者が泣き叫ぶ声が耳から去らず鳥獣が漁る凄惨な場面を思い浮かべ、殉死する侍女の肉親の哀しみを思い殉死の弊を改めようと思われた。野見宿禰を召し、殉死に代わる制を奉れと命じた。
野見宿禰は出雲の国に使いを遣り、土師部(土師器(素焼きの土器)製作集団)百人を呼び寄せ、埴土で人や馬を造らせ素焼きにして帝にご覧頂いた。
帝は出来栄えを称賛し土の人や馬も地底に住めば生き返るであろう、殉死の旧習を改め后の陵には埴輪を立てると群臣に告げた。こうして后の死を境に帝は殉死を禁じ陵に埴輪を立てるように改めた。
二十三年秋七月、筑紫の屯倉から熊襲が叛き朝貢を奉らないと知らせて来た。帝は太子の大足彦に兵を授け筑紫平定を命じられた。
秋八月十五日、大足彦は軍船を率いて筑紫に向かい九月五日に周防の佐波川の河口、佐婆津(山口県防府市佐波)に着かれた。そして、武諸木、莵名手、夏花の三人の将に兵を授け南の豊国(大分県)の偵察に向かわせた。
三人の将は豊国の御木川(山国川)の河口、中津(大分県中津市)を目指した。その地は神夏磯媛が支配する地で大勢の手下が待ち構えていた。
そこに小舟の舳先に白旗を掲げて高羽(福岡県田川市)の族長、神夏磯媛が現れ「皇軍に刃向う積りは有りません直ぐに帰順いたしますので兵を向けないで頂きたい。」と申し述べ、豊国の山野に跋扈する四人の賊の討伐を願い出た。
神夏磯媛の言によれば菟狭川(駅館川 大分県宇佐市)の川上に屯する鼻垂、御木川(山国川 大分県中津市)の川上にいる耳垂、高羽川(彦山川 福岡県田川市)の川上にいる麻剥、緑野川(紫川 北九州市小倉区)の川上に隠れる土折猪折、の四人でそれぞれ多数の仲間を従え皇命には従わぬと豪語し秋の実りを略奪し女を攫い狼藉の限りを尽くしているとの事。
三人の将は中津に留まり大足彦に派兵を願う使者を遣わした。大足彦は報告を聞くと直ちに周防の佐婆津を出帆し軍船を率いて豊国に渡り長狭川の河口に浮かぶ簑島(福岡県行橋市大字簑島 今は陸続きになっている。)に軍船を留め、兵を率いて神夏磯媛の領地、高羽の伊田(福岡県田川市白鳥町 白鳥神社)に布陣した。
そして、武諸木に兵を授けて四人の賊を討たせた。賊を討伐した大足彦は豊前の長峡(福岡県京都郡みやこ町)に仮宮を建ててしばらく兵を休めた。
冬十月、碩田(大分県)に入り速見村(大分県別府市)に至った。速見村で土地の族長速津媛の出迎えを受けた。速津媛は禰疑野(大分県竹田市大字今 禰疑野神社)の地に打猿、八田、国麻侶と呼ばれている三人の土蜘蛛が居り皇命には従わぬと嘯き戦も辞さぬと兵を練っております。又、久住山の麓の岩室に二人の土蜘蛛がおります。何卒、土蜘蛛の討伐をと願い出た。
大足彦は願を入れ、軍を来田見邑に進め仮宮(大分県竹田市久住町大字仏原 宮処野神社)を建てて留まり土蜘蛛討伐の軍議を開き、莵名手に兵を授けて久住山の岩室に跋扈する土蜘蛛を討たせた。
そして、大足彦は兵を率いて禰疑野に拠る三人の土蜘蛛の討伐に向かったが禰疑野に近づくと敵の奇襲に遭い雨の様に矢が飛来し防ぎ切れずに退却して城原(城原八幡社 大分県竹田市大字米納)に布陣した。
大足彦は兵を整え、先ず禰疑山に拠る八田を討ち破った。この戦を望見した打猿と国麻侶は敵わぬと見て白旗を掲げて降伏を願い出たが大足彦は赦さず攻め掛かり、国麻侶は捕えられて首を刎ねられ打猿は追い詰められて谷に身を投げて死んだ。
碩田の山野に跋扈する五人の土蜘蛛を討ち果たした大足彦は碩田(大分県)の速見村(大分県別府市)を出帆し日向(宮崎県)に向かった。
冬十一月、日向の大河、赤江川(大淀川)の河口、橘尊浦に軍船を留めた。日向の豪族は大足彦を出迎え熊襲の来襲に苦しむ窮状を訴え、一日も早い討伐を願い出た。
大和の太子が熊襲平定の兵を率いて日向に留まったと知った熊襲の豪勇、厚鹿文と迮鹿文は屈強な兵を従えて大足彦の陣に襲い掛かった。
激戦の末に何とか撃退した大足彦は熊襲の強さを知り容易な敵では無い事を思い知らされた。長期戦を覚悟した大足彦は高屋宮(高屋神社 宮崎市村角町橘尊)を建てて本陣となし、何時果てるとも知れぬ戦に備えた。
大足彦は高屋宮に留まって熊襲の豪勇、厚鹿文と迮鹿文を相手に熾烈な戦を繰り広げた。厚鹿文と迮鹿文に率いられた熊襲の兵は強く一進一退を繰り返し戦は三年の長きに亘った。
ことごとく熊襲を討ち果たした大足彦は高屋宮に留まる事すでに四年、日向で美人の誉れ高い御刀姫を召し妃とされた。
御刀姫は豊国別を生んだが戦の後も都に上らず後年、日向国造に任じられた豊国別と共に日向に留まった。
この間、都では大足彦の行方が知れず帝は熊襲に敗れたと思い五十瓊敷入彦に兵を授け筑紫に赴かせたが消息は掴めなかった。帝は大足彦が戦死したと思い群臣の反対を押し切って拒み続ける倭建尊を太子に就けた。
二十七年春三月、四年の歳月を要して熊襲を平定した大足彦は筑紫(九州)を巡幸して都に帰還する事とした。高屋宮を出立し夷守(宮崎県小林市細野夷守)から熊県(熊本県人吉市)に至った。
熊県には熊津彦と称する兄弟がいた。使いを遣り召し出したが兄の兄熊は来たが弟の弟熊は来なかった。大足彦は莵名手に兵を授け帰順しない弟熊を討ち果たした。
熊県から葦北(熊本県葦北郡芦北町)に至り、野坂の浦から船を出して八代海を北に進むと船上から不知火が見え大足彦は「あの光に向かって船を進めよ。」と船頭に命じた。光に向かって進むと岸に着いた。村の名を尋ねると八代県の豊村(熊本県宇城市松橋町豊福)と答えた。そこで火国と名付けた。
八代県から海を渡り高来県(長崎県諫早市)を経て玉杵名邑(熊本県玉名市)に至った。玉杵名邑で土蜘蛛の津頬を討伐し菊池川を遡って阿蘇に向かった。
途中、山鹿で軍を留め(大宮神社 熊本県山鹿市山鹿)周辺の賊を平定し阿蘇国を巡って七月四日、筑紫の三毛に着き土地の豪族の館を行宮(福岡県大牟田市歴木)とした。数日、留まり八女県(福岡県八女市)、高羅(福岡県久留米市御井町 高良大社)の行宮にしばし留まり的邑(福岡県うきは市浮羽町)を経て日田(大分県日田市)から豊国の御木川(山国川)の河口、中津(大分県中津市)に至り兵を休めて帰還の途に就いた。
大足彦は出立して五年後の二十八年秋九月、都に帰還したが、出迎えたのは太子に就いた倭建尊であった。
帝は熊襲討伐に筑紫に向かった大足彦の消息が知れず思い悩んだ末に群臣の反対を押し切り倭建尊を太子にと強く望んだ。
しかし、倭建尊は太子の大足彦の行方が知れず太子に就く事を強く拒み続け、探索の兵を遣る事を願い出た。帝は倭建尊の願いを聞き入れ五十瓊敷入彦に兵を授けて筑紫に赴かせたが大足彦の消息は都にもたらされなかった。
大足彦は熊襲に敗れ戦死したとの思いを強めた帝は太子に就く事を拒む倭建尊に勅命で有ると仰せられ致し方なく倭建尊は太子の御位に就く事を承知された。
倭建尊の立太子の儀を執り行って程なく帝は病の床に就いた。群臣は八年前に神仙の国に遣わした多遅摩毛理(天之日矛の五世の孫)が不老不死の良薬「非時の香果(常に香りを放つ木、橘の木)」を持ち帰る事を祈ったが、帝は垂仁二十八年(三〇八年)秋七月一日、纒向宮で眠る様に崩御された
多遅摩毛理は万里の波涛を越えて神仙の国に至り、「非時の香果(橘の実)」と十六本の若木を持ち帰ったが后の日葉酢媛も帝も崩御された後であった。
多遅摩毛理は八本を皇后の陵、狭木之寺間陵(奈良県奈良市山陵町)に植え、八本を帝の御陵(菅原伏見陵 奈良県奈良市尼辻西町)の左右に四本づつ植えた。
植え終わって多遅摩毛理は御陵に平伏し泣き叫びながら存命中に復命出来なかった事を詫び、生き長らえても何の意味があろうかと申して御陵の前に平伏したまま息絶えた。群臣は多遅摩毛理を哀れに思い帝の御陵の周濠の中に小島を造り葬った。
復命して帝の薨去を知った大足彦は熊襲の平定を命じた帝を恨んだ。帝は本牟智和気を幼少の頃より可愛がりいずれ太子にと望んでいたが唖で有るが故に断念した。
しかし、神の祟りが解け言葉を発する様に為った時から本牟智和気を再び太子にと望み我を死地に追い遣ったやも知れぬとの疑いを深めた。
大足彦は妃の稲日大郎姫の父、吉備臣と諮り倭建尊の失脚を目論んだが倭建尊が妃に迎え入れた弟橘媛の父、忍山宿禰は物部の一族であり用心を怠らなかった。
大連の物部十千根は後継の帝を決める王者議定を開きいずれの太子を帝とすべきかを諮ったが二人の太子の先例は無く困惑し議は決しなかった。
何としても帝位に就きたい大足彦は神八井耳命が弟の神渟名川耳尊(二代綏靖天皇)に太子の御位を禅譲した先例を引いて倭建尊に辞意を迫ったが最早、倭建尊は応じなかった。
数ヶ月が経ち業を煮やした大足彦は兵を集めて倭建尊の館を襲った。しかし、事前に来襲を察知した倭建尊は后の弟橘媛を伴って館を抜け出した後であった。大足彦は八方に兵を遣って捜させたが倭建尊の姿はなかった。