皇位争乱

第五話 倭建尊やまとたけるのみこと
 倭建尊の薨去こうきょ

 帯中日子たらしなかつひこの立太子の儀を見届け、有力な皇子を地方に追い遣った倭建尊やまとたけるのみこと(以下、みことまつりごと武内宿禰たけのうちのすくねに委ね久方ぶりに尾張の美夜受媛みやずひめを訪ねる事とした。

 長い間、政争に明け暮れ久方ぶりに野に出て旅の気分が甦った。吉備武彦きびのたけひこ宮戸彦みやとひこ宮戸弟彦みやとおとひこ石占横立いしうらのよこたち田子稲置たごのいなき乳近稲置ちぢかのいなぎとそれに十数人の家人が付き従った。

 昔、東征の旅に出た道を辿ろうと思い近江から大和を経て伊勢街道を東に向かい鈴鹿の柵を越えて伊勢に至った。

 伊勢の斎宮いつきのみやとして天照大神に仕える異母妹の倭媛やまとひめに会い尾張に向かった。尾張の美夜受媛みやずひめは久方ぶりに訪ねて来た尊に大御食おおみけ大御酒おおみき(盛大な酒宴)を献じて尊をもてなした。その席に近隣の豪族も集い管絃の宴となった。

 その宴席で話題となったのが胆吹山いぶきやま(伊吹山)に棲む荒振る神であった。しばしば、集落を襲い、食を奪い、女をさらい、逆らえば容赦無く殺す。大蛇の化身との噂も有り、民は苦しみ悲嘆の中に暮らすも荒振る神の祟りを恐れ誰も胆吹山いぶきやまに近づく者はいなかった。

 尊はこの話しを聞き、出かけて退治する事とした。吉備武彦きびのたけひこ宮戸彦みやとひこ宮戸弟彦みやとおとひこ石占横立いしうらのよこたち田子稲置たごのいなき乳近稲置ちぢかのいなぎとそれに数人の家人を従え胆吹山いぶきやまの神を討ち取りに向かう事とした。

 翌朝、尊は美夜受媛みやずひめに「これから胆吹山いぶきやまに登り民を苦しめる神を討ち取りに向かう、この山の神は徒手で取り押さえて見せる。草薙剣くさなぎのつるぎ胆吹山いぶきやまから立ち返るまでこの館に留め置く。」と申され剣を美夜受媛みやずひめに預けられた。

 みことの一行は木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)を渡渉し桑名を過ぎ当芸野たぎの(岐阜県養老町)から不破の関(関ヶ原)に至り伊吹山を目指した。山に分け入ってしばらくすると白い猪が現れた。その大きさは牛の如くであった。この猪が神の化身とは知らず尊は帰る時に殺してやると言い立てた。その時、突然、大粒のひょうが降り尊の身体を強く打った。

 さらに山を進むと山中で大蛇に出会った。神の化身かと疑い身構えたが大蛇は野太い胴を横たえて動かなかった。尊は恐れ気も無く大蛇の太い胴を跨いだが何にも起こらなかった。

 尊は付き従う宮戸彦みやとひこに「民を苦しめ胆吹山いぶきやま跋扈ばっこするのは白い猪や大蛇の化身では無く、食い詰めた流人の群であろう。もう逃げ散ったかも知れないが巣窟を探しだし焼き捨てて住みかを奪えば退散するであろう。」と語った。

 しばらく山を進み、大きな松の根方で休息を取った。この時、草薙剣くさなぎのつるぎの代わりに美夜受媛みやずひめから授かった剣を家人に預け松の木に立て掛けさせた。

 一時の休息を取り、出立して暫く経って剣の無いのに気付いた。「剣を松の根方に忘れたか。」家人は「気が付かず申し訳ありません。」と失態を詫び引き返そうと駆け出すのを「まてまて、この度の敵は大蛇の化身と想い剣を持参したが唯の賊なら剣は無用である。戻る折りに持ち帰ればよい。」と家人に告げ代わりに弓矢を受け取り、先を急いだ。

 山中をしばらく進むと突然、矢を射かけられた。尊は弓を振るって矢を打ち落とそうとしたが一瞬遅く矢は腕をかすり僅かに肉をえぐった。剣なら一瞬の遅れも無く切り落としていたが、弓では手応えが違い不覚にも矢傷を負った事を悔やんだ。賊を探させたが素早く逃げ去り見つけ出せなかった。

 宮戸彦みやとひこは傷の手当てをして出直す事を進めたが、みことは取り合わず大した傷ではないと言い張り手当もせずに先を急いだ。

 賊を追い山中を進んだ。前方に洞穴が見え賊の棲家の様であった。尊の一行は木立に潜み暫く様子をうかがっていると逃げ込んだと思われる賊が数十人の賊と共に洞穴から姿を現し、手に手に弓矢を持ち、剣を帯び辺りを窺い始めた。矢を射掛けて逃げ去った賊の隠れ家に相違なかった。

 尊は弓の名手、宮戸彦みやとひこに命じ矢を射掛けさせた。賊は次々に射殺され、驚いた賊は洞穴に駈け戻った。尊は家人に命じ枯れ木を集めさせ洞穴の前に積み上げて火を掛けた。

 いぶし出された賊は次々に洞穴の前に姿を現し宮戸彦みやとひこの標的となって射殺された。宮戸彦みやとひこの矢を逃れた賊は宮戸弟彦みやとおとひこ石占横立いしうらのよこたち田子稲置たごのいなき乳近稲置ちぢかのいなぎの剣が一閃して賊の首をねた。胆吹山いぶきやまの賊帥は尊の敵では無く瞬く間に誅殺された。

 帰路、松の根方に置き忘れた剣をび山を降りた。白い猪の幻影が額の奥にちらつき意識が朦朧もうろうとして来た。しばらく行くと疲れがひどくなり足もふらつき宮戸彦みやとひこの肩を借りてやっと山を降りた。

 玉倉部たまくらべ(岐阜県不破郡関ヶ原町玉)の清水を飲み暫く休んでいると正気を取り戻した。腕の痛みに気付き衣をたくし上げると腕がれ、熱を発していた。家人が清水を汲み手当をしたが熱は下がらなかった。

 やじりに毒が塗られていた。僅かな毒に触れ一命は取り留めたが、躰の疲れは増し、高熱に苦しめられた。夢に白い猪が現れ神をなじった罪を責め、直ちに腕を切って神に奉れと告げた。

 眼が醒めて神のお告げを宮戸彦みやとひこに告げ腕を切り落せと命じたが、宮戸彦みやとひこは熱も下がり腕の腫れも引き病は癒えた様に見え、腕を斬るのを躊躇ためらった。

 玉倉部たまくらべの清水で腕を冷やしこの地で数日を過ごした。みこと美夜受媛みやずひめとの約束もあり、尾張に立ち返ると言い張り皆が止めるのも聞かず病を押して出立した。

 当芸野たぎの(岐阜県養老郡養老町)に至り再び病が重くなり、吉備武彦きびのたけひこ宮戸彦みやとひこ達と諮り、神の怒りを解かなければ病は癒えない、ここは神を束ねる大和の三輪の大神におすがりするほか無いであろう。尊も神の化身であった白い猪に毒突どくつき、大蛇を跨いだ事を後悔していた。尊も皆の話にうなずき大和の三輪に詣で神の許しを得る事とした。

 当芸野たぎのから尾津前おつのさき(三重県桑名市多度町)を過ぎ三重村(三重県四日市市)に至った。尊は躰の疲れが増し杖をついて長い坂を喘ぎながら歩を進めた。この地を後の人は杖衝坂つえつきざか(四日市市采女の西の坂)と名付けた。

 能煩野のぼの(三重県亀山市田村町 能煩野のぼの神社)に至って一休みした時、尊は大和の国をしのんでお詠いになった。

  「やまとは国のまほろば、たたなづく、青垣あおがき山隠やまごもれる、やまとしうるはし」

  (大和国は国々の中で最も良い国だ、重なり合って、青い垣を廻らしたような山々、その山々に囲まれた大和は美しい国だ。)

 尊は腕の毒が除々に躰をむしばみ歩く事が出来ず、日に日に躰は弱り床に伏す日々となった。神をおろそかにして草薙剣くさなぎのつるぎ美夜受媛みやずひめに預けた事を悔やみ、虚しく神を求めたが神は顕れ無かった。

 尊は黄泉の国への出立の時が迫った事を覚え、吉備武彦を病床に呼び帯中日子たらしなかつひこ(仲哀天皇)を皇位に就ける事を託し大津に向かわせた。

 そして、病が切迫し「嬢子おとめの床のに 我が置きし つるぎ大刀たち その大刀はや」美夜受媛みやずひめの寝床のかたわらに 俺が置いて来た大刀よ ああ、あの草薙剣の大刀よ)と詠い終わってすぐにお隠れになった。御歳五十六歳であった。

 尊の薨去こうきょを知らされた后妃や御子達は大津から伊勢国に下り能煩野のぼのの地に御陵を造り、御陵の周りを廻り哀しみに泣き崩れた。

 するとみことの魂は大きな白鳥となって海に向かって飛び立った。后妃も御子達も篠竹の切り株に足を傷つけられるのも忘れ泣きながら白鳥を追われた。この時、詠われた歌が、

  「浅小竹原あさしのはら 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」  (低い篠竹の生い茂った野を行こうとすれば、腰に篠竹がまといついて歩きづらい。鳥のように空を飛ぶ事も出来ず、足で歩いて行くもどかしさよ。)

  「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がはいさよふ」 (海を行こうとすれば、腰が水に阻まれ、大河の水中に生えた水草が揺れるように、海水に阻まれて進む事が出来ない。)

 白鳥は伊勢国より飛び立ち大和国の琴弾原ことびきはら(奈良県御所市富田)に留まった。その地は神武天皇が大和に入り大和の国を臨んだ国見山の麓であった。御子達はこのゆかりの地にみささぎを築き白鳥御陵しらとりのみささぎ(日本武尊白鳥陵)と名づけた。しかし、白鳥はその地も飛び立ち、空高く天翔あまがけて飛び去った。

 尾張の美夜受媛みやずひめは尊の死を聞き泣き崩れて日々を暮らし、形見と為った草薙剣くさなぎのつるぎを熱田神宮にまつった。

 尊が崩じ、まつりごと大臣おおおみの武内宿禰が裁き宿禰は巨大な権限を握った。一族の者を次々に登用し朝廷を一族で固めた。

 一方、成務天皇は宿禰ほど頑健な体ではなく歳と共に床に臥す日々が多くなった。帝位に就いたとは云へ政務の実権は尊に握られ帝とは名ばかりであった事を常にうらんでいた。

 胸の内を宿禰に話し屈辱を紛らわそうと共に酒を酌み交わしたが心が晴れる事はなかった。酔いと共に怒りは増し尊の横暴をののしり、やり切れぬ思いが募って、宿禰の衣の袖を握り締め涙を流す事も有った。

 帝は心労がたたり、身も心もえ床に臥す日々が続いた。宿禰は帝を見舞い励ましの言葉を掛け続けた。尊が崩じた今、帝の世を作る時が巡ってきた。宿禰は兄弟の如くまじわった帝に叱責と励ましの声を掛け再起を促した。しかし、帝の体は病に蝕まれ日に日に痩せ細っていった。帝はみことが崩じたと聞かされても感情を面に表わさなかった。あれほどうらみ、横暴をののしり、確執を繰り返した尊の死を聞いても一言も言葉を発し無かった。

 宿禰は帝の死期が近い事を悟り安らかな眠りを願った。尊の死から数ヶ月の日を置いて、成務十年(三三七年)夏六月十一日、成務天皇は三十三歳の生涯を閉じ崩御された。

 武内宿禰は尊との盟約通り帯中日子たらしなかつひこ践祚せんそし、春一月十一日、尊の御子が即位して仲哀ちゅうあい天皇(三三八年一月一一日~三四六年二月六日)となられた。武内宿禰は引き続き大臣おおおみの位に就いた。

 帝は帝位を望んだ父、倭建尊やまとたけるのみことしのび遷都の恒例を破って都を遷さず滋賀の高穴穂宮たかあなほのみやに定めた。そして、先帝(成務天皇)狭城盾列陵さきのたたなみのみささぎ(奈良県奈良市山陵町)に葬り成務せいむ天皇のおくりなを奉った。宿禰は放心した様に葬列に従い、感きわまって人目もはばからず涙を流し続けた。


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