皇位争乱

第六話 神功皇后じんぐうこうごう
 仲哀ちゅうあい天皇の怪死

 成務せいむ天皇の後を継いで帝位に就いた仲哀ちゅうあい天皇(帝)を待ち構えていたのは越の平定であった。倭建尊やまとたけるのみこと(以下、みことも越しの動静が気掛かりで東征の帰路、吉備武彦きびのたけひこに越を偵察させたがこの時は尊の威光を恐れ越の豪族は恭順の意を示した。

 尊は成務せいむ天皇の御世にも武内宿禰たけのうちのすくね(以下宿禰すくねと記す。)を越に遣わし巡察させたがこの時も特に問題はなかった。しかし、尊が逝去すると越の豪族は俄かに鎌首をもたげ大和に従わず朝貢を拒み叛旗を翻した。

 越を放置すれば各地の豪族が自立を計り国の統一が危うくなる。帝は宿禰すくねに命じて各地の兵を徴集して軍を編成し兵を練った。

 そして、春二月六日、帝は后の大仲姫おおなかひめ(景行天皇の皇子、彦人大兄命ひこひとのおおえのみことの姫)を伴って越平定の軍を発した。

 愛発あちらの柵(敦賀市の南方、疋田?)を越え角鹿つぬが(敦賀)に至り行宮あんぐう(かりみや)として笥飯宮けひのみや(福井県敦賀市曙町 気比神宮けひじんぐうを建てて越平定の拠点とした。

 帝は角鹿つぬがから今庄、武生と進軍し従わぬ豪族を次々に攻め滅ぼし賊を討ち越を転戦して戦に明け暮れ平定を終えて笥飯宮けひのみやに帰還したのは春の雪解けの頃であった。

 帝は大仲姫おおなかひめの出迎えが無いのをいぶかり侍女に質すと「大仲姫おおなかひめは室に籠もり寒さに耐えて帝の帰りを待ち望んでおりましたが風邪をこじらせ寝込んでおります。何卒お許しを。」との事であった。帝は大仲姫おおなかひめの躰を気遣い風邪が回復するのを待って都に帰る事とした。

 元々、ひ弱な大仲姫おおなかひめ志賀高穴穂宮しがのたかあなほのみやに帰り着いても病状はすぐれず慣れぬ旅の過労からか病床に伏しあっけなく他界された。帝は哀しみに打ちひしがれ数日、后のひつぎに向かい人目もはばからずむせび泣いた。帝の哀しみはえなかったが大仲姫おおなかひめの里、大柴(兵庫県宝塚市中山寺)に御陵を築き葬った。

 大仲姫おおなかひめは景行天皇の皇子、彦人大兄ひこひとおおえの媛で帝が若かりし頃、宴の席で見初め妃に迎え入れ、程なく香坂皇子かごさかのおうじ忍熊皇子おしくまのおうじの二人の皇子を授かった。帝の御位に上っても后の大仲姫おおなかひめ一人を愛し他の女には目も呉れなかった。

 大仲姫おおなかひめと二人の皇子に恵まれ至福の時を過ごす帝に突然不幸が襲った。神を祀り慎み深く暮らしても神の妬みは時を定めず后の命を奪った。哀しみは日に日に高まり、非情な神に言い知れぬ怒りを感じた。神を畏れ、神を祀っても、神は風と共に有り、一時も留まらない、次々に吹き寄せる神は幸も厄も共に持ち来たる。祈りの虚しさを感じ、神を呪った。

 哀しみは癒えず日々、沈痛な面もちで虚しく時を過ごし、食も進まず病身の如くやせ細った。宿禰も哀しみにしずむ帝を見て心を痛めた。帝に取って大仲姫おおなかひめの存在が如何に大きかったか宿禰の認識を超えていた。

 宿禰は年老いても次々に妃を娶り一人の妃に執着する事は無かった。多くの子をもうけ、誰がどの妃の子であったか自身も定かで無かった。くも一人の媛に執着する帝が不思議で為らなかった。帝の哀しみも一時の事と思っていたが時を経ても嘆き悲しむ帝を見て心底から心配に為った。

 宿禰は見かねて帝に后を娶る事を勧めたが帝は大仲姫おおなかひめとの思い出が未だ醒めやらず、宿禰の申し出に「暫く時が必要だ。」と申された。

 帝は后の他に妃を一人も召していなかった。有力な豪族は帝と姻戚を結び一族の栄達に野心を見せ媛を妃に据えるべく画策したが帝は応じなかった。宿禰も一族の媛を妃に入れるべく帝に申し述べたが妃を召す積もりは無いと一蹴されていた。

 后が亡くなって一年が過ぎ、宿禰は口実を設け群臣、豪族を集めて帝の哀しみを慰める管弦のうたげを催した。帝も久方ぶりの宴に気分が高揚し杯を重ねた。

 宿禰は頃合いを見計らい一人の媛に帝のお側近くに侍る事を勧めた。その媛は絶世の美人で霊能力を持つ巫女であった。媛は妖艶な眼差しを帝に向け、静かに帝の手を取り杯を握らせた。帝は媛に見つめられ、妖しい瞳に意識は吸い寄せられた。前世から約束された出会いの様に心の琴線きんせんがかき鳴らされ不思議な感情を覚えた。

 媛は闇を彷徨さまよう帝の心に光を差込み、悩みを解きほぐし少しずつ現実の世界に目覚めさせた。帝は横に侍る美貌の媛に心奪われ注がれるままに杯を重ね陽気に騒ぎうたった。長い冬の眠りから醒めた心地がして躰に精気がみなぎるのを覚えた。

 香しい、御髪の香りが鼻を突き抜け頭の芯を心地よく包んだ。しなだれかかる媛の躰の温もりが帝の躰に伝わり、媛の心の鼓動が帝の手の内に時を刻んだ。帝は酔いしれ媛を抱き、媛も帝の為すがままに身を委ねた。

 翌日、帝は宿禰を召し昨夜の媛の事を尋ねた。宿禰は「かの媛は息長宿禰おきながのすくねの娘、息長帯媛おきながのたらしひめと申し、以前、帝に妃としてお召しを勧めた媛で御座います。帝のお気に召せば宿禰が仲人として息長宿禰おきながのすくねの館に赴き帝の意向をお伝え致します。」

 息長宿禰おきながのすくねは近江に勢力を張り日子坐王ひこいますのみこの曾孫に当たり、開化天皇の五世の孫である。日子坐王ひこいますのみこが近江の大津に下り、領した地を引き継いだのが息長宿禰おきながのすくねであった。

 息長宿禰おきながのすくねは葛城の高額媛たかぬかひめを娶り息長帯媛おきながのたらしひめを授かった。高額媛たかぬかひめの父、多遅摩比多訶たじまひたか天之日矛あめのひほこの五世の孫に当たり、垂仁天皇の命を受け不老不死の妙薬を求めて神仙の国に至り非時ときじく香果かぐのみ(常に香りを放つ木、橘の木)」を持ち帰った多遅摩毛理たじまもり息長帯媛おきながのたらしひめの叔父にあたる。

 息長帯媛おきながのたらしひめは幼少の頃より聡明で父もいぶかる程の叡智を備えていた。容姿は端麗で妖艶な気品が漂っていた。立ち居振る舞いも尋常ではなく息長宿禰おきながのすくねはこの媛は天之日矛あめのひほこが「胆狭浅いざさの太刀」を献じた気比神宮けひじんぐう(福井県敦賀市曙町)の神が遣わした神女ではないかと思う事もあった。

 宿禰は息長帯媛おきながのたらしひめの妖艶でしかも卓越した霊能力に強く引かれていた。息長帯媛おきながのたらしひめなら神と交合し神の御子をすであろうと思った。その御子が皇位に就けば倭建尊やまとたけるのみことに大いなる復讐を遂げる事となろう。

 以前、仲哀ちゅうあい天皇に妃として息長帯媛おきながのたらしひめを召し出す事を勧めたが帝は応じなかった。しかし、今は后の大仲姫おおなかひめが崩じ宿禰の野望の可能性がぼの見えた。言葉巧みに帝を説き酒宴を催して息長帯媛おきながのたらしひめを帝に近づけた。思惑通り帝は妖艶な息長帯媛おきながのたらしひめに魅せられ、召しだして后にしたいと仰せられた。

 宿禰の野望は途に就き、帝は后の虜と為り、片時も后をお側から離さなかった。華美を嫌った帝の面影は無く、后の望むがままにきらびやかな衣装を与えた。后はますます妖しい美しさを漂わせ帝を魅了した。

 帝は度々、群臣百寮を招いて管弦のうたげを催した。帝が琴を奏で后が舞った。后は何かに取り憑かれた如く舞い、その舞いは並み居る人々を陶酔させ別の世界に引き込む不思議な魔力を醸し出す舞いであった。后は舞っている間、意識の外に有り神に命ぜられて舞っている様であった。それは魔性を帯びた天女の舞いであった。

 帝は后の舞いに媚薬びやくを感じ幽玄の世界を彷徨さまよい脳裏から全ての事が消え失せ天上の世界に遊んだ。帝も臣も媛もうたげに酔いしれ歌垣うたがきの如く乱れ饗宴はいつ果てるとも無く続いた。

 国を思い質素倹約に努め自ら兵を鍛え弓矢の鍛錬を欠かさなかった帝の姿は無く甘美に溺れ政務を執り行わず朝政は宿禰に委ねた。

 侍臣じしんの一人が勇を越して帝に申し述べた。「二人の皇子、香坂皇子かごさかのおうじと、忍熊皇子おしくまのおうじは二十才と十八才になられました。速やかに皇統を継ぐ太子を定め後顧の憂いを拭う時に至ったと存知奉ります。」帝は臣の申し出を聞き二人の皇子が立派な若武者に育っていた事を忘れていた己を恥じ、政務を疎かにしている愚を言外に語っていると感じた。

 数日の後、帝は宿禰を召して立太子の儀を執り行う準備を命じた。宿禰は急な帝の命に驚き何故立太子を急がれるかと問うた。帝は取り立てて理由は無いが、二人の皇子も青年に達した、早く決めて争いの起こらない様にしておきたいと申された。

 そして、宿禰にどちらの皇子が相応しいかと意見を求めたが宿禰は即答を避け、共に太子に相応しいと答え、后の意見を聞かれては如何かと申し述べた。帝は宿禰の応対から立太子の儀はもう少し先に延ばしては如何と考えている事を察した。

 今までも宿禰は自ら云いにくい事は后の神託を聞く様に進言してきた。この度も案に后の神託を受けられては如何と告げているようであった。后の息長帯媛おきながのたらしひめは今までも帝の問いかけに祭壇を設え巫女の如く神に祈り神のお告げと称して神託を帝に伝えた。

 帝も神のお告げとして后の言葉に従い裁可を下してきた。宿禰もこの事を承知しており帝と共に后の口から神のお告げをうけたまわった事もあった。神の降臨を願い帝と宿禰は共に琴を奏でた事もあった。

 帝は南海道の巡幸を予定しておりその道中で二人の内どちらが太子にふさわしいかじっくり考えてから決めようと思われた。

 八年春二月、帝は数百人の兵を従えて南海道(紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐)の巡幸に出発し、春三月に紀伊の徳勒津宮ところつのみや(和歌山市新在家)に着き数日滞在している時、宿禰から使者が遣わされ「筑紫からの知らせでは熊曾くまそが再び叛き朝貢を拒み各地に戦乱を起こしました。熊曾くまそ日向ひむか(宮崎)を席巻し肥国(肥前(佐賀、長崎)、肥後(熊本)に分かれる前の国名)に迫っております。速やかに平定の軍を願い奉ります。」と申し述べた。

 帝の決断は早く使者に告げた。「立ち帰って宿禰に告げよ。直ちに徳勒津宮ところつのみやを発って筑紫の香椎宮かしいのみや(福岡県東区香椎 香椎宮)に向かう。宿禰は兵を集め后と共に香椎宮かしいのみやへ向かえ。」そして、帝は直ちに船を集め紀伊水門きいみなとを出航し筑紫に向かった。

 この時、后の息長帯媛おきながのたらしひめ角鹿つぬが(敦賀)笥飯宮けひのみや(福井県敦賀市曙町 気比神宮けひじんぐうに留まって居た。帝の勅命を受け賜わった宿禰は直ちに兵を集め角鹿に赴く事とした。

 筑紫出兵を知った香坂皇子かごさかのおうじ忍熊皇子おしくまのおうじは我らも出陣すると宿禰に告げたが、宿禰は都の守りを理由に二人の申し出を退けた。

 宿禰は数百の兵を従えて角鹿つぬがに赴き后と共に気比神宮けひじんぐうに詣でて戦勝を祈願し、海路筑紫の香椎宮かしいのみやに向かった。

 帝は紀伊水門きいみなとを出航し武庫湊、播磨、吉備、安芸と停泊を重ね、およそ三ヶ月の航海で八年秋七月に筑紫の香椎宮かしいのみやに到着し、直ちに筑紫の豪族を集めて出兵を命じ、熊曾くまその情報を集めた。そして、宿禰の到着を待って将を任命して熊曾くまそ討伐の軍議を開いた。

 宿禰と后の船団は若狭小浜、丹後宮津、出雲美保関、石見浜田、長門須佐、萩と停泊を重ね一ヶ月遅れて秋八月に到着した。

 秋九月、帝は軍を編成して熊曾くまそ討伐に赴き三ヶ月戦に明け暮れたが熊曾くまそは頑強に抵抗し激戦を繰り広げたが勝利は得られず止む無く香椎宮かしいのみやに帰還した。

 帝は戦の疲れを癒し次の出陣の時期を考えて侍臣に語りかけると戦に従軍した侍臣の一人が態度を改め平伏して「申し上げたき事が御座います。」と帝に告げた。帝は「申して見よ。」と促すと。

 「この度の戦、激戦を繰り広げ熊曾くまそが本陣に迫る危難も御座いました。万が一の事をお考えになられ以前にも申し上げた太子の件、お決めになっては如何かと存じ上げます。」と申し述べた。

 帝は暫し黙考し「南海道の巡幸を終えて決めようと思っていたが熊曾くまそとの戦になりいつ果てるとも知れぬ戦いになった。臣の申す通り太子を決める事としよう。」

 帝は宿禰を召し、「以前にも話したが太子を決めようと思う、宿禰の考えでは香坂皇子かごさかのおうじ忍熊皇子おしくまのおうじのどちらが太子に相応しいか。」とお聞きになったが宿禰は即答を避け、共に太子に相応しいと答え、后の意見を聞かれては如何かと申し述べた。

 そして、その場を辞した宿禰は直ちに后の館に赴き后に「懐妊の兆しは無いか」と問うた。后から懐妊の兆しが有ると聞かされた宿禰は息長帯媛おきながのたらしひめが神と交合して懐妊したと思った。宿禰は何としても生まれいずる御子に皇位を託し新しい世を創世したいと思った。

 宿禰は后に告げた、「懐妊した事を時宜が来るまでたとえ帝と云えども他言してはならぬ、帝が太子を決め様としている。何としても生まれいずる御子を太子としたい。帝が誰を太子にすべきか后に相談があるはず、后は常の如く祭壇を設え神のお告げと称し、今は立太子を決する時期では無いと申し述べよ。」

 数日の後、后は帝から二人の皇子の内、どちらが太子に相応しいかと問われた。后は懐妊を隠し宿禰の指図に従い祭壇を設え神の降臨を願って帝に神のお告げを語った。

 帝は太子を立て様としたが后の息長帯媛おきながのたらしひめは神のお告げと称し立太子の儀は、今はその時期ではないと告げたが、帝は神託を怪しみ宿禰と后の仲を疑った。后の神託は宿禰の意向を告げているのではなかろうか。后は宿禰の傀儡かいらいと為って我が心の内に入り込んだ。

 春二月、帝は再び熊曾くまそ討伐の軍を発する事とした。出陣に当たり帝は吉凶を占う事とし祭壇をしつらへ宿禰が審神者さにわ(神託を解釈して伝える人)となり、帝と宿禰が琴を奏でて神の降臨を願った。后の息長帯媛おきながのたらしひめも横に侍り静かに琴の音に耳を傾けていた。

 后はこの頃、悪阻つわりに苦しんでいたが帝の前ではその気配を見せなかった。一弦琴の澄んだ音色が心地よく響き渡り后の心を和ませた。帝と宿禰は神に祈り一心に琴を奏でた。

 后は琴の音が身体に染み渡るのを感じ、暫くして后は体を震わせ神懸かりを始めた。すっくと立ち上がり琴を奏でる帝の前に立ちはだかり神託を垂れ始めた。宿禰はじっと耳を澄ませ后が告げる神託を解き帝に告げた。 「熊曾くまそを討つより海の彼方の新羅しらぎを討て、その国はまばゆいばかりの金銀財宝にあふれている。神を船の舳先へさきに祀り、あまたの兵を乗せて船を海に浮かべよ、風が帆をはらみ、波が船を運び、新羅しらぎに導くであろう、かいも要らぬ。刀に血を塗る事無くその国は服従するであろう。」

 帝はその神託を疑い琴を奏でるのを止めて「艪も櫂も無くどうして船が進むのか、熊曾くまそを討たずにどうして民を安らげるのか。神は海の彼方に新羅しらぎが有ると云うが此処からは一向に見えぬ。熊曾くまそが遣わした邪神の誘いであろう。」と取り合わなかった。

 神の化身となった后の息長帯媛おきながのたらしひめは帝の言葉を聞いて告げた。「天上からは一目で下界の全ての国が見えている。汝はなぜ国が見えないと我が言をそしるのか、汝は我が言を疑い神託を行わないのであれば国を保てないであろう。汝が疑っても皇后(神功皇后 息長帯媛おきながのたらしひめはらんでいる御子が成すであろう。」后はそう述べて床に倒れ込み氣を失った。宿禰は后が懐妊を口走った事に驚いたが平静を装い直ぐさま侍女を呼んで寝台に運び休ませた。

 帝は后の告げた神の声を思い起こし暫し考えたが后が懐妊している兆候はなく、その様な事は有ろう筈が無い、海の彼方に新羅しらぎと云う国が有る事も后の幻覚であろうと打ち消し一人、酒をあおった。

 その夜、帝は急に病に倒れ翌日の仲哀ちゅうあい九年(西暦三四六年)春二月六日、筑紫の香椎宮かしいのみや卒然そつぜんとして崩御された。

 侍女の知らせで寝所に駆け付けた后は人目もはばからず帝を揺り動かして泣き叫んだ。そこに宿禰が現れ「后のせいではない。帝が神を冒涜ぼうとくした報いであろう。今は熊曾くまそとの戦の最中にある。后は涙を拭い気丈に振る舞って頂きたい。今後の処置は宿禰にお任せ頂きたい。」

 后の息長帯媛おきながのたらしひめは予知していたかの如く平静に振る舞う宿禰を見てもしかして宿禰が毒を盛って帝をいしたのではないかと疑うほど帝の死は突然の事であった。

 宿禰は中臣連なかとみのむらじ烏賊津いかつ大三輪大友主君おおみわおおともぬしのきみ物部連もののべのむらじ胆咋いくい大伴連おおとものむらじ武以たけもつの四人の重臣を呼び、帝が昨夜病に倒れ崩御した事を告げ、「今、熊曾くまそと戦いの最中に有る。天下に知らしめれば人心の動揺を招くであろう。よって帝の喪を伏せる事とする。他言してはならぬ。」と申し付け密かに帝の遺骸を収めて筑紫の香椎宮かしいのみやから海路、穴門豊浦宮あなとのとゆらのみや(下関市長府)にお移し、灯火をたかず仮葬した。

 皇后(神功皇后 息長帯媛おきながのたらしひめは小山田邑(福岡県古賀市小山田)斎宮いつきのみやを造営し、三月一日、吉日を選んで斎宮に入り、琴の頭部と尾部に幣帛へいはくを積み重ね、中臣連なかとみのむらじ烏賊津いかつを呼んで審神者さにわとなし、宿禰に命じて琴を奏でさせ帝に神託を垂れた神の御名が知りたいと一心に祈った。

 七日七夜に至って、想いが神に通じ皇后の身を借りて神が降臨した。宿禰は神に問うた。帝に神託を垂れた神を問い、まつるべき神の名を問うた。

 神が祀るべき神名を告げた。天疎向津媛命あまさかるむかつひめのみこと(天照大神の別名)事代神ことしろのかみ表筒男うわつつのお中筒男なかつつのお底筒男そこつつのお(住吉の三神)の名を挙げた。宿禰は生まれ来る御子は皇子か姫かと問うた。神は皇子であると答えた。

 皇后は神のお告げに従い神を祀った。神を祀り終えた皇后は神託を信じ、海を渡って新羅しらぎに出兵する。願わくば神威を示し賜えと神に祈った。

 祈り終わった皇后は必ずや神威が顕われると信じて鴨別かものわけに兵を授け帝も成せなかった熊曾くまそ討伐の軍を発した。熊曾くまそは皇后の兵を見て神兵と見紛みまがい抗する事なく従った。

 又、羽白熊鷲はしろくまわしと名乗る賊が手下を従え古処山こしょさんの麓、荷持田村のとりたのふれ(福岡県朝倉市秋月野鳥)に砦を築き、しばしば近隣の村々を襲い、民を恐れさせていた。賊は羽が有るが如く神出鬼没で次は何処の村を襲うか計り知れなかった。

 皇后は民の苦しみを御聞きになり、羽白熊鷲はしろくまわし討伐の軍を発した。皇后は軍を率いて松峡宮まつおのみや(福岡県朝倉郡筑前町栗田。栗田八幡宮)に至り本陣を置いて羽白熊鷲はしろくまわしの本拠地、荷持田村のとりたのふれを目指して軍を発した。

 羽白熊鷲はしろくまわしも皇后が討伐の軍を発し松峡宮まつおのみやに本陣を敷いたと知り軍を率いて荷持田村のとりたのふれを発した。

 皇后の軍は松峡宮まつおのみやから層増岐野そそきの(福岡県朝倉郡筑前町篠隈)に至り羽白熊鷲はしろくまわしの軍と遭遇しこの地で激戦となった。敗れた羽白熊鷲はしろくまわしは三奈木(福岡県朝倉市荷原いないばる美奈宜みなぎ神社)まで逃れたが討ち取られた。

 皇后の軍団は久留米に至り高三潴たかみずま(福岡県久留米市三潴みずま町高三潴)に在所を定めてこの地を統治する国乳別くにちわけ(景行天皇の皇子)の出迎えを受け、国乳別くにちわけが準備した大城の蚊田かた行宮(伝承地は福岡県久留米市北野町赤司 赤司あかじ八幡神社)にお入りになった。

 そして、国乳別くにちわけから大足彦おおたらしひこ(景行天皇)が筑紫平定に赴いた時に協力した高羽たかはね(福岡県田川市)の族長、神夏磯媛かむなつそひめの娘、田油津姫たぶらつひめ山門県やまとのあがた(福岡県柳川市、みやま市一帯)を領有し、女山ぞやま(福岡県みやま市瀬高町大草)に石塁を築き前面には多数の逆茂木さかもぎの柵を廻らした堅固な砦を築いて朝貢を拒み叛旗を翻している。何度も砦を攻めて交戦したが攻めあぐねていると聞かされ、皇后は田油津姫たぶらつひめ討伐の軍を発する事とした。

 軍議を開き国乳別くにちわけが北から攻め、皇后の軍は南から攻める事とした。

 皇后は軍船を連ねて筑後川を下り矢部川を遡って鷹ノ尾(福岡県柳川市大和町鷹ノ尾 鷹尾神社)の地に上陸して布陣し塁を築いて戦に備えた。

 田油津姫たぶらつひめは皇后の軍が鷹ノ尾に布陣したと知り女山ぞやまの砦を出て草場(福岡県みやま市瀬高町大草)に布陣し皇后の軍と対峙した。田油津姫たぶらつひめが先に戦を仕掛け鷹ノ尾に攻め寄せ激戦が繰り広げられた。

 皇后の兵は強く田油津姫たぶらつひめは敗れて女山ぞやまの砦に逃げ込んだが皇后の兵は追撃し逆茂木さかもぎの柵を薙ぎ倒し石塁を乗り越えて砦に攻め入り、田油津姫たぶらつひめは捕らえられて皇后の前に引き立てられた。

 田油津姫たぶらつひめは赦しを乞うたが皇后は赦さず首を刎ねよと命じ、屍は戦場となった草場に塚を築き丁重に埋葬した。(福岡県みやま市瀬高町大草 老松神社 蜘蛛塚)

 田油津姫たぶらつひめの兄、夏羽なつはは妹が攻められていると知り高羽たかはねから兵を率いて救援に向かったが田油津姫たぶらつひめが討たれたと聞き兵を率いて逃げ帰り館に立て籠もった。

 皇后は兵を挙げた夏羽なつはを赦さず高羽たかはねに軍を差し向けて館を包囲し火を掛けて焼き殺した。その後も神は数々の神威を顕わし神託の重さを示された。

 仲哀九年(三四六年)秋九月、諸国に令を発して軍兵と船を集め兵を練らんとされたが、兵が集まりにくかった。皇后はこれは神のお心なのであろうと思い、大巳貴神おおなむちのかみ大国主神おおくにぬしのかみの別名)を祀る大三輪おおみわの社(大巳貴神社 福岡県朝倉郡三輪町弥永)を建て神に剣と矛を奉った。すると軍兵が自然に集まり兵を練った。

 そして、皇后は臨月が近づいていたが神の命じるままに海を渡って新羅しらぎを攻める決意を固め、海辺の石月延石つきのべいし鎮懐石ちんかいせきと呼ばれ、冷やすことによって出産を遅らせる)をとって腰帯に挟み、事が終わってから子を生みたいと神に祈った。

 祈り終えて宿禰を召し若武者の装束を準備させ、長い黒髪を惜しげもなく切落とし侍女に手伝わせて髪型を美豆良みずら(古代男性の髪型、 頭髪を左右に分け、これを束ねて耳のあたりで結んだ髪型。)に結い、男装の戦支度に取り掛かった。

 支度を終えて宿禰の前に姿を現わした皇后は秀麗な若武者に変身していた。宿禰は皇后の余りの変わり様に驚くと共に凛々りりしく美しい御姿に感嘆の声を発した。

 そして、皇后は自らおのまさかりを手に取り、三軍に令し、「士気を鼓舞する鉦鼓しょうこの音が乱れてはならぬ、軍旗が乱れては隊列が整わない、敵国に入って略奪してはならない、暴力で婦女を犯すのを許してはならない、敵が寡兵であってもあなどってはならぬ、敵が多くても弱気になってはならぬ、自ら降参する者を殺してはならぬ、戦いに勝てば必ず賞す、戦場で逃げ去る者は処罰される。」と仰せられた。

 神に戦勝を祈り、船団を組み、住吉大神(住吉大社 大阪市住吉区住吉)荒御魂あらみたまを召して先鋒とし、和御魂にぎみたまを召して船の守りとなした。(注一)

 全軍に乗船を命じ小戸おどの姪浜(福岡県福岡市西区小戸)を出航して新羅しらぎ遠征に向かった。航海は神のお告げ通り波は静かで帆に風を受け畳の上を滑る様に海上は穏やかであった。

 小戸おどから能古島を経て糸島半島沖を西に向かい唐津に至り、唐津から壱岐、対馬を経て新羅に向かう。皇后は唐津の鏡山に登り海路の安全と戦勝を祈願して山頂に鏡を鎮めた。(佐賀県唐津市鏡 鏡神社)

 唐津を船出したが大風に見舞われ壱岐の筒城浜に待避し風がおさまるのを待った。壱岐の北端、勝本浦(長崎県壱岐市勝本町勝本浦 聖母宮しょうもぐうに至り風待ちで数日碇泊し対馬南端の豆酘つつ(長崎県対馬市厳原町豆酘)に至った。

 豆酘つつで数日風待ちして厳原、綱掛崎つなかけざき、琴崎、船志、比田勝と停泊を重ね対馬東岸を航行して対馬北端の和珥津わにのつ(長崎県対馬市上対馬町鰐浦)に至り潮待ち、風待ちで碇泊した。

 冬十月三日、神のお告げ通り風の神は風を起こし、潮の神は潮を速めた。風は順風が吹き帆に風を受け、潮の流れに送られ、神のお告げ通りかいも使わず朝鮮半島の東南の地、新羅しらぎを目指し軍船を進めた。

 神に導かれた皇后の軍船は大河、洛東江の河口に至り軍船を留めた。皇后の軍船は海に満ち、御旗が風にはためき、鉦鼓しょうこの音が山川に響いた。

 この頃、朝鮮半島では北の高句麗こうくり、東の新羅しらぎ、西の百済くだらの三国が鼎立ていりつして覇を競い、南の弁韓べんかん十二ヶ国は未だ統一されず新羅しらぎ百済くだらの侵略を受け、新羅しらぎに併合される危機を迎えていた。海を渡った先に倭国が有る事を知る弁韓の狗邪韓国くやかんこくの王は倭国に派兵を請う使者を派遣したが使者は帰らなかった。

 あれから数年が経ち、海上に忽然こつぜんと姿を現わした神功じんぐう皇后の軍船を見て、弁韓の狗邪韓国くやかんこくの王は神が遣わした神兵であろうと思った。

 狗邪韓国くやかんこくの王は白旗を掲げて皇后の軍を迎え入れ釜山の館を提供し宴を催して恭順の意を示した。

 宴の席で宿禰は土地の古老から以外な事実を教えられた。それは六十年も前の崇神天皇十九年(二六七年)頃の事であった。任那みまな国が蘇那曷叱智そなかしちを遣わして倭国に朝貢してきた。そして蘇那曷叱智そなかしちは朝廷に仕え垂仁天皇の二年(二八三年)に帰国を願い出た。帝は願を聞き入れ返礼の品として赤絹百匹を任那の王に贈られた。ところが帰国の途中、新羅しらぎがこの品を奪った。激怒した帝は直ちに筑紫に命じて軍を発し新羅しらぎの東南の辺境に攻め入り秋の稔りと住人を奪い去った。翌年にも軍船を連ねて来襲し東南の地を荒らしまわった。新羅しらぎ十四代の王、儒礼じゅれい(在位、二八四~二九八年)は軍勢を差し向け倭と交戦したが敗れ、倭は前年と同じく貴重な品々と刈り取った多量の稔り、それと共に住人を奪って去った。翌々年も倭は新羅しらぎの東南の海上に軍船を連ねて現れた。新羅しらぎの王、儒礼じゅれい王は倭の来襲に苦しみ朝貢を願い出て倭と講和を結んだ。以来、倭人の来襲は無く朝貢も数年で途絶えた。この事を知る狗邪韓国くやかんこくの王は新羅しらぎに苦しめられ倭に派兵を請う使者を遣わしたのであった。景行天皇に仕えた宿禰もこの様な事実を知らなかった。多分、筑紫の豪族が渡来人から海の彼方の国を聞き知り倭王と称して新羅しらぎの東南の地を襲ったのであろうと想像した。

 弁韓(任那)に侵攻していた新羅しらぎ十六代の王、訖解きっかい(在位、三一〇~三五六年)は釜山に留まる皇后の軍船を見て、東の国に神国があり、その国の神兵が押し寄せたと知り戦慄して新羅しらぎの将に兵を引かせ、自ら白旗を掲げ首に縄を掛けた囚われの姿で降伏を願い出た。

 これを見た狗邪韓国くやかんこくの将は「我が国は長年、新羅しらぎに苦しめられてきた。新羅しらぎの王を我らに引き渡して頂きたい。」と皇后に願い出たが皇后は「降伏を願い出た者を殺してはならぬ。」と告げ、その縄を解いた。

 新羅しらぎの王、訖解きっかい王は奇しくも天之日矛あめのひほこの子、脱解だつかい直系の七世の孫であった。天之日矛あめのひほこは但馬の豪族、俣尾またおの娘、前津見まえつみを娶り、前津見まえつみ新羅しらぎ第四代の王となった脱解だつかい(在位、五七~八〇年)多遅摩母呂須玖たじまもろすくを生んだ。

 訖解きっかい王は皇后も天之日矛あめのひほこの血を引くと知り、弁韓べんかんの地は大和が領する事を了承し、以後大和に朝貢する事を誓った。

 新羅しらぎと抗争を繰り返していた百済くだら近肖古王きんしょうこおう(在位、三四六~三七五年)も弁韓に神兵が現れたと聞き、急ぎ皇后に拝謁を願い出て、新羅しらぎと同じく弁韓の地は大和が領し官家みやけを置く事を勧め、百済くだらは大和を兄の国として奉りこれより後、朝貢を欠かす事は無いと申し述べた。

 皇后は神のお告げ通り戦わずして新羅しらぎ百済くだらの二国を制し弁韓十二ヶ国の王の願いを受けて安羅国あらのくに任那みまなに日本府を開き、官家みやけを置いた。

 こうして、弁韓十二ヶ国は大和が支配する事を承知させ、新羅しらぎ百済くだらも弁韓(後の任那・加羅)に侵攻しない事を約した。それと共に二国は大和に朝貢する事を誓った。皇后は神の采配を得て、戦わずして三韓を制した。

 宿禰は神懸かりして気丈に振る舞う臨月の近い皇后の身を案じた。夜毎、悪阻つわりの苦しみに耐える皇后を気遣い、寝ずの番を置いて皇后の容態を見させた。

 宿禰は流産する事を最も恐れていた。生まれいずる御子は神の御子であると信じ、この御子に皇位を託し新しい世を創世したいと望んでいた。

 皇后が流産すれば帝位は大仲姫おおなかひめの二人の遺児、香坂皇子かごさかおうじか、忍熊皇子おしくまおうじが皇位を継承し宿禰は権力の座から滑り落ちるであろうと思った。宿禰はどの様な手段を使っても皇后の御子が必要であった。

 仲哀九年(三四六年)冬十二月十四日、新羅しらぎ百済くだらの貢ぎ物を満載して筑紫に帰り着いた皇后は筑紫の宇美うみ(福岡県糟屋郡宇美町 宇美八幡宮)の地で神に無事を謝す祈りを捧げ、祈り終えると急に産け付き皇子をお生みになった。そして、御生まれになった御子の名を伊奢沙和気命いざさわけのみこと(後の応神天皇)と名付けられた。

 新羅しらぎ討伐の翌年二月、筑紫の香椎宮かしいのみやから穴門あなと豊浦宮とゆらのみや(下関市長府)に移った。そして、渡海を守護した荒御魂あらみたまの神託に応えて事代神ことしろのかみ表筒男うわつつのお中筒男なかつつのお底筒男そこつつのお(住吉の三神)を祀る社を穴門あなとの山田邑(住吉神社 山口県下関市一の宮住吉)に建て穴門直践立あなとのあたえほんだちを神主として祀らせた。

 荒御魂あらみたまを祀り終えた皇后は宿禰が仮葬した帝の遺骸を納め、喪船を仕立て日本海航路で志賀高穴穂宮しがのたかあなほのみや(大津市坂本穴太町)に向かう事とした。


注一、荒御魂あらみたま和御魂にぎみたま

荒御魂、和御魂とは神の霊魂の二つの側面で荒御魂とは天変地異を引きこし、伝染病を流行らせ、人の心を荒廃させて戦争に駆り立てる荒ぶる御魂、これに対して和御魂は豊穣と安寧をもたらす幸の御魂。神に祈るとは荒御魂を鎮め、和御魂をお迎えする事である。


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