皇位争乱
第六話 神功皇后
忍熊皇子の叛乱
仲哀天皇の皇子、香坂皇子と忍熊皇子(共に倭建尊の孫)は帝が神の怒りに触れて卒然として崩御されたと聞き、忍熊皇子は武内宿禰(以下宿禰と記す。)が皇后(神功皇后)の神懸かりを巧みに操り神の名に事寄せて帝に毒を盛り弑逆(主君、父親を殺す事)したと思った。
しかも、皇后に御子が生まれた。生まれた御子は皇后が三韓を制し帰着した後に生みたいと神に祈り、祈りが通じて十五ヶ月(通常は十月十日 懐妊から二九0日)の遅産となったとの事であるが、誕生(冬十二月十四日)から逆算すると通常なら懐妊したのは帝の崩御(春二月六日)の後の二月末前後となる。生まれた御子は宿禰の子ではないか、疑いは深まるばかりであった。
そして、宿禰は皇后に御子が生まれる迄、帝の崩御を隠した。本来なら崩御の後、速やかに香坂皇子を践祚して皇位に就けるべきを、皇后と謀り喪を隠し皇后に御子が生まれるのを待った。
宿禰は孝元天皇の曾孫であり景行天皇に仕え帝の寵臣として朝廷で絶大な権力を握っていた。景行天皇が崩御し、倭建尊(以下、尊と記す)が皇位を望んだが、宿禰は身を呈して即位を阻み幼なじみの成務天皇を即位させた。
この時、尊と密約を交わし成務天皇の崩御の後は尊の御子、帯中日子命(仲哀天皇)を皇位に就けると約した。宿禰は尊に武を以て強要された事を恨みに思っており、約定に基づき即位させた仲哀天皇にも好意を寄せていなかった。
宿禰は策士であり尊が高穴穂宮(大津市坂本)に都を遷し朝廷の実権を握った後も素知らぬ顔で重臣として尊に仕え気に入らぬ群臣は次々に策謀を以て排斥した。
尊の臣も弁舌巧みな宿禰に翻弄され朝廷の実権は宿禰に帰した。己の権力を守る為なら帝を裏切る行為も平然と為した。刎頸の友、成務天皇を皇位に就けたが、成務天皇は形ばかりの帝であった。
成務天皇は失意の内に崩じ、御子の和訶奴気命も程なく崩じられた。宿禰は景行天皇の若帯日子命(成務天皇)を助けよとの遺勅を守れず慙愧の涙を流し成務天皇と御子の葬送の儀を執り行った。
宿禰は無念の思いを噛み締めて帯中日子命(仲哀天皇)を皇位に就け、復讐を忘れたかの様に振る舞って仲哀天皇に仕えていたが胸の内には復讐の炎を燃やし続けていた。仲哀天皇が崩じても宿禰はひたすら喪を隠し、神から授かったと信じる御子に皇位を託そうと思った。
仲哀天皇の皇子、香坂皇子、忍熊皇子の即位を阻止する事が宿禰の復讐であった。生まれ出でた御子は仲哀天皇の御子では無く神が皇統を改める為に遣わされた御子であると固く信じた。
御子は幼く、后は巫女である。育ての親と為って、御子の後見と為ればこの国の支配は宿禰の掌中にある。二人の皇子が叛乱を起こせば討ち取る口実も要らぬ。宿禰は二人が叛乱を起こす事を願っていた。
仲哀天皇が熊曾平定に香坂皇子を伴う事を聞き皇子二人は都の守りに留め置かれるべしと進言し軍に加える事を断念させたのも宿禰の策謀であった。
そして、二人の皇子に帝の崩御を隠しひたすら御子の誕生を待った。筑紫に帰着して御子が誕生し、宿禰は都の群臣に帝が崩御した事を伝える急使を派遣し次のように伝えさせた。「帝がお隠れになられた時、間近に居たが遺勅は受け賜わらなかった。都に立ち返り群臣と諮って皇位に就く皇子をお決めしたい。」群臣は御子の誕生を耳にしており宿禰の企みを見透かしたが絶大な権力を握る宿禰に逆らうほどの剛の者はいなかった。
忍熊皇子は都の群臣に「生まれた御子は幼く、皇位に就ける筈もない、速やかに香坂皇子を推戴して即位の儀を執り行うべし。」と説いたが、多くの群臣は忍熊皇子の申し出に応じず宿禰の帰着を待つと言い張った。
時が経ち、既に祖父、尊の恩顧の臣は没し権力を握る宿禰を恐れて忍熊皇子に賛同する群臣は僅かであった。今、皇后は熊曾を討伐し三韓を制した。宿禰が野望を以て香坂皇子の即位を阻めば群臣は怖れ皆従うであろう。このままでは、皇位は空位のまま、后と宿禰が天下を統べ、いずれ幼い皇子を立てるであろう。
坐して待つより運命は自ら切り開かねば好転しない。宿禰の野望を打ち砕き祖父の尊と父の仲哀天皇が目指した皇統を引き継がねばならない。皇位を軽んじ神を欺く皇后と宿禰の罪を暴き、宿禰の魂胆を天下に曝し、諸国の兵を糾合して討たねばならない。二人の皇子は諸国の豪族に挙兵を促す使いを出した。
一方、宿禰は穴門の豊浦宮(山口県下関市長府宮の内町)で二人の皇子が諸国に使いして挙兵の準備に入ったとの報せを受けた。宿禰にとって尊の血筋を絶やす機会が遂に到来した。
宿禰は皇后を説き日本海航路で志賀高穴穂宮に向かう事を取りやめ、二人の皇子を討つべく、瀬戸内を進み安芸、吉備で兵を募り難波を目指す事とした。
二人の皇子は大和の豪族を説いた。「皇后は今、海路、難波に向かっていると聞く、この好機を逃してはもう宿禰を討つ事は叶わないで有ろう。宿禰の野望を砕き、政を正すべし。」
宿禰の専横に不満を持つ大和の豪族に皇后と宿禰の罪を暴き、我に加担して兵を挙げよと説き伏せた。大和の豪族は、宿禰の専横を苦々しく想っており香坂皇子と忍熊皇子の申し出を受け入れ、倉見別(越前若狭の豪族)と五十狭茅宿禰(難波の豪族)が兵を引き連れ馳せ参じた。
二人の皇子は朝廷に願い出て、播磨に父、仲哀天皇の陵を築くと偽り、兵を播磨の明石に動かし、明石浦で船を集め淡路に渡り勅命と称して、淡路から石を運び、明石に陣を築いた。
皇后の軍船が明石の早瀬に入れば船は潮に翻弄され海底の岩礁に気を取られ、船は揺れに揺れて皇后の軍船は戦う体制も整わないであろう。そこを、小舟で軍船に近付き火矢を放ち軍船を焼き払えば勝ちが見えてくる。
作戦の準備も整い二人は数人の家人を伴い菟餓野(神戸市兵庫区夢野?)に出て狩り占いをした。空は抜ける様に青く爽やかな風が吹き抜け絶好の狩り日和であった。良い獲物が取れたなら事は成就するであろう。野に床机を据え仮の祭壇を設らえ、神意を伺う占いをした。その時、祭壇に突然、赤い猪が現れ猛然と香坂皇子を襲った。
皇子は一撃で跳ね飛ばされ、猪の鋭利な牙で腹を深々と切り裂かれた。猪は倒れた皇子になを襲いかかり鋭い牙を首に突き立て顔を血に染めて走り去った。
突然の出来事で忍熊皇子をはじめ居合わせた家人も為す術が無かった。猪の去った後に首を食いちぎられた香坂皇子の無惨な躯が横たわっていた。
忍熊皇子は神功皇后を助ける荒神を見た思いであった。祖父、尊をお守りした素戔嗚尊に武運を祈り神の助けを乞うた。脳裏に草薙の剣が映った、我も尊に倣い伊勢に参り剣を授かるべきであったと思った。
明石の陣に帰りしめやかに葬送の儀を執り行い香坂皇子を葬った。(神戸市兵庫区氷室町 氷室神社)
忍熊皇子は哀しみの涙が頬を濡らし慟哭して泣いた。この一事を聞き兵も哀しみに沈んだ。これからの戦に不吉な予感を覚えた。忍熊皇子もあの赤い猪の姿が脳裏を去らず、再び襲って来る恐怖を感じた。夜になると見張りを増やし松明の明かりを増やし陣は闇の中に光り輝いた。
宿禰は忍熊皇子が軍を率いて明石浦で待ち構えていると聞き、氷河(兵庫県の加古川)の津で船を留め潮の変わるのを待った。潮待ちの間に噂を確かめるべく偵察の兵を出した。兵の報告では数千の兵を擁し明石浦に石塁を築いて陣を構え、小船を集めて迎え撃つ準備を整えていると告げた。
兵の数が思いのほか多く、皇子に味方する豪族の多さに驚いた。宿禰は摂津の八部(神戸市須磨区、長田区、兵庫区)、菟原(芦屋市、神戸市東灘区、灘区)武庫(西宮市南部、尼崎市西部、宝塚市南部)の豪族に恩賞を示し、皇軍に味方して皇子の陣を攻めよと使いを出した。
宿禰は明石の早瀬を乗り切り、戦を避けて南に進路を取り、迂回して住吉津(住吉大社 大阪市住吉区住吉)を目指す事とした。
宿禰は皇后に船を移る事を勧めた。「忍熊皇子は皇后の船に御子が居ると思い御座船を目指し他の船には目も呉れず襲いかかるでありましょう。皇軍の船は早瀬に翻弄され兵は船の操船に精一杯でたとえ敵が襲って来ても戦う余力は無く、船は揺れに揺れ潮に翻弄されて如何に潮を乗り切るかに水夫も兵も全力を集中致しましょう。敵の小船は潮を乗り切って皇軍の兵の気が緩んだ頃を見計らって船を漕ぎよせ火矢を浴びせ掛けるで有りましょう。」
宿禰は難を避けて御座船を空船とし皇后を三隻目の船に御移り願った。宿禰は御子と共に喪船に移り船団の先頭に立つ事とした。喪船には仲哀天皇の遺骸が安置されており忍熊皇子もこの船を襲は無いであろうと思った。
皇后は宿禰の策に驚きを覚えた。幼い御子を喪船に乗せれば死者の魂に穢れ冥界に誘う事となる。大切な御子を神の許しも受けず喪船に乗せる事は断じて承服出来ない策であった。御子は神の怒りに触れ、伊弉冉尊に誘われて冥界をさ迷いこの世に戻らない事を怖れた。
しかし、宿禰は頑として皇后の願いを受け付けなかった。例え、伊弉冉尊が冥界に誘おうとこの御子は強い宿命を帯びてこの世に誕生した。生まれ落ちた時から皇后の危難を救う為に神が遣わした御子である。この御子は神がお守りするであろう。
宿禰はこの御子に己の運命を託し共に生きようと思った。死なば諸共である。どの船も危険な潮の流れと忍熊皇子の火箭に曝されている。危難を避けては通れない。神が遣わした御子なら神が船団を救うであろうと信じた。
潮が動いたとの知らせを受け、氷河の津を出航した。潮はうねりながら一筋の川と為って、西から東に流れ、波頭が白く泡立ち、風が飛沫を飛ばした。船団は帆一杯に風をはらみ潮に乗って矢の様に船足を早めた。黒々とした波のうねりが船を襲い大きく波に持ち上げられた後、船底が波を打ち、奈落の底に沈む様に波の底に引きずり込まれた。
船は波に翻弄され木の葉の様に前後左右に揺れ船のあちこちで船体が軋む音が聞こえた。波間に僚船も隠れ、船は潮に押し流された。大波が船を襲い甲板を波が洗った。波の飛沫は風に吹かれ兵の衣服を濡らし、弓矢も濡らした。兵は船の中を転げ、何かに掴まってやっと体を保った。
早瀬を過ぎる直前に差し掛かった時、海岸の砂浜から数十艘の小舟が皇后の船団に向かって漕ぎ出すのが見えた。
忍熊皇子は漕ぎ手を励まし皇后の乗る船を探した。船団の二隻目を走る一際大きい船が御座船であろうと見当をつけた。
宿禰は忍熊皇子が率いる軍船が思いの他、多い事に驚いた。宿禰は策略を用いて忍熊皇子を翻弄し攻撃の手を止めさせる方策を咄嗟に思い付いた。
御子が崩じたと告げ、和解を持ち掛けその隙に乗じて逃げ去ろうと思った。幼い御子を事も有ろうに喪船に乗せ、今又、崩じたと口に出す事は神を愚弄する行いであり神は怒って御子の命を縮めるかも知れなかった。しかし、宿禰は御子の強運を信じた。この御子は神がお遣わしになった。戦が終われば神に謝し禊の旅に出る事を誓い御子が崩じたと告げる事を決意した。
舳先に立ち軍船を指揮して攻め掛かる小船を見て、あれが忍熊皇子の乗る船であろうと見定め急ぎ舳先に向った。宿禰は喪船の舳先に立ち、「御子はお亡くなりに為った。戦をする意味は無い。」と大声で叫んだ。しかし、潮と風が宿禰の言葉をかき消し忍熊皇子に宿禰の謀略の声は届かなかった。
忍熊皇子は一際大きい御座船は空船では無いかと疑い皇后の乗る船を探した。先頭を走る喪船には父、仲哀天皇の遺骸が船中に納められているであろう、矢を射掛ける事を差し控え小船を横付けにして喪船を奪おうと思った。倉見別が小船を喪船に寄せ乗り移ろうとしたが盛んに矢を射掛けられて近づく事は叶わなかった。
忍熊皇子は宿禰が乗る喪船に皇后と御子が乗っているのではないかと疑い倉見別と五十狭茅宿禰に火矢を浴びせよと命じた。二人は神を怖れぬ行為と皇子を諌めたが、皇后と宿禰を討てば父も赦すであろうと述べ喪船も襲えと命じた。
漕ぎ手に力一杯櫓を漕がせ倉見別と五十狭茅宿禰の小船は喪船と御座船に近づき射程を詰めて一斉に矢を放った。
喪船からも盛んに矢を射掛けて来たが船は波に揺られ的は定まらず矢は波間を射た。倉見別は再び小船を喪船に寄せ乗り移ろうとしたが、喪船の兵は盛んに矢を射掛け近づく事が叶わなかった。
喪船を守るが如く他の船が割って入り喪船が波間に隠れた。倉見別は目の前の船に火矢を浴びせ喪船を探した。忍熊皇子は小船から皇后の姿を探し求めた。
一際大きい御座船の中央に皇后と思しき姿を認め、僚船を呼び集めその船に狙いを定め、火矢を降り注いだ。暫くして御座船は火災を起こし帆に火が移り風に吹かれて高い火柱となった。御座船の兵は消火を諦め次々に海に飛び込んだ。
炎上した御座船は忍熊皇子の船団に向かって舵をきり火の粉をまき散らして突き進んで来た。忍熊皇子の船団は炎上した船を避け左右に散った。炎上した船は岸に向かって潮に押し流され座礁した。
皇后の船団は炎上した御座船が忍熊皇子の船団に向かって突き進む間に、淡路島に沿って南に船団を進め難を逃れた。他の軍船も戦う事をせず喪船に導かれる様に南に針路を取り遠くに去った。数艘の船と兵は見捨てられ船団は逃げる様に去った。
忍熊皇子は僚船と兵を見捨てて去った船団を怪しんだ。波間を漂う兵の中に皇后が居ないか探し回った。座礁した御座船の中も調べ尽したが御子の姿も皇后の姿も見当たらず船は予想通り空船であった。女人の衣を纏った兵を捕らえ陣に連れ帰って尋問した。皇后と御子は別の船に乗り移り逃げ去った事を知った。
忍熊皇子は軍を率いて退き摂津の住吉に留まった。この地は昔、神武天皇が明石の早瀬を乗り切り住吉川の河口を選んで船を留めた地である。神武天皇は保久良山(神戸市東灘区本山町)に神を祀り海路の安全と東征の成功を祈った。忍熊皇子も保久良山に登り祭壇を設へ神に祈った。
山上からは明石から難波まで一望に見渡せた。海は凪、さざ波がきらきらと輝き海に星を散らした様に見えた。秋の日差しが心地良く皇子は暫く山上に留まり長閑な景色を眺めた。戦の事も忘れ亡き母を偲び、少年の頃の愉しい思い出が甦って来た。
諸将に促され山上で軍議を開いた。皇后は明石の早瀬を乗り切り南に向ったが程なく潮が変わり海を渡り切る事は叶うまい。潮と戦い疲れ果ててここ摂津の住吉に船を戻すであろう。
川に小舟を隠し、林の奧に兵を伏せ、皇后の上陸を待った。皇后と宿禰が上陸すれば林に伏せた兵を以って一気に皇后を襲う。時を置かず小舟の兵は軍船に近づき火矢を放ち船を悉く焼き払う。
諸将は持ち場を決め山上に見張りを立てて戦の準備に取り掛かった。漁師の小船を奪い川に隠し、近在の豪族の奇襲にも備えた。
時を経ずに皇后の船団は現れるであろう。山上に昼夜の別なく見張りを立てた。時々近隣の豪族の家人が様子を窺っているのに気付き捉えさせたが逃げられた。
皇后は宿禰の慧眼に救われ軍船数隻を失う損失に留まり、船団は淡路の沖を南下して茅渟海(大阪湾)を横切り一気に住吉津を目指した。暫くして潮が変わり船は進まず武庫の津の沖合に流された。風を待ち数度にわたり試みたが船は潮に押し戻された。
宿禰は忍熊皇子の軍兵が急ぎ武庫の津を目指し東に進んでいるであろうと思ったが止むを得ず武庫の湊(武庫川の河口)に上陸し決戦を覚悟した。
忍熊皇子は沖合で先に進めず旋回を繰り返す皇后の船団を認めた。皇后は諦めて武庫の湊に引き返すで有ろう。忍熊皇子は諸将を呼び集め急ぎ武庫の湊を目指し、軍を進めた。
その時、背後から馬蹄の響きと兵の喊声が聞こえ突然、矢を射掛けられた。皇后の使者に説き伏せられた菟原郡(西宮市の夙川から神戸市中央区の生田川までの範囲 芦屋市、神戸市東灘区、灘区)の豪族が兵を差し向けて来たのであった。防戦に追われ豪族と戦いながら武庫の湊を目指して兵を進めた。
偵察の兵から皇后の軍が上陸を開始したとの知らせを受けた。忍熊皇子の軍は兵を留めて豪族と戦うゆとりは無く殿の一団を残して武庫の湊を目指して駆けた。
忍熊皇子は上陸の隙を突いて雪崩れ込むつもりで有ったが、豪族に攻められ武庫の湊への到着が遅れた。
宿禰は既に上陸を終え、布陣して防御を固め忍熊皇子の軍を迎え討つ態勢を整えていた。前後に敵を受けた忍熊皇子の軍は止む無く撤退をよぎなくされ、兵をまとめ武庫川を渡り東に退いた。
皇后は神の助けを謝し祈りを捧げ占った。神のお告げにより、甲山に如意宝珠、金甲冑、弓箭、金剣、衣服を埋め神に祈った。他に祀る神は無いかと問い、神のお告げに従って、天照大神を摂津国、広田神社(兵庫県西宮市)に祀り、稚日女尊(天照大神の妹)を摂津国、生田神社(神戸市中央区)に祀り、事代主命を摂津国、長田神社(神戸市長田区)に祀った。そして、神々に海路の平穏と戦勝を祈った。
忍熊皇子は軍を返し、倉見別と五十狭茅宿禰を将として宇治に陣取り東海、北陸の豪族に兵を送れと使いを遣った。大和の豪族も忍熊皇子の戦振りを聞くに及んで宿禰の横暴を嫌う豪族も加わり軍は大きく膨れ上がった。
皇后の船団は武庫の湊を船出して住吉津に向った。住吉津に到着して忍熊皇子に加担する豪族が意外に多く、引き連れてきた兵では立ち向えない事を知った。皇后と宿禰は再び船に乗り難を避けて一旦、紀伊水門(和歌山県紀の川河口)に向った。皇后は紀伊水門に頓宮(仮の宮)を設け暫し留まり、紀の国の豪族、紀臣と語らって兵を集めた。
紀の国は宿禰の縁故の地であった。宿禰の母は紀の国の豪族、菟道彦の媛、影媛であり紀の国に縁が深かった。皇后は紀臣に出兵を促し、御子を宿禰に託して自身は再び船に乗り、紀伊水道を南下して比井湾(和歌山県日高郡由良)に船を留め、兵を募った。更に南下し串本で兵を集めて、船を返し日高川の河口で船を留め、御坊の小竹宮に入った。この地で宿禰に託した御子と再会し、兵の到着まで時を過ごした。
皇后は春三月五日、宿禰に軍を発せよと命じた。宿禰は紀の国の兵を加え数千の大軍を擁して自信に満ちた足取りで忍熊皇子の待つ宇治に駒を進めた。
武庫の湊で忍熊皇子の軍を潰走させた宿禰は宇治に布陣しても大した陣容ではあるまいと多寡をくくっていた。御坊の小竹宮を進発した皇后の軍は海草郡野上(和歌山県海草郡紀美野町小畑 野上八幡神社)の地に暫し留まり、貴志川に沿って紀ノ川に至った。那賀郡粉河(和歌山県紀の川市粉河)の地を過ぎ、隅田の垂井の地(和歌山県橋本市隅田町垂井)に至り、この地で数日の休息を取った。
皇后の軍は紀ノ川を溯り吉野に入った。吉野は神武天皇が熊野の山中を越えて大和を攻める軍勢を調えた由緒有る地であった。皇后と宿禰は吉野の地で神武天皇に倣い吉野で兵を集め、大和に至ると武振熊が和邇一族の兵を従えて軍に加わった。
宿禰は意気揚々と軍を進め武庫の湊では取り逃がしたが此度は忍熊皇子の首を刎ね味方した豪族も徹底的に殺戮する積もりで忍熊皇子が布陣する菟道河(宇治川)を目指した。
二度と皇后に刃向かう皇子も臣も現れ無い様に一挙に踏み潰し宿禰の力を見せ付ける戦と考えていた。しかし、軍を進める宿禰は大和を過ぎ菟道河に近づくにつれ不安を感じた。忍熊皇子の兵の喚声が天と地を覆い地鳴りの様に遠くから聞こえて来た。噂の通り多数の豪族が味方して武庫の湊とは異なり大軍を擁して待ち構えている気配を感じた。
斥候の報せに拠れば我が軍に勝る大軍を率いて今や遅しと待ち構えているとの事であった。忍熊皇子の軍は大和、河内の豪族も加わって想いの他、大軍を擁していた。戦えば敗れるかもしれない不安が頭を過ぎった。戦が長引けば長引く程に近隣の豪族も忍熊皇子に加勢し宿禰の軍はじりじりと退き敗色の憂き目を見るであろう。宿禰は一旦軍を留め、謀略を以って戦に臨む事とした。
宿禰は卑劣な策を以って忍熊皇子を欺いた。全軍に命じて予備の弦(弓の弦)を頭髪に隠し、木剣を帯び真刀を隠させた。軍装が整い宿禰は軍を進め菟道河に至り、川を挟んで忍熊皇子と対峙した。
宿禰は対岸の忍熊皇子に向かって、皇后のお言葉であると告げて申し述べた。「忍熊皇子を差し置き天下を統べるつもりはない、若い御子を抱いて君に従うのみ、戦う意志は無い、共に弓の弦を切って和睦し朝廷を安らかにしたい。忍熊皇子が皇位につき、安らかな政を執り行い願いたい。」と言い終わって、宿禰は自ら弓の弦を切り捨て、自軍の兵に向かい「弓の弦を切り、刀を捨てよ。」と命じた。
忍熊皇子は宿禰の軍が弓の弦を切り剣を捨てたのを見て二人の将に戦は終わったと告げた。倉見別と五十狭茅宿禰は宿禰の狡猾な戦振りは聞き知っており忍熊皇子に宿禰の言葉に乗るなと引き留めたが、忍熊皇子は二人の忠告に耳を貸さず最早、戦は終わった。全軍の兵に弓の弦を切り、剣を捨てよと命を下した。忍熊皇子の軍兵は弓の弦を切り一斉に剣を川に投げ捨てた。
これを見届けた宿禰は全軍に命令した。「それ、控えの弦を張れ、真剣を佩よ、河を渡り、皇子を討て。」宿禰の兵は頭髪に隠し持った弦を取り出して弓を張り一斉に矢を射掛けた。無防備な忍熊皇子の兵は次々に射殺された。
忍熊皇子は欺かれ、兵と共に慌てて剣を拾い北へ逃げた。反撃すべき武器も無く不意を衝かれ将も兵も混乱の内に戦わずして敗走した。
宿禰は全軍に降伏を許さず皆殺しを命じた。無抵抗な敵兵に矢を射掛けて川を渡った。降伏を申し出る兵も容赦無く斬り殺した。菟道河の戦場は修羅場と化し、宿禰の軍兵は逃げ惑う兵を次々に斬り殺し、屍が累々と河原を埋め辺りを血の海にした。菟道河は血に染まり水の流れも赤い血の色となった。
逃げ遅れた全ての兵を切り捨てて宿禰は敗走する忍熊皇子の追撃を命じた。忍熊皇子に付き従った大半の兵は近江の逢坂で斬られ、宿禰の進んだ道の跡に屍が累々と続いた。
忍熊皇子は逃れて瀬田に至った。数十人の兵がなを付き従い北陸に逃れ、再起を期す事を勧めた。しかし、忍熊皇子は兵に向かい「宿禰に欺かれ戦は終わった。戦わずして多くの兵を死なせた。将として生き延びる事は死んだ兵に申し開きが立たぬ。無念では有るが此の地で自害して果てる。黄泉の国に参り怨霊と為って漂い皇后の苦の種を作らん。」と申し述べ自ら喉を突いて果てた。倉見別と五十狭茅宿禰は忍熊皇子の屍が暴かれる事を怖れ琵琶湖に流し自身も互いに喉を突き合って果てた。
宿禰は瀬田に至り忍熊皇子の遺骸を探させたが見付からなかった。宿禰は忍熊皇子が再起を期し北陸に逃れる事を怖れた。四方八方に兵を出したが忍熊皇子の姿も屍も見つから無かった。
宿禰は仲哀天皇が都とした志賀高穴穂宮(滋賀県大津市坂本穴太町大津)に入り、数日、兵を留め忍熊皇子の行方を探させたが見つける事は出来なかった。
志賀高穴穂宮に数百の兵を留め引き続き探索を命じた。そして、宿禰は瀬田から追撃の跡を辿り、兵に命じ道の其処此処に転がる屍の中に忍熊皇子の遺骸は無いか一体ずつ調べさせた。
菟道河に至り、川に浮かぶ屍を引き上げさせた。下流にも兵を出し流された多数の屍も引き上げさせた。一体一体調べさせ、下流から引き上げた屍の中に忍熊皇子の遺骸が見付かった。琵琶湖に沈んだ屍が瀬田川を下り菟道河を流れ下り、もう少しで鵜河(淀川)に流れ込み遺骸は行き方知れずに為る所であった。
宿禰は忍熊皇子の遺骸を鄭重に柩に納め、忍熊皇子が自害した瀬田の地に墳丘を造り埋葬した。埋葬して祈りを捧げた時、墳丘から白鳥が現れ大和に向かって飛び立った。
宿禰は驚き柩を掘り出して鄭重に扱い都に運び葬礼の儀を執り行い、柩を忍熊皇子の母、大仲姫の眠る大柴の里(西国二十四番札所中山寺)に葬った。数日の後、忍熊皇子の霊は再び白鳥と為って山に飛び去った。(中山寺の奥の院)
忍熊皇子の乱を鎮圧した皇后は宿禰と共に大和に入り、先帝を恵我長野西陵(大阪府藤井寺市藤井寺町)に葬り仲哀天皇の謚を奉った。
そして、宿禰は忍熊皇子に加担した諸国の豪族に兵を向け、抗する豪族を討伐した。乱を鎮めた宿禰は喪船に乗せた御子の穢を祓う為に御子を伴い禊の旅に出た。若狭から角賀(敦賀)に至り皇后の母方の先祖、天之日矛が胆狭浅太刀を献じた、縁の深い気比神宮(福井県敦賀市曙町)に留まり、仮宮を建てて御子と共に住み禊を行った。
神剣には穢を祓う霊力が有ると信じられていた。神武天皇は建御雷神が葦原の中つ国を平定した布都御魂剣を得て大和を制し、倭建尊は素戔嗚尊が八岐大蛇を退治して得た天叢雲剣(草薙剣)に身を守られていた。
宿禰は胆狭浅太刀が御子の穢を祓い清めるであろうと信じ、御子と共に神の降臨を願って七日七夜、祈り続けた。すると、七日目の真夜中に気比神宮に坐す誉田別大神が顕れ御子の禊の証として我が名と御子の名を交換すると申され、神はこの後、伊奢沙和気大神と名乗り、御子の名は誉田別尊(後の応神天皇)と改めよと告げた。
禊を終え、神から御名を授かった宿禰は御子を伴って志賀高穴穂宮(滋賀県大津市坂本穴太町大津)に立ち帰り、皇后に拝謁して無事に御子の禊を終え、神から誉田別尊の御名を授けられ穢が祓い清められた事を奏上した。
そして、宿禰は皇后に空位になっている皇位に上る事を建言したが、皇后は「女人が皇位に上った前例は無い、神がお許しにならないであろう。」と強く皇位に就く事を拒み、皇位は空位のまま御子の成長を待つと仰せられた。
宿禰は皇位を空位にすればいつ何時、香坂皇子、忍熊皇子の遺児を担ぎ皇位を窺う豪族が現れ、再び乱を招く怖れが有ると強く皇位に就く事を勧めたが皇后は応じなかった。(この後、二一年間帝位は空位となり武内宿禰は后の息長帯媛(神功皇后)を帝の代理として奉った。)
宿禰は次善の策として、先帝が崩御した今、世が改まった事を天下に知らしめる為に歴代の天皇が都を遷した如く、皇位に就かずともせめて都を遷すべきで有る、まして、志賀高穴穂宮は日子坐王と倭建尊が皇位簒奪を目論み大和と対峙する位置に仮の都を定めた争乱の地で有る。神武以来、歴代の帝は都を大和に定めて来た。是非とも遷都をと建言した。
皇后も仲哀天皇の怨念が染み付いた志賀高穴穂宮を去りたいと考えていた。皇后は宿禰の言を入れ、大和に都を遷す適地を探す事を命じた。宿禰は自ら大和の地を巡り歩き磐余稚桜宮(奈良県櫻井市)を造営して都を遷した。
皇后は神功三年まだ三歳の我が子、誉田別尊を皇太子とした。立太子の儀を執り行った宿禰は新たな世の到来を思った。
景行天皇が崩御し倭建尊の御子、帯中日子命(十四代 仲哀天皇)を太子にする誓約を結んで若帯日子命を帝位に就け成務天皇となられた。この時、宿禰は断腸の思いで刎頚の友、成務天皇に我が子を差し置いて倭建尊の御子、帯中日子命を太子にと、苦渋に満ちた決断を迫った。帝は我が御子の和訶奴気命を差し置いて帯中日子命を太子とする事に不快の念を覚えたが抗する術も無く宿禰の申す通り、帯中日子命を太子とお決めになった。
こうして成務天皇は皇位に就いたとは言え倭建尊に実権を握られ悶々とした日々を過ごし苦渋に満ちた生涯を閉じられた。そして、誓約通り、倭建尊の御子、帯中日子命が皇位に就き仲哀天皇となられた。この時から宿禰は怨念を胸に抱きつつ仲哀天皇に仕えてきた。仲哀天皇は即位して僅か九年で崩じた。
宿禰は仲哀天皇の遺児、香坂皇子か忍熊皇子が皇位に就く事を何としても阻止したかった。それは倭建尊に対する怨念の様なものであった。
皇后が生んだ誉田別尊は確かに仲哀天皇の御子では有るが仲哀天皇が崩じて後に生まれ、宿禰にとっては皇后が神と交合して天から授かった御子との思いが強かった。宿禰は仲哀天皇の遺児、忍熊皇子を抹殺して倭建尊に対する怨念がやっと払拭したと思った。
新しい天皇の御世は三歳の誉田別尊から始まると強く思い、皇后に太子を定める事を建言した。宿禰の長い人生の果てに宿禰が待ち望んだ御子を皇位に就ける夢が叶い万感胸に迫るものが有った。
過去の忌まわしい皇統は終わりを告げ、今、新しい帝の皇統が始まると強く己に言い聞かせた。御子を推戴して共に新しい国を開く野望が心の奥底から沸々と湧き上がるのを感じた。
誉田別尊は逞しい躰に成長し十三歳の時すでに六尺を超える偉丈夫であった。武を好み特に弓矢の修練を好んだ。
神功二十年(三六六年)春一月三日、皇后は誉田別尊が二十歳の時、皇位に就く事を強く望み、宿禰も賛同し即位を促したが、誉田別尊は皇后に向い鄭重に辞退を申し述べ、皇后が皇位に就くのが自然であると申された。
しかし、皇后は歴代の帝に女帝の前例は無いと皇位に上る事を強く拒まれた。宿禰は再び誉田別尊に皇位に上る事を奏上したが誉田別尊は言葉を翻さなかった。
そして、皇后に存念を申し述べ重ねて即位辞退を奏上した。「群臣も皇后には帝に変わらぬ敬意を表し御仕えしている。即位の儀を経ずとも現実は帝そのものである。帝の位は終生のもので有り古来、生前に譲位した例は皆無である。帝として仰ぎ奉る皇后を差し置き皇位に就く事は皇位を奪うに等しい行いと存じ奉ります。武内宿禰と共に太子として皇后を補佐し国を安らかにする事が我が努めである。この後、我に即位を勧める事の無き様、願い奉るべし。」と申された。皇后と宿禰は言葉を尽くし辞を低くして太子に即位を促したが太子は拒み続け一歩も譲らなかった。
太子の毅然たる態度に付け入る隙は無く、皇后と宿禰は太子の即位を諦めざるを得なく、今まで通り皇后と宿禰が政務を執り行う事と為った。
神功二十一年(三六七年)夏四月、百済の近肖古王(在位、三四六~三七五年)は久氐、弥州流、莫古を遣わして朝貢した。その時、新羅の朝貢の使いも百済と一緒に来た。
皇后と太子は大いに喜ばれ、二国の貢物を比べられた。新羅の貢物は珍しい品々が多く、百済の貢物は少なく品物も良くなかった。
皇后は久氐に尋ねられた。「今年の貢物は品々も少なく、品物も例年と比べると随分と劣っているが国で何かあったのか。」と問い質した。
久氐は平伏して申し述べた。「私共は道に迷い新羅の領内に入ってしまいました。捕えられて牢に繋がれ、貢物は奪われ殺そうとしましたが倭国に奉げる貢物と解り新羅の貢物と入れ替え、この事を漏らせば殺すと脅され、この言葉に従って新羅の使いと共にやっと倭国に到着いたしました。何卒、真偽の程、お調べ願いたい。」と申し述べた。
皇后は千熊長彦を親羅に遣わし真偽を調べさせた。新羅の奈勿王(在位、三五六~四〇二年)は千熊長彦に会う事を拒み詔勅を受け付けなかった。
千熊長彦は復命して新羅の奈勿王は詔勅を蔑にして大和に従う事を拒んだ。新羅の横暴を許せば新羅は付け上がり百済、高句麗も大和に心服しなくなるであろうと報告した。皇后は千熊長彦を勅使として百済に赴かせ新羅攻めの出兵を百済の近肖古王に命じた。
神功二十三年(三六九年)春三月、皇后は荒田別と鹿我別を将軍として半島に兵を送り、百済の将、木羅斤資、沙沙奴跪が指揮する百済の兵も加えて貞淳国(大邸)に集結し、新羅を打ち破り七ヶ国を平定した。
神功二十六年(三七二年)秋九月、百済の近肖古王は千熊長彦の帰国に随行して使者を遣わし神功七枝刀(しちしとう 天理市石上神宮の宝物)一口、七子鏡(現存しない。)一面と種々の朝貢の品々を奉った。
五十歳を越え体の衰えを感じた皇后は誉田別尊に即位を促したが、誉田別尊は十年前と変わらず、「歴代の天皇で生前に退位した例は無い、皇后を女帝として尊び今後もお仕えしたい。」と申し述べ皇位に就く事を承知されなかった。
神功三十六年(三八一年)夏四月十七日、皇后は磐余稚桜宮(奈良県櫻井市)で百済との友好を子々孫々まで続ける事を遺言して五十七歳の生涯を閉じた。
誉田別尊は皇后を帝の崩御と変わらぬ格式と礼をもって葬送の儀を執り行い、皇后を狭城盾列陵(奈良市山陵町字宮の谷)に葬り帝に準じ神功皇后の謚を奉った。
皇后崩御の翌年(三八二年)春一月一日、誉田別尊、が即位し応神天皇(在位三八二年一月一日~三九四年二月一五日)と為られた。御歳三十五歳であった。帝は先例に倣い都を軽島豊明宮(奈良県橿原市)に遷された。帝は尾張連、品陀真若王(景行天皇の孫)の姫、中姫命を皇后と定めた。