皇位争乱
第七話 仁徳天皇
大山守皇子の謀叛
応神十三年(三九四年)春二月十五日、四十七歳で応神天皇は崩御された。太子の菟道稚郎子は喪に服し、帝を恵我藻伏岡陵(大阪府羽曳野市誉田)に葬り応神天皇の謚を奉った。
群臣は太子の菟道稚郎子の即位の儀を執り行うべく日取りを決める朝議を開いたが葛城曾都毘古(武内宿禰の子)が「太子は朝政の経験もなく帝位に就くは如何なものであろうか。」と異を唱えた。帝位に野心を抱く大山守皇子も賛同し朝議は紛糾して即位の日取りは決しなかった。
先帝(応神天皇)は后の中媛の他に九人の妃を娶り、皇子十人、皇女十七人を授かった。大山守皇子は皇后の姉で先の后、高城入姫の次子として御生まれになった。幼少の頃から勝気でしばしば守役を困らせた。成人して武を好み少々粗野な振る舞いもあったが先帝は大山守皇子、大鷦鷯尊、菟道稚郎子のいずれかを太子にと考えていた。
大鷦鷯尊は沈着冷静で機を見るに敏であった。ある時、帝は大山守皇子と大鷦鷯尊を呼んで尋ねられた。「お前たち自分の子供が可愛いか。」と問うた。二人は「もちろん可愛いです。」と答えた。すると帝は再び尋ねられた。「小さい時と、大きくなってからとどちらが可愛いか。」
大山守皇子は「大きくなってからの方が可愛いです。」と答えられた。大鷦鷯尊は帝の御心を察して「大きくなれば齢を重ね、もう不安が有りません。しかし、幼いと一人前に育つのかどうか不安が有り見守らなければなりません。」帝は大いに喜び「お前の言葉は我が心にかなっている。」と大鷦鷯尊をお褒めになった。
菟道稚郎子は頭脳明晰で百済から呼び寄せた王仁(論語十巻と千字文一巻を伝えたとされる。すなわち儒教と漢字を我が国にもたらした。)を師と仰ぎ諸々の典籍を学び、王仁も驚くほどすべてに精通していた。
それまでは渡来人の通事を通じて訳されていた百済、新羅の親書を菟道稚郎子は通事も驚くほど完璧に訳して奏上し帝を驚かせた。この様に帝は菟道稚郎子の豊かな学識と穏やかな性格を愛していた。
帝は太子を誰にするか大いに迷われたが崩御の前年に頭脳明晰で穏やかな性格の菟道稚郎子を太子と定め、大鷦鷯尊に「これより後は太子を助けよ。」と仰せられ、大山守皇子には山川林野を司る役目を命じられた。
大山守皇子は年長である自分が太子に就くものと思っていたが先帝は妃の宮主宅姫(和珥の祖、日蝕臣の娘)の御子、菟道稚郎子を太子と定められた。もし、母が生きておれば様子が変わったかも知れないと無念の思いを噛みしめた。
大山守皇子の母は先の后、高城入姫であった。大山守皇子がまだ幼少の頃、高城入姫は体調を崩し帝のお側に侍る事も出来ず床に伏す日々が続き、后としての務めを果たせず日夜、心を痛めて居られた。
思いあぐねて高城入姫は父の尾張連、品陀真若王(景行天皇の孫)に使いを出し妹の中媛と弟媛を帝の妃に奉る事を懇請した。
品陀真若王は朝廷の権力を保持する為に后の申し出を喜んで受け、二人の姫を奉る事を了承し、帝も后の申し出を受け、中媛と弟媛を召しだした。中媛は大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)と根鳥皇子の二人の御子を授かった。
高城入姫は成人した我が子の大山守皇子を太子にと帝に懇請したが、帝は武を好み粗野な大山守皇子を好まれなかった。高城入姫の申し出に言葉を濁して明言を避け時節を待てと告げた。高城入姫は程なく病を得て亡くなられ、帝は中媛を后に定められた。
后に上った中媛は大鷦鷯尊を太子にと願ったが帝は明言を避け成人まで待てと仰せられた。
帝の妃、宮主宅姫(和珥の祖、日蝕臣の娘)は菟道稚郎子と八田若郎女、女鳥王を授かった。菟道稚郎子が二十歳に為られた時、帝は菟道稚郎子を太子と定められた。
后の中媛は帝の言葉を聞いて耳を疑った。皇位継承は帝の兄弟が継承するか、后の皇子が継承する習わしであり、妃の皇子が太子の御位に就いた例はなかった。まして大鷦鷯尊は幼い頃から気品を備え群臣も一様に次ぎの帝は大鷦鷯尊であろうと噂していた。
中媛は帝に詰め寄り何かの間違いであろう朝議を開き太子を廃嫡して、改めて大鷦鷯尊を太子に定めて頂きたいと帝に懇請したが、帝は「間違いではない太子には菟道稚郎子が相応しい。」と仰せられた。
朝議の席でも大鷦鷯尊は太子を助けよと仰せられた。その時の菟道稚郎子には太子の御位が如何に重いか思い及んでいなかった。数多の兄を差し置いて太子に就く事に躊躇は覚えなかった。
母の宮主宅姫も大いに喜び、外戚の地位を得た、日蝕臣も権力を手にした喜びに浸った。
この時をもって、大山守皇子が太子に就く望みは潰え去った。大山守皇子は先の后の皇子として生まれしかも数多の皇子の中では年長であり、当然太子に就くものと思っていたので帝の決定に承服出来なかった。
今の后、中媛の皇子、大鷦鷯尊を太子と定める事には納得出来るがまして妃の皇子、菟道稚郎子が太子に就く事は論外であると思った。
大山守皇子は帝を恨み、太子を呪った。神に見放された宿命を嘆き、母を恨んだ。己の行いを顧みる事をせず世を恨み不満を募らせ、諫める臣も居たが聞き入れる事は無かった。横暴な振る舞いが多くなり帝の耳にも入り、帝は眉を潜めた。
皇子の行動は常軌を逸し度々、騒動を起こし群臣を困らせた。誰、憚る事無く、何れ太子を殺してやると広言し、それを聞いた家人がたしなめると激昂して怒った。
大山守皇子は益々朝廷内で孤立を深め群臣の信頼を失っていった。分をわきまえない行いと皇室を批判する言動に業を煮やした帝はこのまま放置すれば益々、図に乗り、何れ不満を持つ皇子を糾合して太子と諍いを起こし皇室を混乱に落としめる事を危惧し口実を設けて大山守皇子を山代の地に追いやった。
大鷦鷯尊も菟道稚郎子が太子に就いた時、大いなる不満を感じた。帝に兄弟は居らず当然の事として皇后の長子が帝の位に就くと考え皇位を意識して育てられ又、群臣もそれが当然の事として受け止めていた。
幼少の頃より菟道稚郎子と共に帝に可愛がられたが太子に就くのは自分であると自他共に認めていたが帝は菟道稚郎子を太子とし大鷦鷯尊には太子を助けよと仰せられた。
帝の偉業を継ぐのは数多の皇子の中で自分であると自負していた大鷦鷯尊は帝の仰せに衝撃を受けた。その場は帝の仰せに従い甘んじて勅命を拝受して引き下がったが言い知れぬ屈辱を感じた。
帝に倣い武に励み群臣も帝の幼き頃とそっくりであると噂するのを心地よく耳にしていた。群臣も太子の位に就くのは大鷦鷯尊が相応しいと思っていたが意外にも帝は菟道稚郎子を太子とお決めになった。
大鷦鷯尊は何故、菟道稚郎子なのか何か落度が有ったのか、思いつくのは髪長媛の一件であった。帝は日向諸県君(日向国の豪族)の姫、髪長媛が容姿端麗で大層な美少女と聞き使いを差し向け都に召し出した。大鷦鷯尊は媛が難波津に着いた時、一目見てその美しさに心奪われ、秘かに宿舎を訪れ言葉巧みに口説いて同衾した。この事が帝に知れると大事になるので武内宿禰に媛を娶りたいと帝に取り次ぎを頼んだ。
帝は宿禰の話しを聞き豊明節会(新嘗祭の翌日に行われる宴)の席で媛を快く賜ったと思っていたが実は帝は同衾した事を承知しており不興を買ったのかも知れないと思った。
菟道稚郎子は太子とは名ばかりで政には参画せず只管、百済から贈られた古今の典籍を友とし帝の晩年も朝政に参画しなかった。
一方の大鷦鷯尊は早くから朝政に参画し帝の晩年は朝政を取り仕切っていた。それ故、帝が崩御し、菟道稚郎子は即位を辞退すると思っていたが案に相違して当然の如く即位に意欲を示した。
帝の御位は何物にも代え難い絶対的な権力であり、帝の詔は神の御指図であった。太子が帝に就くは古来からの習わしであり、太子が即位を辞退したのは神八井耳命が皇位を弟の神渟名川耳尊(二代綏靖天皇)に譲った一例のみである。大鷦鷯尊は帝が崩御して改めて帝の御位の重さを見せ付けられた。
大鷦鷯尊の妻、石之媛の父、葛城曾都毘古も数多の皇子の中で大鷦鷯尊が次の帝の位に就くで有ろうと考え政略をもって石之媛を大鷦鷯尊の妃に差し出した。しかし、帝は菟道稚郎子を太子とされた時、驚きと同時に大いに不満を感じたが帝が健在な内は言葉を慎んでいた。
帝が崩御し太子の即位が迫り、菟道稚郎子が皇位に就けば日蝕臣が外戚となり権力を握る事が目に見えていた。曾都毘古は何としても菟道稚郎子の即位を阻止したいと考え腹心の群臣を使い太子は帝に相応しくないと有らぬ噂を群臣の間に撒き散らした。
太子の異母弟、速総別王は百済の国書を読み解く聡明な菟道稚郎子を尊敬していた。曾都毘古の魂胆を知らず朝議の席で「好からぬ噂をまき散らし何故、太子の即位に異をとなえるのか。」と意見を述べたが、大山守皇子は菟道稚郎子を批判し典籍に倣って国は治められぬと即位に異を唱えた。
外戚の地位を目前にした日蝕臣は太子の即位に異を唱える皇子、群臣に向い怒りを顕わにして即位を阻む論議に異議を唱えた。「先帝が太子と定めた菟道稚郎子の即位を何故拒むのか、太子が即位するは古来からの定めである。まして、太子は古今の典籍に通じ師の王仁も太子の人柄と明晰な頭脳を誉め太子の為にこの国に骨を埋めた。先帝も礼節を知り公平無私な太子の生き方に感じ入りこの国を統べる事を託した。群臣は私利私欲を捨て去り一日も早く太子即位の礼を執り行い国を安らかにする責務が有る。先帝の遺勅に異議を唱え即位を阻む行いは神を欺き先帝の命に背く逆臣である。」
曾都毘古は反論した。「半島の情勢は緊迫しており、軍事に卓越した帝が望まれる。太子の菟道稚郎子は学に秀でるも軍事に疎い、又、大鷦鷯尊と異なり政の経験も皆無である。太子に国政を委ね古の聖王の真似事を始めれば諸国は大和を軽んじ反乱に及ぶ事を懸念して申し述べている。国を思う臣の意見を逆臣呼ばわりは聞き捨てに出来ぬ。」と声を荒げて日蝕臣に迫った。
群臣は曾都毘古を中心に大鷦鷯尊を推す派と日蝕臣の主張は最もであり太子の菟道稚郎子が皇位に就くべきであると考える二派に分かれて互いに主張を曲げず、議は決しなかった。
この様な皇位継承の紛糾の最中、山川林野を司る大山守皇子は倭国造の領地の中に朝廷が直轄する屯田と屯倉(天皇の御料田や御倉)を淤宇宿禰(出雲臣の先祖)が司っている事に気付き、「この地は山川林野を司る自分が治める。」と屯田を司る淤宇宿禰(出雲臣の先祖)に告げた。
淤宇宿禰は「この地は垂仁天皇が定められた屯倉で皇子と云えども司る事は出来ません。」と申し上げたが、大山守皇子は「この地は元から山守の司る地である。よって、山川林野を司る役目を仰せられた自分が治める。お前が司る地ではない。」と淤宇宿禰を一蹴した。
淤宇宿禰はこの事を太子に申し上げた。すると太子は大鷦鷯尊に申せと云われ、淤宇宿禰は大鷦鷯尊に「私がお預かりしている倭の屯倉と屯田は山守の地であると大山守皇子が仰せになり私は治められません。」と申し上げた。
大鷦鷯尊は側に控える麻呂(倭直の先祖)に「倭の屯田は元から山守の地と云うが、どうであろうか。」とお聞きになった。
麻呂は「私には解りませんが韓国に遣わされている弟の吾子籠(倭国造の祖)が知っていると思います。」と答えた。
大鷦鷯尊は淤宇宿禰に「お前は自ら昼夜兼行で韓国に行って吾子籠を連れ帰れ。」と申され、淡路の水手八十人を授けた。
大鷦鷯尊は淤宇宿禰が連れ帰った吾子籠に倭の屯田の事をお尋ねになった。
吾子籠は「伝え聞くところに因りますと、およそ百年前の垂仁天皇の御世に倭の屯田を定められました。この時の勅旨は『倭の屯田は時の帝の屯田である。皇子と云えども帝の御位になければ司る事は出来ない。』と仰せられました。この地を山守の地と云うのは間違いです。」と申し述べた。
大鷦鷯尊は吾子籠を大山守皇子のもとに遣わしこの事を申し述べさせた。
大山守皇子は云うべき言葉を失ったが、この裁きは帝が裁くべきでまして太子が大鷦鷯尊に委ねたとの事、太子とは名ばかりで大鷦鷯尊が実権を握り朝政を壟断している事に言い知れぬ不快を感じた。
そして、事も有ろうに大鷦鷯尊から罪を赦すと伝えられ言い知れぬ屈辱を感じ、先帝が太子にしなかった事を恨み、重ねてこの屯田の事で怨みを持った。
そして、この事がいつの間にか公となり、陰口をたたかれ噂に尾ひれが付いて大山守皇子が大鷦鷯尊に平身低頭して謝り罪を赦されたとか縄を掛けられて大鷦鷯尊の前に突き出され赦しを乞うたとか様々な噂が乱れ飛び、大山守皇子は耐えられぬ侮蔑の言葉を耳にした。
屈辱を味わった大山守皇子は時が経つにつれ怨みは倍加し、太子を殺めて帝位を奪い取る以外に道は無いと思うようになっていった。
警備の薄いこの機を逃さず太子の館を急襲すれば備えも無く、苦も無く討ち取れるであろう。太子が討ち取られたと知れば、都の豪族、群臣は驚き慌て、大鷦鷯尊は兵を集めるであろう。そして、太子を討ち取った余勢を駆って一挙に大鷦鷯尊の館を襲えば防備も固まっておらず容易く落ちるであろう。
大山守皇子は太子を殺し大鷦鷯尊と一戦を交え、力で皇位を奪い取る決意を固め、直ちに領地の山代に立ち帰り密かに兵を集め戦の準備を急いだ。
大鷦鷯尊は朝議に出席せぬ大山守皇子を不審に思い近侍の者に調べさせると誰にも告げず山代に帰ったと知って、これは何か有ると直感した。
おそらく兵を集め太子を弑する謀反を企てていると思った。大山守皇子の狙いはまず太子を討ち、勢いに乗じて我が館に兵を差し向けるであろう。皇位を争う二人を討ち、兵を以って大和の群臣を脅し皇位に上る魂胆であろう。日を置かず都に兵を差し向けるで有ろうと思った。
大鷦鷯尊は直ぐさま家人に戦の支度を命じた。迎え撃つ準備を急がねば手遅れになる。自身も甲冑を付け兵を従え、急ぎ太子の館に急行した。
太子の館では甲冑に身を固め、兵を従えた大鷦鷯尊が馬を馳せて来た事に驚き、すわ戦かと疑い急いで門を閉ざし、館は騒然と為った。
大鷦鷯尊は兵を控えさせ「大山守皇子に謀叛の兆しあり、太子の守護のため馳せ参じた、速やかに開門を。」と来意を告げて開門を促した。
太子は大鷦鷯尊の言を信じ開門を命じた。大鷦鷯尊は甲冑のまま太子の前に進み出て事の次第を告げた。「大山守皇子が密かに山代に立ち帰ったとの報せが有りました。おそらく兵を集め太子を弑し皇位を簒奪する謀叛を企てていると思われます。大山守皇子は今日、明日にも兵を率いてこの館を襲うで有りましょう。急ぎ兵を集め戦に備え防備を固めないと、矢が飛び、剣が舞って、共に討ち取られます。」
太子は聞き終わって大鷦鷯尊の鎧の袖を掴み「如何にすべきか。」と指図を仰いだ。太子は荒事を好まず戦の経験は全く無く、まして弓を引き、剣を掴んで人を殺める勇気は無かった。用兵は典籍で学んだが危急存亡の時を向え如何に行動すべきか気が動転して声は上ずり為す術を知らなかった。
危難は目前に迫っており大鷦鷯尊は太子の許しを得て、太子の家人に館の防備を固め戦の支度を命じた。そして、葛城曾都毘古と、日蝕臣の館に使いを遣り「大山守皇子が謀叛を企てていると思われる。急ぎ太子の館に警護の兵を差し向けて頂きたい。」と告げさせ、太子の家人を指揮して館の外に柵と塁を設け戦の支度を急がせ、門を閉ざし来襲に備えさせた。
そして、大鷦鷯尊は信頼出来る十数名の兵を残し、残りの兵を率いて馬を馳せた。日は西に傾き夕闇が迫って来たが、大山守皇子を都の外で待ち受け一戦に及ぶ覚悟を固めていた。
兵を率いて菟道河(宇治川)を目指し馬を馳せた。月明かりを頼りに一刻を争って先を急いだ。夜の闇が明ける前に菟道河に至った。
まだ大山守皇子の軍は見えなかった。来襲する兵の数も定かでは無かった。決起した以上数百の兵を率いて攻め来るで有ろう。火急に集めた兵力では適うはずも無いが、まさか待ち受けて居るとは思うまい、奇襲を仕掛け大山守皇子の軍を混乱させて勝機を見い出す以外に戦に勝つ術は無かった。
大山守皇子は未だ我らに気付いていない事が頼みの綱であった。大鷦鷯尊は林の奧に馬を隠し、川面を覆う葦に兵を伏せ大山守皇子の軍に奇襲を仕掛ける策に出た。
大山守皇子は大鷦鷯尊が菟道河に兵を出し待ち構えている事も知らず、夜中に数百の兵を率いて、馬を駆け都に向かった。東の空がしらむ頃、馬蹄を響かせ菟道河に到った。川を渡り一気に都を目指そうと、偵察の兵も出さず、川に馬を乗り入れ渡り切ろうとした。
川の半ばも過ぎもう一息で川を渡り切る葦原に至った。その時、川岸の葦に伏せていた大鷦鷯尊の兵が一斉に矢を射掛けた。
思いがけない敵兵の奇襲を受け馬も兵も驚き慌てた。敵兵が見えず次々に葦の間から矢が飛来し防ぐ間も無く兵は射殺された。
大山守皇子の軍は林の奧で馬のいななきを聞いて本隊が待ち構えていると錯覚して馬首を巡らし逃げ戻る兵も現れた。こうして、大山守皇子の軍は散り散りに乱れ瞬く間に崩れた。
大鷦鷯尊は兵に騎乗を命じ、退却する大山守皇子の軍を追撃した。大鷦鷯尊は乱戦の中で大山守皇子を探し求めたが見つけ出せなかった。捕らえた兵の話しから大山守皇子は乱戦の中で討死にした事を知った。
戦が終わり大鷦鷯尊は大山守皇子の屍を探させた。水に浮かぶ屍を引き上げさせ遺体を探した。屍は川に流され日の暮れる頃菟道河の下流で見付かった。
屍には数本の矢が突き立っていた。先頭を進む大山守皇子が標的と為って、最初の攻撃で射殺されていた。大鷦鷯尊は屍から矢を抜き取り鄭重に装束を改め那羅山(奈良市法蓮町)に葬った。
太子の菟道稚郎子は都に凱旋した大鷦鷯尊を館に招き盛大な酒宴を催し乱を鎮めた功を賞賛した。庭に篝火が焚かれ宴席は真昼の様に明るく照らされていた。
座は盛り上がり話しを聞きつけた群臣が次々に太子の館を訪れ、大鷦鷯尊の武勇を誉めそやした。群臣は宴席に太子が座すのも忘れ大鷦鷯尊の戦振りに聞き惚れ感嘆の声を挙げた。
太子の菟道稚郎子は自ら兵を率いて大山守皇子に立ち向かはなかった己の行動を恥じ、いたたまれぬ思いを堪え忍んだ。