皇位争乱
第七話 仁徳天皇
菟道稚郎子毒殺
凱旋の宴から数日後、菟道稚郎子は大鷦鷯尊の館を訪れた。そして、居ずまいを正して大鷦鷯尊の前に臣下の如く平伏して申し述べた。「先帝は学問に励む姿を愛し、我を太子としましたが、天下に君として万民を治め、社稷を安らかにする事は仁徳が備わりその徳が風格と為って容姿に現れ民が請い慕う人望が必要であると思います。不肖の者は臣として仕え、徳ある聖者が天下を統べれば天下万民は安寧に暮らす事が出来ます。大君(大鷦鷯尊)は聡明で心広く天下の君に相応しいとかねがね思っておりました。先帝が我を太子に推した時、若輩で深く道理をわきまえず物事の本質を見失って先帝の仰せのままお受けいたしました。その後、百済から渡来した王仁(百済から渡来した知識人 論語十巻と千字文一巻すなわち儒教と漢字を伝えた。)を師として多数の典籍を学び、信義の道を知りました。翻って、兄上を差置き太子の御位をお受けした事は人の道に背く行いであったと深く内省し帝に願い出る機会を待ちましたが、言い出す勇気が無く帝は崩御し今日に至りました。今、過ちを正し、後顧の憂い無く皇位を兄上にお返しして心安らかに大君にお仕えしたいと存じ奉ります。皇祖、神武天皇亡き後、手研耳命が謀反を企て、太子の神八井耳命と神渟名川耳尊(後の綏靖天皇)が協力して手研耳命を討たれました。その時、太子の神八井耳命は矢を射る事が出来なかった臆病を恥、自ら皇位を弟の神渟名川耳尊にお譲りになられました。大山守皇子の乱は神が皇位を譲れとの神託であったと思われます。どうか先例に則り皇位にお就き願いたい。我は臣下としてお仕えいたします。」と大鷦鷯尊の即位を懇請した。
大鷦鷯尊は菟道稚郎子の話しを静かに承り、話し終わるのを待って申し述べた。「先帝が明徳の人を選び万民に菟道稚郎子を太子としてお示しに為った。太子が皇位を継ぐは古来からの習わしである。先帝の遺勅に従い速やかに即位願いたい。皇位は兄弟で譲り合う物では無く先帝の示された道に従うのみ。又、先帝が申された。『大鷦鷯尊は須からく太子を補佐する事を旨とすべし。』太子の申し出は先帝の命に背むく事で有り、神聖な皇位を汚す行いで有る。仮に、太子の申しでを受けて皇位に就いても、太子を差し置いて皇位を簒奪したと謗りを受け、末代の恥辱と為りましょう。断じてお受けするわけにはまいりません。乱を鎮めるは臣下として当然の行いであり、先帝も太子を助けよと仰せられた。この度の事をもって帝の御位に自信を無くし即位を辞退する行いは厳に慎むべきと存じ奉ります。そして、先帝が申されました。『皇位は一日たりとも虚しくするなかれ。』何卒、一日も早く皇位にお就き願いたい。」
大鷦鷯尊は皇位に並々ならぬ野心を抱いていたが皇位継承には慎重であった。己の本心をおくびにも出さず太子に即位を促した。そして、大鷦鷯尊は妻、石之媛の父、葛城曾都毘古に太子の申し出を話し如何にすべきか相談した。
曾都毘古は「いかに太子の申し出とは云へ、古来の習わしを違えて皇位に就けば皇位を簒奪したと謗りを受ける事になろう皇位は神聖にして犯すべからず御位である。何か打開する道が開けるまで皇位は空位のまましばらく時節をお待ち願いたい。」曾都毘古は大鷦鷯尊に幸運が巡って来た。時を待ち人知れず太子を死に追い遣る方策を考えねばならないと思った。
数日後、定例の朝議が開かれ出席した菟道稚郎子は居並ぶ群臣を前に「大君(大鷦鷯尊)は聡明で心広く天下の君に相応しいと思い即位を促したが受けてもらえなかった。よって即位は心が定まるまで先に延ばす。国政は大君に委ねる故、群臣は大君の命に従え。」と告げ退席された。
日蝕臣は太子の言葉を聞いて耳を疑った。急ぎ太子の館に駆けつけ太子に思い止まる様、説得を試みたが太子の意志は固く、しばらく都を去る積もりであると告げ、日ならずして菟道に桐原日桁宮(京都府宇治市宇治山田宇治上神社)をお造りになって隠棲された。
菟道稚郎子は師、王仁に就いて大鷦鷯尊と共に典籍を学び礼節の人であった。書を好み物静かで声を荒げる事は無く帝の信頼も篤かった。人の道に叛く行いを慎み又、人にも説いた。大山守皇子の謀叛に際し戦う勇気が無かった事を思い知らされ、力の無い弟が皇位に就く逆順を恥じ太子に就いた事を悔やんだ。
兄に即位を説いたが聞き入れてもらえず菟道稚郎子は日夜思い悩んだ。先帝の遺勅、「皇位は一日たりとも虚しくするなかれ。」が気掛かりであったが即位する気持ちは微塵もなかった。
菟道に隠棲して大鷦鷯尊に国政を委ね、即位を促したが応じないので群臣にも書を送り大鷦鷯尊の即位の儀を執り行うよう、促したが応じてもらえないと伝えてきた。
大鷦鷯尊は皇位に上る野心を胸に秘めていたがその事はお首にも出さなかった。太子が帝位に上り、帝は終生、帝であり続けるのが古来からの習わしである事を十分承知していた。古来の習わしを破って皇位に就けば皇位を簒奪したと謗りを受ける事となろう。菟道稚郎子が皇位に就く事を捨てた今、危険を犯す必要はなかった。
葛城曾都毘古(武内宿禰の子)は菟道に隠棲した菟道稚郎子に監視を付け常に動静を探った。大和の群臣にそそのかされ密かに都に戻り朝議の席で即位を承知したと言い出す事を怖れた。用心を重ね菟道稚郎子の使いを捕らえ親書を検る事も辞さなかった。
菟道稚郎子は自ら身を引き菟道に隠棲しても曾都毘古の疑いが晴れない事を悔やんだ。
曾都毘古は館の監視を怠らず、関所を設けて人の往来を厳しく取り締まっている事を聞くに付け曾都毘古の魂胆が少しずつ見えてきた。
菟道稚郎子は死を迎えるまで監視され疑いが晴れるのは屍と為って土に返る時である事を思い知らされた。即位を辞退し菟道に隠棲したのは軽率な行いであったとの思いが強くなったがもはや菟道稚郎子に為す術は無かった。
即位を決断しても意を伝える術は無かった。菟道稚郎子は先帝の言葉が耳に残り日夜悩んだ。「皇位は一日たりとも虚しくするなかれ。」日を追ってこの言葉が胸を刺し貫いた。日を過ごせば、再び大山守皇子の様な乱を招くで有ろう、先帝のお顔が脳裏に写り、一旦は捨て去った皇位に激しい執着を覚えた。即位を拒んだのは逃避であり、己に対する欺瞞であった。後先をわきまえず菟道に隠棲したのは浅薄な考えであった。
意を決っして家人を日蝕臣に使いさせた。「大鷦鷯尊を信じて国政を委ね即位を辞退して菟道に隠棲したが全てが大鷦鷯尊と曾都毘古の陰謀であった。囚われ同然の日々を送り、人の往来も長く絶えている。先帝の遺勅「皇位は一日たりとも虚しくするなかれ。」が気に掛かり日夜悩みが絶えない。即位を拒んだのは先帝に背く許し難い行為であった。先帝の定めに逆らい菟道に隠棲したのは大いなる間違いであった。朝議を開き即位の日取りを決め、迎えの使者を寄越せ。」と書きしたためた。
家人は用心に用心を重ねて夜陰に紛れて菟道の館を後にしたが菟道河(宇治川)の渡しで捕らえられ、その場で首を刎られ、親書は直ちに曾都毘古に届けられた。
曾都毘古は菟道稚郎子が即位を望んだ事を知り警戒を強めた。太子の警護と偽り屈強の兵を菟道の館に送り込んだ。
太子は家人が戻らず代わりに兵が館に詰めるに及んで事が露見した事を察した。太子に身の危険が迫り館に緊迫した空気が流れた。家人は寝ずの番で太子の警護にあたった。緊張が続き家人に疲労の色が見えた。
太子は屈辱の日々を送り思い悩んだ末に逃亡を企てたが監視の目が厳しく館を抜け出す事は出来なかった。
曾都毘古は太子が逃亡を企てたと聞くに及んで、館の警戒を一層強め、太子は病に伏せていると称し関所を閉じ人の往来を絶った。
そして、曾都毘古の家臣は人知れず太子を殺める道を選んだ。太子にこれ以上動かれると噂が都に知れ日蝕臣が迎えの兵を差し向けるやも知れぬと思い、曾都毘古の許しも得ず御酒に毒を盛った。
一方、太子の家人は太子の身に危険が迫った事を肌で感じ食事には事の他、気を配っていた。食事は近侍の者が先に食しそれとなく毒味を行なっていた。
曾都毘古の家臣は月に一度、太子が御酒を神に奉げた後、お神酒を召し上がるのに気付き、御酒に毒を盛った。その夜、太子は近侍の者にも御酒を賜り、一同打ち揃って御酒の杯を傾けた。飲み干して程なく喉が焼けつく様な痛みと共に臓腑に激痛が走った。
異様な叫びを聞き付け、駆けつけた家人は太子と近侍の者が悶え苦しむ姿を見て即座に毒を盛られたと悟った。無礼を顧みず太子の喉に指を差し込み吐き出させ様としたが手後れであった。家人が最も怖れていた事が現実となった。
家人は太子が崩じた事を秘し急いで日蝕臣に使いを走らせた。しかし、太子が崩じれば早馬が出る事を予測していた曾都毘古の家臣は館を厳重に囲んでいた。
案の定、慌てふためく使いの者を捕らえ太子が崩じた事を知り曾都毘古の家臣は兵を館に乱入させ太子の家人を一人残らず尽く斬り殺し、自害を装うために太子の喉に短剣を突き立てた。
そして、予ねての手はず通り曾都毘古の手の者が太子の家人になりすました。そして、馬を馳せ曾都毘古に太子が自ら命を絶ったと報じた。
曾都毘古はやっと事が為ったと内心ほくそえみ、急ぎ束帯を改め大鷦鷯尊の館に急ぎ、「たった今、太子は自ら喉を突いて命を縮められたと警護の者から知らせがありました。」と申し述べ太子が崩じた事を告げた。
大鷦鷯尊は太子の崩御を聞き、束帯も改めず数人の近侍の者を供に難波の離宮大隅宮(大阪市東淀川区大桐大隅神社)から急ぎ馬を駆け、夜を日に継いで菟道に馳せ参じた。
太子の死から三ヶ日が経っていた。殯斂の宮(屍を葬るまでの間、棺に納め安置する場所)に赴き、太子の屍を見て人目も憚らず泣き喚き、頭を柱に打ち付け血を流し、錯乱の様子は甚だしかった。
屍を抱きしめ、「人の道を守る為に命を縮め、哀しいことよ、惜しいことよ、なぜ逝った。」と人目も憚らず噎び泣いた。
大鷦鷯尊は悲しみを顕にして太子に別れを告げ、亡骸を菟道の山に葬った。(明治二十二年宮内省により京都府宇治市莵道丸山の丸山古墳と比定された。)
曾都毘古は朝議を開き群臣を前に予て用意の遺勅を披瀝した。「大鷦鷯尊に再三再四即位を促したが聞き入れられず死をもって即位を促したい。」
群臣に異論はなく応神天皇が崩御して三年後の仁徳元年(三九七年)春一月三日、大鷦鷯尊は二十七歳で即位し仁徳天皇(在位三九七年一月三日~四二七年一月一六日)となられた。そして、曾都毘古の功に報い石之媛を后とし、先例に倣い都を難波高津宮(大阪市中央区高津 高津神社)に遷された。
難波高津宮は河内湖(往時、大阪市、東大阪市は湖底に沈み河内湖と呼ばれた湖が生駒の麓まで広がっていた。)に面し水運に恵まれていた。しかし、河内湖には淀川と大和川の水が流れ込み一度大雨が降ると水が溢れ度々大洪水に見舞われていた。洪水に侵される地は肥沃な大地であったが民は洪水を恐れ打ち捨てられた湿地が広がっていた。
帝は食料の増産と治水の為に一大土木事業を敢行した。洪水の原因は淀川と大和川の水が流れ込む河内湖の氾濫にあった。帝は河内湖と茅渟海(大阪湾)を結ぶ巨大な水路の掘削を命じた。三年の間、税を免じて諸国から人夫を集め、百済、新羅の渡来人の知識と技術を借りて水路の掘削を開始した。
渡来人は諸国の人夫を指揮して石を切り出し、堤を築いて水路を掘り下げ、淀川に茨田の堤、横野の堤を築いて大雨の時、淀川の水が河内湖に流れ込むのを防いだ。(大阪府門真市茨田大宮、守口市横堤辺りか?)
巨大な水路が出現し、水路を通じて河内湖と茅渟海が結ばれ河内湖は波静かな内海となった。そして、水路は難波の堀江(大川)と呼ばれ、静かな河内湖に難波湊が造られた。その後、河内湖は縮小し干上がった跡に広大な耕地が出現した。
難波津が出来た事によりそれまで住吉津に集まっていた諸国の物資は難波津に集まり難波津は大いに栄え広大な難波の屯倉が設けられた。百済、新羅との往来も盛んとなり難波津に渡来人の為の館が建てられた。