皇位争乱

第二話 綏靖すいぜい天皇
 手研耳命たぎしみみのみこと

 手研耳命たぎしみみのみことは神武天皇(帝)の長子として日向ひむかに生まれ、母は帝の先の后、吾平津媛あひろつひめで十歳の頃、帝と共に東征の軍に加わり、帝と共に辛酸を舐めて大和を平定し、帝の晩年は帝に代わり朝政を取り仕切って来た。

 神武二十五年(西暦八五年)、春三月十一日、帝は橿原の宮で崩御された。享年五十六歳であった。

 長子の手研耳命たぎしみみのみこと殯宮もがりのみや(服喪の期間(およそ一年間)遺体を安置しておく宮殿)を造営し喪に服した。殯宮には朝臣の大連おおむらじおみむらじきみあたいみやつこ等々が昼夜を問わず訪れしのびごと(貴人の功を称え哀悼の意を述べる事)を奉った。

 手研耳命たぎしみみのみこと畝傍うねび山の東北にみささぎを造営し、翌年の秋九月、大葬の礼を執り行い手研耳命たぎしみみのみこと御誄おんるい(弔辞)を奏上して棺を畝傍山東北陵うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ(奈良県橿原市大久保町)に葬り神武天皇のおくりなと共に始馭天下之天皇はつくにしらすすめらみことおくりなを奉った。

 大葬の礼を終えた手研耳命たぎしみみのみことは朝議を開き「践祚せんその儀(即位式)を執り行うので日取りを決めよ。」と物部大連もののべのおおむらじ宇摩志麻治尊うましまちのみことに申し付けた。しかし、先帝が没してにわかに権力を振い始めた物部大連もののべのおおむらじは「みこと手研耳命たぎしみみのみことの即位はなりませぬ。」と申し述べた。

 手研耳命たぎしみみのみことは物部の申す事が理解できず「何を申しておる。」と問い返した。すると物部大連もののべのおおむらじは語り始めた「わが父、饒速日命にぎはやひのみことは先帝に大和の国譲りに際し宇摩志麻治尊うましまちのみことと共に国を治め、子々孫々に至るまで帝の后は物部から召し、生まれた皇子を太子にする事を約しました。それゆえ御承知の通り、后に一族の五十鈴媛命いすずひめのみことを召し、神八井耳命かむやいみみのみこと神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことの二人の御子をお生みになられた。神八井耳命かむやいみみのみことが十四歳になった時、わが父、饒速日命にぎはやひのみことより聞かされていた国譲りの約定の事を先帝に伺ったところ、先帝は神八井耳命かむやいみみのみことをいずれ太子にすると仰せられました。それゆえ即位するのは神八井耳命かむやいみみのみことでございます。」

 手研耳命たぎしみみのみことは激怒して「国譲りの約定など聞いてはおらぬ、初耳じゃ、まして神八井耳命かむやいみみのみことを太子にするなど相談も受けていない。」「最後の戦を思い出して見よ、大和の将、長髓彦ながすねひこ鵄山とびやま(奈良県生駒市高山町)の麓、富雄川で対峙したが、戦は一進一退で決着がつかなかった。その時、何処からともなく金色のとびが現れ鵄山とびやまの上空を舞った。瑞兆を見た両軍は戦闘を止め、鵄が向かう先を見つめた。鵄は我が軍の頭上で弧を描き先帝の弓の先に止まり、再び天空に舞い上がって、雷光の如き強い光を長髓彦ながすねひこの陣に降り注いだ。この一時が和睦の切っ掛けであった事、覚えていよう。」

 物部大連もののべのおおむらじは「良く覚えている。これを見た父、饒速日命にぎはやひのみことは使者を遣わし「天つ神あまつかみの御子が共に戦っても戦は決しない、共に天つ瑞あまつしるし天つ神あまつかみの御子であるしるしの宝物)を天つ神に示し神意を伺い、戦をせずに決したい。」と申し入れた。」

 後を受けて、手研耳命たぎしみみのみことが語った「数日後、我が陣営で先帝と饒速日命にぎはやひのみことは二人だけで相対した。そして互いの天つ瑞あまつしるしを示された。饒速日命にぎはやひのみこと天羽羽矢あめのははや(天孫降臨する時に高木神から与えられた蛇の呪力を負った矢)歩靫かちゆき(徒歩で弓を射る時に使う矢を入れる道具)を示した。これを見た先帝は天つ神の御子の証であると称え、先帝も同じものを示し、さらに八咫鏡やたのかがみ天叢雲剣あめのむらくものつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたまの三種の神器じんぎ、それに建御雷神たけみかずきのかみ大物主神おおものぬしのかみ十握とつかの剣を突き立てて大和の国譲りを迫った布都御魂剣ふつのみたまのつるぎ饒速日命にぎはやひのみことに示した。この剣を見た饒速日命にぎはやひのみことは天つ神が帝をこの大和に遣わされた。始祖の大物主神おおものぬしのかみに倣い大和を帝に奉ると告げた。そして、姦計かんけいをもって長髓彦ながすねひこを殺害して憂いを断ち、先帝にそなた宇摩志麻治尊うましまちのみこと天櫛玉尊あめのくしたまのみことをはじめとした三十一人の将士の処遇を委ね、大和を後にして出雲に立ち去った。そして、出雲から饒速日命にぎはやひのみことに付き従っていた御子の天香山尊あめのかぐやまのみことは謀略を以って盟友の長髓彦ながすねひこを殺害した事を怒り、大和を後にして東に去った。これが事実であろう、先帝は饒速日命にぎはやひのみことと盟約など交わしてはおらぬ。」

 しかし、物部大連もののべのおおむらじは盟約があった事を譲らなかった。手研耳命たぎしみみのみことが皇位を継承すれば子のいない手研耳命たぎしみみのみこと日向ひむかに居る同母弟の岐須美美命きすみみのみことを呼び寄せいずれ太子にするであろう。そうなれば大和は完全に日向ひむかの支配に帰する事となる。大和を日向ひむかから物部に取り戻すには何としても手研耳命たぎしみみのみことの即位を阻み、神八井耳命かむやいみみのみことを即位させねばならない。

 一方の手研耳命たぎしみみのみことほぞを噛んでいた。あの時、戦で決着を付けるべきと強く進言し大和を力で屈服させるべきであった。和議を受け入れ大和を征したが物部一族と大和の豪族はしたたかに生き延び根底で大和の国を支配している。大和は饒速日命にぎはやひのみことが君臨し長髓彦ながすねひこが統治した世から先帝が君臨し物部が統治する世に摩り替わっただけではなかったかと感じた。

 神八井耳命かむやいみみのみことは先帝の血筋とは言え即位すれば我は臣下となり物部の力は益々増大し大和は再び物部の手に帰し、東征の偉業を無為にする事となる。九年の時を掛け、危難に身を晒し辛酸をなめて生死を潜り抜けた東征の旅は何を目指したのか。

 大和を征し、年月を重ね、東征の勇者は没し、日向ひむかの子孫も都の水に染まり質実な気風も大和の人々に揉まれ失われていった。言葉も変わり今や都で日向ひむかなまりを聞く事も無くなった。いつの間にか日向ひむかは大和に飲み込まれ、物部は先帝の死を待ち望んでいたかの如く鎌首を持ち上げ辺りを窺い、大和を饒速日命にぎはやひのみことの昔に戻そうと企んでいる。先帝が目指した日向ひむかの誓いを今一度思い起こし再び物部と争わねばならない。

 手研耳命たぎしみみのみことにとって生きている限り帝位は譲る事の出来ない最後の一線であり、再び饒速日命にぎはやひのみこと、即ち物部一族との陰湿な戦の始まりであった。

 皇位継承の争いは互いに譲る事無く対立し、解決の糸口も見つからず二派に分かれて一段と激しくなった。何か打開策を講じなければこのまま長引くと都が戦場になる。

 冬十月(旧暦では一~三月が春、四~六月が夏、七~九月が秋、十~十二月が冬)手研耳命たぎしみみのみこと大伴大連おおとものおおむらじ大来目連おおくめのむらじ、等々日向ひむかの主だった臣を館に招いて酒宴を催した。大伴大連おおとものおおむらじは皆を代表して酒宴に招かれた礼を述べ、手研耳命たぎしみみのみことの胸中を察して申し述べた。「朝議の席で物部大連もののべのおおむらじが申した盟約の件、先帝から一度も伺った事はありません。みこと手研耳命たぎしみみのみことは先帝の代理として長年に亘り朝政を仕切ってこられました。先帝の後を継ぐのは先帝と共に日向ひむかを発ち、戦いに明け暮れて大和を制したみことの他に誰が居りましょう。この席に居並ぶ面々は物部と戦で決着をつける覚悟と準備は出来ております。ご下命があれば即座に出陣いたします。皆もそうであろう。」

 手研耳命たぎしみみのみことは一同に礼を述べ、「戦を仕掛けるつもりはないが、皆々備えは固めよ。」と仰せになった。そして酒宴となり、手研耳命たぎしみみのみことは「今宵は無礼講じゃ大いに飲もう、直ぐに酒肴しゅこうを用意せよ。」これを合図に、板張りの床に濁り酒の入った大きな酒壺さけつぼさかなが次々に運ばれ、各々、杯に並々と注いで酒宴が始まった。

 庭に控える供の者にも酒が振る舞われ、戦の前祝のような様相になり大いに盛り上がった。宴たけなわとなっていつしか語り口は日向ひむかなまりとなった。酔うほどに席は乱れ、各々車座になって杯を片手に大声で語り合った。

 話題は物部の横暴をなじり、日頃のうっぷんを声高に叫んだ。過激な者は「明日にでも夜襲を掛けて物部の館を囲み日向ひむかの力を見せつけよう。」と息巻いたり、「いやいや物部大連もののべのおおむらじ一人を殺せば事は終わる、参内の道中を襲って殺せばよい。」「物部がみことの即位を阻んでいるのは二人の皇子がいるからだ、二人を消し去ればひと悶着起きるが、事は納まる。誰かが二人を狩りに誘った時が狙い目よ、野に伏して流れ矢が当たったごとく見せかけて射殺すのはどうだ。」「物部も二人の皇子も用心して狩りなどには行かぬ、二人を誘い出すいい手立ては無いものかのう」「手ぬるい手ぬるい、十五~六人で門をぶち破って斬り込み、二人を殺して館に火を掛ければ事は済む。」等々、無責任な話題が次々に出た。

 手研耳命たぎしみみのみこと大伴大連おおとものおおむらじ大来目連おおくめのむらじ倭国造やまとのくにのみやつこ、等々と車座になって雑談を交わし、杯を重ねていた。突然、大来目連おおくめのむらじが酔眼を見開いて「ちょっといい案を思いついた。話を聞いてくれ。かたばかりの祝言を挙げて五十鈴媛命いすずひめのみことを后に迎えるという案はどうじゃろうか、そうすれば神八井耳命かむやいみみのみこと神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことは義理の息子になる。子が親を差し置いて即位は出来まい。これなら物部も文句を言えまい。」大来目連おおくめのむらじは得意げに語ったが、大伴大連おおとものおおむらじは「解決する一つの案だが、五十鈴媛命いすずひめのみことみこと手研耳命たぎしみみのみことより齢は下だが、先帝の后であり、みことにとって義母に当たる。血のつながりはないとは云へ、みことに人の道を踏み外す行いを勧めるわけにはいかぬ。ざれごとを云うな。」とたしなめて、大来目連おおくめのむらじの提案を一蹴した。

 飲むほどに話題も転じ酔いも回って飲めや歌への大騒ぎとなり、酒宴は大いに盛り上がり深更しんこう(真夜中)に及んだ。大伴大連おおとものおおむらじ大来目連おおくめのむらじもしたたかに酔い供の者に助けられて家路に着いた。

 この日の酒宴の様子が翌日には物部大連もののべのおおむらじの許に届けられた。物部大連もののべのおおむらじは驚く風もなく聞いていたが大来目連おおくめのむらじの話が気にかかった。

 思いもよらぬ案で手研耳命たぎしみみのみことが強行すれば即位を阻む手立てを失うかも知れない。その時は神八井耳命かむやいみみのみことを太子にする事を約束させる以外に方法はない。何としても即位を阻止せねばならない。(この頃、血族結婚はおおらかであった。二代綏靖すいぜい天皇は生母の妹を后にした。四代懿徳いとく天皇は同母兄の娘(姪)を后とした。六代孝安天皇も同母兄の娘(姪)を后とした。)

 そして、物部大連もののべのおおむらじ五十鈴媛命いすずひめのみことと二人の皇子の館に出向き手研耳命たぎしみみのみことの酒宴で語られた企てを語り、以前にも増して警護の兵を差し向け昼夜を問わず警戒に当たらせた。

 一方の手研耳命たぎしみみのみこと五十鈴媛命いすずひめのみことを后に迎え入れる事も二人の皇子をあやめる事も考えてはいなかった。即位を急がず朝廷の実権を握り続ければ自ずと道は開ける。

 物部大連もののべのおおむらじが業を煮やして兵を挙げるのを待てば良いと考えていた。こうして、互いに平静を装いつつ日向ひむか系の臣と大和系の臣が対立したまま先帝の崩御から二年が過ぎ、この間も朝政は手研耳命たぎしみみのみことが取り仕切っていた。

 三年が過ぎ、物部大連もののべのおおむらじは焦りを感じた。手研耳命たぎしみみのみことが朝廷の実権を握り、太子の神八井耳命かむやいみみのみことを朝政に加える事を進言しても拒まれ、手研耳命たぎしみみのみことの指図に大和の臣も従わざるを得ない状況となっていた。いずれ大和の臣も手研耳命たぎしみみのみことの即位やむなしとなりかねない情勢になりつつあった。

 手研耳命たぎしみみのみことが物部に相談もなく大伴大連おおとものおおむらじ大来目連おおくめのむらじに命じて即位の準備に取り掛かっているとの噂も耳に入っていたが、手研耳命たぎしみみのみことの権力を奪う有効な手段はなかった。

 仮に、物部と二人の皇子が挙兵すると逆賊の汚名を着せられ、討伐の口実となる。もはや手研耳命たぎしみみのみことを暗殺する以外に道はないような状況を迎えつつあった。

 一方の手研耳命たぎしみみのみことも焦りを感じていた。もし地方で地境を争う乱が勃発しても互いに対立しているため物部大連もののべのおおむらじ大伴大連おおとものおおむらじも出兵に応じないであろう。

 手研耳命たぎしみみのみことは酒宴の席で大来目連おおくめのむらじが語った五十鈴媛命いすずひめのみことを后に迎え入れる案を実行する以外に道は無い様に思えて来た。

 数日、思案し大伴大連おおとものおおむらじに「事態を打開するには酒宴の席で大来目連おおくめのむらじが語った案以外に方法がないように思う、形ばかり五十鈴媛命いすずひめのみことを后に迎え入れ神八井耳命かむやいみみのみことを太子とする。」と告げた。

 大伴大連おおとものおおむらじも先帝が崩御されて帝位が空位のまま三年が経ち、なお決着の見通しも立たない事に焦りを感じていた。地方の豪族が大和の状況を見透かして乱を起こしても鎮圧の兵を差し向けられない。このままではいずれ各地で乱が起こり、乱に巻き込まれて大和は崩壊するかも知れないと危惧していた。

 手研耳命たぎしみみのみことの話を聞いた大伴大連おおとものおおむらじは国を守るために苦渋の選択を強いた臣下の非を詫び、新居の新築と迎えの使者に立つ事を引き受けた。

 新居も完成し、大伴大連おおとものおおむらじ車駕しゃがを飾り数人の供を連れて五十鈴媛命いすずひめのみことの館を訪れ、門を警護する兵に「五十鈴媛命いすずひめのみことにお目に掛かってお伝えしたい事があるので急いで参上した。」と告げ、取次を乞うた。数人の従者しか連れていないので門を警護する兵も疑わず館の中に入れた。

 館では大伴大連おおとものおおむらじが来訪を告げる使者も寄こさず何の前触れもなく車駕しゃがを飾り訪ねて来たので何事かと大騒ぎになった。追い返す事も出来ず家人は大伴大連おおとものおおむらじを室に案内し「しばしお待ちを。」と告げて引き下がった。

 大伴大連おおとものおおむらじは供の者に命じて庭先に輿を回させ、待つことしばし、五十鈴媛命いすずひめのみことが何事かと驚いた様子で現れて座に着くと、大伴大連おおとものおおむらじは「事前に日時も告げず突然に参上した非礼、何卒お許しの程。是非、媛にご覧頂きたいと思い急いで参上いたしました。庭に輿をお回し致しましたので是非ご覧ください。」と告げ、侍女の止めるのも振り払い強引に手を取って輿にお乗せして新築した館にお遷しした。そして館に警護の兵を配置し何人も館に入れるなと命じた。

 そして、大伴大連おおとものおおむらじは数人の供を連れて物部大連もののべのおおむらじの館に赴き、「五十鈴媛命いすずひめのみことを新しい館にお遷しし手研耳命たぎしみみのみことの后にお迎えする事とした。神八井耳命かむやいみみのみことを太子とするので物部大連もののべのおおむらじも賛同願いたい。」と申し入れた。

 物部大連もののべのおおむらじも警護の兵が大失態を犯し、五十鈴媛命いすずひめのみことが連れ去られた事を承知していた。即位を認めて条件を出すか、あるいは戦を起こすか二つに一つしかなかった。戦を起こすのであれば五十鈴媛命いすずひめのみことが連れ去られた直後に挙兵すべきであったが物部大連もののべのおおむらじも戦を起こすのは躊躇ためらった。

 大伴大連おおとものおおむらじの申し出を聞き、苦々しく思ったが「承知した。」と苦渋の決断を下し、即位の日取りは改めて朝議を開き群臣と諮って決める事とした。

 こうして対立は解消し争乱の危機を回避した大和に平穏が戻ったが物部大連もののべのおおむらじは最後の賭けを思い描いていた。

 館に二人の皇子を招き、太子の件は二人に知らせず「手研耳命たぎしみみのみこと五十鈴媛命いすずひめのみことを連れ去って后とし、群臣のあらかたも皇位が三年も空位では困るので手研耳命たぎしみみのみことの即位を暗黙のうちに認め即位の礼を執り行う準備に取り掛かっている。手研耳命たぎしみみのみことの即位を阻むにはもはやあやめる以外にすべはないが用心怠りなく時を待て。」と語り、手研耳命たぎしみみのみことの館の警護が薄くなったと告げた。

 太子の神八井耳命かむやいみみのみことは心根の優しい人柄で皇位に何の執着も持っていなかった。まして、皇位を巡る血生臭い争いを嫌い、皇位を手研耳命たぎしみみのみことに譲っても良いと考えていたので物部大連もののべのおおむらじの話に驚かなかった。しかし、弟の神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことは承服出来なかった。「何故、手研耳命たぎしみみのみことに屈するのか、覆す手立てはないのか。」と食い下がったが物部大連もののべのおおむらじは「もう決まったも同然じゃ。」と取り合わなかった。

 そして、物部大連もののべのおおむらじは警護が薄くなった五十鈴媛命いすずひめのみことの新居を訪れ「手研耳命たぎしみみのみことの即位がほぼ決まったが邪魔な二人の皇子をあやめるかも知れぬ。」と告げた。

 五十鈴媛命いすずひめのみこと物部大連もののべのおおむらじに「手研耳命たぎしみみのみことは、婚礼は形ばかりで即位すれば神八井耳命かむやいみみのみことを太子にすると申していた。」と反論したが不安を拭い切れなかった。

 五十鈴媛命いすずひめのみことは数日、思い悩んだ末、弐首の諷歌そえうた(他の事にこと寄せて思いを詠む歌)を詠み歌詠みに託して気性の激しい弟の神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことに届けさせた。

 歌詠みは神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことの館を訪れ、託された歌を朗々と歌い上げた。

 母の口上はなく、

  「狭井河さいがわよ 雲立ちわたり 畝傍うねび山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」

 (狭井河(五十鈴媛命いすずひめのみことの住居)の方から雲が立ち広がり畝傍山の木々が大風の前触れの如く鳴り騒いでいる)

  「畝傍山 昼は雲とい 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる」

 (畝傍山では、昼は雲が走り、夕方になると大風の前触れとして木の葉がざわめいている)

 神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことはこの歌から手研耳命たぎしみみのみことが我らをあやめるくわだての有る事を察し、時を移さずはかりごとの有る事を兄の神八井耳命かむやいみみのみことに告げた。

 そして、神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみこと神八井耳命かむやいみみのみことに先んじて手研耳命たぎしみみのみことを誅殺しようと持ちかけたが、荒事を好まぬ神八井耳命かむやいみみのみことは気が進まず「それは母の思い過ごしで有ろう。」と難色を示した。

 気の進まぬ神八井耳命かむやいみみのみことに向かって神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことは告げた。「昼夜を共にする母が手研耳命たぎしみみのみことの策謀を感じ取って人に悟られぬよう諷歌そえうたに託して我らに報せてくれた。打ち棄てて時を置けば我らが討たれるであろう。戦いは先手必勝と云う、ここは、二人で不意を衝こう、我らは戦の経験も無く、館に切り込んでも手研耳命たぎしみみのみことは我らをあなどるであろう。警備も手薄になったと物部が申していた。」

 不安を隠し切れない兄の神八井耳命かむやいみみのみことを促し、「命を賭けて戦わなければ皇位には就けない。物部は用心を怠らず、時を待てと常々語っていたが今、悠長に構えている時では無い。危機が迫っている。この危機を好機と捉え、逆に手研耳命たぎしみみのみことを襲い、皇位は戦って奪い取るのみ。」

 二人の皇子と五十鈴媛命いすずひめのみこと物部大連もののべのおおむらじの策謀にまんまと乗せられ手研耳命たぎしみみのみことの暗殺を実行に移した。

 冬十一月、神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことは渋る神八井耳命かむやいみみのみことを急がせ狩りの装束に着替え、弓矢を携え、剣を帯び、馬を駆けて、手研耳命たぎしみみのみことの館を目指した。警護の兵に「狩りの誘いを受け参上した。」と告げ、取次を乞うた。

 手研耳命たぎしみみのみことはその様な約束はしておらぬが良い機会なので神八井耳命かむやいみみのみことに直接、太子の事を話そうと思い剣も持たずに現れた。

 神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことは剣を構え手研耳命たぎしみみのみことに大声で叫んだ「政を専らにし、皇位を簒奪さんだつするたくらみは皇祖に叛き国を乱す叛逆の罪である。天誅を下す。」「さあ、今だ兄上、矢を射れ。」と叫んだが神八井耳命かむやいみみのみことは人をあやめた経験は無く手足が震え、弓に矢をつがえたが引き絞れず矢が左右に揺れ矢を射る事が出来なかった。

 家人は慌てて前に出て盾になろうとしたが手研耳命たぎしみみのみことは家人を制し「あの構えで人は射殺せない。殺すには忍びないが将来腹中の虫となる二人が揃って我が館に現れた。それも、危険を顧みず我を殺しに参った。討ち取っても誰からもとがめを受けない。二人とも我が手で討ち取り皇位継承の決着をつける。何人も手出し無用。」と云い放ち家人の腰の剣を引き抜き「さあ射よ。」と叫び剣を振りかざして二人に向かって走った。

 神八井耳命かむやいみみのみことはやっと弓を引き絞って狙いを定めたが、剣を振り翳し走り来る手研耳命たぎしみみのみことの気迫に臆して立ちすくむみ体が震えて矢を射る事が出来なかった。

 神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことは家人に向かって剣を構え、兄に早く射よと促したが神八井耳命かむやいみみのみことは手が震え、腰が引け、恐ろしさに、歯の根も合わずとても射る事は叶わなかった。

 神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことは急ぎ兄から弓矢を奪い取り、矢をつがえ神に祈って放った。矢は手研耳命たぎしみみのみことの心臓を一矢で貫き、手研耳命たぎしみみのみことはその場に崩れ落ちた。

 二人は物部大連もののべのおおむらじの館に逃げ込んだが神八井耳命かむやいみみのみことは恐ろしさの余りその場に座り込み体の震えが止まらなかった。喉は渇き切り、肩で息をして喘いでいた。

 顔面から血の気が引け蒼白と為った顔を弟の神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことに向け、「恐ろしさで矢を射る事が出来なかった。兄として恥ずべき事である。死に直面しても臆病な性格を越えられず、恐怖に打ち勝つ強靭な意志も欠けている、我が行いに恥じ入るのみ。」と語り、地に伏し神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことの御手を取って、自ら皇位を弟に譲った。

 年が改まった春一月八日、神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことは神武天皇崩御の五年後に即位し綏靖すいぜい天皇(在位、西暦九〇年一月八日~一一三年五月一〇日)となられた。

 神八井耳命かむやいみみのみことは生涯、帝の補佐として神々の祀りを受け持ち、綏靖すいぜい天皇の四年夏四月に亡くなられ畝傍山の北麓に埋葬された。

 帝は皇子の時、物部の勧めに応じて宇麻志麻遅命うましまじのみことの子、師木県主しきのあがたぬしの媛、河俣媛命かわまたびめのみことを召して妃とされ磯城津彦玉手看命しきつひこたまてみのみこと安寧あんねい天皇)を授かっていた。即位して河俣媛命かわまたびめのみことを正妃とされ、磯城津彦玉手看命しきつひこたまてみのみことが御年十八歳になられた時に太子とした。

 国政は物部大連もののべのおおむらじに委ねられ、帝の権威は物部の飾りと為った。物部は皇居を畝傍橿原宮(奈良県橿原市)から葛城高丘宮かつらきのたかおかのみや(奈良県御所ごせ市)に遷し以降歴代の天皇が遷都する先鞭を付けた。

 帝は二四年夏五月十日(西暦一一三年)、四十五歳で崩御され、衝田岡つきだのおか桃花鳥田丘上陵つきだのおかのえのみささぎ(奈良県橿原市四条町)を築き綏靖すいぜい天皇のおくりなを奉って葬った。


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