皇位争乱
第一話 神武東征
長髓彦の暗殺
長髓彦は忍坂(奈良県桜井市忍坂)の八十梟帥も外山(奈良県桜井市外山)の兄師木も討ち取られたとの報せを受け、国中の兵を集め富雄川の西岸に布陣し狭野命の来襲に備えた。
狭野命の元には八十梟帥、兄師木が敗死したと知り宇陀、櫻井の豪族が次々に帰順し数千の大軍を擁していた。
戊午の年(西暦五八年)の十二月四日、狭野命は大軍を率いて櫻井を発ち長髓彦の本拠地、鳥見を攻めるべく富雄川を遡り長髓彦の陣に相対する東岸の鵄山(奈良県生駒市高山町)に布陣した。
孔舎衛坂で苦しめられ、兄の五瀬命を殺され、二人の兄も海に崩じた。屈辱を味わい辛酸を舐めた旅は終わり、長髓彦と富雄川を挟んで再び対峙する事となった。
両軍は川を挟んで矢を射掛け合い数日睨み合いが続いた。数に優る東征軍は日の出と共に攻め掛かったが長髓彦の兵も強く果敢に戦い撃退した。三度戦ったが一進一退を繰り返し決着は付かなかった。
むしろ兵力に劣る大和が優勢に戦を展開していた。狭野命は寝返りを恐れる余り先鋒を宇陀、櫻井の兵に託したが宇陀、櫻井の兵は長髓彦を怖れまともに戦う事をせず反撃を受けるとたちまち逃げ帰った。
この事が東征軍の士気を弱めていた。宇陀、櫻井の豪族が長髓彦に呼応して叛乱を起こせばたちまち孤立し敗走の憂き目に合うであろう状況に有った。
業を煮やした道臣命は逃げ帰る兵は射殺せと命じ士気を鼓舞したが戦況は覆らなかった。攻めきれず脳裏に孔舎衛坂の敗走が蘇り不安が過ぎった。
その時、川を挟んで睨み合う両軍の頭上に何の前触れもなく突然、天空に金色の鵄が舞い何かの瑞兆を示した。狭野命も饒速日命も長髓彦も共にこの金色の鵄が舞うのを見た。
金鵄はゆっくりと東征軍の頭上で弧を描き狭野命の弓の先に止まり、再び天空に舞い上がって雷光の如き強い光を長髓彦の陣に降り注いだ。兵は強い光に幻惑され武器を打ち捨てて逃げ戻った。
この光景を見た狭野命は神の瑞兆を得たと喜び、追撃の兵を繰り出したが長髓彦も新手を繰り出して応戦し辛うじて東征軍を撃退した。互いに勝機を得られず戦は再び膠着し川を挟んで睨み合った。
饒速日命は日暮れとともに両軍が兵を引いたのを見て長髓彦を白庭山(奈良県生駒市白庭台)の館に呼び寄せ「狭野命は天神の御子と称しているがその真偽を確かめたい。真に天神の御子ならば天神の御子が共に戦っても戦は決しない。我が璽符を預ける故、使者となって真偽のほどを確かめよ。」と命じた。
翌朝、長髓彦は数人の部下を従え白旗を掲げて川を渡り東征軍の陣に赴き、現れた道臣命に狭野命との会見を申し入れた。
しばらくして会見の席に現れた狭野命に長髓彦は問い糺した。「狭野命は天神の御子と称して筑紫を攻め、安芸を攻め、吉備を攻め、次々に国を奪い、熊野の民を騙し、宇陀、桜井を攻め、安寧に暮らす大和に再び攻め入り、国を奪う行いは天神の御子とは思えない。祀る神も天照大神と称しているが神籬(神が降臨する所)も見えぬ。もし天神の御子ならその証の璽符を示せ。我が君、饒速日命は天神が天磐船に乗せて天降られた神の御子で有り、大物主神の末裔である。ここに天神の御子の璽符を我が君よりお預かりして来た。得とご覧あれ。」と告げ、饒速日命から預った天羽羽矢(蛇の呪力を負った矢)と歩靫(徒歩で弓を射る時に使う矢を入れる道具)を示し狭野命に天神の御子の真偽を糺した。
天羽羽矢と歩靫を手にした狭野命は長髓彦に告げた。「天神の御子はこの豊葦原瑞穂国に幾人も天降った。そなたの仕える君もこの璽符を見ると天神の御子に相違ない。」と語り徐に璽符を取り出し長髓彦に指し示した。
それは饒速日命が所持する天羽羽矢と歩靫に寸文も違わなかった。さらに、狭野命は八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉を取り出し長髓彦に示した。
長髓彦には普通の鏡と剣と勾玉にしか見えなかった。そして、長髓彦に告げた。「天神の御子が共に戦っても、戦は決しない。立ち戻り饒速日命に告げよ、共に璽符を神に示し神意を伺い戦をせずに決したい。」
長髓彦の報告を聞いた饒速日命は数日後、狭野命と二人だけで相対した。そして、狭野命のお示しになった璽符を見て畏れ、その場で狭野命に国を譲り出雲に退く事を誓った。
狭野命が示した璽符は天神の御子の証で有る天羽羽矢と歩靫と共に八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉の三種の神器であった。それに建御雷神が大物主神に十握の剣を突き立て大和の国譲りを迫った布都御魂剣も饒速日命に示した。饒速日命は石上神宮に祀る布都御魂大神が始祖の神、大物主神に倣い国譲りを示されたと感じた。
会見を終えて白庭山の館に立ち帰った饒速日命は御子の宇摩志麻治尊(饒速日命と長髓彦の妹、三炊屋媛との子)と天香山尊を呼び寄せ「狭野命も天神の御子であった。相争そう事は出来ない。天神が狭野命をこの大和に遣わされた。始祖の大物主神に倣い大和を狭野命に奉る。」と告げた。
宇摩志麻治尊は神意ならばいたしかたないと同意したが、天香山尊は長髓彦は同意しないであろうと難色を示したが饒速日命の決断に渋々同意した。
そして、饒速日命は長髓彦と主だった将士を白庭山の館に呼び、狭野命との会談の顛末を語り「我も天神の御子なれど、狭野命も天神の御子であった。天神の御子が互いに相い争う事は出来ない。これ以上死闘を繰り返せば神は怒り、四季が乱れて天罰を被るであろう。璽符を見て次の世の瑞穂の国を治める天神の御子は狭野命であると知った。神のご意志に逆らう事は出来ない。戦を納め狭野命に大和を譲ると神に誓った。皆も同意願いたい。」と説いた。しかし、人の子である長髓彦は神が天神の御子に示した絶対的な規範を知る由も無く、理解し難い事柄であった。
長髓彦は饒速日命の申し出に承服出来なかった。饒速日命に詰め寄り和睦を強く拒否し、「狭野命は怖れるに足らず、我が軍の武器は優れ、兵の士気も高い、兵は東征軍に比べ寡兵なれど今、戦いは互角である。狭野命を討ち取る手筈も整い兵は我が命を待つのみ。今、言を翻して狭野命に帰順する事は国を明け渡す事となり断じて承服致しかねる。これまでの戦で多数の兵が大和の礎となって死に、兄宇迦斯も八十梟帥も兄師木も壮絶な死を遂げその身は切り刻まれたと聞く、三人の無念を思えば何故、兵を引けましょうや。彼らに報いる事はただ一つ狭野命を撃退し二度と大和に攻め込まぬ様に壊滅的な打撃を与えるのみ。又、狭野命の兵は熊野の山を駆け、八十梟帥や兄師木に苦しめられ、今、我らと対峙している。吉野、宇陀の兵が加わったとは云へ彼らは有無を言わせず兵に加えられた。今、少し持ちこたえ、形勢を逆転すれば吉野、宇陀の兵も狭野命を見限り離反するで有りましょう。何卒、ご再考をお願い奉ります。」武将として強い信念で語った言葉に饒速日命は反論する言葉を失い苦渋に満ちた表情で黙って聞き入った。
天香山尊も同意を覆し長髓彦に加担して饒速日命に再考を促した。饒速日命としては神が定めた掟に逆らって狭野命と戦うわけにはいかず言葉を尽くして説いたが長髓彦は聞き入れなかった。
二人は互いに論を尽くし激しく口論を繰り広げたが意見は噛み合わなかった。互いに意を曲げず言い尽くした二人は睨み合ったまま長い沈黙が続いた。
饒速日命に随行した三十二人の将士の一人、天櫛玉尊がいきり立つ二人を執り成し、その場を納めて後日再び話し合う事とした。長髓彦は怒りの感情を抑え、「何卒、ご再考をお願いする。」と告げて席を立った。
饒速日命は長髓彦の心情を知り尽くしていた。武人として敵に降る屈辱を受け入れるはずはなかった。説得を諦め長髓彦を除かねば決着しないと悟った。
共に大和を守り、長髓彦の妹、三炊屋媛を娶り絆を強めてきた盟友であり優れた武将である長髓彦を断腸の思いで除かねばならない。
饒速日命は神が定めた運命に従う決意を固め、数刻の後、陣に帰った長髓彦と主だった将士に使いを出した。「決戦の前祝いの宴を今宵開きたい、早々に館にお越しあれ。」と告げさせた。
天香山尊は饒速日命の翻意を疑ったが敢えて口を挟まなかった。使いの口上を聞いた長髓彦は饒速日命が翻意したと思い喜んで館に駆けつけた。
饒速日命は長髓彦を迎え入れ、愉しげに長髓彦に語った。「そなたの申す通り狭野命の兵は疲れている、明日は一気に攻め、最後の戦としよう。今宵は飲み明かし、明日の戦の門出としよう。」
長髓彦は饒速日命が本心から翻意したと思い勧められるままに、したたかに飲んだ。酒が躰に染み渡り心地よい睡魔を覚えた。
明日の戦の支度も有り饒速日命に礼を述べて退出しようと思った。饒速日命も酔い、天香山尊も饒速日命が翻意したと信じ、座は大いに盛り上がっていた。
饒速日命が長髓彦の前に座を移し「大いに飲め」と大杯に酒を注がせた。苦渋の決断を下したと信じる長髓彦は饒速日命を思い遣り薦められるままに大杯を一気に飲み干した。饒速日命は膝を打って誉め、再び大杯に酒を注がせた。
したたかに飲み酩酊した長髓彦はそのまま崩れるように倒れて眠りに落ちた。饒速日命が揺り動かしても目を覚ます気配を見せなかった。
長髓彦が酔いつぶれたと見定めた饒速日命は隠し持った短刀を抜き、長髓彦を刺し殺そうと立ち上がったが一瞬のためらいと酒の酔いで足元がふらつき刺せずに床に倒れ込んだ。
天香山尊も長髓彦の家人も饒速日命の突然の振る舞いにあっけに取られ止めに入る事も忘れていた。饒速日命はもう一度立ち上がり短刀を握りしめて酔いつぶれた長髓彦を刺そうとした時、長髓彦の家人も異変に気づき、膳を跳ね除けて饒速日命に飛び掛かり背後から羽交い締めにして取り押さえた。
家人は饒速日命を楯として襲撃を防ぎ、酩酊した長髓彦を担ぎ出して馬に乗せ行手も定めずに逃れた。
空が白み遠くに二上山が見えた。長髓彦もやっと気が付き馬の背に揺られている事に驚いた。家人が昨夜の出来事を話し、その内、討手が追って来る事を告げた。
長髓彦は頭が朦朧として家人の言葉が信じられなかった。昨夜、共に戦い共に死のうと誓った饒速日命は別人なのか。馬の背に揺られ思いあぐねた。
饒速日命は長髓彦がこのまま何処にか落ち延びてくれる事を願った。しかし、宇摩志麻治尊と天櫛玉尊は長髓彦が兵を率いて攻め寄せる事を畏れた。
宇摩志麻治尊は直ちに家人を呼び集め夜の闇に消えた長髓彦を追って四方に討手を差し向けた。数十人の兵が一団と為って四方に散った。天櫛玉尊も兵を集め自ら長髓彦の領地、鳥見に向かった。
討手の一団が二上山の麓で数人の家人と逃げる長髓彦の背を見つけ馬を馳せた。
長髓彦は馬の背に揺られ、頭の芯がずきずき痛む中でなを考え込んだ、何故、饒速日命は我を見限り殺そうとするのか。日向の狭野命がそれ程怖ろしいのか、今までの戦いで我に従い多くの兵が命を落とした。兄宇迦斯も八十梟帥も兄師木も大和を守る為に我に組みしてその身は切り刻まれた。この戦は悪夢なのか、武人として戦で死にその身は八十梟帥や兄宇迦斯と同じ様に切り刻まれようと悔いは無い。一人の主の豹変が数千の兵の死を無駄にした。今、主に追われ、従う家人も僅かである。人の運命とは一夜で変わるものなのか。昨日の我と今日の我は同じ身で在りながら身を置く世界は暗転した。
数十人の討手が追いつき逃げる長髓彦の一団に騎射を浴びせて来た。長髓彦の一団は林に逃げ込み、討手を躱そうと試みたが為せなかった。討手が迫り家人は長髓彦にこの場を去り落ち延びる事を促したが長髓彦は聞き入れ無かった。
死を覚悟した長髓彦は剣を抜き放ち、馬を返して討手の一団に挑みかかった。長髓彦の武勇を知る討手は剣を振り翳して鬼神の如く疾駆する長髓彦を見て恐ろしさに身が縮み馬を返して遠巻きに囲んだ。暫くして討手は林に火を放った。林は煙に満ち長髓彦の一団に炎が迫って来た。
馬は火を畏れて嘶き後ずさりを始めた。長髓彦は意を決して燃え盛る風上に馬首を向け、馬を疾駆させた。家人も後に続き煙が立ち込める焼け野を走り去った。
翌朝、討手の一団は焼け野を隈なく探索したが長髓彦と家人の死体は見付けられなかった。討手はそれから数日、長髓彦の一行を探索したが行方は知れなかった。
焼け野を抜け出した長髓彦は遠くに討手の一団を見て生駒を越え、河内国樟葉から山代を抜け近江に向けて逃走した。
長髓彦の子、安日彦は館に迫る軍馬の響きを聞き不吉な予感を覚えひとまず館を抜けだし様子を窺った。兵の交わす言葉から長髓彦に反逆の烙印が押され追われている事を知った。
戦場で何が有ったか知る由も無いが饒速日命が我らを討ち取りに来た事を察し、安日彦は単身馬に跨り近江を目指して逃れた。
近江に至り長髓彦が討手を逃れ逃走した事を知った。探索の手が近江に及び、安日彦は近江から北を目指して旅立った。
天香山尊は饒速日命が謀略を以って盟友の長髓彦を殺そうとした事に怒りを感じ大和を後にして東に去った。
饒速日命は差し向けた討手から二上山の麓で林に火を放ったが野火を潜り抜けて長髓彦が逃げ去ったと聞かされ、引き続き探索を命じたが内心安堵した。
狭野命は智将の誉れ高い長髓彦を畏れていた。野に降り刃向かえば、討ち取るのは難しい。長髓彦を殺せば大和の豪族も戦意を喪い帰順するであろう。大和に内紛が勃発して長髓彦が殺害される事を望んでいた。
狭野命の思惑通り大和に内紛が起こり、長髓彦は饒速日命の奸計にはまって殺され、饒速日命は和議を申し出て戦は終結したが畿内にはなを狭野命に帰順しない豪族がいた。
波哆の丘岬(奈良県奈良市赤膚町)に新城戸畔、和珥(奈良県天理市和爾町)の坂下には居勢祝、臍見の長柄の丘岬(奈良県御所市名柄 長柄神社)に、猪祝という者が居た。彼らは長髓彦に従っていたが長髓彦が饒速日命に暗殺されたと知り己が領地に引き揚げて立て籠もっていた。
狭野命は己未の年(西暦五九年)の春二月二〇日、諸将に命じて軍を遣わし帰順しない豪族を攻め、皆殺しにした。
こうして、争いが収まり大和を狭野命に譲った饒速日命は大和を去る事を神が定めたと思い、去るに当たり狭野命に宇摩志麻治尊と共に国を治め、天櫛玉尊をはじめとした三十一人の将士の処遇を委ねて大和を去った。
大和の主となった狭野命は宮殿の造営を思い立ち国中の地を思いめぐらした。畝傍山の東南、橿原の地に思い至りかの地は国の真中であると気づき橿原の地に宮殿の造営を命じた。
そして、庚申の年(西暦六〇年)秋八月十六日、狭野命は饒速日命の娘、五十鈴媛命を召し正妃とされた。
畝傍橿原宮(奈良県橿原市久米町)が竣工した辛酉の年(西暦六一年)の春一月元旦、即位の礼を執り行い皇祖の瓊瓊杵尊に授けられた豊葦原瑞穂国の帝(神武天皇 在位、西暦六一年一月一日~八五年三月一一日)になられた。
宇摩志麻治尊は大連の称号を得て、物部大連と称し大和の軍を掌握する事と為り、道臣命は大伴大連となって皇軍を掌握し築坂邑(奈良県橿原市鳥屋町 鳥坂神社)に宅地を賜った。大久米命は畝傍山の西、来目邑(奈良県橿原市久米町 久米御縣神社)に宅地を賜った。
そして、椎根津彦を倭国造とし、功のあった弟師木を磯城(奈良県桜井市金屋)の県主に任じ、弟宇迦斯に猛田邑(奈良県橿原市東竹田町)を与えて県主に任じ、剣根を葛城(奈良県葛城市葛木)の国造に任じた。
帝が日向を発って、耳川で船の建造に二年、筑紫に一年、安芸に一年、吉備に三年、大和を攻め落とすのに二年の歳月を要し、実に九年の歳月を戦いに明け暮れて来た。
思い起こせば数々の危難に会い、三人の兄は死に、多数の兵を喪った。長い苦難の道のりであったが、皇祖天神を信じ、神の詔に従い事を成した。今や、大和より西の諸国を始め、山代、近江、丹波、熊野と皆、帝に従い東征の長い旅は終わった。
帝は神から授かった布都御魂剣を再び石上神宮に祀り、布都御魂大神と称して大和の守りを託した。そして、神武四年(西暦六五年)春二月、帝は皇祖天神を敬い奉る為に鳥見山の山中に社(等彌神社 奈良県桜井市桜井一一七六)を建て高皇産霊尊を祀った。