皇位争乱
第一話 神武東征
国見丘の戦い
宇陀の豪族、兄宇迦斯の元にも狭野命が何の前触れも無く突然、地から湧き出た如く吉野に現れたとの報せが届いた。孔舎衛坂の戦で敗れ南に去った狭野命がまさか熊野の山を越えて吉野に攻め入るとは思っても見なかった。
熊野は山深く聳え立つ山塊が折り重なる様に累々と果てしなく連なり、そこは根の国と呼ばれ狼や熊と共に魔性が棲み、天は黒雲に覆われ昼夜を分かたず雷が鳴り響き豪雨が降り注ぐ地と考えられていた。猟師も怖れて深く山に分け入る事は無かった。
兄宇迦斯は狭野命が山の神を鎮め八咫烏を道案内に長躯、熊野の山を越え突如として吉野に現れたと知り、鬼神の如き振る舞いと執念に畏怖の念を覚えた。急ぎ鳥見(奈良県生駒市白庭台)の長髓彦と忍坂(奈良県桜井市忍坂)の八十梟帥、外山(奈良県桜井市外山)の兄師木に狭野命が熊野の山塊を越えて突然、吉野に現れ、宇陀に迫ったと急使を送り戦の支度に取り掛かった。
吉野の豪族は突然姿を現した狭野命に為す術も無く次々に帰順し、刃向かった豪族は攻められ容赦無く斬り殺された。こうして、吉野を制圧した狭野命は次に宇陀に向かうべく、宇陀の豪族、兄宇迦斯、弟宇迦斯、の兄弟にも帰順を促す使者を遣った。使者に立った八咫烏は数名の兵を率いて兄宇迦斯の館を訪れ、「領地は安堵する速やかに帰順せよ。」と迫ったが、兄宇迦斯は迷う事なく帰順を拒み、望楼から八咫烏に鏑矢を射掛けて追い返した。
戦わずして降れば狭野命の将兵として盟友の長髓彦や八十梟帥に弓を引かねばならない。宇陀の豪族として狭野命に気骨を示し、一戦を交えて戦の中で壮絶な死を覚悟した決断であったが兄宇迦斯には余りにも兵が少なかった。
宇陀の豪族も突然来襲した狭野命の大軍に驚き兄宇迦斯の呼びかけに応じる事なく次々と狭野命の軍門に降った。孤立無援となった兄宇迦斯は寡兵をもって何とか狭野命一人を討つ奇策は無いか、思い巡らし一計を案じた。
急いで館の中に数々の仕掛けを施し狭野命を招き入れて討ち取る策を講じた。板を踏めば矢が飛び、飾り紐を引けば大石が落ち、座に着けば穴に落ち石が崩れ落ちて生き埋めとなる。隠し部屋を作って兵を伏せ、狭野命をお迎えする事とした。そして、この計略を弟の弟宇迦斯に話し、打ち損じたら狭野命に斬り掛かれと命じた。
仕掛けも出来上がり兄宇迦斯は狭野命に帰順を誓う使者を遣わす事とした。兵卒では信用されないので弟宇迦斯に使者に立つことを命じ、「大御饗(天皇に献る御膳、服従を示す)を献りたく狭野命の来駕を願い奉ります。」と告げさせた。
狭野命は弟宇迦斯の口上を聞き大いに喜び「後日、日を改めて館を訪ねる。」と告げた。しかし、八咫烏は弟宇迦斯の口上を疑った。話しに聞けば、兄宇迦斯、弟宇迦斯の兄弟は竜田道を守る兄師木、弟師木に加担して我が軍の偵察部隊の進軍を阻み、我が軍を苦しめた武将の一人である。兄宇迦斯が戦わずして降るとは信じがたい。それとも、意表を突いて熊野の山を越え吉野から攻め入った事が功を奏し、吉野を制し、宇陀の豪族も次々に帰順を承知した。鏑矢を放ち抗戦の意志を示した兄宇迦斯も宇陀の豪族が合力せず戦に利あらずと見て取り涙を飲んで帰順を申し出たのか。
八咫烏は兄宇迦斯の唐突な申し出に疑いを感じた。帰順を促す使者に立って館を訪れた時、いきなり鏑矢を射掛けられ逃げ帰った時の事を思った。脅しでは無く兄宇迦斯も兵も射殺す積もりで矢を射掛けてきた。応戦する余裕も無く不覚にも逃げ帰った苦い経験を思い返した。その兄宇迦斯ほどの武将が一戦も交えず辞を低くして帰順を申し出た事に不審を抱いた。
何か企みが有ると直感した八咫烏は弟宇迦斯を別室に案内し「宇陀の猛将、弟宇迦斯殿の助力は百万の味方を得た程に心強い、誠に嬉しい限りである。弟宇迦斯殿が身を挺して説得してくれたのであろう。弟宇迦斯殿の尽力の賜物である。狭野命に代わり礼を言いたい。これからは同輩として誼を結んで頂きたい。」と語って酒を勧め「説得には難儀したであろう、使者に立って兄宇迦斯殿の館に赴いた時、帰順を拒み盛んに矢を射掛けて来たので驚いて逃げ帰った。あの堅物を説き伏せるのは難儀であったろう。一戦も交えず味方に付けたのは大功である。」と言葉巧みに弟宇迦斯を褒め称え、戦の後の褒賞をちらつかせ、半ば脅して事の真相を問い質した。
弟宇迦斯は常々、兄宇迦斯の独善的な振る舞いに不満をつのらせていた。兄に替わり宇陀の地を支配する好機と見て兄を裏切り事の真相を語って帰順を承知した。
こうして弟宇迦斯は八咫烏の甘言に乗り兄宇迦斯の策謀と兵力を八咫烏に語った。「兄の兄宇迦斯は盟友の長髓彦や八十梟帥に『狭野命が熊野の山塊を越えて吉野に現れた。』と報せを出したが援軍の到着は期待できないであろう。宇陀の豪族も狭野命の大軍を見て怖じ気付き兄宇迦斯に合力する事を躊躇っている。兄宇迦斯に兵は集まらず戦いに利あらずと見て奇策を弄し、狭野命一人を殺す事を企んでいる。兄宇迦斯は帰順を誓い、大御饗を献りたく狭野命の来駕を願い奉りますと申し出たのは狭野命を館に招き数々の仕掛けを巡らした酒宴の席に案内して、狭野命を殺す魂胆であります。」と弟宇迦斯は仕掛けの数々を事細かに話し八咫烏を驚かせた。八咫烏は弟宇迦斯をねぎらい暫し陣中に留まれと命じて然も有りなんと腹中で嗤った。
狭野命は八咫烏の話を聞き終わって直ぐさま道臣命に兄宇迦斯討伐の命を下した。道臣命は兵を飾り狭野命の来駕に見せて兄宇迦斯の館を訪ねた。兄宇迦斯は何の先触れもなく早々の来駕に戸惑いを見せたが疑う事なく門を開いた。道臣命は開門と同時に兵を乱入させ、兄宇迦斯は斬らずに捕らえよと命じた。
兄宇迦斯の兵は刃向かう事も出来ず、瞬く間に館は道臣命の兵に占拠された。兄宇迦斯は兵に囲まれ剣を振るって応戦したが網を掛けられ捕らえられた。
道臣命は兄宇迦斯を見据えて「弟宇迦斯が全てを語り、仕掛けは露見した。」と叫び、狭野命を殺す為に仕掛けた罠に引き立て仕掛けの板を踏ませた。兄宇迦斯は身を翻して避けたが仕掛けた矢は左の肩口に突き立ち血を滴らせた。矢を引き抜こうとしたが道臣命は許さず、兵に両脇を抱えられ次の仕掛けに引き立てられた。
数名の兵が命じられるままに兄宇迦斯の腰のあたりを激しく蹴り上げた。兄宇迦斯はよろめいた拍子に思わず仕掛けの飾り紐を掴んでしまった。紐は勢い良く引き下げられ天井から大石が落下し、僅かに身を除けたが避けきれず右肩に大石の衝撃を受け肩と腕の骨は不気味な音を発して砕けた。激痛が五体を駆け巡り息は絶え絶えになり、腕は動かず肩は見る見る紫色に腫れ上がった。苦しさに意識は朦朧として気を失いその場に倒れ込んだ。
死が間近に迫っていたがそれでも道臣命は許さず兄宇迦斯に水を浴びせて意識を蘇らせた。そして兵に命じ血が滴る腕を取って落とし穴の仕掛を施した室まで引き摺らせた。
もはや兄宇迦斯には抵抗する気力も体力も失せ意識は朦朧として、兵の為すがままに仕掛けを施した場所に投げ捨てられた。床は割れ穴に転落したが辛うじて左手で穴の縁を掴みぶら下がった。
道臣命はその手に剣を突き立てた。兄宇迦斯の悲鳴が野獣の叫びの様に穴に響き、兄宇迦斯の体重の重さで手は裂け穴に落ちた。穴に仕掛けた側壁の石が次々に崩れ落ち兄宇迦斯を襲った。五体の肉は飛び散り、骨は砕け一瞬の苦しみの内に壮絶な死を遂げた。
死を見届けても道臣命は赦さず兵に命じ石を取り除き兄宇迦斯を掘り出させた。引き上げられた兄宇迦斯の頭は割れ、顔は砕け血に染まった無残な姿であった。兄宇迦斯の死体を一瞥した道臣命はそれでもなお許さず兵に五体を切り刻めと命じた。兵は首を刎ね手足を切り離し腹を裂き五体をバラバラにして辺りを血の海にした。
道臣命が引き揚げた後、里人は兄宇迦斯を哀れみ切り刻まれた五体を集めて宇賀神社(祭神 宇迦斯神魂 奈良県宇陀市菟田野宇賀志)の地に葬り、この地を血原と称した。
忍坂(奈良県桜井市忍坂)の豪族、八十梟帥は盟友の兄宇迦斯から「熊野の山を越えて突然、狭野命が吉野に現れた。」との報せを受け、八十梟帥も狭野命が熊野の山を越えて突如、吉野に現れたと知り狭野命の怨念にも似た執念に驚愕した。
熊野の豪族も加担し吉野も宇陀も狭野命の軍門に降り、盟友の兄宇迦斯が弟宇迦斯の裏切りにより無残に討たれ、その身は切り刻まれたと聞かされた。兄宇迦斯が大和を守る為に礎と為って壮絶な無念の死を遂げた。兄宇迦斯の無念を思うと身は憤りに震え、憎しみが心を覆った。
この身滅ぶとも兄宇迦斯の意志を継ぎ、東征軍の一兵たりとも大和の土は踏ませない。八十梟帥は死を賭して侵略の兵馬に立ち向かい兄宇迦斯の無念を晴らすと神に誓い、今再び孔舎衛坂の戦の苦渋を味わわせ二度と大和に兵馬を差し向ける事の無い様、壊滅的な打撃を与える決意を固めた。
そして、外山(奈良県桜井市外山)の豪族、兄師木と共に旗下の豪族を集めて軍議を開き、八十梟帥は一同に告げた。「狭野命は吉野、宇陀の兵を加え大軍を擁してこの地に迫るであろう。我らは大和に通じる道を塞ぎ東征軍の一兵たりとも大和の土は踏ませない。兄師木は宇陀から桜井に通じる墨坂(宇陀市榛原から桜井市初瀬に至る街道 国道一六五号線 西峠に墨坂伝承地の石碑有り)に陣を敷き、弟の弟師木は伊那佐山(墨坂の南に位置する六三七メートルの独立峰)に陣を敷く、八十梟帥は国見丘(桜井市と宇陀市の境にある標高八五一メートルの音羽山)を本陣にして男坂(宇陀市大宇陀半坂から桜井市栗原を経て桜井市忍坂に至る峠道 半坂峠に男坂伝承地の石碑有り)、女坂(宇陀市大宇陀宮奥から桜井市針道を経て明日香に至る峠道 大峠に女坂伝承地の石碑有り)に布陣して狭野命を迎え撃つ。国見丘を要塞と化し、狭野命が攻め上れば山に拠る我らの退路は絶たれ、討つか討たれるか背水の陣を敷く。これが狭野命との最後の戦に為るであろう。」と覚悟の程を語った。そして、刎頸の友、長髓彦に使いを遣り「狭野命を国見丘でくい止める、援軍は要らぬ、大和の守りを固めよ。」と伝令を走らせた。
八十梟帥は国見丘に登り策を巡らした。山に火を掛けられて闘わずして敗れる事を恐れ、裾野まで全ての木を切り倒しその木で炭を焼かせ、大木は山上に引き上げ枝を切り落として逆落としの仕掛けを施した。
狭野命が向かうであろう三つの坂、男坂、女坂、墨坂にも仕掛けを施した。男坂には至る所に大穴を穿ち細竹で覆い枯れ草と土で隠し、坂に大石を据え滑り止めに縄を張り矢で縄を射抜けば大石が転げ落ちる仕掛けを施し、櫓を組んで兵を上らせた。女坂には細竹を短く切り坂の至る所に突き立てた。墨坂には稲藁を敷き詰めその上に炭を敷き並べ敵が攻め寄せれば火矢を放って稲藁に火を点けて燠(真っ赤に燃えた炭)で道を塞ぐ事とした。山上に壕を掘り山裾からは兵の姿が見えず易々と落とせると思わせる様に兵を隠し采配に従って矢を射り命令が有るまで声を発する事を禁じた。櫓を建て弓の名手を配し攻め上る敵に矢を射かける準備も施した。山に大量の武器を隠し、糧食と水を蓄え、長期の戦に備えた。女も兵として戦に狩り出し剣と弓矢を与えて女坂を守らせた。
一方、狭野命は弟宇迦斯に中つ国に至る道を尋ねた。弟宇迦斯は「宇陀と中つ国を分かつ青垣山(音羽山、経ヶ塚山、熊ヶ岳等の竜門山地)を越えれば中つ国に至ります。山を越える道は榛原から初瀬、桜井に至る墨坂越え(西峠)の道と国見丘(音羽山)の北麓を抜け桜井の粟原から桜井の外山に至る男坂越え(半坂峠)の道と大宇陀の宮奥から多武峯を経て桜井に至る女坂越え(大峠)の道が御座います。しかし、墨坂は外山の豪族、兄師木が布陣して道を塞ぎ、弟の弟師木は伊那佐山に布陣し、男坂、女坂は忍坂の豪族、八十梟帥が塞いでいると思われます。これから軍を進めるに当たり背後を襲われないように宮奥(奈良県宇陀市大宇陀宮奥)の豪族、剣根を味方に付けるのが良策かと思います。」と申し述べた。
話を聞き終えた狭野命は直ちに剣根説得を八咫烏に命じた。八咫烏は弟宇迦斯を伴って剣根の館を訪れ帰順を説いた。剣根は八十梟帥から合力せよと再三に亘り催促を受けていたが兄宇迦斯が斬殺されたと知り恭順の意を示した。
背後を襲われる危険が無くなった狭野命は弟宇迦斯と剣根の兵を加えて宇陀の穿(奈良県宇陀市莵田野宇賀志)から宇陀の高倉山(高角神社 奈良県宇陀市大宇陀守道)に進軍して軍を留め、主だった将士と共に城山(標高四七一メートル)に登り中つ国に至る道を臨み見ると弟宇迦斯の申す通り要害の地に布陣して全て塞がれていた。
軍議を開き国見丘に拠る八十梟帥を攻めるべきか、無視して墨坂から大和に急ぐべきか進むべき道を諮った。大久米命が申し述べた。「山上は寡兵とは云へ山に拠る軍は守りに強く、攻め落とすには難渋すると考えます。孔舎衛坂の二の舞とならぬ様、打ち捨てて大和を目指しては如何。」と言上した。
狭野命は暫し黙考して道臣命と八咫烏に思う所を述べよと促した。八咫烏が申し述べた、「弟宇迦斯の言に拠れば八十梟帥は大和に聞こえた武勇の士で有り知略も並外れ長髓彦とは刎頸の友との由、孔舎衛坂の戦にも加勢して我が軍を苦しめたと聞く。偵察の兵の言に拠れば山上は寡兵で兵の声も聞こえないとの報であるが八十梟帥の罠であろう。打ち捨てて大和を目指せば、彼の罠に嵌まり必ずや背後を突かれ吉野、宇陀の兵は浮足立ち我が軍は崩れましょう。」道臣命も八咫烏に同意し狭野命は暫し黙考して国見丘を攻め落とすと断を下した。
そして、背後を伊那佐山の弟師木に襲われないように一軍を伊那佐山に向かわせ、本隊を国見丘に対峙する西山岳(標高六八七メートル)の山麓に進め陣を構えた。西山岳の山頂から国見丘を望見しても少数の兵の姿しか見えず山は静まり返っていた。狭野命は孔舎衛坂の轍を踏まず八十梟帥の出方を窺うべく試しに一カ所だけ攻めて見る事とした。
八十梟帥が最も憎むべき弟宇迦斯を先鋒として正面の国見丘を攻めさせる事に決した。先鋒を命じられた弟宇迦斯は兄宇迦斯を裏切り死に追い遣った事を悔やんだ。狭野命の残忍な仕打ちも見せ付けられた。思量が浅く欲の深さ故に身を滅ぼす運命に至った己を恥じた。
そして、弟宇迦斯が先鋒となって攻め上ったと知れば八十梟帥は憎悪の炎を滾らせ怨念の憤りを込めた矢を我が軍に降り注ぐであろう。弟宇迦斯は八十梟帥の勇猛振りは誰にも増して承知しており、先鋒を命じられた事は死地に踏み込めとの命であった。
狭野命は八十梟帥の軍が弟宇迦斯を憎悪する余り、激情に駆られ山上の砦から追撃の兵を出すで有ろうと考え、弟宇迦斯を囮にして八十梟帥を山上から引き摺り下ろす策を講じた。
弟宇迦斯は兵を従え山に向かったが何事も無く山麓を過ぎ中腹に至っても一矢も飛んで来なかった。弟宇迦斯は八十梟帥が率いる凡その兵数は推測出来るが山上に兵の姿は数える程しか見えず、山は不気味な程に静まり返っていた。
偵察の兵の報告通り寡兵を山上に伏せ、東征軍を引き付ける罠かも知れぬ、八十梟帥は別の場所に陣を構えて手薄になった狭野命の本陣を襲う作戦ではないかと疑った。山上に拠る兵は八十梟帥の本隊ではない事を祈る気持ちで軍を進めた。
その時、どどっと崩れる音と共に至る所で兵が穴に落ちた。それを合図に一斉に矢を射掛けられた。山上の櫓から射掛ける矢は天上から降り注ぐ矢の雨となり、楯を頭上に翳して防ぐと、今度は山腹を流れ下る水の如く矢が襲って来た。兵はばたばたと倒れ、軍は総崩れと為って退却した。
山腹に屍が累々と横たわり、傷つき倒れた兵の呻き声が不気味な旋律となって聞こえた。穴からは助けを呼ぶ声が聞こえたが近寄る事は出来なかった。山上にどれ程の兵が拠っているのか、弟宇迦斯の兵が引いても山上は静まり返り勝利の喊声も上がらず山上の静けさが不気味であった。
狭野命は櫓の上からこの初戦を遠望して八十梟帥が容易な敵では無い事を知った。狭野命は軍を三軍に分け国見丘に陣を構える八十梟帥に三方から一斉に攻め上った。
男坂では柵に阻まれ大石を落され兵は傷つき倒れ、他の兵は怖れをなして負傷した兵を助けもせず打ち捨てて逃げ戻った。それでも二度、三度と穴に埋まった兵の屍を踏み、傷つき倒れた兵を跨ぎ攻め登ったが敵の激しい攻撃に遭い敗退した。女坂でも土に埋められた細竹に足を傷つけ、矢を浴びせられて敗退し、正面の国見丘も弟宇迦斯と同じように敗退した。
山上は敵兵が引くと見張りの兵を残し嵐の去った後の静けさに戻り、山肌には屍が坂の至る所に打ち捨てられ、傷を負って動けぬ兵の呻き声が地鳴りの様に山を覆った。吉野、宇陀の兵はこの戦で八十梟帥の計略を怖れ志気は萎え、狭野命は敗戦の苦渋を味わった。
狭野命は姿の見えぬ敵を攻めあぐね不気味な怖れを覚えた。山上に国見の神を感じ、神を封じる方策を取らない限り攻め上れないと感じた。
狭野命は手傷を負った兵の手当てとこれ以上の兵の損耗を恐れ一旦、軍を宇陀の高倉山に引き、どう攻めるべきか、攻め落とさなければ孔舎衛坂の二の舞となる。軍議を開いて八十梟帥をおびき出す作戦を練った。
その作戦は女坂の細竹を焼き払い、国見丘からは見えない宇陀の岩室(奈良県宇陀市大宇陀岩室)に精兵を伏せ、女坂に総攻撃を掛けると見せかけて本陣を宇陀の宮奥に移動し、女坂に八十梟帥を向かわせその間に岩室の精兵が男坂を攻めるという作戦であった。
狭野命は埋められた細竹に阻まれ攻めあぐねた女坂に盾を連ねて登り稲藁を敷き詰め火を掛けて細竹を焼き払い火が消えるのを待った。そして精兵を道臣命に授け宇陀の岩室に向かわせ、本陣を宮奥に進めた。一方の八十梟帥は女坂の細竹が焼き払われ、本隊が宇陀の宮奥に移動したのを見て女坂に総攻撃を仕掛けてくると考え、背後を襲うべく一軍を宇陀の岩室に向かわせ、自身も兵を率いて女坂の守りに向かった。
城山に狼煙が上がった。それは八十梟帥の一軍が国見丘から女坂に向かったとの合図であった。狼煙を合図に八咫烏と弟宇迦斯は兵を率いて女坂に攻め上り、道臣命は精兵を率いて男坂に向かった。
ところが狭野命の予想に反し両軍は宇陀の岩室で遭遇し激戦となったが精兵を率いる道臣命が八十梟帥軍を打ち破り多数の兵を捕虜にして男坂に向かった。
女坂では八咫烏が総攻撃と見せかけて一進一退を繰り返していた。狭野命は一軍を率いて男坂に向い道臣命と合流して捕えた捕虜を盾に攻め上った。こうして男坂を制した狭野命は「首魁の八十梟帥は五瀬命の仇の一味でも有る我が手で成敗したい、殺さずに捕らえよ。」と命じ、国見丘に攻め上った。
男坂が落ちたと知った八十梟帥は国見丘に退き敗戦を覚悟して兵に告げた。「戦はこれまで薄みを突いて逃げ延びよ、逃げて墨坂の兄師木の軍に加われ。」と命じた。しかし、大半の兵は八十梟帥に付き従い敵の剣に怯む事なく突き進み山上で死闘が繰り広げられた。兵数に勝る東征軍は一人の兵に数人が一団となって襲い掛かった。
追いつめられて山上に一団となった八十梟帥の兵に容赦無く矢が射掛けられた。兵は次々に倒れ周りを十重二十重に囲まれた八十梟帥に従う兵は僅か十数人の兵を残すのみとなった。
斬り死にを覚悟した八十梟帥に道臣命は足を射抜けと兵に命じた。一斉に八十梟帥の足に矢が浴びせられた。足に突き立った矢の痛みを物ともせず八十梟帥は剣を振り翳して道臣命に襲い掛かったが兵に阻まれ捕らえられた。残った十数名の兵は尽く斬殺された。
八十梟帥は捕らえられ縄を掛けられて狭野命の前に引き立てられた。狭野命は一瞥して道臣命の剣を取り一撃を加えて兄宇迦斯と同様に身を切り刻めと命じた。
八十梟帥を討った狭野命は大宇陀追間の阿紀神社(奈良県宇陀市大宇陀迫間)の地に軍を留め、道臣命に一軍を授け八十梟帥の残党の討伐を命じた。
道臣命は土地勘の有る弟宇迦斯と共に大宇陀の麻生田を探索し是室山の岩室に潜んでいると突き止め、弟宇迦斯の強兵を選んで残党に仕立て、食料と酒を携えて岩室に向かわせた。残党は空腹に耐えていたのか疑う事をせず武器を傍らに置いて我先に食料を奪い合い酒を飲み戦を忘れて騒いだ。
岩室の外で様子を窺がっていた道臣命は頃合いを見計らい「討ち掛かれ。」と命じた。残党になりすましていた弟宇迦斯の兵は剣を抜いて残党に斬りかかり、道臣命が率いる兵は岩室に雪崩れ込み残党を一人残さず斬り殺した。
こうして中つ国へ至る男坂越え(半坂峠)の道は開けたが墨坂には外山の豪族、兄師木が伊那佐山には弟師木が布陣しており打ち捨てて進軍すると背後を襲うであろう。狭野命は伊那佐山を囲み八咫烏を遣わして弟師木に帰順を促した。弟師木は八十梟帥が討ち取られたと知り八咫烏に恭順の意を示した。そして、八咫烏は弟師木を墨坂に拠る兄師木の元に遣わし兄宇迦斯も八十梟帥も討たれたこれ以上戦っても利あらずと利害を説かせたが「中つ国には入れぬ、礎となって死んだ兄宇迦斯と八十梟帥それに戦で死んだ兵の仇を討つ。」と言い放って承伏しなかった。
狭野命は伊那佐山の麓に軍を進め大久米命に一軍を授けて墨坂に拠る兄師木を攻めさせた。しかし、墨坂に近づくと無数の火矢が飛来し坂に敷き詰められた稲藁が燃え上がり進むことが出来ず一旦兵を引き鎮火するのを待って再び攻め上ったが坂のいたる所に真っ赤に燃えた炭で道が塞がれていた。
大久米命の報告を聞いた狭野命は墨坂を落とさなければ先に進めない。道臣命に命じて祭壇を設え建御雷神が国を平定した布都御魂剣を翳して神の降臨を願い祈った。剣は妖しい光を放ち、一筋の光が狭野命の額を貫いた。狭野命は雷に打たれた如くその場に倒れ込んだ。そして、神の化身と為ってすっくと立ち上がった。
これを見た道臣命は審神者(神託を解釈して伝える人)となり墨坂を攻める方策を神に問うた。狭野命は再び倒れ我に還り道臣命に「神の啓示は有ったか。」と問うた。道臣命は「神は天の香具山の赤土を採って平瓦を焼き、宇陀川の水を撒き、墨坂を攻めよ。」と申されたと告げた。
狭野命は椎根津彦と弟宇迦斯を召し天の香具山に入って一握りの赤土を求めさせた。二人は土で汚れた衣を纏い年老いた農婦と農夫に姿を変え天の香具山に入って一握りの赤土を持ち帰った。
狭野命は神に祈って天の香具山の赤土を混ぜ急ぎ平瓦を焼き、農夫を集めて水桶を作り、矢を防ぐ大きな盾を作った。
狭野命は主だった将士を集めて軍議を開き、墨坂を攻める方策を諮った。椎根津彦が申し述べた。「一軍を編成し伊那佐山を越え福地岳(標高五二一メートル)を越えて北側から墨坂を攻める軍を伏せ、一軍は本隊に見せ掛けて女寄峠(女寄峠を越えて桜井に向かう道)に攻め上る、そうすれば墨坂は燠(真っ赤に燃えた炭)で守られていると信じる兄師木は女寄峠に援軍を差し向けるでありましょう。そこで我が軍は平瓦と宇陀川の水を汲み入れた水桶を携えて炭火を消し平瓦を敷いて墨坂に攻め上り、北からも伏兵が墨坂を目指せば挟み撃ちにして、最も攻めあぐねる墨坂を落とせば敵は驚き敗退して戦は終わるでありましょう。」
狭野命はこの作戦を大いに喜び、進軍して伊那佐山の麓に陣を敷いた。そして、椎根津彦に一軍を授け敵に悟られぬよう福地岳(標高五二一メートル 奈良県宇陀市榛原福地)を越えて墨坂の北に向かわせ、伊那佐山の狼煙を合図に攻め掛かれと命じた。
翌朝、狭野命は道臣命と八咫烏に大軍を授け女寄峠に向かわせ、自身は伊那佐山の山頂に陣を敷いた。
椎根津彦の作戦通り墨坂に陣を張る兄師木は大軍が女寄峠に向かうのを見て東征軍は墨坂攻めを諦め女寄峠を越えて本拠の磯城を急襲する作戦で有ろうと思い、墨坂を兄倉下、弟倉下の兄弟に任せ、自ら兵を率いて手薄な女寄峠に向かった。こうして女寄峠で攻防の戦いが始まった。狭野命は手研耳命に精兵を授け「墨坂が落ちればこの戦は勝利する。心して掛かれ。神から授かった布都御魂剣を授けるこの剣を翳して突き進め。」と命じ、狼煙を上げた。
手研耳命は兵に告げた。「この剣は建御雷神が国を平定した布都御魂剣である。この剣を翳せば神の加護を得る。墨坂の炭火は手桶に入れた宇陀川の水を撒き、焼けた道には三輪の土で焼いた瓦を敷いて攻め上れ。」墨坂に攻め上った手研耳命の軍に兄倉下、弟倉下の兄弟の兵は雨霰と矢を射掛けたが盾に阻まれ敵はじわじわと陣に迫った。炭火の坂を上り来る兵が不思議であった。大石を落したが盾に支え木が施され効果は無かった。手研耳命の兵はついに墨坂の陣に迫り、盾を捨てて次々に墨坂の陣に切り込んだ。北からは椎根津彦が率いる一軍が攻め込み兄倉下、弟倉下の兄弟は腹背に敵を受け必死に防いだが持ち堪えられずじりじりと追いつめられて敗走した。
墨坂を制圧した手研耳命と椎根津彦は軍を合わせて女寄峠に向かった。兄師木は挟み撃ちに合い敗走して外山(奈良県桜井市外山)の館に逃れ、白旗を掲げて降伏を申し述べたが狭野命は許さず館に火を掛けて焼き殺した。
兄師木を打ち滅ぼした狭野命は御子の手研耳命と共に鳥見山(標高二四五メートル 桜井市)に登り我が治める地、中つ国を見渡した。感慨を込めて手研耳命に語った。「神代の昔、大物主神はこの大和の地を天照大神に国譲りして出雲に去ったと聞く、この地は天照大神から我が始祖が授かった故地である。孔舎衛坂の戦では長髓彦に苦しめられ、中つ国を望み見る事が出来なかった。神のお告げに従い南から攻め苦難の道のりであったが宇陀の兄宇迦斯、忍坂の八十梟帥、外山の兄師木も打ち滅ぼしこの国の平定も半ばまで来た。今、此処から望み見れば、霞のたなびく先に大和三山(香具山、畝火山、耳成山)が見える、この地こそ神から授かった中つ国、瑞穂の国である。我が治める地をしっかりと見よ。」と語った。