皇位争乱
第一話 神武東征
熊野越え
草香の白肩津を発った狭野命の船団は南に向かったがほどなく嵐に遭い御座船の舵が折れ止む無く大津の浦(大阪府泉大津市 大津川河口)に停泊し修理に当たった。
五瀬命は孔舎衛坂の戦で受けた矢傷が化膿し高熱を発し船の甲板に身体を横たえていた。そこに土地の豪族、横山彦が現れ五瀬命の容態を心配して館(男乃宇刀神社 祭神 五瀬命、神武天皇 大阪府和泉市仏並町 男乃とは兄、宇刀とは弟の事)に迎え入れた。
夏五月八日、舵の修理を終え再び南を目指して船団を進めたが、五瀬命は船の揺れに耐えて苦痛を噛み殺していた。見かねた狭野命は五瀬命の傷が癒えるまで留まろうと男里川の河口、山城水門に碇を降ろした。
頑健な五瀬命も船の揺れと夏の暑さが体力を蝕みもはや立ち上がれぬほど衰弱していた。それでも五瀬命は剣を撫で雄々しく振舞われ「残念だ。丈夫が賊に傷つけられて、報いないで死ぬことは。」と雄叫びされ、狭野命に早く南を目指せと怒鳴った。よってこの地を雄水門(男神社 祭神 五瀬命、神武天皇 大阪府泉南市男里)と名付けられた。
狭野命は長兄の五瀬命の身を案じつつ船を出した。潮の流れの早い加太の瀬戸を椎根津彦の操船で乗り切り潟見の浦(和歌山県和歌山市加太)に至った。狭野命は五瀬命の病状を思いやり上陸して傷が癒えるまで留まろうと思ったが、五瀬命は「我が為に船を留めてはならぬ速やかに船を出し南を目指せ。」と強い口調で出立を促し、枕頭に稲飯命を呼び「これからの戦の指揮は汝が務めよ。」と命じた。
狭野命は致し方なく船を出した。波は穏やかで有ったが傷の痛みに耐える五瀬命には僅かな船の揺れも激しい痛みを伴った。
苦しみに耐える五瀬命を励まし続けたが病はいよいよ重くなり、意識を失うほどの苦痛が絶え間無く襲った。それでも五瀬命は平静を装って激痛に耐え痛みを余人に覚られる事を恥じた。
狭野命は思い余って紀の川の河口、男之水門(水門吹上神社 和歌山市小野町)に碇を降ろし、上陸して五瀬命の傷が癒えるまで留まろうと思った。しかし、五瀬命は船を留める狭野命に、叱責を繰り返し船から降りる事を拒んだ。
五瀬命が痛みに耐え気丈に振舞っても再び船を出せば命を縮める事は明らかであった。狭野命は中つ国を攻めるのが遅れても五瀬命を失う事を畏れ有無を言わせず船から降ろし、五瀬命の身に降り懸かった神の怒りを速やかに鎮め願い奉ったが神は聞き入れなかった。
薬石も効を為さず黄泉の国からの迎えが近づいた事を悟った五瀬命は狭野命の手を握り締め、「長髓彦に受けた矢傷に報いる事が出来ぬ、痛恨の極みである。」と嘆き、苦しみの内に崩じた。
狭野命は壮絶な五瀬命の最後を見届け涙が止めど無く流れた。長髓彦への怒りは増し孔舎衛坂の戦は生涯忘れぬと誓った。
叔父の五瀬命を父親以上に慕う手研耳命は拳を握り締め慟哭して長髓彦に復讐を誓った。そして、狭野命は哀しみの内に五瀬命を竃山(竃山神社 祭神 五瀬命 和歌山市和田)に葬った。
悲しみが覚めやらぬ数日の後、名草山を根拠地(中言神社 和歌山市吉原)に一帯を支配する豪族、名草彦が襲って来た。名草彦は仮宮を建てて立ち去らぬ狭野命を怪しみ戦を仕掛けて来た。
五瀬命から戦の指揮を委ねられた稲飯命は関戸(矢宮神社 和歌山市関戸)に布陣し応戦した。戦は日に日に激しくなり近隣の豪族も名草彦に呼応して東征軍を襲った。
稲飯命は防戦に努め機を見て兵を繰り出し名草彦と黒江の地で激戦となり敗走した名草彦は名草山の東、吉原の館(中言神社 和歌山市吉原)に逃げ込んだ。稲飯命は名草彦の館を囲み、降伏を促す使者を遣わしたが名草彦は従わず使者を斬って亡骸を送り返し戦う姿勢を鮮明にした。
怒った稲飯命は激しく名草彦の館を攻めたが環濠を巡らした館は容易に落ちなかった。そして、名草の兵は勇猛で、数に勝る東征軍と対峙しても一歩も引かなかった。名草彦の后、名草姫も弓を取り、剣を握って東征軍に立ち向かった。名草の女は戦となれば男と共に剣を振り翳して闘う事は当たり前であった。近隣の豪族も名草の女戦士と評し死を恐れぬ闘いに畏怖の念を抱いていた。
名草姫は女軍を率い馬に跨って奇声を発し半裸の裸体を馬上に曝し黒髪を風になびかせ馬上から次々に矢を射掛けて敢然と東征軍に襲いかかった。数十人が一団と為って縦横に東征軍を襲い疾風の如く駆け抜けて館に戻り、新手が再び襲い掛かった。半裸の裸体を曝す女軍の来襲に東征軍の兵は驚きまともに矢を射掛ける事が出来なかった。しかし、戦は多勢に無勢、名草彦の頑強な抵抗も時と共に兵を失い館は東征軍に打ち破られ皆殺しにされた。
名草姫も何度目かの出撃の時、大腿部に矢を受け馬から転げ落ちた。矢を抜き取り剣を抜き放って闘ったが力尽き討ち取られた。名草彦も剣を振るって戦ったが背後から矢を受け捕らえられた。稲飯命は捕らえた名草彦の頭と胴と足を切り離し見せしめとした。
東征軍が去った後、里人は名草彦を哀れみ頭は宇賀部神社(和歌山県海南市小野田)に胴は杉尾神社(和歌山県海南市阪井)に足は千草神社(和歌山県海南市重根)に埋葬した。紀の国の豪族は名草彦が敗死したと聞き次々に狭野命に帰順し、名草を平定した狭野命は再び碇を揚げて南を目指し船出した。
船団は天候に恵まれ日の岬を過ぎ日高川の河口、御坊と田辺湾の最深部、古賀浦に停泊して白浜の岬を回り、周参見から串本に至った。ここから海の難所、潮岬を越えなければならない。
狭野命は鬮野川の河口、袋湾に船団を留め椎根津彦に串本海峡を軍船が通れるか否か調べさせた。この頃、潮岬は串本海峡を挟んで島であったが砂が堆積し細い川の様になっていた。椎根津彦は満潮まで待って調べたがとても軍船が通れるほどの幅も深さもなかった。
狭野命は潮岬島を迂回するか軍船を砂浜に引き上げて砂丘を押し渡るか決断を迫られ岬を良く知る漁師を探させた。兵が連れ帰った漁師の話では岬のすぐ沖合を潮流の激しい黒潮が流れ海岸付近は岩礁が多く軍船は沖合に漕ぎ出さねばならない。そして黒潮を乗り切れなかった船は遠く沖合に流され二度と戻れないとの事であった。
狭野命は椎根津彦を伴って潮岬島に渡り最南端に至るとそこは四十~六十メートルの断崖絶壁が続いていた。眼下の岩礁には黒潮の荒波が打ち寄せ沖合には黒い潮が高いうねりとなって流れていた。
島で一夜を過ごした狭野命は夜明け前に海に向かって祭壇を設け海に漕ぎ出して無事に岬を越えられるか一心に祈りを奉げ神に問うた。『佐野を越えよ』との声が聞こえ眼を開けると弧を描く水平線から昇る日の出を見た。これは瑞兆の証であろうと思った。
宿営地に戻った狭野命は二人の兄、稲飯命と三毛入野命に潮の流れが速くとても岬を廻れない。如何にすべきか神に問うと神は『佐野を越えよ』と申された。どの様な意味であろうかと二人の兄に問うた。三毛入野命が「『佐野を越えよ』とは砂山を越えよとの事ではないか、西の上浦と東の下浦とは砂山で隔てられているが僅かな距離しかない、船を曳けば越えられるのではないか。」他に考え付く案も無く、山から丸太を切り出して敷き並べ砂丘を越える事とした。こうして船を曳いてついに串本海峡を越え、橋杭岩の袂に船団を留めて上陸し頓宮を設け暫く兵を休めた。
狭野命は中つ国に攻め込む道を求めて再び船を出した。船団が古座を過ぎる頃、空がにわかに怪しくなり程なく黒い雲に覆われ、強い風と共に雨が降りはじめ稲妻が走り雷鳴が轟いた。時を置かず大粒の雨になり風はますます激しさを増した。波は風に誘われ大きなうねりとなって波頭を白くし、風が飛沫を飛ばした。船は波のうねりに翻弄され舳先に叩き付けられた波は甲板を川の様に流れて兵を襲った。
嵐は激しさを増し、海は荒れ狂い、風と波が行く手を阻んだ。僚船が波間に沈み、行く手に波の壁が迫り船が波に飲み込まれる恐怖を何度も味わった。帆は風に引き裂かれ船は風と潮にゆだねられた。
兄の稲飯命は思いあまって、陸で苦しみ、海で苦しむ、兄を奪い、なを神は何をお望みかと、舳先に立って、剣を抜き放ち、波を切って波間に崩じた。
それは一瞬の出来事であり誰も止められなかった。稲飯命が神に命を捧げても、神は鎮まらず、空で雷鳴が轟き、閃光が空を切り裂いた。雨は船を容赦なく打ち叩き、波はうねりますます波頭を高くして、風は強さを増した。空は闇の様に暗く、潮は空を写して墨を流した様に黒々として鈍い光を放った。船は黒い大波に揉まれ不気味な軋みの音を響かせた。
波と風と潮に奔弄され、横殴りの雨と稲妻の光が厚い雲を引き裂く様に一瞬辺りを照らし、天の斧が船に振り下ろされたと思う程、強烈な雷鳴が轟いた。その音は海神が船を海底に引きずり込む音に聞こえ兵はうろたえ死の恐怖が襲った。船は波浪と戦う限界に達し、船体はゆるみ軋む音が絶え間なく響いた。そう長く船は持ちそうにない状況となった。日は沈み漆黒の闇が襲って来たが嵐は吹き荒れた。兵は不安に戦慄き顔面は引きつって何かにしがみ付いていた。暗闇と雷鳴が一層兵を不安にした。
三毛入野命は意を決し、この身を海神に捧げ神の怒りを鎮めようと思った。我が母、玉依毘売命と叔母の豊玉毘売命は海神、大海津見神の姫である。三毛入野命は母と叔母に狭野命の船団の加護を乞い願い、大海津見神に嵐を鎮め賜えと祈り波頭を踏んで海に身を捧げ崩じた。
二人の兄の命を奪った神は矛を収め、風は止み波も穏やかになったが船団は散り散りになり半数近くが姿を消していた。将も兵も疲れ果て船上のあちこちに倒れ込んで深い眠りに就いた。雲が去り眩しい陽光に曝されて兵はやっと我に返った。船は嵐に翻弄され大海の中を潮に流されていた。何処にも陸地は見えなかった。
船は嵐で痛めつけられ大波を被ると船体が軋んだ。夜が訪れ空に星が輝きを増した。椎根津彦は星の位置を探り陸地の方角に船団を導いた。月明かりの中に黒々と楯ヶ埼の大岩壁が見え、船団は二木島と甫母の漁師に助けられ二木島湾の荒坂の津(三重県熊野市二木島町)に碇を降ろした。
狭野命は皇子の手研耳命と共に兵を励まして船を降りた。夕闇の訪れと共に一時の喧騒が去り、静けさを取り戻すと、狭野命は一人砂浜に立って二人の兄を奪った海に見入った。兄を喪った悲しみが心に沸々と湧き上がり胸を覆った。
神は三人の兄の命を奪い、もはや、頼るべき人はいない、中つ国は遠く、進むべき道も見えない、戻る船も失った。神はどれほどの試練をお望みか、兄を奪い船を奪って根の国、熊野に導いた。神が南から攻めよと申されたのは一人で根の国、熊野から再生せよとのお告げであったのか。三人の兄は我が為に犠牲となり、なを苦難の道は開けていない。狭野命は一人、思い悩んで苦悶の内に一夜を明かした。
翌朝、荒海に身を奉げた二人の兄、稲飯命と三毛入野命の遺骸を探させた。稲飯命の遺骸は室古津の砂浜に打ち上げられていた。狭野命は哀しみを堪えて丁重に埋葬した。(室古神社 祭神 稲飯命 三重県熊野市二木島町)三毛入野命の遺骸はどこを探しても見つからなかったが阿古師の砂浜で小袖の一部が見つかったので致し方なくこの地に祀った。(阿古師神社 祭神 三毛入野命 三重県熊野市甫母町)
椎根津彦は難破した船を砂浜に引き上げ修理に取り掛かったが大半の船は帆柱が折れ、舵が折れと大破していた。致し方なく狭野命は船を諦め兵を率いて南に向かった。二木島峠、逢神坂峠を越え新鹿、波田須、大泊、七里御浜と進軍し熊野川の河口、熊野神邑(和歌山県新宮市)に至った。
翌早朝、狭野命は天磐盾(神倉山 神倉神社 和歌山県新宮市神倉)に登り、山頂に鎮座する磐座(ゴトビキ(ヒキガエル)岩 巨岩)に登り神に祈りを奉げ、根の国、熊野から甦る途を示し給えと神に祈った。天磐盾から望み見る熊野川は熊野の山々を切り裂いて白い帯びとなってゆったりと流れ天磐盾を迂回して海に注いでいた。
狭野命は熊野川が中つ国に至る道筋を指し示している様に感じた。この地こそ神の申された中つ国の南の地で有ろうと思い偵察の兵を出して流域を調べさせたが思いの他、流れは速く川を遡れないと解かった。
狭野命は熊野に分け入る道を求めて南を目指し、三輪埼(和歌山県新宮市三輪崎)を過ぎ佐野、宇久井と行軍し狗子ノ川(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)に至り、対岸を見るとこの辺りの豪族丹敷戸畔が陣を敷いて待ち構えていた。川を挟んで互いに矢を射掛け合い対峙していたが、狭野命の鉦の合図で盾を構え一斉に川を渡り丹敷戸畔に襲い掛かった。
丹敷戸畔も応戦し激しい戦が繰り広げられたが所詮、狭野命の敵ではなかった。じりじりと追い詰め包囲して皆殺しにした。誅せられた丹敷戸畔の一族郎党の血潮が海岸を赤く染め赤色の浜と呼ばれるようになった。
丹敷戸畔を誅した狭野命は丹敷戸畔の館に入り軍を留めてこの館を浜の宮(熊野三所大神社に頓宮跡の石碑有り 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)とした。
そして、狭野命は那智川を遡って熊野に分け入る道を探させた。立ち返った兵の報告で今までに見たことも無い大滝が有る事を知った。狭野命はその大滝こそ中つ国に向かう入り口であろうと思った。
季節は早、秋の七月になっていたが残暑は厳しかった。狭野命は数人の供を従え暑さも厭わず山に分け入り那智大滝を訪れた。山中を進み大滝に近づくと滝の音が聞こえ滝が風を呼び涼風が心地良かった。
仰ぎ見た大滝は磐を噛み轟々と大地を揺るがす唸りを上げていた。滝しぶきは水煙となって辺りを濡らし、霧雨の中に佇む如くであった。滝に近付いて仰ぎ見た大滝は天に昇る白い竜に見えた。
白竜は瀑風を吹き上げ、虹の輪を突き抜けて天に向っていた。滝の轟音は竜の唸りの如く轟き渡り他の全ての音を消し去って神々しく荒々しい神の化身であった。そして、大滝の滝つぼを見ると巌を貫き底知れぬ深淵を作っていた。
狭野命はこの地は神の坐す畏敬の地であると思った。眼前に迫る絶壁は中つ国に入る事を拒み、困難が立ちはだかっている事を神が示していた。滝の飛沫を全身に浴び一心に神に祈った。祈り終えた狭野命は山に上り中つ国の方角の北を望み見た。熊野の山が幾重にも折り重なって中つ国への道を阻んでいるが、この地(熊野那智大社)こそ神が示された中つ国に通じる道で有ろうと確信した。
浜の宮に立ち返った狭野命は直ちに山越えの準備に取り掛からせた。数日の後、手研耳命が猟師を浜の宮に連れ帰った。猟師は「北の果てに国が有ると話に聞くが中つ国に至る道は知らぬ、北に聳える山を越えその又次の山を越え幾つもの山を越えたその先に有ると聞く。しかし、果てしなく続く山に道は無くまして人も住まぬ、恐ろしい獣と魔物が棲むと言い伝えられており、山高くして谷深しとても山越えで中つ国を目指すは無謀で有る。」と申し述べた。
狭野命は猟師の話を聞き北の果てに国が有ると聞き一縷の望みを持った。如何に山高く谷深く魔物が棲んでいようとも神がお示しになった道を突き進もうと思った。
狭野命は猟師に案内を命じて軍を進発させたが天候が崩れ嵐となりやむなく浜の宮に引き揚げ、日を改めて中つ国に向かう事とした。
数日の後、高倉下が兵を引き連れ太刀を献上したいと狭野命に拝謁を願い出た。高倉下は熊野新宮に居を構え、尾鷲、熊野を支配する大豪族であった。自身は天神が天磐船に乗せて熊野に天降った末裔であると称していた。
高倉下も浜の宮に留まる狭野命を怪しんでいた。立ち去る気配も見せず様子をうかがっていたが、丹敷戸畔を打ち滅ぼしたと聞くに及んで戦の支度に掛かっていた。日の出と共に出撃すると兵に告げ床に就いた。その日の夜中に突然、大音声が響いた。何事かと立ち上がろうとしたが金縛りに合い全身が硬直して声も出ず動けなくなった。
漆黒の闇の中から神の声が聞こえた。天照大神と高皇産霊尊の二柱が夢枕に立って、「天神の御子が日向を発ち苦難の果てに中つ国を治めに熊野まで来たが難渋している。建御雷神を遣わそうと想ったが建御雷神が葦原の中つ国を平らげた剣を差し向ければ事は成就するでありましょうと申すので汝に剣を預ける。謹んで狭野命にこの剣を献上し、汝も御子に従え。」と申された。暫くして大音響と共に屋根を貫き床に剣が突き立っていた。高倉下は畏れ慄き夢心地で剣を引き抜いた。
狭野命に拝謁した高倉下は昨夜の不思議な出来事を話し神から預かった剣を奉った。狭野命は高倉下が持参した剣を見て驚きを隠せなかった。その剣は建御雷神が国を平定した布都御魂剣であり大いなる瑞兆の現れであった。剣を手にした狭野命は大和、即ち中つ国が豊葦原瑞穂国で有り神が大和を我に授けられたと思った。すぐさま祭壇を設え剣を供え神に祈り大和平定を確信した。この一事を聞き知った近隣の豪族は疑いを解き、先を争って狭野命の軍に続々と帰順した。
手研耳命が連れ帰った猟師が仲間の猟師を伴って現れ、その猟師の話では那智から熊野川の中流に抜ける道が有ると語った。狭野命は勇躍して猟師に案内を命じ軍に進発を告げた。
秋七月半ば、狭野命は浜の宮を出立し再び那智大滝に詣で猟師の案内で大雲取、小雲取越えの難路を踏みしめて熊野本宮大社の旧社地、大斎原の地を目指した。木々が残暑の強い日差しを遮り吹き抜ける風が心地良く暑さを運び去った。進むべき道を得た狭野命に難路も苦にはならなかった。
時には俄かに空が雲に覆われ激しい雷雨に見舞われる事も有った。稲妻が天を切り裂き、轟音と共に大木が火柱を上げて引き裂かれた。稲妻が走る度に生きた心地がしなかった。それでも狭野命は神の加護を信じ恐れる事なく軍を進めた。星を眺めて野に臥し、峠では重畳たる熊野の山並みを眺めて不安を覚えつつ急坂の上り下りを繰り返して熊野本宮大社の旧社地、大斎原の地に至った。
大斎原は熊野川と音無川それに岩田川が合流する中州に有り、その地は廻りを森に覆われ、森の中に広い草地が広がっていた。狭野命は軍を留め、進むべき道を探させたが猟師もこれより先の山を越えて進んだ事は無く道は定かで無かった。広い川原を進み道を探させたが流れの速い淵が行く手を阻んでいた。山は木々に覆われ下草を踏みしめ分け入ったが進むべき道は見つけられなかった。
為す術を無くした狭野命は大斎原の地に跪き神の降臨を願い一心に祈った。神に進むべき道を問い、神の加護を乞うた。目を閉じ祈る内にそのまま神に誘われて眠ってしまった。そして、狭野命は夢を見た。夢の中で高皇産霊尊が現れ八咫烏(高皇産霊尊の曾孫、賀茂建角身命の化身で鴨県主の祖)を道案内に遣わすと告げた。
翌日の早朝、熊の毛皮を纏い剣を帯び、眼光が酸漿の如く赤く眼が鋭い大男が立ち現れた。神の使いと称し狭野命に拝謁を願い出た。謁見した狭野命が名を問うと八咫烏と名乗った。狭野命は神のお告げのとおり八咫烏が現れ気が動転するほど驚き、日臣命(大伴氏の始祖)を召して「瑞夢に適っている、中つ国は近い。」と申された。そして、日臣命と大久米命(久米氏の祖)に八咫烏の先導で直ちに軍を進発せよと命じられた。
日臣命も大久米命も共に天孫に付き従って天降った天忍日命と天津久米命の末裔で有り代々兵を預り狭野命を守護する任にあった。日臣命は大久米命を従えて八咫烏の先導で熊野の山に分け入った。
八咫烏は熊野川を渡渉して対岸に渡り七越山に向かった。七越山から尾根筋を踏み分け、兵が藪を切り開いて一筋の道を作り吹越峠、山在峠を越え五大尊岳の稜線の危険な道を進み、大森山を越えて玉置山(一〇七六m)に至り宿営した。
翌朝の夜明け前、少し風が出そうな雲行きであったが狭野命は数人の臣と共に山頂を目指した。月明かりも鬱蒼とした木々に覆われ、漆黒の深い闇が続いていた。松明の明かりを頼りに岩を踏みしめ倒木を跨ぎ、枝を払って山頂を目指した。時々、遠くに狼の遠吠えが聞こえ、物音と松明の火に驚いた獣が笹の葉音をたてて藪の中に逃げ去った。松明の光を受けて木々が不気味な影を作った。
一陣の風と共に影は蠢き木々の擦れ合う音が物の怪の叫び声の如く聞こえた。闇の中に鹿の目が青く光りじっと此方を窺っていた。目を凝らすと其処此処に鹿の青い目が見えた。
狭野命は山上近くの沢に入り、口をすすぎ汚れた躯を拭って身を浄めた。水は冷たく肌を刺し見る見る肌は紅に染まった。禊を終えた狭野命は岩を踏みしめ山頂に至った。薄明かりの中に星が瞬いていた。
夜明け前の冷気が山を包みいつの間にか霧が辺りを覆った。衣服もしっとりと濡れ寒さが身を包んだ。東の空がうっすらと白み始め、黒々とした山の谷間から真っ白な霧が沸き立っているのが見えた。見渡せば雲海が広がり山々の頂は海に浮かぶ小島の様に見えた。雲海の先に熊野灘が見え地平に引かれた赤い一筋の光が天と海を分けた。狭野命は祭壇を設え日の出を待った。
地平が一層赤く染まり旭日が海の中から姿を顕した。旭日は透き通る様な白い光を放ち何者も映し出す鏡の様な輝きを放った。狭野命は日の神に祈りを奉げ、戦勝を祈願して山頂に神宝の玉を鎮めた。
玉置山を後にした八咫烏は大峰の奥駈け道に足を踏み入れた。それは峯々を辿る苦難の道であった。兵は八咫烏の辿った跡の藪を切り開き、邪魔な枝を斬り落とし、踏み固めて道を作った。時には大石を動かし、倒木を片付けて道を作り湿地では木を切り倒して橋とした。
夜は狼の遠吠えが聞こえ、闇の中に鹿の目が光った。雨に打たれ数日足止めされた事も有った。切り立った崖に行手を阻まれ迂回する道もなく梯子を掛けて崖を上り、木の根を掴んで這い登った事も有った。
それでも狭野命は八咫烏に導かれ大峰の峯々で行軍の無事を神に祈り、行仙岳(一二二七m)、涅槃岳(一三七六m)、を過ぎ大日岳(一五二一m)の危険な岩場で苦しみ釈迦ヶ岳(一八〇〇m)を越え、孔雀岳(一七九九m)の険しい岩場に身を竦ませて仏生ヶ岳(一八〇五m)、八経ヶ岳(一九一五m)、弥山(一八九五m)と行軍を続けた。
弥山から行者還岳(一五四七m)、大普賢岳(一七八〇m)、山上ヶ岳(一七一九m)を経て大天井ヶ岳(一四三九m)との鞍部、五番関から高原川に沿って山を下り大天井滝(落差四〇m)から吉野川上流の丹生川上神社上社(奈良県吉野郡川上村大字追)の地に至った。
熊野、那智を出立しておよそ一ヶ月、藪を切り開いて道を作り山中で野営を重ね、喉の渇きに堪え、急峻な登り降りに苦しみ、木の根に縋って岩場を越える壮絶な山越えの末にやっと熊野の山を抜け出し吉野の地に辿り着いた。兵は棘に衣は裂かれ、腕や手は傷つき血を滲ませていた。
狭野命は神の啓示によって無事吉野に辿り着けたのは神の加護の御蔭であるとこの地に祭壇を設えて天神地祇を祀り、これからの戦勝を祈願した。
吉野の里人は突然山中から数千の兵が姿を現し驚いて豪族に知らせた。豪族は大軍を見て驚き噂は一気に近隣に聞こえた。
井光(奈良県吉野郡川上村井光 井光神社)の豪族、井氷鹿も噂を聞き、熊野の山塊を踏み越え苦難の行軍を成し遂げた狭野命に感嘆し、真に神の御子であろうと狭野命に従う事を願い出た。
井氷鹿は天神の御子が熊野の山を押し分け吉野に降り立ったと先触れを出し吉野の豪族に帰順を促し、東征軍の道案内を務めた。吉野国巣(奈良県吉野郡吉野町国栖)に至り、土地の豪族石押分之子の出迎えを受けた。
石押分之子は「天神の御子が中つ国を目指してこの地に向かったと聞き及びお迎えに参上した次第、是非、兵の一人にお加え願いたい。」と一族を引き連れ狭野命に願い出た。
吉野国巣にしばらく留まって居ると阿陀(奈良県五條市阿田)の豪族、贄持之子も狭野命の噂を聞き参上して軍に加わる事を願い出た。
東征軍は石押分之子の先導を得て伊勢街道、榛原街道を進軍し佐倉峠を越えて宇陀の穿(奈良県宇陀郡莵田野町宇賀志)に至り日臣命は軍を留めて狭野命の到着を待った。
狭野命は苦難の果てに神のお告げ通り南から中つ国を攻める地に足を踏み入れ感に堪えなかった。神に祈りを奉げ、神が遣わした鬼人の如き八咫烏の先導を褒め称え、道を切り開いた日臣命の功績を称え、この功を後々も忘れぬ為に名を道臣命と改めよと命じた。そして、狭野命は暫し宇陀の穿に軍を留めて兵に休息を与え、吉野、宇陀の豪族に帰順を促す使者を遣わした。