皇位争乱
第一話 神武東征
孔舎衛坂の戦
春二月十一日(西暦五八年)、狭野命は吉備の兵を加え、岐備津彦に見送られて東を目指して船出した。帆は風を孕み、静かな波間を進み風待ち、潮待ちの湊、牛窓に停泊した。翌朝、雲行きが怪しかったが次の寄港地、播磨灘に面した室津(兵庫県たつの市御津町室津)を目指して出帆した。
しかし、午後から風が強くなり嵐となった。船団は沖合に流されやむなく嵐を避けて胞島に避難した。尾崎鼻と天神鼻が天然の防波堤となり湾内に入るとウソの様に波静かであった。狭野命が「まるで家の中に居る様だ。」と仰せられこの島を家島と呼ぶ事になった。
数日、家島に留まり、嵐も静まったので吉備の東縁、氷川(加古川)の河口を目指して出帆した船団は順風満帆、快適に播磨灘を航行して氷川の津(兵庫県加古川河口 高砂市)に停泊し、翌日は明石川の河口、藤江の浦に停泊した。
饒速日命の東遷に随行した針間(播磨)の豪族、播麻は藤江の浦に停泊した大船団を見てこの船団が話に聞く狭野命の東征の軍であろうと思ったが余りの大軍に恐れをなし戦を仕掛ける事も出来なかった。昼夜を分かたず監視の兵を置き、急ぎ早馬を仕立てて凡その兵力を大和に報せた。
五瀬命は速吸瀬戸(明石海峡)の早瀬を控え、兵を休ませた。狩りを行い糧食の補充にも努め、藤江の浦で数日、時を過ごした。狭野命は良き日を選び船霊に航海の安全を祈り、五瀬命は潮の流れが西から東に変わる引き潮を待った。潮見の兵から潮の流れが変わったとの合図を受け五瀬命は船団に出帆の命を下した。
船団は椎根津彦の操船に運命を託して早瀬に漕ぎ出した。海は三角の波頭を見せこれからの船旅に牙を向けた。
速吸瀬戸に差し掛かると船は急に速い潮の流れの中に押し出された。潮に揉まれ波涛が舳先を襲い船は大波を被った。船は波のうねりに翻弄され前後左右に大きく傾ぎその度に船体が軋む音を響かせた。波頭から奈落の底に向かうが如く波間に落ちると眼前に大波が立ち塞がり船を飲み込む様に迫った。風が飛沫を巻き上げ容赦無く兵の体を濡らした。春とは云へ濡れた体を潮風に晒し寒さが体の芯まで冷やした。兵の誰一人として言葉を発せず何かにしがみついて早瀬を過ぎるのを待った。船団を率いる椎根津彦は巧みに難所を避けて航路を選び舸子を指揮して舵を取らせ早瀬を恐れる風は微塵も見せなかった。
船団は一筋の帯となって速吸瀬戸を突き進んだ。早瀬を乗り切ると波は静けさを取り戻した。五瀬命は和田の岬に抱かれた天然の良港、務古水門(神戸市兵庫区)で船団を留め椎根津彦と舸子をねぎらい暫し兵を休めた。再び船を出して住吉川の河口(神戸市東灘区)に至り潮の流れが東から西に変わる満潮となったので五瀬命は潮待ちの為に船団を留めた。
狭野命は椎根津彦を伴って背後の保久良山(保久良神社 祭神 椎根津彦 神戸市東灘区)に登りこれから向かう茅渟海(大阪湾)を臨み見た。海を隔てた先に生駒の山並みが指呼の内に見え淀川が白い一筋の帯となって海に注いでいた。山頂から見下ろす海は凪ぎ春の日差しが眩しく感じられた。木々も冬の寒さに堪え春の陽射しを浴びて芽吹きが近い事を風が報せていた。
狭野命は山腹の磐座に祭壇を設へ神に海路の安全と中つ国との戦の勝利を祈った。祈り終えて海を眺めると一筋の潮が現れた。
五瀬命は潮見の兵から潮が変わったとの知らせを受け直ちに船出を命じその潮に乗って船団を進めた。船は潮に乗り思いの外、早く難波津(現在の大阪城近辺)に着いたので狭野命は此の地を浪速と名付けた。
生駒山の物見の兵は難波津に押し寄せる大船団を見て狼煙を上げた。長髓彦は狼煙が上がったとの知らせを受け饒速日命と共に生駒山の狼煙を見た。そして、早馬を走らせ諸将に「東征の軍が難波津に押し寄せた。いよいよ決戦の時が迫った。手筈通り迎え撃て。」と命を下した。
五瀬命も生駒山に上がった狼煙を見て陸の様子を窺がいながら波の穏やかな河内湖を航行し戊午の年(西暦五八年)の春三月十日、河内国、草香(大阪府東大阪市日下町)の白肩津に碇を降ろした。
この頃の大阪湾は上町台地が岬のように突き出ていてその内側に淀川、大和川が流れ込み大きな河内湖を形成し湖面は生駒山麓まで広がっていた。
五瀬命は警戒を怠らず上陸し直ちに布陣して敵の来襲に備えたが大軍を見て恐れをなしたのか敵兵の姿は見えなかった。上陸した白肩津は辺り一面に春の香りが匂い立ち、湖面のさざなみがきらきらと光り輝き岸辺の木々は新緑を萌え立たせていた。狭野命は穏やかな春の日差しを浴び、湖面を吹き抜けるさわやかな風を感じ船旅に疲れた体を癒した。
翌日、五瀬命は兵に命じて大和に向かう道を探させた。兵が数名の猟師を連れ帰ったので五瀬命は猟師に大和に向う道を問いただした。猟師は「生駒越えの道と竜田道(大和川沿いの街道)が有り、大和は饒速日命が盟主と仰がれている。東征の軍が押し寄せたと知り鳥見(奈良県生駒市白庭台)の豪族、長髓彦が孔舎衛坂に布陣し、竜田道には外山(奈良県桜井市外山)の豪族、兄師木、弟師木の兄弟が布陣している。」と告げた。
五瀬命は猟師から饒速日命の名を聞き塩土翁が中つ国は饒速日命が治めていると云った言葉を思い出し中つ国とは大和の事であったと確信した。そして、進むべき道を探るために偵察部隊を編成し生駒越えの道と竜田道(大和川沿いの街道)を探らせた。
竜田道には兄師木が築いた環壕と柵が巡らされていた。到る所に兵が伏せ奇襲を仕掛けて偵察部隊の進軍を阻んだ。狭隘な道には柵と大石が道を塞ぎ、砦から盛んに矢を射掛けられた。偵察部隊は砦に攻め掛かったが砦に拠る兄師木、弟師木の兄弟に翻弄された。
砦は川沿いの狭隘な地に築かれており、攻めかかっても深い壕に阻まれ櫓から矢を雨の様に射掛けられ備えは固く進軍を阻まれた。攻めあぐねた竜田道の偵察部隊は諦めて草香に立ち返り、竜田道は柵と環壕が連なり狭隘な地には砦が築かれ地形的にも大軍を動かすには適さ無いと報じた。
生駒山山越えの道、日下越えを偵察した部隊が立ち返り、街道に柵が設けられているが打ち壊すのは容易く進軍に支障はない。孔舎衛坂(日下之直越道)に大和の豪族が布陣して待ち受けているのが見えたと報告した。偵察部隊の報告を聞いた五瀬命と稲飯命は我らを孔舎衛坂に誘き寄せる作戦であろうと看破したが他に取るべき道は無かった。
夏四月九日、五瀬命は敵の術中に嵌まる事を承知の上で生駒の山越えの道、孔舎衛坂に向かって進軍した。
河内の豪族は全軍が進発したのを確かめ生駒山の物見の兵に報せる狼煙を上げた。この狼煙を見た生駒山の物見の兵は長髓彦に報せるべく狼煙を上げた。長髓彦はこの狼煙を見て目論見通り東征軍は日下越えの道を選び生駒の孔舎衛坂に向かうであろうと確信し戦闘の準備を命じた。
一方、狭野命は草香を出立して狼煙が上がるのを見たが抵抗らしい抵抗も受けず進軍し、吉備で聞き知った状況と異なる対応に少しばかり不安を抱いていた。数百隻の軍船が押し寄せた事にも驚かず、恭順の意を示す使者も遣さず、かといって豪族の来襲も無い。不気味な対応に一抹の不安を覚えたが軍を留める些かの理由もない。気掛かりと云えば東征の最後の仕上げとなる戦を前に瑞兆が現れない事であった。
瑞兆が現れないのは不吉を知らす警鐘であろうかとも疑ったが三人の兄に疑念は語らず、様々な雑念を払拭して軍を進めた。竜田道の偵察部隊を襲った敵兵は何処に消えたのか、疑念は去らなかったが大軍を擁しこれからの戦を楽観していた。孔舎衛坂に拠る兵も寡少で有ろう、大軍を利して一気呵成に攻めかかれば大和の豪族も怖れをなし逃げ散るであろう。一撃で殲滅して中つ国に雪崩れ込めば大和の豪族も膝を屈し帰順するで有ろうと思った。
長髓彦は東征軍が孔舎衛坂を目指し進路を変える気配も見せないのを見て取り、街道の隘路に準備していた柵で道を塞ぎ、山間に兵を伏せ、道に稲藁を積んで火を掛ける準備をさせた。
東征軍の兵は河内で戦闘を予想し意気込んで上陸したが河内の兵は逃げ散り、戦に成らず軍の緊張の糸は切れ、兵は大和を見縊っていた。警戒は緩み無防備に孔舎衛坂を目指し進軍した。東征軍が林間に入ると林の奥に伏せた長髓彦の兵が矢を射掛けた。数名の兵が射抜かれ軍に緊張が走り直ちに戦闘態勢を取ったが敵兵の姿は見えなかった。
五瀬命は軍を留め、兵を出して探索させたが何処にも敵兵の姿は無かった。再び軍を進めると道の前方が柵で塞がれていた。敵の伏兵を用心し探索の兵を出し調べさせたが何処にも敵兵の姿は無かった。緊張の中で柵を壊し、軍を進めると行く手にうずたかく稲藁が積み上げられているのが見えた。再び軍を留め敵の出方を待ち、林間に探索の兵を出したがやはり敵兵の姿は無かった。
五瀬命は長髓彦が何か策を巡らしていると感じた。行く手は静まりかえり兵を伏せている気配は感じなかった。稲藁を前に警戒を強め、暫し時が過ぎた。風が木々を揺らす葉音の他、何の物音も聞こえなかった。何事も無く時が過ぎ、兵の緊張も解けざわついた時、突然何処からとも無く火矢が飛来し稲藁が燃え上がった。軍に緊張が走り敵兵に備えた。しかし、二の矢は飛来せず稲藁が燃え尽きるまで軍に不安が走った。
稲藁は進軍を妨げる如く間隔を置いて積み上げられていた。兵の気配は無く稲藁に近づくと火の手が上がった。その都度、周囲を警戒し燃え尽きるまで待って兵を進め、軍の速度は一層遅くなった。突然、空から矢を射掛けられ戦闘態勢を取ると飛矢は止み元の静けさに戻った。度々、伏兵に矢を射掛けられ兵は不安の中で先を急いだ。偵察の兵を出し先を探らせたが伏兵の所在は掴めなかった。
五瀬命は長髓彦が何処に兵を伏せているか解らず不安の中で軍を進めた。長髓彦は巧妙に兵を伏せ、稲藁が燃える煙で東征軍の位置を知り孔舎衛坂で迎え撃つ態勢を整えていた。
五瀬命は敵が策を弄して行軍を妨げる事に不安を覚え、軍を留めて諸将を集め軍議を開いて取るべき道を諮った。
稲飯命が意見を申し述べた。「道を柵で塞ぎ、稲藁に火を放ち、時たま矢が飛来したが今まで一度も大規模な伏兵の攻撃を受けていない。又、此れ迄通過した河内の道にも柵は有り稲藁が燃えた。そして河内の豪族は戦らしい戦も仕掛けず我らを通した。策を弄し我らを混乱に導き士気が衰える事を願っているに過ぎぬ。草香で激戦を予想したが河内の豪族は大軍に恐れをなし戦を仕掛けて来なかった。長髓彦も大和の豪族の一人に過ぎぬ、我が地を守る為に、山に拠るのみ、このまま軍を進め大軍を利して一気に峠を攻めれば退散するであろう。」諸将の意見も概ね同じであった。
五瀬命は何か策を廻らしていると感じたが諸将の意見を入れて軍を進めた。林間から孔舎衛坂で待ち構える長髓彦の陣が見えた。やはり、一族のみで布陣しているのか陣に拠る兵は寡兵に見えた。
狭野命も敵陣を臨み見て今までの不安は思い過ごしであった。この程度の陣なら策を弄せず大軍を以って一気に攻め掛かれば敵は恐れをなして逃げ散るであろうと思った。
初戦で一気に攻め潰せば大和の豪族も我らを恐れ帰順するであろう。五瀬命、稲飯命、三毛入野命がそれぞれ軍を率い三手に別れて攻め上る事とした。狭野命の皇子、手研耳命も兵を授けられ五瀬命の軍に加わった。東征軍は喊声(ときの声)を上げ、大軍を以て孔舎衛坂に攻め上った。
長髓彦はこの時を待っていた。東征軍来たるの報に接して以来、孔舎衛坂に砦を築き待ち構えていた。石垣を築き、櫓を組み、弓矢を蓄え、糧食も水も充分に蓄えた。攻め上る敵兵から味方の兵は見えず、下からは山上に拠る兵の数は計り難く、寡兵に見えた。坂のあちこちに仕掛けも施した。坂に落とす、大石、大木も大量に準備した。
兵の士気も高く東征の軍に負ける氣はしなかった。日向の山猿に大和の兵の強さを示し、二度と攻め入る気持ちを起こさせぬ程に壊滅的な打撃を与え大和の怖さを知らしめてやると練りに練った作戦であった。今、東征の軍が孔舎衛坂の陣に攻め上って来た。
長髓彦の兵は慌てる事も無く、静かに敵兵を見据えた。兵の訓練は行き届いており、兵は弓に矢を番え攻撃の命を待った。長髓彦は攻め上る東征軍を充分に引き付け、櫓に登らせた兵に射程に入ってから矢を射る事を命じた。
五瀬命は山上を見上げても寡兵の姿しか見えず、静まり返った敵陣を望み見て、一気に攻め上れると侮った。まず波状攻撃の第一陣として稲飯命が兵を率い喊声と共に剣を抜きはなって山上を目指した。山上からは何の反応もなく、無人の砦の如くであった。兵も侮り緊張を解いて一斉に先を争い駈け上った。
突然、山の空気を切り裂く弓弦の音がして空から雨の様に矢が降り注いだ。避ける事も出来ず次々に兵は射殺された。楯を構え、なを敵陣を目指した。
長髓彦は登り来る敵兵に大石を落す事を命じた。大石を厚く藁で覆い転がる様に縄で縛った。その大石を坂に据え火をつけて坂に落した。大石は炎を吹き上げ火の粉を飛ばして猛烈な勢いで斜面を転げ落ちた。稲飯命が率いる兵は炎を吹き上げて迫る大石に追われ我先にと坂を駆け下った。
三毛入野命は稲飯命の軍が大石を落とされ混乱して多数の兵が逃げ戻っているのを知らず波状攻撃の第二陣を率いて攻め上った。戦場から喊声が響き渡り兵は功を焦って我先に駆け上った。
突然、喚声と共に数百の兵が剣を翳して駆け下るのが見えた。戦に競い立ち血走った兵は眼前の兵が自軍の敗走の兵とは思いもよらず敵の来襲と信じ一斉に矢を射掛けた。なを駆け下る兵を見て初めて自軍の兵である事を知った。
三毛入野命は鉦を打ち鳴らして止まれと命じたが敗走する兵は突き進んで来た。逃げ戻る兵と攻め上る兵と揉み合となった。そこに地鳴りの様な地響きと共に火の付いた大石が次々に襲ってきた。逃げ場を失った兵は大石の下敷きと為り、跳ね飛ばされ、火傷を負い、多数の死傷者を出して敗退した。
稲飯命は軍を立て直し再度攻め上ったが矢を射かけられ、大木を落とされ、陣に迫る事も出来ず兵を引かざるを得なかった。数度に亘り攻めたが山上の陣を突き崩せなかった。
五瀬命も兵を率いて攻めかかり、戦の最中、不覚にも流れ矢を受け肘に矢傷を負った。矢を引き抜き、衣の裾を引き裂いて傷口を縛り戦い続けたが奮戦も空しく、敵の激しい攻撃に合い次々に兵は倒れ砦に近寄る事も出来なかった。
狭野命は櫓の上から攻めあぐね後退を繰り返す自軍を遠望し一旦、兵を引く鉦を打ち鳴らした。死者は数知れず、負傷した兵も多数に上った。軍議を開き攻める道を探ったが有効な手段は思いつかなかった。
砦に拠る兵を攻めるには三倍の兵力と砦の弱点を見つけなければ落とす事は叶わなかった。数日に亘り攻めたが敵兵の数はおろか、砦の弱点も見いだせなかった。敵は櫓の上、石垣の間から矢を放ち、東征軍は見えない敵に闇雲に矢を放った。砦に近づく事も叶わず、敵と直接、剣を交える事も無く撃退された。
五瀬命は思いの外、手強い反撃に遭い屈辱的な撤退を繰り返し、攻めあぐねた。兵の優劣ではなく、地形を制した長髓彦に翻弄された戦であり怒りは収まらなかった。しかし、兵の損傷が大きくこのまま戦を仕掛けても砦を落とせる見込みは望め無かった。
一方、長髓彦の軍に損傷は無く、敵軍が兵を引いた後も勝ち戦に驕りは無く、次ぎの戦の準備に取り掛かっていた。矢も石も大木も充分に有り、兵の士気は高く砦は堅固であった。
長髓彦の思惑通り東征軍は攻めあぐね一旦、兵を引いた。しかし、小康の後、総力を挙げて攻め来るであろうと思った。戦局が硬直した今、河内の兵に背後を襲わせ敵の動揺を誘う潮時と見て狼煙を上げよと命じた。
草香を発した東征軍に対し、河内の豪族はたいした抵抗もせず軍をやり過ごした。道を柵で塞ぎ、稲藁に火を掛け、行軍を鈍らせ、伏兵の脅しを掛けたに過ぎなかった。東征軍は大和の兵を見くびり安易に孔舎衛坂を攻めた。戦いで多数の兵を喪い、船を守る草香の兵を呼び寄せたと聞く、草香の守りは薄くなった。今、背後を守る草香の水軍に奇襲を掛けて退路を絶てば軍を返すであろう。
草香に留まる水軍は今まで戦らしい戦も無く、周辺の豪族は東征軍を畏れ帰順したかに見えた。戦場の緊張感は失せ、進発した五瀬命の戦を楽観していた。
河内の豪族は今や遅しと待ち構えていた狼煙が上がり、直ちに兵を集めた。天櫛玉尊に率いられた河内の豪族は時を置かず直ちに草香に留まる軍に奇襲を掛けた。
草香に留まる東征軍は突然の来襲に驚き軍装を整える間も無く攻め立てられ、防ぎきれず船に逃れ始めた。一方、天香具山尊の率いる一隊は小舟を仕立て静かに湖面を進み草香の戦の喊声を合図に白肩津に係留する軍船を襲った。一斉に火矢を放って炎上させた。数隻の船が燃え上がり他の船に燃え移るほど火炎は盛んとなった。陸で戦う兵は燃え上がる船を見て慌てて戦闘を止め船に急いだ。碇を揚げ、船を出した。
狭野命の元にも草香の水軍が奇襲を受けたとの報せが入った。数隻の船が焼かれこれ以上留まると兵も船も甚大な損害を受ける恐れが有り、一旦、難波津に向かうと知らせて来た。船が去れば草香を襲った軍が孔舎衛坂を目指して攻め上るで有ろう。
兵は背後から襲われる事を怖れ一斉に退却を始め大混乱に陥るであろう。草香に撤退して軍を立て直しても兵は長髓彦を怖れて、士気は萎え、御旗は進まないであろう。
中つ国を目の前にして屈辱的な敗北が脳裏に浮かんだ。我が軍が敗れる筈がない、東征の旅は神が命じられた。狭野命は神に逆らった行いが無かったか過去を振り返って見た。瑞兆が無く、攻めを急いだ事が悔やまれた。天罰が下ったのか五瀬命は肘に矢傷を負い、それが元で高熱を発し伏せている。この戦は神意に叶う戦ではなかった。狭野命は祭壇を設え諸皇子と共に神意を伺う占いを行い瞑想して神意を待った。
神の声が遠くから聞こえ、神は告げた。「狭野命は日の神の子である。日に向かって攻めるは、自らを攻めるに等しい、日を後背に受け日の神の加護を得て、敵に向かえば、敵兵は散り散りに散じ御旗を進める事が出来る。」
狭野命は神のお告げを聞いて自らの不徳を恥じた。草香の白肩津で神のご指示を仰ぐべきであった。多数の兵を死なせ、五瀬命は傷つき、多数の船も失った。はやる心を押さえられず大和を侮った己を恥じた。天罰が降った事を知り我が為に死んで逝った兵に救いあらん事を神に祈った。
そして、三人の兄に神のお告げを語り「神が向背に日を受けて攻めよと申されたのは南から攻めよとの啓示であろう、すぐさま軍を返し、船を南に回し南から攻める事としたい。」三人の兄も神のお告げを信じ急ぎ軍を草香に返す事とした。
将士は狭野命の突然の命に戸惑いを隠せなかった。今まで数々の戦を闘い抜いたがこの様な屈辱的な撤退を経験した例はなかった。多数の兵を死なせ苦戦を繰り返し、攻めあぐねているとは云へ敗北を喫したわけでもない。山上の敵を攻める難しさは百も承知しており戦はこれからで有ると思っていた。我が軍は大軍を擁しており昼夜を問わず波状攻撃を掛ければ敵は疲弊し戦は勝利すると信じていた。しかし、狭野命は突然、草香に兵を返せと命じた。
形勢は一気に逆転し敵はこの機を逃さず一気呵成に追撃してくるで有ろう、敵に悟られる事無く撤退する事は不可能であった。腹背に迫る敵に不安を怯えつつ兵は草香に急いだ。
長髓彦は戦が小康を保った後、敵が突然慌ただしい動きを見せ、兵を引き始めたのを怪しみ、偵察の兵を出し動きを探らせた。兵の報告では何故か突然撤退を始めたと告げた。
長髓彦は東征の軍と死闘を繰り返すであろうと思い大和の総力を挙げて孔舎衛坂に布陣した。東征軍がこの程度の戦で易々と撤退するとは信じられなかった。戦は緒戦に勝利したに過ぎないと思っていた。峠に布陣し戦を有利に進めていたとは云え、守るのが精一杯で激戦はこれからであろうと覚悟を定めていた。
阿岐、吉備の戦を聞き知っている長髓彦は東征の軍を孔舎衛坂に引き付け何とか持久戦に持ち込む作戦であった。対峙が長引けば戦局を睨んで河内の兵に背後を襲わせ戦線を拡大して泥沼の戦になれば狭野命も苦境に立ち戦局は傾くかも知れぬと思っていた。狭野命が撤退したのは草香を攻めた陽動作戦が功を奏したとは思えなかった。
孔舎衛坂の戦は拮抗しており狭野命が兵を引く理由が思い当たらなかった。予想もしていない敵の撤退に何か作戦が有ると感じた。撤退と見せかけ追撃の兵を誘い、孔舎衛坂から兵を引き摺り下ろし反転して攻め上るのではないかと疑った。
長髓彦は狭野命の策謀を恐れ用心して追撃の兵を出さずしばらく敵の出方を探った。再び偵察の兵を出し、敵軍の向かう先を探らせた。しかし、次々に戻った偵察の兵の報告は全て、草香を目指し撤退しているとの事であった。
兵を引き、狭野命は何処に向うのか、急ぎ探らねばならない、どの街道に向うのか思い巡らしたが思い付かなかった。長髓彦は狭野命の魂胆が読めず、不安を感じつつ意を決して追撃の兵を出した。しかし、決断は時を逸し狭野命の本隊は遠くに去った後で有った。
河内の兵も予期せぬ東征軍の撤退に驚き兵を引いた。東征軍は大した損傷も無く草香に還り着き、船団を呼び戻し直ちに碇を上げ帆を張って草香の白肩津を発ち、難波津から針路を南に取り船団を進めた。
長髓彦は狭野命の撤退の理由が解らず何処を目指すか気掛かりであった。北を目指し淀川を遡って宇治から攻めて来るのか、南に向かい紀ノ川を遡って吉野から攻めて来るのか、諦めて播磨、吉備に向かうのか、一度は撃退したが再度攻め来る事は明白であった。
南に向かったとの報せを受け、宇陀の豪族、兄宇迦斯と桜井の豪族、兄師木と八十梟帥に「狭野命が紀ノ川を遡り吉野を目指すかも知れぬ川筋の防備を固めよ。」と命じた。兄宇迦斯と八十梟帥は吉野に兵を差し向け狭野命の来襲に備えて川筋の狭隘な地に砦を築き防備を固めた。