皇位争乱
第三話 崇神天皇
印恵命の東征
饒速日命(物部の祖)が狭野命に大和を明け渡し、即位して神武天皇となったが大和を支配していた物部の力が喪失したわけではなかった。むしろ支配の構造が変わり帝の外戚となった豪族か、帝の絶大な信任を得た豪族が朝廷の実権を握った。それ故、実権を握る最も有力な手段である外戚の地位を獲得する為に有力な豪族は権謀術策を駆使し、太子と姻戚を結ぶ陰湿な争いを繰り広げた。
二代綏靖、三代安寧の頃は物部が外戚の地位に有り権力を握っていたが四代懿徳天皇は葛城の豪族、奥津余曾(尾張連祖)を重用して物部と競わせた。
奥津余曾の遠祖は熊野新宮の豪族、高倉下で物部の一族であったが大和を裏切り神武天皇に味方した。この一事を根に持つ物部は奥津余曾を冷遇してきた。
懿徳天皇が太子を定めるに際し奥津余曾は帝の意を汲み、物部が推す多芸志比古に反対して観松彦香殖稲命(後の孝昭天皇)を推した。こうして観松彦香殖稲命が太子となり帝と太子の信任を得た奥津余曾は物部を失脚させた。
懿徳二十七年(西暦一五六年)秋九月、帝が崩御し太子は先帝を畝傍山南繊沙渓上陵(奈良県橿原市西池尻町)に葬り懿徳天皇の謚を奉った。
そして翌年の春一月、太子の観松彦香殖稲命が即位して五代孝昭天皇となられ都を掖上池心宮(奈良県御所市池之内)に遷した。
帝は奥津余曾の功績に報い妹の世襲足媛を后とし、世襲足媛が生んだ日本足彦国押人命(六代孝安天皇)を太子としたので奥津余曾は五代孝昭、六代孝安と二代続けて権力の座を握り、その地位は揺るがなかった。
しかし、七代孝霊天皇は磯城県主大目(弟師木の子孫)の娘、細媛を后とした。そして外戚の地位を得た豪族の専横を封じ、他の有力豪族との絆を強める為に后の外に三人の妃を召し、后妃の先鞭をつけた。
細媛も大目の期待に応えて皇子を生み、帝は皇子が十九歳になった時、太子とした。こうして磯城県主大目の地位は孫の大日本根子彦国牽命(八代考元天皇)が太子に就き盤石となった。一方、物部は奥津余曾に追い落とされて早、七十年の歳月が流れ、この間、物部は大連の名誉を保って朝政に参画していたが政に口を挟む事はなかった。
物部が失脚した後も歴代の帝は物部の復権を怖れ物部一族から后妃を召さなかった。しかし、時が流れ古の物部の権勢を知る者はすでに没し、まして太子が古の物部を知る由もなかった。
太子も帝が妃を召して豪族と姻戚を結び大和の支配を強める政策を見て、妃を召す事を思い立った。朝臣の噂から大和に聞こえた美貌の媛、内色許売に興味を覚えた。太子は是非一目会いたいと思い媛の出自を調べさせたところ、物部一族の内色許男の妹であった。太子は物部一族の媛と解り朝廷に出仕した物部大連に引き合わせる事を頼んだ。
物部大連は奥津余曾と磯城県主大目に握られていた朝廷の実権を奪い返す好機が到来したと感じた。一族の内色許男に太子の意向を伝え、「近々、宴を催し太子を我が館にお招きする。その時は是非、内色許売を伴って参上せよ。」と命じた。
物部大連は吉日を選び太子の館に伺候して我が館で宴を催す故、是非とも来駕賜りたいと奏上した。太子は物部が執り計らった事を察し物部の館を訪れる事を承知された。
その日は物部一族の主立った者を招き、それぞれ媛を伴い物部大連の館に参集した。内色許男も内色許売を伴い館を訪れた。待つほどに太子が来駕し一同でお迎えし太子が席に着くと酒肴が運ばれ宴が華やかに繰り広げられた。
物部大連は頃合いを見計らい内色許男と内色許売を伴い御前に伺候した。内色許売は恐れ多い事として平伏して身じろぎもしなかった。太子は噂に高い媛の顔を一目見たいと望んだが媛は平伏して顔を上げなかった。
物部大連は太子の気持ちを察し内色許売を促して太子に酌を申し付けた。太子は膝立ちになって酌をする媛を一目見てその美しさに心を奪われた。
物部大連は宴の翌朝、内色許男の館を訪れ一族の復権の為に内色許売を太子に奉れと命じ、二人は今後の策を語り合った。
太子は物部大連の館の宴で会った内色許売が忘れられず今一度会って見たいと思った。口実を設けて物部大連を召し、よもやまの話の後に内色許売が懐かしく今一度会って見たいと仰せられた。
物部大連は内色許売をお召頂ければ家の誉れであると太子に篤く礼を申し述べ、館に帰り内色許男に予想通り太子は内色許売を望んでいると告げ、二人はいずれ外戚と為って権力を握る絶好の機会が訪れたと喜びを隠さなかった。
太子は内色許売を召し出し、何れ帝位に上れば后とし、生まれた御子を太子に立てると物部に約した。物部は上機嫌で館に帰り内色許男に太子が約した事を話し、事は成ったと祝杯を上げた。
そして、太子の為に館を新築し内色許売を住まわせた。太子は毎夜、館に通い内色許売の虜となり妃として召し出した。
太子の妃となった内色許売は物部の期待に応え、長子の大毘古と次子の日本根子彦大日日尊(九代開化天皇)をお生みになった。御子を得た物部は太子が帝位に就く事を待ち望んだ。
他方、河内の豪族、河内青玉も帝が豪族の姫を妃に召しだし豪族が威を張っているのを目の当たりにして太子に近づいた。太子も帝の孝霊天皇に倣い豪族と誼を通じる事を厭わなかった。
河内青玉は河内で聞こえた美貌の娘、埴安媛を太子の妃に差し出し、姻戚を結んで好機の到来を待ち望んだ。埴安媛も河内青玉の期待に応えて武埴安彦を授り、河内青玉も物部に劣らず、いずれ武埴安彦が太子となれば外戚の地位を得て、朝廷での権力を握る好機が到来するで有ろうと野望を膨らませていた。物部も河内青玉も奥津余曾や磯城県主大目が辿ったと同じように朝廷での地歩を固めていた。
太子は内色許売に劣らず埴安媛も寵愛し褥の内で、帝位に就けば埴安媛を后に迎え武埴安彦が十六才になれば太子に立てると語った。この一事を聞いた河内青玉は心が舞い上がるほどに狂喜し、館に多数の一族を招き酒宴を催して喜びを伝えた。
孝霊一七年(二一〇年)春二月八日、帝は四十六歳で崩御された。太子は先帝を片丘馬坂陵(奈良県北葛城郡王寺町)に葬り孝霊天皇の謚を奉った。
翌年の春一月十四日、太子の大日本根子彦国牽命が即位して八代孝元天皇(在位二一一年一月一四日~二三三年九月二日)となられた。御歳、二十六歳であった。帝は先例に倣い都を軽境原宮(奈良県橿原市大軽町)に遷された。そして、物部大連と内色許男を召し、物部大連を大臣に内色許男を穂積臣として朝臣の一人に加え、大和に領地を賜った。
帝が后を立てるに際し物部と河内青玉との間で騒動が持ち上がり帝も頭を悩ませた。内色許売を妃に上げるに際し帝位に上れば后とし生まれた御子を太子にすると物部に約し、他方、埴安媛にも褥の内で后を約束し武埴安彦が十六歳になれば太子にすると語っていた。
物部大連と内色許男は是非とも内色許売を后にと帝に奏上し、古の物部と神武天皇が交わした約定を持ち出し帝に迫った。物部にとってこの機を逃せば権力を掌中にする機会は二度と巡ってこないであろうとの危機感が有った。一方、河内青玉は初めて巡ってきた好機に酔いしれ権謀を廻らす事をせず帝の裁可を信じていた。
物部の術中に嵌まった帝は思い悩んだ末に物部一族と事をかまえる事を避け、内色許売を后とした。河内青玉の思惑はあえ無く潰え去ったが、河内青玉は武埴安彦を太子に就ける事に望みを繋いだ。
河内青玉は帝が太子の頃、武埴安彦が十六歳になれば太子にすると埴安媛に約束したとの噂を広め、噂は瞬く間に群臣に広がった。
物部は古の力を取り戻すべく后となった内色許売の御子、日本根子彦大日日尊(後の開化天皇)を是が非でも太子にしたかった。吉日を選び帝に拝謁して日本根子彦大日日尊を太子に願い出る準備を進めていた矢先に家人の一人が噂を持ち込んで来た。
太子は后の皇子から選ぶ習いとは云え、先帝が后妃を召して慣例が破られ帝の一言で武埴安彦が太子の位に就く事も想起せざるを得ない状況に有った。
物部は直ちに拝謁を願い出て帝に申し述べた。「帝が太子の頃、内色許売を召し、帝位に就けば内色許売を后に迎え御子を太子にすると仰せられました。今、又、埴安媛に褥の内で武埴安彦が十六歳になれば太子にすると仰せられたとの噂を耳に致しました。太子は后の皇子から選ぶ習いとは云え、帝がお約束された武埴安彦はまもなく十六歳になられます。太子の頃の睦言とは云へ帝が発した言葉を覆す事は叶わず、武埴安彦が十六歳になれば騒動を招く事となりましょう。速やかに勅を発し先帝が次子であった先例に倣い后の皇子、日本根子彦大日日尊を是非、太子に。」と請願した。后の内色許売も物部一族の悲願を背負い帝に懇願した。
物部の策謀が功を奏し、帝は后の内色許売の願を聞き入れ、十六年春一月、十八歳の日本根子彦大日日尊を太子と定め立太子の儀が執り行われた。物部大連はこの時を以って念願が叶い家名を再興し宇摩志麻治(物部の祖)の御代の繁栄を約束されたも同然となった。
朝廷の権力を握った物部は長年苦しめられ屈辱を味わい辛酸を嘗めさせられた奥津余曾や磯城県主大目を追い落とし河内青玉も退けて再び物部の血で皇室を塗り替える策謀に出た。
内色許売も齢を重ねすでに色香は萎え帝の寵愛が薄れ始めていた。帝と姻戚を結び権力を保持したい物部は帝が新たに大和の豪族から妃を入れる事を警戒した。帝が新たな媛を召しだし妃に据えて御子が誕生すれば第二の河内青玉と為り、止む事なき厄が降りかかり火の粉を又払わねばならない。
物部は一族の華、伊香色謎を奉り一族の地位安泰を画策した。伊香色謎は内色許男の媛として生まれ、大和でその美しさは並ぶ媛無きと、噂に高かった。物部はこの美貌の媛を帝に奉り一族の地位安泰を画策した。
帝は物部から大和で美貌第一と噂の高い伊香色謎を奉ると聞かされ、我が娘と同年齢の若い娘でもあり、又、大和の若い臣が競い合う媛を妃にすれば大和の臣の謗りを招くと一度は辞退したが大和で評判の美貌を誇る伊香色謎を一度召し出して酒肴の席に侍らして見たいと想っていた。
帝が辞退したのは単なる儀礼で有ろうと察した物部大連は我が館で管弦の宴を催すので是非とも帝の来駕をと懇請した。帝も物部大連の魂胆を見抜いたが他ならぬ伊香色謎に興味が有り薦めに応じて物部の宴に赴く事を了承した。
宴は帝の来駕に合わせて開かれ物部一族の媛は今日を限りと着飾り晴れやかな宴となった。
宴席で伊香色謎を一目見た帝は内心喜悦した。肌は抜ける様に白く、皺一つ無い張りつめた頬、しなやかな躰とふくよかな臀部の膨らみ、何よりも魔性を帯びた切れ長な瞳が帝を魅了した。帝はその妖艶な瞳に吸い寄せられる己を感じたがその瞳を振り払う事は出来なかった。帝は稀に見る宝玉を手に入れ、満面の笑みを隠し、物部に「伊香色謎を召し出し妃とする。」と告げた。
帝は忽ち伊香色謎の虜となり色香に迷った。物部大連の策謀は狙い通り功を奏し朝廷の地位は盤石に為った。
孝元二十三年(二三三年)秋九月一日、帝は朝議を終えて立ち上がろうとして突然倒れられ、そのまま昏睡状態となり翌日の九月二日、目を覚ます事無く四十八歳の若さで崩御された。
孝元天皇が崩御して三ヶ月後、まだ喪も開け切らぬ、冬十一月十二日、太子の日本根子彦大日日尊は即位して九代開化天皇(在位二三三年十一月十二日~二四七年四月九日)となられた。歳二十八才であった。
帝は先帝を剣池嶋上陵(奈良県橿原市石川町)に葬り孝元天皇の謚を奉り、都を春日の率川宮(奈良市本子守町)に遷された。そして先の皇后、内色許売を尊んで皇太后と呼ばれた。
物部は日本根子彦大日日尊が即位して念願の外戚の地位を得たが一抹の不安を抱えていた。帝も先帝に倣い太子の頃に物部に相談もなく二人の妃を召していた。一人は丹波の大県主、由碁理の姫、竹野媛ともう一人は五代孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命を祖とする大和の豪族、和珥臣の媛、姥津媛であった。
竹野媛は比古由牟須美を生み、姥津媛は日子坐王(神功皇后の祖)を生んでおり共に后の座を争っていた。由碁理も和珥臣も共に媛を后に上げ、物部に替わり権力を握る野心を抱いていた。
物部は再び権力の座から滑り落ちる危機を感じ何としても一族から后を出す事に腐心したが帝が好意を寄せる媛は一族を見渡してもいなかった。
焦りを感じた物部は帝が太子の頃、義母に当たる伊香色謎に恋慕の情が有った事が頭に浮かんだ。人の道にそぐわぬ事では有るが、まだ色香も萎えぬ先帝の妃、伊香色謎を后に上げる策を練った。
物部は帝に拝謁して太子の頃、思いを寄せた伊香色謎を后に召されては如何かと奏上した。帝は唐突な物部の申し出に虚を突かれ、一瞬たじろいだが伊香色謎を想い浮かべ過ぎ去った日々が頭を過ぎった。
帝は太子の頃、妖艶な伊香色謎に心を引かれ出来ることなら妃にしたいと思い人を通じて物部の意向を尋ねた。しかし、伊香色謎はすでに帝の妃に上がる手筈が整っていた後であった。想い悩んだが先帝に言い出せぬまま、伊香色謎は帝の妃に上がり手の届かぬ存在となった。
先帝の妃となって間も無い頃、太子は御殿で伊香色謎とすれ違い、妃が伏し目がちに行き過ぎようとした時、太子は過って妃の衣の裾を踏み、倒れ掛かる妃を後ろから抱き留めた記憶が甦った。
妃の得も云えぬ女の香り、人の精気を吸い取る様な切れ長で妖艶な瞳、抱き留めた時のしなやかな躰、ふくよかな胸の膨らみ、透き通る様な肌の白さ、弾ける様な張りの有る躰を妄想しあの時の欲情が脳裏を過ぎった。しかし、帝は物部の申し出を人の道に沿わぬと一旦退けたが想いは日々に募った。
帝は重臣の一人に物部の名を伏せて「伊香色謎を妃に上げるのは如何なものか。」と語った。臣は古来の前例を語り、帝を強く戒めた。古来の前例とは神武天皇が崩御し皇位継承の争いが起こり御子の手研耳命は無理やり神武天皇の后、五十鈴媛命を娶り、太子の神八井耳命から皇位を簒奪する暴挙に出たが神渟名川耳尊(二代綏靖天皇)に弑された。敢えて悪例を踏み世の規を越え何の益が有ろうかと諌めた。
帝は諦めきれずもう一度、伊香色謎に会って自身の心を確かめようと思った。諸国から献上された絹を携え、供も連れず一人で伊香色謎の館を尋ねた。
奢侈を絶ち先帝の喪に服す妃は突然の来駕に驚き平伏して帝を迎え入れた。帝は持参の絹を贈り、よもやまの話しを楽しんだ。
帝は伊香色謎の気をそらさぬ受け答えと艶のある仕草に酔い、知らず知らず引き込まれていった。いつの間にか酒肴が用意され侍女は去り、二人は酒を酌み交わした。酔う程に妃の虜となり、まだ色香も萎えぬ伊香色謎の妖しいまなざしが帝を誘った。酔眼に映る妃が天女に思え誘われるままに契りを結んだ。帝は甘美な一夜が忘れられず良識の臣の言を退け妃に迎え入れた。
良識の臣は諫める事が出来ず帝の行いにあきれて職を辞し、他の臣は物部大連を恐れ、沈黙を守り、民は帝の行いを謗った。
帝は物部大連の進めに応じ伊香色謎を后に据えて溺愛し、朝政を省みる事無く一切を物部に委ねた。物部は朝政を壟断し群臣を臣下の如く扱った。群臣も豪族も物部の力を怖れ、物部の館には誼を乞う群臣、豪族が次々に訪れた。
一方、物部の策謀に敗れ、栄華を夢見ていた和珥臣は夢を打ち砕かれ無念の思いで唇を噛みしめていた。何らかの手を打たねば天下は物部の思がままとなる。帝は物部の術中に嵌まり若い伊香色謎を召して褥を重ねたが女御の御真津比売、御一人しか授かっていない。
物部は今もなを伊香色謎に御子が授かる事を切望し帝も御子の誕生を待って太子を定めずにいる。帝がこのまま太子を定めず打ち捨てて時が過ぎれば何れ皇位継承の争いが起こるであろう。
和珥臣は太子を定めず時が過ぎる事を願い、成人した姥津媛の御子、日子坐王に期待を寄せた。そして、日子坐王に皇位を窺うなら大和の有力な豪族を味方に付けるべく姻戚を結ぶべしと進言し、日子坐王は和珥臣の勧めるままに、山代の豪族長溝の娘、荏名津媛、大和春日の豪族建国勝戸売の娘、大闇見戸売を妃に迎えた。又、天之御影神を始祖と仰ぎ近江に勢力を張る豪族、息長宿禰との繋がりを強めるために息長の水依媛を妃に迎え入れその時に備えた。
五代孝昭、六代孝安天皇の御代、権力の座にあった奥津余曾の末裔である葛城の垂水宿禰も娘の鷲媛を帝の妃に上げ権力の座を虎視眈々と窺っていた。鷲媛は垂水宿禰の期待に応え建豊波豆羅和気を生み、垂水宿禰は皇子の成長を待ち望んでいた。
垂水宿禰も孫の皇子はまだ幼く和珥臣と同様に帝が太子を定めず時が過ぎる事を願っていた。そして、垂水宿禰も和珥臣に負けず劣らず権力の座にあった奥津余曾の栄華を取り戻すべく、物部を倒す事に執念を燃やし時が至れば一族を挙げて物部に対抗する考えを持っていた。
物部の基盤は伊香色謎の色香に迷い政に意を示さぬ帝の信任を受け、一族を登用して権力を維持しているに過ぎなかった。群臣は総じて物部の力に屈し異を唱える臣は居らず物部は天下を貪っていたが群臣の不満は鬱積し、一朝事有る時は物部に靡いている群臣も豹変する事は明らかであった。
物部は皇子の日子坐王が近隣の有力豪族から妃を迎え姻戚関係を結んだ事を知り何れ対立して和珥臣と戦になるであろうと思った。
この様に大和が権力闘争に明け暮れている頃、海の向こう朝鮮半島は三韓の時代で西の馬韓五十余国では伯済国が力を増し近隣の諸国を斬り従えて百済国を建国し、東の辰韓十二ヶ国では斯蘆国(後の新羅)が領土を拡大し、南の弁韓十二ヶ国(後の任那・伽耶)では斯蘆国の侵攻に悩まされ駕洛国が盟主となって斯蘆国と争っていたが劣勢に立たされていた。
弁韓の小国の皇子として生まれた印恵命は南に活路を開こうと思い数百の兵を率いて釜山から海を渡り海上千余里、対馬国から再び船を出し海上千余里、壱岐国を経て倭すなわち筑紫を目指した。
筑紫は半島の戦いに敗れた小国の王族や将兵が海に逃れて対馬、壱岐から筑紫に渡り、数十人から数百人の徒党を組んで村を襲い豪族と争いを起こしていた。次々に韓人が来襲し筑紫は戦乱の地であった。
印恵命が到着した筑紫の末盧国(佐賀県松浦郡 唐津湾)はまさに倭韓入り乱れて戦に明け暮れる乱世であった。印恵命は松浦川の河口に碇を降ろしたが乱世であり土地の豪族がすんなりと上陸を許すはずがなかった。たちまち戦となり激戦が繰り広げられた。
何とか豪族を撃退した印恵命はしばしこの地に留まり徒党を組む韓人を糾合して軍を編成し、近隣の豪族を攻めて帰順させ末盧国を掌中にした。しかし、末盧国は戸数四千余り兵を養うには小さすぎた。
印恵命は末盧国で兵を招集し東に軍を進め伊都国(福岡県糸島市)に至った。伊都国も千余戸ばかりの小さな国であった。豪族は争う事無く帰順したが留まるほどの地でもなく、東に戸数二万余戸の那国(福岡市)が有ると知りそこが筑紫の中心であろうと思い伊都国の高祖(福岡県糸島市高祖)から軍を東に進発させ日向峠(福岡県糸島市高祖と福岡市西区吉武の間にある県道四九号線の峠)に向かった。
那国は西暦五十七年に後漢の光武帝に使者を送り、金印を賜り冊封を受けたほどの強国であったが南の熊襲との戦いと韓人の来襲で戦いに明け暮れ国力は疲弊していた。そこに伊都国から駕洛国の王子、印恵命が韓人を糾合して大軍を編成し那国に向かったとの情報がもたらされた。那国は急ぎ日向峠に布陣し印恵命の来襲に備えた。
こうして日向峠で激戦が繰り広げられたが多勢に無勢、峠を制せられて那国軍は敗退し、激戦を制した印恵命の軍は雪崩を打って那国に攻め入った。
那国を帰順させた印恵命はこの地に国を建てようと思い須玖(福岡県春日市)に館を構え、筑紫(福岡県)、豊国(大分県)を席巻し、向かうところ敵なく、次々に帰順して瞬く間に北九州を平定して筑紫の戦乱に終止符を打った。
筑紫でおよそ十年を過ごした印恵命は東に安芸、吉備の国が有り、吉備は馬韓の小国の王子と名乗る温羅が支配し、その東に豊穣の国と云われる大和の国が有る事を知った。大和とは故国で聞き知った邪馬台国であろうか、東征の野望が沸々と湧き上がり大和に向かう事とした。
筑紫を宗形君に委ね、那珂川の河口で数十艘の軍船を建造し、兵を募り数多の武器と食料を調えた。いよいよ船出の日が近づいたある日、印恵命は那国の王から奪った、「漢委奴国王」と刻まれた金印を那国の王に甘んじないとの思いから志賀島に埋めた。
そして、良き日を選び那ノ津(那珂川河口 博多港)から東征の船を出した。那ノ津を出航した船団は海上から海の中道を眺め、志賀島を回って玄界灘を東に進み早鞆の瀬戸(関門海峡)の潮待ちで彦島の福浦津(福浦港)に停泊した。
潮見の兵から潮の流れが東に変わったとの報せを受け直ちに福浦津を出帆し潮に乗って早鞆の瀬戸を乗り切った船団は田之浦(福岡県北九州市門司区田野浦)に停泊した。
田之浦を出帆した船団は周防の佐波川の河口、佐婆津(山口県防府市佐波)、田布施川の河口、熊毛ノ浦(山口県熊毛郡平生町)、と船泊りを重ね岩国の錦川の河口、麻里布の浦(山口県岩国市麻里布町)に碇を降ろした。
麻里布の浦を出航した印恵命は安芸での戦を避け倉橋島、大三島、因島と島伝いに航行し芦田川の河口に浮かぶ神島(岡山県笠岡市神島)に停泊した。
この頃、吉備は印恵命と同様に百済に敗れた馬韓の小国の王子と名乗る温羅が支配していた。
温羅の故国は馬韓の小国とは云へ優秀なタタラ集団(製鉄技術者)を擁していた。百済がこの小国に戦を仕掛けたのもこのタタラ集団の獲得であった。
温羅は百済との戦に敗れたがタタラ集団を百済に渡したくなかった。戦に敗れた温羅は兵と共にタタラ集団を引き連れて海を渡り筑紫に上陸したが筑紫では砂鉄が得られず再び船を出して吉備にたどり着いた。
吉備は岐備津彦の子孫が代々岐備津彦を名乗り吉備を治めていた。温羅は岐備津彦に百済の王子と名乗りタタラの技術や造船の技術を伝授する事を約束して岐備津彦に取り入り、砂鉄を求めて河川を探索し高梁川で豊富な砂鉄に巡り合った。
温羅はタタラの技術で砂鉄から武器を造り強力な軍事力を保持し岐備津彦との約束を反故にして館を襲い吉備の王と称した。
吉備の豪族は温羅の支配に叛旗を翻したが次々に打ち滅ぼされ、温羅は強力な軍事力で吉備を席巻し吉備の大半を領するようになった。
そして、阿曽郷(岡山県総社市)の神職の娘、阿曽媛を妻に娶り鬼城山(標高三九七メートル)に城壁を巡らした朝鮮式の山城を築き巨大な勢力を保持していた。
他方、農民には砂鉄から作った農機具を与え干拓によって農地を拡大した。こうして収穫量が増え民衆からは吉備の冠者と呼ばれていた。
吉備の温羅を知る印恵命は温羅との争いを避け神島から島伝いに四国の多度津に渡り、多度津から四国北岸を航行して小豆島に停泊していたころ大和で異変が起こった。
開化十五年(二四七年)夏四月七日、帝は朝議も終わり近臣に促されて立ち上がった時、突然倒れ意識を取り戻す事なく昏睡状態のまま二日後の四月九日に四十二歳の生涯を閉じ崩御された。
帝は太子を定めておらず物部大連が殯宮を造営して柩を安置し皇族、群臣は誄(貴人の功を称え哀悼の意を述べる事)を奉った。
物部大連は皇統を継ぐに相応しい皇子を決めるべく王者議定を開き先例を踏まえ先帝の御子か先帝の兄弟から選ぶ事としたが候補は五人おりすんなりと合意するはずはなく権力争いの場となった。
先帝には妃に生ませた三人の御子がいた。一人は、丹波(丹波、丹後)の大県主由碁理の娘、竹野媛を妃として生みし御子、比古由牟須美、二人目は大和和珥臣の娘、姥津媛を妃として生みし御子、日子坐王、三人目は葛城垂水宿禰の娘、鷲媛を妃として生みし建豊波豆羅和気の三人であった。
そして、先帝の兄に当たり、物部の血を引く大毘古と河内青玉の娘、埴安媛の御子で先帝と皇位を争った孝元天皇の御子、武埴安彦(開化天皇の異母弟)の五人であった。
先帝は后(伊香色謎)に御子が生まれるのを待ったがその兆しは無く、国の行く末を想い、日子坐王を太子にと物部に持ち掛けたが、物部大連は帝の思いを退け一族の媛、伊香色謎に御子の誕生を待ち望んでいた。
和珥臣は物部大連の専横を怒り先帝に直訴したが先帝も伊香色謎に閨で囁かれ御子の生まれるのを待った。
先帝が太子を定めていなかった事が権力争いの元凶となり大和に危機を招いた。この事が又、印恵命に幸いした。
物部大連と内色許男は帝の崩御を看取り時を置かず一族の兵を集めて都を固め、朝議を開いて大毘古の践祚の日取りを急がせた。しかし、群臣は物部大連の専横をなじり、大毘古の即位に異を唱えた。
河内の豪族、河内青玉は武埴安彦が次の帝にふさわしいと申し述べ、丹波の大県主由碁理は先帝の長子である比古由牟須美が皇位を継ぐべきであると主張し、大和和珥臣は生前の帝の御意志でも有ると日子坐王を天子として奉戴すべきであると申し述べた。
日子坐王は壮年に達しており、和珥臣、近江の豪族息長宿禰、山代の豪族長溝、大和春日の豪族建国勝戸売と大豪族が後ろ盾となり主だった重臣に異論は無かった。葛城垂水宿禰は娘の鷲媛が生んだ建豊波豆羅和気がまだ幼く無念の涙を飲み、和珥臣に同調した。
しかし、物部は権力の座から滑り落ちる事を恐れ猛烈に反対した。群臣、皇族が集り皇位継承を諮ったが互いに譲らず、議を決する事無く紛糾した。この頃、皇位継承を定めた法は無く延々と昼夜を分かたず議は続き、互いに主張を曲げなかった。
今迄、物部の専横を苦々しく見ていた有力な群臣、豪族が皇位継承を機に一斉に反撥し、膿が一気に噴出して群臣の争いに発展した。
物部が兵をもって都を固めたのを見て取り由碁理は丹波、但馬から兵を呼び寄せ宇治に留めた。
近江の豪族、息長宿禰は水依媛を日子坐王の妃に入れており、由碁理が丹波の兵を呼んだと知り急ぎ滋賀坂田から兵を呼んだが宇治に駐留する丹波の兵に阻まれ大津に止めた。
大和の豪族も都が只ならぬ気配となり兵を集め館を固めた。物部大連は大和の制圧が時を制すと見て、急ぎ河内の兵を都に呼び寄せ、大和の豪族の蜂起に備えた。武力を背景に物部大連は大毘古の即位を押し切る構えを見せた。
若狭に割拠する土蜘蛛の頭領、玖賀耳之御笠は都の混乱を尻目に好機と見て兵を挙げ近隣の豪族を制圧して若狭を占拠し丹波、但馬の支配を目指した。
物部大連は焦って大毘古の即位を急がせ益々群臣と亀裂を深め、争いは激しさを増した。様々な噂が飛び交い都は不穏な空気が支配し群臣も豪族も疑心暗鬼となり、都は混乱の極に達した。
激しい抵抗に遭った物部大連は大毘古の即位を急げば都に戦乱を招くであろうと思い再度、朝議を開き打開の道を探る事を重臣に示した。
一方、印恵命は大和の異変を知る由もなく小豆島を出航して家島に停泊し、播磨灘を航行して吉備と大和の境、播磨の室津(兵庫県たつの市御津町室津 室津湾)に碇を降ろした。
この頃、播磨は大和の支配地であった。初代神武天皇の御代は大和、河内を支配するに過ぎなかったが考昭、孝安、孝霊、考元と天皇の代を重ねる毎に皇軍の錦の御旗が絶大な力を持ち、錦の御旗を翳して進軍する度に地方の豪族は領地安堵を願い出て支配地を増した。
九代開化天皇の御代には畿内の大和、河内、山城、摂津、和泉に加え南の紀伊、西の播磨、淡路、北の近江、若狭、丹波と現在のほぼ近畿二府四県を支配し、筑紫、安芸、吉備、出雲と並ぶ大国に成長していた。
播磨は孝霊天皇の御代、皇子の日子寤間に錦の御旗を授けて氷川(兵庫県高砂市と加古川市の市境を流れる加古川)まで平定し吉備と大和の境とした。その後も大和は吉備を圧迫し国境を揖保川に広げていた。
日子寤間は都に還らず播磨に留まり子孫が代々播磨を治め、飾磨(姫路)に居を構えて朝廷では牛鹿臣と呼ばれていた。
牛鹿臣の元に播磨の室津(兵庫県たつの市御津町室津)の湊を支配する竜野(兵庫県竜野市)の豪族から「室津に数十艘の軍船が押し寄せ、数千の兵が上陸し宿営したが多勢に無勢、抗する事も出来ず監視している。」と知らせて来た。
牛鹿臣にも立ち向かえる兵力は無かった。近隣の豪族の兵を集めても高々数百に過ぎなかった。牛鹿臣はまだ大和の異変を知らなかったが直ちに早馬を仕立てて大和に知らせ、援軍を乞うた。
印恵命は大和の支配地の西端に上陸し当然、戦になる事を覚悟していたが大軍に恐れをなしたのか一矢も飛んでこなかった。宿営を張り、これから先、陸路を進み播磨、摂津と平定して大和に向かうべきか、海路を取り難波津から一挙に大和に攻め上るべきか軍議を開いた。
軍議の結果、播磨、摂津と軍を進め大和に不満を持つ豪族を糾合して摂津の武庫ノ津(兵庫県西宮市 武庫川河口)から難波津を目指す事となった。
先遣隊を進発させて室津を発った印恵命は北に進み竜野に至った。竜野の豪族は先遣隊と一戦を交えたがあっけなく敗れ北に逃れた。本隊も竜野から山陽道(ほぼ現在の国道二号線)を東に進軍し牛鹿臣の居城、飾磨に迫った。牛鹿臣も大軍を前に抗する術もなく北に逃れた。
東征軍は無人となった牛鹿臣の居館を襲って大量の糧食を奪い館に火を放った。戦らしい戦もなく東征軍は飾磨から御着、曽根と軍を進め宝殿(兵庫県高砂市阿弥陀町生石)に至った。
宝殿には池に浮かぶが如き巨岩が有り印恵命は神が宿る磐であろうと想い帰服した土豪に聞くと「巨岩に鎮まる神は大穴牟遲神と少毘古那神である。」と告げた。印恵命はこの巨岩に向かって戦勝の祈りを奉げた。
皇位継承で大和が緊迫している時に播磨の牛鹿臣から物部の元に「東征の大軍が押し寄せた。援軍を乞う。」との知らせがもたらされた。使者に吉備の軍か、それともどこの豪族か、反乱軍の人数は、首謀者は等々、詳しい事情を聴いても答えられなかった。
吉備は朝鮮半島から海を渡り到来した温羅が強力な武器で制圧し、吉備を治めていると聞くが温羅の軍が押し寄せたのかと問うたが温羅ではないと答え、物部は何が起こったのか見当も付かなかった。
何かの間違いであろう、吉備を追われた盗賊が徒党を組んで館を襲ったのか、豪族の諍いが高じて戦になったのか、いずれにせよ誰かに錦の御旗と数百の兵を授けて向かわせれば事は済むと思った。
なぜなら、神武以来一九〇年、大和は錦の御旗を振り翳して他国を攻め、支配地を拡大してきたが大和の辺境と云へども敵に攻められた事はかつて無かった。それ故、大和の領地に大軍が押し寄せたとは何かの間違いであろうと思ったが念のため、大毘古と諮って偵察の兵を出した。
十数名の屈強な偵察の兵が選ばれ山陽道を西に向かわせた。都から木津川を北上し河内国交野樟葉(大阪府枚方市楠葉)辺りで鵜河(淀川)を渡河して摂津の国に入り西国街道(国道一七一号線)を西に進んだ。摂津草野(箕面市萱野)を過ぎ武庫川を渡渉して菟原郡(西宮市の夙川から神戸市中央区の生田川までの範囲 芦屋市、神戸市東灘区、灘区)の葦屋を過ぎ、対岸に淡路が見える須磨を過ぎ、何事もなく播磨の明石に入ったが特に変わった様子も無かった。
氷川(加古川)に差し掛かった頃、対岸を見ると渡渉を待つ数千の兵で埋め尽くされていた。それは今までに見たこともない大軍に度肝を抜かれた。渡渉が開始され大軍が動き出した。隊列は地から湧き出た如く延々と続き、統率された兵が粛々と東に向かって行軍している。
偵察の兵は馬首を返し疾駆して大和を目指した。駅家で次々に馬を代え急いで大和に引き返し、物部の館の門衛が止めるのも聞かずそのまま庭先まで馬を走らせ、喘ぎながら転げ落ちる様に馬から降りた。
物部と大毘古が現れ偵察の兵は平伏して申し述べた。「氷川に至り渡渉する大軍を見た。先触れの軍が東征の軍であると称し数千の大軍が粛々と東に向かっている。数日で摂津を過ぎ河内に至るでありましょう。播磨も摂津の豪族もあの大軍を見れば手も足も出せないでありましょう。大和に不満を持つ豪族は東征の軍に呼応して益々軍は膨れるでありましょう。一刻も早く摂津に軍を差し向けるべきと考えます。」
物部は直ちに朝議を開き東征の軍が播磨を席巻し摂津に迫った事を告げ、「大和の兵を合わせ一丸となって戦わねば吉備と同じように都は奪われ領地も失うであろう。」と説いたが近江の豪族、息長宿禰も河内の豪族、河内青玉も大和和珥臣も丹波(丹波、丹後)の由碁理も日子坐王も武埴安彦も物部の言を疑った。
神武以来一九〇年、大和の国を奪う軍が押し寄せて来た事は無く、群臣の誰もが物部の策謀であろうと東征軍の来襲を信じなかった。それに今、皇位継承の争いの最中に有り、物部に兵を預けるなど考えられなかった。
物部自身も単独で兵を動かせば誰かが都を占拠するのではないかと疑っていた。河内の豪族、河内青玉と大和和珥臣は念のため明石まで偵察の兵を出す事にした。
建国以来始めて国難の危機に遭遇したが勅命を発する事が叶わず物部は帝の存在が如何に重いかを改めて痛切に感じた。
東征軍は明石を過ぎ摂津の須磨、長田、生田の豪族も加わり軍は菟原郡の葦屋(兵庫県神戸市東灘区深江北町)に至り、印恵命は軍を留めた。
武庫の津から船で難波津を目指す事としていたが播磨も摂津も戦にならず、むしろ五十人、百人と東征の軍に加わる豪族が多く、印恵命は東征が民に受け入れられたと感じこのまま陸路を進軍する事とした。
河内青玉と和珥臣の偵察の兵が摂津草野(大阪府箕面市萱野)に差し掛かった頃、東征の軍が葦屋に留まって居るとの噂を耳にした。
偵察の兵は馬を走らせ芦屋川に差し掛かって対岸を見ると万余の兵が対岸を埋め尽くしていた。すぐさま馬首を返して大和に立ち返り河内青玉と和珥臣に見聞した一部始終を報告した。「東征の軍は今、菟原郡の葦屋に留まって居る。噂によると東征の軍の総帥は印恵命と称し海の向こう朝鮮半島の南に有る駕洛国の王子との事、筑紫を治めていたが吉備の東に豊穣の国が有ると知り東征の軍を興したとの事、数千の兵が播磨の室津に上陸し飾磨の牛鹿臣も敗れ、進軍する先々で呼応する豪族を糾合して軍は膨れ上がり万余の兵を擁している。武庫の津から船で難波津を目指す事としていたが呼応する豪族が多く陸路、大和に向かう事としたとの事。葦屋から摂津草野、摂津嶋上郡大原駅(大阪府高槻市梶原)で鵜河(淀川)を渡河し河内国交野樟葉(大阪府枚方市楠葉)から木津(京都府木津川町)に向かい、木津から大和に攻め込むと思われます。」
驚いた河内青玉と和珥臣は急いで物部の館を訪れ、主だった臣を集めて朝議を開いた。そして、大和が一丸となって東征軍を迎え撃つ事となったが摂津の豪族を集めて軍を編成するには時を逸しており、鵜河(淀川)で迎え撃つ事とした。急ぎ宇治に留まる由碁理の兵を武埴安彦に委ね、大津に留まる息長宿禰の兵は日子坐王に委ね、皇軍と物部の兵は大毘古に委ね河内国交野樟葉に向かわせた。
河内青玉、和珥臣の兵は大和の守りとして木津に留めた。木津は大和から木津川を下って鵜河に合流し大阪湾に向かう水上交通の要衝であった。
印恵命の東征軍は粛々と進軍し武庫川を渡渉し摂津草野(大阪府箕面市萱野)で宿営した。摂津草野で帝が崩御し大和は皇位継承を巡って群臣が対立している事を知った。戦で決着を着けなくとも大軍を利して示威すれば大和が自壊し戦わずして降伏するかも知れない、急がずに進軍し摂津の豪族の半ばを糾合して大和と対峙しようと思った。