皇位争乱

第三話 崇神すじん天皇
 崇神すじん天皇の即位

 武埴安彦たけはにやすひこが宇治に留まる丹波たには由碁理ゆごりの兵を率いて樟葉くずはに到着し布陣したが兵数は千数百に過ぎなかった。不安を覚えたが幸い東征軍はまだ対岸に姿を現していなかった。

 翌日、大毘古おおびこが率いる皇軍と大和の兵、数千が到着し、ほどなく日子坐王ひこいますのみこが率いる近江の息長宿禰おきながのすくねの兵、千数百が到着した。総数五千余の兵が樟葉に布陣し東征軍の来襲に備えた。

 翌日、印恵命いにえのみことが率いる東征軍が対岸に姿を現した。東征軍は播磨、摂津の兵を加え万余に膨れ上がっていた。対岸の東征軍を望見した三人の皇子は兵数に圧倒され勝ち目は無いかも知れないと思った。

 両軍が対峙して数日経ったが印恵命いにえのみことは動かなかった。鵜河うがわ(淀川)を渡り、木津から大和に攻め込むのは容易たやすいがそれでは都が戦場となり戦を制しても都は焼け野原となる。大和も戦を望まないであろう、いずれ和平の使者を寄こすであろうと考えていた。

 対峙して一ヶ月が経ちこれ以上長引けば兵の士気が萎えると感じた印恵命いにえのみことは全軍に渡河を命じた。兵は盾を構え喊声を上げて渡河を開始した。

 皇軍は敵が川の半ばを過ぎた頃、一斉に矢を射掛けたが勢いを止める事は出来なかった。次々に騎馬軍団が上陸し皇軍の陣を襲った。先陣は崩れ万余の兵が渡河して皇軍は撤退を繰り返し撃破され敗走して木津に留まる河内青玉、和珥わに臣の兵と合流した。

 印恵命いにえのみことは皇軍を追撃せず樟葉に軍を留め、数日様子を見たが皇軍の反撃は無く再び軍を進めて多々羅(京田辺市多々羅)に駐留した。

 木津に駐留する皇軍は印恵命いにえのみことが目と鼻の先の多々羅に進軍して来たと知り、三人の皇子は軍議を開いたが河内青玉、和珥わに臣の兵を加えても勝算は無く、敗戦を認めざるを得なかった。

 もう少し早く出陣し、せめて摂津の豪族の兵を掌握しておけば互角に戦えたかも知れぬと、無念の思いを噛みしめて「和議を結ぶ事と成るであろう。」と決し、大毘古おおびこ後事こうじを託した。

 天下の動きを軽んじ政争に明け暮れている間に天下がくつがえった。日子坐王ひこいますのみこ武埴安彦たけはにやすひこもまさか皇統が改まるとは思いも及ばなかった。新しい世と成す為に神が大和に世直しを命じられたと思った。言い知れぬ寂しさを感じ神の仕打ちを恨み天命を嘆いた。

 そして、日子坐王ひこいますのみこ息長宿禰おきながのすくねの兵を率いて大津に戻り、武埴安彦たけはにやすひこ由碁理ゆごりの兵を率いて宇治に退き、大毘古おおびこは皇軍と河内青玉、和珥わに臣の兵を率いて大和に帰還する事となった。

 大毘古おおびこは大和に伝令を走らせ、二人の皇子が去るのを見届けて追撃を警戒しながら撤退を始めたが印恵命いにえのみことは追撃の兵を出さなかった。

 物部大連おおむらじの許に木津からの伝令が敗戦の報をもたらした。覚悟していた事とは云へ物部大連は始祖、饒速日命にぎはやひのみこと(物部の始祖)狭野命さののみことに大和を明け渡し、狭野命さののみことが即位して神武天皇となった故事が再び巡って来たと感じた。

 大毘古おおびこが帰還し直ちに朝議が開かれた。物部大連は群臣に向かい「印恵命いにえのみこととの戦に敗れ日子坐王ひこいますのみこは大津に退き、武埴安彦たけはにやすひこは宇治に退いた。大毘古おおびこは大和に帰還したが印恵命いにえのみことは大軍を擁して多々羅に駐留している。今一度、戦を仕掛けても勝ち目はないであろう、都を戦乱から守る為に和議を申し入れる。」

 群臣も敗戦を承知しており、誰一人抗戦を唱える者はいなかった。和議の使者には物部大連が自ら赴くと告げた。

 翌早朝、物部大連は護衛の兵に守られ、白旗を掲げて馬で多々羅に向かった。馬の足取りも心なしか重かった。木津で暫し休息し馬を進めて多々羅に至った。

 多々羅には万余の兵が駐留し近づくと直ちに衛兵に誰何すいかされた。物部大連は「和議の使者である。印恵命いにえのみことと会談したい。速やかに取り次げ。」と叫んだ。

 衛兵は白旗を見て物部大連の馬のくつわを取り馬から降りろと命じ、直ちに印恵命いにえのみことに報せた。そして、供の者は留め置かれ物部大連ただ一人、鉾を交錯させた隊列の中を引き立てられ会見の場に連行された。

 暫くすると近衛の兵を従えた印恵命いにえのみことが現れ平伏する物部大連おおむらじに「使者の口上を聞こう、おもてを上げて申し述べよ。」と言って床几に腰を下ろした。  物部大連はこうべを上げて印恵命いにえのみことを直視し、「大和の朝政を預かる物部大連と申す、自ら使者に立って和議の話し合いにまかり越した。まず貴殿のお名と出自をお聞かせ頂きたい。」

 使者が物部大連と名乗り、驚いた印恵命いにえのみことは「これは、存じ上げなかったとは云へ、数々の無礼、平にご容赦のほどお願い申し上げる。直ちに会見の場を準備する故、暫くお待ち願いたい。」

 こうして館の内で会見が行われ、印恵命いにえのみことは出自を語った。「筑紫の北、海上二千余里、駕洛がら国の皇子、御間城入彦印恵命みまきいりひこいにえのみことと申す。十数年前、数百の兵を率いて国を発ち戦乱の筑紫を平定して治めていたが、東に安芸、吉備の国が有り、その東に豊穣の国と云われる大和の国が有ると聞き及び大和とは故国で聞き知った邪馬台国やまたいこくであろうと思い東征の軍を興した。戦は望む所にあらず、いたずらに戦を続け、血を流し続けるのは神も許さないであろう。互いにほこを収め和睦するのは最もである。和睦の条件を聞こう。」

 物部大連は和睦の条件を語った。「大和は元、物部の始祖、饒速日命にぎはやひのみことが治めていたが凡そ一九〇年前、大和に狭野命さののみこと天下あまくだ饒速日命にぎはやひのみことは大和の皇位を禅譲し、狭野命さののみことが即位して神武天皇となられ九代開化天皇まで連綿と皇位を継承してきた。今年の夏四月七日、帝(開化天皇)は朝議の後、近臣に促されて立ち上がった時、突然倒れられ昏睡状態のまま二日後の四月九日に四十二歳の生涯を閉じ崩御されました。帝は太子を定めておらず、誰が皇位を継ぐべきか話し合いの最中に印恵命いにえのみことが筑紫から来られました。これは神武天皇の再来であろうと群卿百僚と話し合い印恵命いにえのみことをお迎えし大和の皇位を禅譲する事に決しました。何卒、大和にお越し頂きたく物部大連自ら参上いたした次第。」

 話を聞き終えた印恵命いにえのみことは「皇位継承は先の帝が太子を定めるのが習わしで有ると聞き及んでいる。この度は帝が突然崩御され帝のお言葉も無く皇位に就くは神を冒涜ぼうとくする行為で有り後世、皇位簒奪さんだつの汚名を蒙る怖れが有る。皇位に就くには皇族と群臣一同が神に祈り神の許しを得て推戴願いたい。我が意の有る所を汲み取り群卿相はかって決して貰いたい。」

 物部大連は重ねて申し上げた。「これは私の一存では有りません。群卿百僚と話し合い印恵命いにえのみこと日嗣ひつぎの御子としてお迎えし、大和の皇位を禅譲する事に決しました。何卒、大和にお越し頂きたくお願い申し上げます。」

 こうして物部大連は印恵命いにえのみことを開化天皇の皇后、伊香色謎いかがしこめの御子として大和にお迎えし立太子の儀を執り行った。太子となった印恵命いにえのみことは喪に服し冬十月、先帝を春日率川坂上陵かすがのいざかわのさかのえのみささぎに葬り開化天皇のおくりなを奉った。

 そして、翌年春一月十三日、即位の儀を執り行って十代崇神すじん天皇(二四八年一月一三日~二八〇年一二月五日)となられた。

 皇位に就き帝となった印恵命いにえのみことは群卿百僚を前にみことのりを発せられた。「大和の国を代々治められた天皇は自身の為に御位に就いたのではない。神をうやまい、人民を養い、争いを鎮めて天下を治められた。故に代々善き政治が行われ徳を広めた。今、皇位を授けられ天下を治める大業を承った。皇祖の跡を継ぎ人民を養い太平の世となし永遠に皇統を引き継がねばならない。群卿百僚達よ、汝らも忠義と貞節の心を尽くして天下を安んじる事に精進せよ。」と仰せられた。

 即位の儀に列席した日子坐王ひこいますのみこは突然現れた印恵命いにえのみことに皇位を奪われた事を夢の中の出来事の様に感じた。どの様に謁見したのか覚えておらずみことのりも耳に入らず、印恵命いにえのみことが退席しざわめきと共に現実に引き戻され改めて悟った。

 胸の内に冷ややかな風が流れ無念の思いが込み上げて来た。いつの日か再び皇統を覆す時を胸に秘め、時が流れを変えた。何れ時がまた流れを変えるであろうと物部に告げて静かに退席し、失意の内に近江の豪族息長宿禰おきながのすくねを頼り、都を後にした。

 武埴安彦たけはにやすひこ印恵命いにえのみことが玉座に着いた時、言い知れぬ怒りが腹の底から湧き上がりこらえる為に拳を固く握り絞めて平伏し謁見が終わる迄、体が震えて止まらなかった。平伏した時、無念の怒りが込み上げ顔は蒼白と為って、頬が振るえ落涙が止らなかった。

 印恵命いにえのみことが退席するや否や並み居る百官、群臣を睨み付け場所もわきまえず物部に罵声ばせいを浴びせ荒々しく床を蹴って退席し、傷心の内に領地の山代(京都府南部)に退いた。丹波たには由碁理ゆごり竹野媛たかのひめと御子の比古由牟須美ひこゆむすみを伴い言い知れぬ怒りを抱いて領地に立ち帰った。

 帝は大臣も群臣も旧のままとされ群臣、豪族の領地も安堵された。しかし、大和の豪族は物部大連おおむらじの策謀によって出自も定かで無い印恵命いにえのみことを皇位に就け、朝廷の実権を掌握したとそしった。

 帝は先例に倣い都を御諸山みもろやま(三輪山)の南麓の地、磯城しき水垣宮みづかきのみや(奈良桜井市金屋)に定められた。そして、皇統を尊び大毘古おおびこ(孝元天皇の第一子、九代開化天皇の同母兄)の娘、御間城姫みまきひめを召して皇后とし、生まれた皇子を太子にすると約した。

 帝となった印恵命いにえのみことは物部の思惑と異なり天皇親政を敷いて物部に政を委ねなかった。百官の勤めを定め私利私欲に走る者は厳罰に処すと定めた。

 そして、帝は民の暮しぶりを知りたいと思い建設中の水垣宮の視察を兼ねて春日の率川宮いざかわのみや(奈良市本子守町)から国中くになか(奈良盆地)を巡幸した。

 この頃、奈良盆地を南北に走る大道が三本あった。東から上ツ道、中ツ道、下ツ道、帝はこのいずれかの大道を現在の近鉄奈良駅近辺から天理を経て桜井まで巡幸された。

 道中、帝は道筋にむしろを被せて打ち捨てられたかばねを目撃し従者にお尋ねになられた。「かばねが打ち捨てられているのは何故か」従者は「見苦しいものをお見せしお目を汚しました。何卒、お許しを。」と地に伏し帝に許しを乞うた。帝は重ねて従者に問うた。

 従者は「何卒、大臣にお尋ねを。」と申し上げたが帝は許さず「遠慮なく事実を申せ。」と従者に命じた。従者はいたしかたなく都の惨状を語り始めた。「そもそもの事の始まりは天神あまつかみがお怒りになって天の基軸を狂わせたのか四季に狂いが生じ不順な天候が続きました。夏の五月に大粒のひょうが降り、秋は日照りに苦しめられ、神は田畑を痛めつけ、五穀は稔らず民は飢えに苦しみました。追い討ちを掛ける様に都に疫病が広まり弱り切った民の体をむしばみ、日に日に死人が増え、埋葬する縁者もいない屍は野に打ち捨てられました。都に死臭が漂い、都を逃れる者が後を絶たない状況となっております。」

 水垣宮みづかきのみやの視察を終え御殿に戻った帝は疫病を鎮めなければならないと思い神に祈りを奉げた。今まで御殿の内に神を祀らず祈りを怠った報いであろうと思い、御殿の内に天照大神あまてらすおおみかみ倭大国魂命やまとおほくにたまのみこと大物主神おおものぬしのかみの別称)を祀り朝夕祈りを奉げた。そして、天神あまつかみ地祗くにつかみにも朝夕祈りを捧げ疫病の鎮静を願ったが神は応えなかった。

 神がお応えにならないのは長い間、朝廷は神を祀り祈る事を怠り、享楽にけ、政争を繰り返し、皇位を争い、神をないがしろにした報いであろうと思った。巡幸の折に見た神の社は荒れ果て年々の祭儀も滞り訪れる人も絶えていた。神は打ち捨てられ、神の拠りしろである社は荒れて朽ち果て、臣も民も神を畏怖する心を失っていた。

 帝は神の怒りを鎮める為に百官を従え天神あまつかみ地祗くにつかみを敬い、神を祀り祈を捧げたが疫病はますます広がり都の民が死に絶えるのではないかと思う程、日に日に死人が絶えなかった。

 ある夜、夢枕に東征の途上に立ち寄った播磨の石の宝殿に鎮まる二神が顕れ「吾が霊をいつきき祀らば天下は泰平なるべし。」と告げられ、社生石おうしこ神社 石の宝殿 兵庫県高砂市阿弥陀町生石)を建てて巨岩に鎮まる大穴牟遲神おおあなむちのかみ少毘古那神すくなひこなのかみを祀ったが疫病は治まらなかった。

 思い悩んだ帝は孝霊こうれい天皇の姫、百襲姫ももそひめが優れた霊力を持っていると聞き知り、御殿に呼んで占わせた。六十才を超え痩身そうしんの老婆となった姫は矍鑠かくしゃくとして祭壇を設え地に伏して神に祈った。歩行も容易でない姫が神懸かみがかりしてすっくと立ち上がり白髪を宙になびかせ甲高い声で「もしよく吾を敬い祀れば国の治まらない憂いを除き、きっと平らぐであろう。」帝は問うた「祀る神はいずこの神か」答えて曰く「大和の神、大物主神おおものぬしのかみを祀れ。」と告げた。

 帝はお告げに従い教えのままに大物主神おおものぬしのかみを祀ったがおしるしは現れず疫病は一向に収まらなかった。

 帝は怒り狂う神を探し求めて、高天山たかまやま(金剛山)の中腹、高天原たかまがはらに登り一心に祈って神意を乞うた。数日、山にこもり一心に神の降臨を祈った。

 帝が神に祈りを捧げて御殿に戻り床に就いた夜、大物主神おおものぬしのかみが夢枕に顕われ帝に告げた。「天照大神あまてらすおおみかみは大和の神、大物主神おおものぬしのかみの国譲りを謝し出雲に壮大な高殿を建て天照大神あまてらすおおみかみの第二子天穂日命あめのほひのみことを祭主として大物主神おおものぬしのかみの荒振御魂を鎮めてきた。そして、大和の御諸山みもろやま(三輪山)大物主神おおものぬしのかみの聖地とし山麓を神域と定められた。しかるに帝は御諸山の南麓の地、水垣宮みづかきのみやに都を定めた。この地は天照大神あまてらすおおみかみが定めた神域である。天照大神あまてらすおおみかみとの約を違え神の地を侵せば大物主神おおものぬしのかみの荒振御魂は怒りを顕にし、吐く息は毒気となり疫病に姿を変えて民を苦しめ、四季を狂わせて、雲を集め、風を呼びひょうを降らせ、秋は一転して暑い日照りを降り注いだ。五穀は実らず民を苦しませた。これは帝が神域を侵したたたりで有る。」と仰せられた。

 帝は大物主神おおものぬしのかみの荒振御魂を鎮める方策を神に問うた。「我が荒振御魂を鎮めるには意富多々泥古おほたたねこを召し出し御諸山みもろやまに我を祀れば疫病は止む。」と告げた。

 神のお告げを聞いて目覚めた帝は八方に探索の役人を遣り、神が告げた意富多々泥古おほたたねこを探させた。もし神のお告げが正しければ意富多々泥古おほたたねこは直ぐに見付かるはずであった。

 河内国の探索に向かった役人が美努みの(大阪府八尾市上之町)で一人の老女を見つけ名を問うと意富多々泥古おほたたねこと名乗ったので都に連れ帰り上役に報告した。

 帝は直ちに老女を召し出し出自を問うと「私は大物主神おおものぬしのかみ活玉依媛いくたまよりひめと結ばれて、生まれた子の曾孫にあたる意富多々泥古おほたたねこです。」と名乗った。

 活玉依媛いくたまよりひめ陶津耳命すえつみみのみことの娘で容姿が美しく端正な顔立ちで父母の自慢の媛であった。この媛のもとに三輪に坐す大物主神おおものぬしのかみが夜毎人身に姿を変え活玉依媛いくたまよりひめの寝所に忍び入り媛とまぐわった。媛が身ごもったことを不審に思った父母は媛を問い詰めると娘は「夜毎立派な男が訪ね来てしとねを共にした。」と告げた。

 これを聞いた父母はかばねも解らぬ男の素性を知ろうと思い、男が忍び入れば針に通した糸巻の麻糸を衣の裾に刺しなさいと媛に命じた。

 翌朝、父母は麻糸が鍵穴を通り木立の中を山の辺の道に添って延びているのを見て不思議な感じを覚えた。まじまじと麻糸を見ても麻糸は鍵穴を通っていた。父母は怪しみつつ麻糸を頼りに山の辺の道を辿って男の館を訪ねた。麻糸は御諸山の社の中に消え入っていた。

 父母は媛の元に夜毎通う立派な男とは大物主神おおものぬしのかみで有り、媛は神の子を身籠もった事を知った。生まれた子が櫛御方命くしみかたのみことであった。そして、意富多々泥古おほたたねこの父は建甕槌命たけみかづちのみこと、祖父は飯肩巣見命いひかたすみのみこと、曾祖父が櫛御方命くしみかたのみことであった。

 帝は直ちに意富多々泥古おほたたねこ(三輪の君の祖)を祭主として大物主神おおものぬしのかみを御諸山に祀った。それと共に、御諸山に生い茂る一木一草に至るまでことごとく神の霊気が宿る御神体山として一切斧を入れる事を禁じた。大和の民は三諸みもろ神奈備かむなび(神霊が宿る神域)と称し畏れ祀った。

 それと共に、物部連伊香色雄いかがしこおを召して大物主神おおものぬしのかみを祀る祭儀に欠かせぬ多数の土器かわらけを作らせた。これより後、大和の神は物部が司り、神の祀りを絶やすなと命じられた。

 神を祀り終えて、ようやく疫病は収まり、五穀は良く稔って民は潤った。帝は高橋むら活日いくひ(記録に残る日本最初の杜氏 大神神社おおみわじんじゃの摂社、活日いくひ神社 祭神 高橋活日命 奈良県桜井市三輪)に命じて三輪の大物主神おおものぬしのかみに奉る酒を造らせた。活日いくひは三輪の大神に祈念し大物主神おおものぬしのかみのお告げに従って一夜で酒を造り、三輪の大杉で杉玉を作り酒樽に入れると芳醇な香りが漂い美酒となった。

 活日いくひはこの御酒みきを帝に奉り申し述べた。「この神酒しんしゅは私の造った神酒ではありません、この神酒は大物主神おおものぬしのかみが幾代までも久しく栄えよと醸成された神酒でございます。」帝はこの神酒を三輪の大物主神おおものぬしのかみささげ奉り、神をお招きして神の宮の前で宴を催された。この後、新酒が出来上がると三輪の大神に酒をたてまつり酒樽に入れた杉玉酒林さかばやしを軒に吊り下げ神の恵みに感謝の意を示した。

 三年秋九月、帝は都の其処此処に打ち捨てられたかばねを鄭重に埋葬し、荒れ果てた春日の率川宮いざかわのみや(奈良市本子守町)を土で覆った。

 印恵命いにえのみことが皇位に就いて三年過ぎたが朝廷に対する積年の不信感は一挙に拭い去る事は出来なかった。各地の乱は治まらず寧ろ即位に反対する豪族が後を絶たなかった。

 帝は朝廷に服従しない豪族に勅使を遣わして矛を納め大和に帰順する事を説かせたが各地の豪族は速やかには従わなかった。

 皇位継承で大和が混乱した隙に乗じ各地の豪族は自立を強め、都を遠く離れた地では帝の権威はないがしろに為っていた。大和の腐敗をただし民の安寧を願って御位に就いたが各地の争乱は止まずむしろ拡大していた。帝と物部に不満を持つ地方の豪族は都を去り国に帰って防備を固め、戦に備えていた。

 丹波たにはの豪族、由碁理ゆごりも皇位継承の戦いに敗れ領地に帰って国を固め、朝貢を拒んだ。大和の豪族は密かに大津の日子坐王ひこいますのみこを奉じ、皇子が挙兵するのを待ち望んでいた。

 紀の国の豪族、荒河戸畔あらかわとべも大和の混乱に乗じて近隣を攻め、領地を広げて大和に通じる戦略上の重要な河川で有る紀ノ川を制し吉野から海に至る航路を封じた。

 神武天皇も紀ノ川を溯って大和の攻略を目論んだが吉野、宇陀が頑強に抵抗し果たせなかった。荒河戸畔あらかわとべに吉野を制せられると大和に攻め込む道が拓け、荒河戸畔あらかわとべと吉備、播磨が結び、近江が呼応すれば大和は北と南から攻められる事と為る。荒河戸畔あらかわとべの暴挙は大和に敵対する行いで有り、帝の威信に懸けても平定を急がねば為らなかった。

 帝は紀の国を平定する軍を興し吉野川から紀の川を下って荒河戸畔あらかわとべに兵馬を差し向けた。紀の国の豪族、荒河戸畔あらかわとべは帝の軍を見て一戦も交える事無く帰順を願い出た。そして、紀ノ川を封鎖した行いを問い詰められた荒河戸畔あらかわとべは帝の御為に吉備、播磨の防ぎとして守りを固めたと言い張り大和に叛く意志は露ほども無い、この後も帝に忠誠を誓うと申し述べ、その証として荒河戸畔あらかわとべは帝の妃に姫の遠津年魚眼々妙媛とおつあゆめまくわしひめを差し出した。

 荒河戸畔あらかわとべに軍を差し向けて帰順させた事が功を奏し帝の即位に不満を持っていた豪族が次々に帰順し畿内はようやく安定したが丹波たにはの豪族、由碁理ゆごりは従わず、大和の豪族も内心では大津の日子坐王ひこいますのみこが挙兵するのを待ち望んでいるとの噂も耳にしていた。

 それでも、帝は即位の時から抱いていた遠大な計画の実現を急いだ。遠大な計画とは歴代の帝も為せなかった北と東の地に兵を差し向け、越と尾張を制して、大和の威光を毛野けの(栃木、群馬)以西に及ぼし、吉備を旧に復して神武天皇の志した東征の旅を終わらせる事であった。

 しかし、東と北と西に軍を発すれば都の防備が薄くなる隙を突いて大津の日子坐王ひこいますのみこか山代に退いた武埴安彦たけはにやすひこが兵を挙げる恐れが充分にあった。

 丹波たには大県主おおあがたぬし由碁理ゆごりも国を固め、但馬の豪族と為った天之日矛あめのひほこの子、多遅摩母呂須玖たじまもろすくを通じて出雲と繋がりを持っていた。

 特に、日子坐王ひこいますのみこは丹波、山代、近江の豪族と姻戚関係を持ち、吉備、但馬の豪族とも強い繋がりを持ち隠然たる力を秘めていた。日子坐王ひこいますのみこが各地の豪族に出兵を促せば多数の豪族が応じるであろう事が気掛かりであった。日子坐王ひこいますのみこが兵を挙げれば大和の豪族も呼応し国を二分する戦になる恐れが充分にあった。

 そうなれば、西の播磨、北の近江、南の紀伊と大和の支配を嫌う豪族が自立して再び豊葦原瑞穂国とよあしはらみずほのくには諸国に分裂するであろうと思った。現に吉備の温羅うらは帝の即位を認めず朝貢を拒み兵力を増強していた。

 吉備と出雲が兵を合せて大和に叛けば大乱になる恐れが眼に見えていた。帝は皇位に就いたとは云へその基盤はまだまだ脆弱であった。

 帝の予想通り大津に退いた日子坐王ひこいますのみこは諸国に使いを遣り皇位簒奪さんだつの機会を窺っていた。その勢いは潮が満ちるが如くじわじわと高まり大和の豪族も密かに通じていた。捨て置けば何れの日にか大津に都を開き天下を二分する危惧を感じた。

 帝の即位に反目する勢力が手を握る前に大津を降さねば諸国の豪族は大和を見縊みくびり離反して大津に組みするであろうと思った。帝は戦を避け日子坐王ひこいますのみこと和睦する道を探った。日子坐王ひこいますのみこと和睦が為れば山代に退いた武埴安彦たけはにやすひこも丹波の由碁理ゆごりも従うで有ろうと思った。

 帝は大毘古おおびこに兵を飾って大津の日子坐王ひこいますのみこをお迎えせよと命じた。大毘古おおびこは大津に赴き、勅命に従わねば兵を差し向けると半ば脅した。帝に武力で対抗する力が備わっていない日子坐王ひこいますのみこは苦汁を飲んで帝に服する事を約し、都に赴いて帝に膝を屈した。

 日子坐王ひこいますのみこを屈服させた帝は越と東海、西海、丹波たにはに征討の軍を発する事を決断した。

 三年秋八月、帝は朝議を開き「皇祖が志した東征の旅は道半ばであった。志を引き継ぎ四道に錦の御旗を推し進め大和の威光を四方に示し東征の旅を終わらせたい。」とみことのりして、将軍を任命し御旗と印綬を授けた。

 大毘古おおびこに北陸平定を命じ、武渟川別たけぬなかわわけ大毘古おおびこの御子)に東海の平定を命じ、皇位継承の争いに距離を置いていた考霊天皇の御子、五十狭芹彦いさせりひこ吉備津彦きびつひこに西海の吉備平定を命じた。

 そして、大津の日子坐王ひこいますのみこには丹波を乱した玖賀耳之御笠くがみみのみかさを討伐し、未だに帰順しない丹波の由碁理ゆごりを討ち、由碁理ゆごりの庇護下にある丹波たには峰山の出雲氏族を帰順させたたら(製錬所)の支配を命じた。

 三年秋九月九日、軍旅整い帝は四道に軍を発し「赴くところ、帰順しない者はすべて討ち取れ。」と命じた。


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