皇位争乱
第三話 崇神天皇
武埴安彦の反乱
印恵命に皇位を奪われ挫折を味わって山代(京都府南部)に退いた武埴安彦(孝元天皇の妃、埴安媛の御子 開化天皇と異母兄弟)は悶々とした日々を無為に過ごしていた。考えれば考えるほど、物部と印恵命に対する恨みが募った。開化天皇崩御の後を受けて今度は皇位に就けると考えたが、又しても、物部の謀略に合い皇位は素性の知れぬ筑紫の首魁に簒奪され皇統が改まった。
あの時、皇位を日子坐王に譲り大和が一丸と為って戦うべきであった。悔やんでも悔やみ切れない痛恨の一事であった。物部の策謀に嵌まり神武天皇が築いた皇統を守れなかった己を恥じ、皇統が覆された現実に言い知れぬ怒りが込み上げ皇孫として皇統を糾す兵を挙げ、一矢を報いる戦を敢行したいと願った。
妻、吾田媛の里、河内の豪族、河内青玉に会い胸の内を語った。「既に天下は定まり戦を興しても皇軍の御旗を握る帝と物部の巨大な軍事力を前に死を賭して皇統を守る臣が数多駆けつけるとも思えない。勝ち目の無い戦に青玉が味方すれば命を失い領地も失い一族を死に追い遣る事となるが決起の時は敢えて助力を請いたい。」と告げた。
河内青玉は並々ならぬ決意の程を聞き、武埴安彦の手を握り締めて助力を約束し、「皇孫が戦を起こせば大津に留まる日子坐王も大和の豪族も呼応するであろう。」と語った。
武埴安彦は密かに日子坐王に使者を遣り「皇位は譲る故、我に呼応して蜂起せよ。」と告げたが日子坐王は応じなかった。吉備の上道臣、下道臣と丹波の由碁理にも使者を遣り、「皇統を糾す為に挙兵する。兵を率いて都に上れ。」と告げたが色よい返事は得られなかった。
三年秋八月、河内青玉から好機到来の知らせがもたらされた。「帝は大和の威光を広めるべく四道に軍を発すると詔して、将軍を任命し御旗と印綬を授けた。軍が進発すれば都の守りは薄くなる。」
武埴安彦は帝を討つ千載一遇の好機が到来したと感じた。都の防備は薄くなり大軍を擁さずとも帝を弑する事が出来る。この時を待ち望んでいた武埴安彦は山代に兵を集め挙兵の準備を急いだ。
一方、北陸の征討に向かった大毘古の軍団が山代の幣羅坂(京都府木津川市市坂幣羅坂)に差し掛かると、一人の童女が繰り返し、繰り返し同じ謡を囁く様に唱し、兵が追い返しても、追い返しても付き従って来た。一人の兵卒が謡の中に気に掛かる言葉を耳にして大毘古に報せた。
大毘古は兵に命じて童女を捉え謡の内容を問い質したが童女は知らないと答え突然走り去った。直ぐに後を追わせたが童女は忽然と姿を消して見つからなかった。数人の里人を捕え謡の出所と意味を問い質したが誰も知らなかった。
謡の中に帝の御名の御間城と入彦が数度謡われる事に大毘古は胸騒ぎを覚え急ぎ都に立ち返り帝に告げた。
帝は巫女として神意を良く伝える百襲姫に占わせた。姫は祭壇を設え一心に祈って神意を問うた。祈り終わって姫は帝に告げた。「神が童女に姿を変え大毘古に帝の危難をお告げに為り、都に立ち帰れと命じられた。」と告げた。
神の御告げでは「山代に退いた武埴安彦の妻、吾田媛が密かに大和に入り三輪山の土を持ち帰った。これは、大和の地を奪うとの意志の現われである。速やかに迎え撃つ準備を怠るな。」とのお告げで御座いますと帝に申し述べた。
帝は四海道に軍を発した隙に乗じて謀叛を企てる武埴安彦に驚きを感じた。日子坐王と異なり武埴安彦には有力な後ろ盾が無く謀叛を企てるとは思っても見なかった。大毘古に事実か否かの探索を命じた。
そして、帝は武埴安彦の乱に呼応して大和の豪族が一斉に蜂起する事を恐れ、西海に派遣した五十狭芹彦と東海に向わせた武渟川別命を呼び戻し都の防備を固めた。
そして、丹波平定を命じた日子坐王の動向が気掛かりであった。日子坐王が軍を返して武埴安彦に加担すれば大乱になる。直ちに日子坐王の軍装を解き監視下に置かねば成らない。
帝は物部連伊香色雄を勅使として大津の日子坐王の下に遣わし軍装を解き丹波平定を中止して大津に留まれと命じた。
伊香色雄は日子坐王に武埴安彦の暴挙に加担して兵を走らせる愚かさを諌め、「覆水盆に返らず既に帝の権威は盤石となり皇位を窺う乱を起こしても蟷螂の斧の一撃に過ぎぬ。武埴安彦の暴挙は程なく鎮められるであろう。」と告げた。日子坐王も帝に屈した今、敢えて武埴安彦に加担する愚行に走る考えは元よりなかった。
大毘古が放った偵察の兵が立ち返り「山代の国に引き篭った武埴安彦が兵を集め狩りと称して兵の訓練を続けている。これは謀叛を企てている証と思われます。近々決起するとの噂も耳に致しました。」と告げた。
帝は直ちに軍を編成し大毘古を将軍に、和珥(奈良県天理市)の豪族、和珥臣、彦国葺を副将に据え、武埴安彦の討伐を命じた。
帝が四海道に軍を発し好機が到来したと思ったのも束の間の夢であった。都からの知らせでは大毘古が北陸征討の軍を発し、山代の幣羅坂に至りし時、童女の謡を耳にして不吉な予感を覚え急ぎ都に立ち返り帝に報せた。
吉凶を百襲姫に占わせたところ武埴安彦に謀叛の兆しありと告げられ、四道に発した軍を返し、大毘古と和珥臣に討伐を命じたとの報せであった。
武埴安彦に千載一遇の好機は来たらず、天に見放されて企ては露見し、逆賊の汚名を被る身となった。「皇統を糺すべし、政を旧に復すべし、奸臣を除くべし、馳せ来たり皇位を簒奪した朝敵を討つべき時が来た。」と使者に託した言葉も虚しく響き、二度、三度と神に見放された己を呪った。
諸国の豪族に蜂起を促す使いを出し援軍を請うたが時すでに遅く、武埴安彦に援軍の到着を待つゆとりは無かった。館に籠もり敵を待っても防ぎ切れるものでもなく、思いは遂げられない。万に一つの天運に掛け、都に攻め上る決意を固めた。
妻、吾田媛の里、河内の豪族、河内青玉は討伐の勅命が下った事を知り武埴安彦の運の無さに嘆息した。約を違えず一族の兵を集めて助力する積りであったが時すでに遅く山代に兵を差し向ける状況ではなかった。
武埴安彦は帝が西海に派遣した五十狭芹彦を呼び返して都を固めたと聞くに及んで、時を置かず大毘古に命じて軍を発し山代に迫るであろうと思った。
武埴安彦の兵は三千に満たなかったが乾坤一擲、死を覚悟して都に攻め上る決意を固め、諸将を集め「時が迫った。明朝、夜明け前に出陣する。敵は帝唯一人。」と告げ、作戦を諸将に語った。「軍を二軍に分け、主力は武埴安彦が指揮して和訶羅河(木津川)に沿って木津に至り、木津から上ツ道(奈良盆地を南北に縦断する現代の国道一六九号線)を南下して磯城の都に攻め入る。もう一軍は奇襲部隊である。吾田媛が指揮を執り、鵜河(淀川)を渡河して樟葉から大きく南に迂回し河内街道を枚方、寝屋川、四條畷、大東、東大阪、八尾と南下し、二上山の北麓、大坂(穴虫峠 奈良県香芝市穴虫)を越えて都に攻め入る。北と西から都を攻める。」と告げ、一夜、管弦の宴を催した。兵に酒、肴を振る舞い、今宵は無礼講で大いに楽しめと告げた。
妻の吾田媛は舞い、諸将が謡い、明日の戦を忘れ共に酒に酔い、一時の宴を楽しんだ。宴の後、武埴安彦と吾田媛は神に武運を祈り、来世の契りを結んだ。
翌未明、武埴安彦は精兵五百騎を選び万に一つの望みを吾田媛に託し自らの甲冑を与えた。吾田媛は長い黒髪を切り落とし形見として武埴安彦に手渡し男装して甲冑に身を固めた。
武埴安彦は出撃を前に兵に告げた。「主が敵に囲まれようと助ける事は無用、一兵に為っても我が思いを遂げよ。敵は帝唯一人である。帝を誅し政を糺し神武の昔に復す事が我が願いである。磯城の水垣宮(奈良桜井市金屋)に雪崩れ込むまで命を大切にせよ。」
二人は兵と共に出陣の酒を酌み交わし、かわらけを割って二度と戻らぬと神に誓い、兵と共に剣を突き上げ気勢を挙げ気持ちを鼓舞して出陣した。
兵団は鵜河(淀川)に沿って南下し、樟葉で鵜河を渡り東と南に別れた。別れに際し二人は磯城での再会を誓い馬に跨った。武埴安彦の軍は東へ進み和訶羅河(木津川)に沿って南下し木津に向かった。吾田媛の軍は樟葉から南へと馬を馳せた。
一方、都を守る物部は大毘古に一万の兵を授け和珥臣の彦国葺を副将に据えて討伐の軍を編成し、山代に向かわせた。昼を過ぎた頃、生駒山の物見の兵から数百の兵団が河内街道を南下しているとの報せを受けた。
物部は北と西の二手に別れて都を攻める魂胆かと見抜き、おそらく河内街道を南下する軍団は吾田媛が率いる奇襲部隊であろうと思った。物部は吾田媛の勇猛振りを聞き知っていた。
物部は五十狭芹彦に五千の兵を授け、「吾田媛の率いる兵は死を怖れず一兵になっても敵に向かうと聞く、女が率いる寡兵と見て侮ると手痛い目に遭い、囲みを突き崩して都に迫るやも知れぬ、敵兵は皆殺しにせよ、一兵たりとも逃すな。」と命じ大坂(二上山の北麓穴虫峠 奈良県香芝市穴虫)に向かわせた。
五十狭芹彦は馬を馳せ大坂に急いだ。吾田媛の軍が大坂の峠を越えて葛城に達すれば都が戦場となる。何としても大坂の地で捉え吾田媛の軍を殲滅させねばならない。
五十狭芹彦は遥か前方の大坂を駆け下る五百騎ばかりの兵団を見て先駆けの兵団で有ろうと思った。一軍を割き進路を塞ぎ殲滅せよと命じて本隊の進軍を止めた。
吾田媛の兵は剣を振りかざし馬を疾駆させて五十狭芹彦の一軍に切り込み瞬く間に突き崩して行く手を遮る本隊に向って来た。
五十狭芹彦は吾田媛の本隊が到着しない事に不審を覚えた。僅か五百騎ばかりの寡兵で大和を目指すとは思いも拠らなかった。
五千の兵で立ち向かえば後世の人は五十狭芹彦は臆病者と謗るで有ろうと思い数百の兵を出し討伐に向わせたが吾田媛の兵は強く忽ち打ち破られた。再び数百の兵を差し向けたが打ち破られた。
五十狭芹彦は二度の戦いを見て改めて吾田媛の兵の強さを知り柵を設けて退路を断ち、進路を塞げと命じ、兵を左右に展開して吾田媛を待ち受け、騎馬軍団を包み込む策を取った。
先頭を駈ける吾田媛の若武者の如き勇姿を見て殺すのは惜しいと思った。吾田媛は囲まれる前に勢いを以て一気に駆け抜ける策を取った。身を低くして馬に鞭を入れ、鐙を蹴って馬を馳せ五十狭芹彦の陣を駆け抜ける勢いで馬を馳せた。五十狭芹彦は馬を射よと命じた。兵は矢を射たが疾駆する騎馬の勢いを止められなかった。
吾田媛は飛び来る矢を剣で払い柵を次々に飛び越え五十狭芹彦の陣に迫った。五十狭芹彦は柵を次々に飛越する吾田媛を見て、柵に拠る兵に矛を天に突き出せと命じた。
吾田媛は飛越する寸前に馬を留め、旋回して五十狭芹彦を探し、弓矢を競えと叫んだが兵の喊声にかき消された。やむなく馬の勢いを止め、敵の薄い所を探したが出口は無かった。
五十狭芹彦は吾田媛の騎馬軍団をじわじわと包み込み一軍を割いて吾田媛の退路を断った。
吾田媛は夜叉の如く剣を振るい飛び来る矢を打ち落とし寄せ来る兵を睨み付けた。日頃の美しい顔は失せ、眼は吊り上がり、かっと見開いた眼光は赤く光り、叫び声は鬼神を思わせた。
兵は竦み矛を突き出す手に勢いが失せ誰も立ち向かえなかった。吾田媛は一人の兵に「正面の柵に馬を疾駆させよ。」と命じた。正面の柵に向って一騎が矛を立てた柵に猛然と突っ込んだ。馬の嘶きと共に柵は吹き飛び道が開けた。
吾田媛の兵は一団と為って馬を疾駆させ騎乗から次々に矢を射り敵兵を射抜き、敵兵を馬の蹄に掛け剣を振るって五十狭芹彦の陣を突き破り都を目指した。
五十狭芹彦は吾田媛の余りの凄まじさに恐懼した。急ぎ兵を騎乗させ、一列縦隊で疾駆する吾田媛を追った。背後から吾田媛の兵に矢を射掛けた。最後尾の兵の背に次々と矢が突き立ったが兵は馬上に留まり馬を馳せ続けた。
五十狭芹彦の騎馬軍団が怒涛の如く大和を目指す吾田媛を追った。最後尾の兵が次々に倒れたが吾田媛は怯む事無く馬を馳せた。
しかし、疾駆し続けた吾田媛の馬は疲れ喘ぎ始めた。吾田媛は兵に先を急げと命じたが兵は盾となって留まった。そこに五十狭芹彦の騎馬軍団が追い付き吾田媛の一団を囲み、一斉に矢を放った。
盾で防いだが四方から矢が飛来し次々に兵は倒れ、吾田媛も肩に矢を受けたが怯まず馬首をめぐらし五十狭芹彦を目指して馬を馳せた。
剣を振りかざし五十狭芹彦に打ち掛かったが多数の兵に阻まれ組み敷かれて馬から落ち、吾田媛は捕らえられて五十狭芹彦の前に引き立てられた。
吾田媛は両腕を抱えた兵の手を払い除け、五十狭芹彦を睨み据えて叫んだ。「五千の軍に五百騎の兵で立ち向かい、今一歩で汝を討ち取る好機を逃し無念である。汝の首を刎ね目前に迫った都に馬を馳せて是が非でも皇位を簒奪した帝を一太刀で仕留めたかった。怨霊となって彷徨い天下を乱すで有ろう。」と云い終えて吾田媛は傍らの兵の剣を奪い自ら喉を突いて果てた。
吾田媛の軍には逃げる兵も降伏する兵も居らず最後の一兵も怯む事無く戦い斬り殺された。五十狭芹彦は死を怖れぬ吾田媛と兵の勇猛振りに驚愕した。数千の兵では取り逃がし我が身は斬り殺され、都に乱入して帝の命も危うかった。恐ろしさに身震いして背筋が寒くなるのを覚えた。
一方、武埴安彦は木津に至り偵察の兵が戻り、大毘古の大軍が那羅山(奈良県奈良市と京都府木津川市の県境を東西に延びる平城山丘陵)に拠って陣を敷いていると告げた。
武埴安彦は行く手を阻む大毘古の軍を破らなければ都に進めない。予想していた事では有るが余りに素早い大毘古の布陣に驚いた。
武埴安彦は大毘古の軍を前にして兵に命じた。「雑兵にかまうな敵は都の帝、唯一人である。都を目指す為に大毘古一人を討て。大毘古を討てば軍は混乱し敵の戦意は萎える。」
武埴安彦は大毘古の陣と思しき一軍に向って馬を疾駆させた。敵兵が一斉に武埴安彦の騎馬軍団に向って矢を射掛けて来た。飛来する矢を盾で防ぎ剣で打ち払い大毘古の陣を目指し馬を馳せたが敵兵は厚く、陣を窺う事は出来なかった。
大軍に包み込まれそうになり一旦、和訶羅河(木津川)に退き策を練る事とした。川を挟み大毘古の軍と対峙する事となった。
小競り合いを繰り返し大毘古の兵が川に押し出せば十分に引き付け一斉に矢を放って追い返した。大毘古は無駄な矢が一本も無く、味方の兵が次々に射殺されるのを見て武埴安彦の兵が噂以上の精兵に驚いた。
しかし、大毘古は焦らなかった。武埴安彦の軍は寡兵であり少しずつ兵力を削ぎこの地に釘付けにして自滅するのを待てば良かった。武埴安彦は焦りを感じたが迂闊に川を渡れなかった。
武埴安彦は夜蔭に乗じて軍を動かし大毘古の裏を斯く事にした。兵に命じ河原のあちこちに火を焚き兵が居るように見せかけ、軍を二手に割った。
山代の豪族、葛野に一軍を授け下流から囮と為って大毘古の背後を襲い、武埴安彦は上流から渡河してそのまま都を目指す事とした。対岸の敵に気付かれ無い様に馬の口を縛り静かに移動した。勝機は都に入れるか否かである。敵兵に気付かれないよう先を急いだが夜が白みはじめた。
夜が白み対岸から武埴安彦の兵が消えたと告げられた大毘古は慌てて四方に偵察の兵を出した。
下流に向かった山代の豪族、葛野は早く川を渡り大毘古の背後を突き都を目指す武埴安彦を助けねばならないと先を急いだが敵兵を避けた為に大きく迂回し夜明けまでに大毘古の背後に回れなかった。
偵察の兵に発見され、射殺せと命じたが見失った。大毘古は偵察の兵の報を受け直ぐさま軍を後退させ、一軍を下流に向かわせ敵兵の探索を命じた。
夜陰に紛れて渡河した武埴安彦は大毘古の軍に構わず都を目指して馬を馳せた。
大毘古は上流の偵察に向かった兵から都を目指す一軍を見たとの知らせを受け、急ぎ軍を返し都に向かう武埴安彦を追った。遠くに疾駆する武埴安彦の一団が見えた。大毘古は軍を左右に展開して包み込む様に追った。
武埴安彦は懸命に馬を馳せたが大毘古の軍に包み込まれた。武埴安彦は馬上から剣を振るい向かってくる敵兵を討ち続けたが次々に兵が押し寄せた。馬も長柄の棒で足を払われ前足を折って倒れ馬から投げ出された。味方の兵の大半は既に馬を失い一人の兵に数十人が向かってきた。
武埴安彦の兵は精兵とは云へ多勢に無勢、一気に囲まれた。敵側には次々に援軍が到来し、味方の兵は次ぎ次ぎに討ち取られた。武埴安彦はこれまでと悟り、敵の馬を奪い大毘古を探したが見えなかった。
武埴安彦は味方の兵に告げた、「この戦は是まで、百騎は我に従い大毘古を探せ、他の兵は敵の馬を奪い引き返して南に向かった吾田媛を助けよ。」
武埴安彦は馬を疾駆させて敵の囲みに突き進んだ。矢が雨の様に降り注ぎ剣で払ったが、和珥臣、彦国葺の射た一矢が肩に突き立った。激痛が走り手綱を握る手が痺れた。痛みを堪え矢を抜き取りなを馬を馳せ大毘古を探し求めた。
馬を止めた時、不覚にも矛で馬を突かれ馬は膝を折って崩れ投げ出された。敵兵が群がって襲って来た。立ち上がって剣を構え数人の敵兵を薙ぎ倒し大毘古い出よと叫び続け敵兵の中を突き進んだ。肩も脚にも矢が突立ち駆ける事は叶わなかった。
兵を押しのけ彦国葺が姿を現し兵を制し弓を引き絞り武埴安彦を射た。矢は胸を貫き突き立った。膝を屈した武埴安彦を数人の兵が取り押さえ大毘古の前に引き立てた。
武埴安彦は痛みに耐え苦しさの中で大毘古を睨み、「時の流れに抗し、神の試練を堪え、苦難を乗り越え、皇統を糺す望みは潰え去った。鬼神となって何れ朝廷に乱を招く。」言い終わるや否や大毘古は武埴安彦の首を刎ねた。そして、「敵兵は一人も逃すな皆殺しにせよ。」と命じた。
山代の豪族、葛野は下流から大毘古の軍の背後に周り敵兵を撹乱して時を稼ぎ、少しでも武埴安彦が都を目指す助けに為ろうと、急ぎ川を渡ったが敵兵は見えずおびただしい馬蹄の後が有った。全軍が武埴安彦を追っているのがわかった。大毘古の軍を撹乱する策は敗れた。葛野は急ぎ武埴安彦に合流すべく馬を馳せた。
武埴安彦の軍が大毘古の兵に囲まれ苦戦する様が遠くに見えた。馬を馳せ囲みを破って武埴安彦のもとに馳せ参じた。敵兵は雲霞の如く集い忽ち武埴安彦も葛野も兵に囲まれた。
葛野は武埴安彦の楯と為って敵に立ち向かい再起を期しこの場を落ち延びて頂きたいと武埴安彦に懇願したが武埴安彦は「既に我が武運は尽きた。我が望みは吾田媛に託した。葛野はこの場を去り、吾田媛に加勢願いたい。」と叫んで敵に立ち向った。
葛野は武埴安彦の命を受け入れ、囲みを破り和訶羅河(木津川)に向かったが暫くして大軍が追ってきた。葛野は武埴安彦が討ち取られた事を悟り兵に告げた、「我に構わず楠葉まで落ち延び船を奪って逃げ延びよ。」
大毘古の軍は敗走する兵を追って鵜河(淀川)の楠葉(枚方市楠葉)の渡しに到るまでにおよそ兵の半数を殺した。食も取らず、水も飲まず、逃げまどう兵を斬り刻み、葛野の兵が通った跡は血の海となり屍は道の両脇に延々と続いた。葛野は楠葉まで逃げたが船は無かった、止むを得ず大津を目指し落ちる事とした。
大毘古は追撃の手を緩めず武器を棄て降伏した兵の首も刎ねた。葛野は波布理曾能(京都府相楽郡精華町)に至り大毘古の兵に囲まれた。大毘古は一人の兵も残さず殺せと命じた。次々に斬り殺され屍は和訶羅河に放り投げられた。屍は川を血に染めてゆっくりと流れ下った。
帝は戦勝を神に謝し、何故従わぬ豪族が後を絶たないのか神に問うと大物主神は告げた。「過ぎ去りし昔、墨坂(奈良県宇陀の地)の地で、外山(奈良県桜井市外山)の兄師木が神武天皇に討たれ非業の死を遂げた。宇陀の墨坂に、赤の盾と赤の矛を埋め墨坂大神(墨坂神社 奈良県宇陀市榛原区萩原字天野)を祀れ。饒速日命に騙し討ちとなった長髓彦の霊を鎮める為に、大坂(大坂山口神社 奈良県香芝市穴虫)に墨色の盾八面と墨色の矛八本を埋め長髓彦を神として祀れ。」と告げた。教えに従い墨坂と大坂に神を祀った。
武埴安彦が討ち取られ群臣も大和の豪族も帝に忠誠を誓ったが大半の豪族の内心は忸怩たるものがあった。大和にとって帝の血筋とは神武以来連綿と続きこの大和を統治してきた孝霊、孝元、開化に連なる皇子で有った。帝の軍門に降ったとはいえ、異国の神に通じる帝を推戴する事に少なからず抵抗を感じていた。
大和の豪族には武埴安彦が討たれた今、皇子の中で最も人望が有り、明晰な頭脳を持つ日子坐王に帝との和睦を破り皇位を簒奪した帝を誅する兵を挙げて欲しいとの思いが有った。
日子坐王は大和の豪族和珥臣、山代の豪族長溝、近江の豪族息長宿禰、大和春日の豪族、建国勝戸売と有力な氏族と姻戚関係を結んでいた。
大和の豪族の思いは日子坐王がこれらの豪族を糾合して兵を挙げる事であった。戦となれば帝に不信の念を抱く近隣の豪族も呼応して立ち上がるで有ろうとの思いが強かった。
説得を試みる豪族の使者が度々、大津に滞在する日子坐王の館を訪れ、都を大津に遷し大津から天下に号令する事を執拗に説いた。吉備、丹波と結ぶ事を提言する豪族もいた。
帝にとっても武埴安彦を滅ぼした後、人望も有り、知略に優れた日子坐王が一番気掛かりな存在であった。日子坐王は武埴安彦と異なり有力な豪族と姻戚関係を結び未だに大和に隠然たる力を秘めていた。
武埴安彦が反乱を起こした時、日子坐王は帝の勅命に従い軍装を解き平然と物部連伊香色雄の監視下に入ったが心底から帰服したとは思えなかった。帝も武埴安彦の乱の鎮圧を急いだ理由の一つに鎮圧が長引けば日子坐王が兵を挙げる事を怖れた故であった。
帝の許にも大津に暮らす日子坐王の噂が絶えず耳に入っていた。真偽の程は定かで無いが大和の豪族と密かに語り合い挙兵を企てているとの噂も耳に入っていた。確かな証拠を握り奇襲を掛けて日子坐王を滅ぼし後顧の憂いを除きたかった。
しかし、用心深い日子坐王は容易く豪族の勧めには乗らなかった。日子坐王は時の流れは元に返らない、最早、時代は変わったとの思いが強かった。他方、真の帝の後継は自分で有り、連綿と続いた皇統を守れなかった己を恥じ、皇祖に申し開きが立たないとの忸怩たる思いも交錯していた。
崇神天皇も薄氷を踏む思いで大和を統治していた。政に乱れが有れば豪族は日子坐王を推戴して一斉に蜂起する恐れが充分に有った。帝は物部の専横を許さず政を糺した。百官の責務を定め、私利私欲を禁じ、質素倹約を旨として、民の為に公平な裁きを行っていた。帝の失政が日子坐王に戦を仕掛ける口実を与えるであろう事を承知していた。都は平穏を取り戻し大和の豪族も物部に倣い帝に忠誠を誓った。日子坐王の付け入る隙は無く、帝の基盤は月日と共に固まっていった。
帝は武埴安彦の乱により中断していた地方の平定を急ぎたいと思った。大和は治まっても地方は未だ不穏な空気が漂っていた。帝は小さな乱が大乱に発展する事を、身を以って承知していた。
乱は治まったが武埴安彦が各地の豪族に蜂起を促しており、地方で乱が勃発すれば、乱は燎原の火の如く広がり、再び大乱となろう。乱となれば火の粉は大和に飛び火して大和の豪族も豹変し、大津の日子坐王を巻き込んで大乱を起こす危険は充分にあった。
日子坐王は帝に服すると約したが剣を突き立てて約を迫ったに過ぎず内心は忸怩たる思いが渦巻いていたであろう事は承知していた。約したとは云へ帝の胸の内に常に不安がつきまとった。日子坐王が心底から帰服しない限り不安を拭いさる事は出来なかった。
熟慮を重ねた帝は大津に留まる日子坐王に使いを遣り都に招いた。余人を交えず日子坐王と二人で対峙し、「互いに兵を挙げ戦になれば各地で争いが起こり国は乱れ大乱になる。神武以来各地を平定したが越の国の先にも東海の先にも地は続き、武蔵から先は蝦夷が支配していると聞く。狭野命(神武天皇)が肇国の理想を説き東征の軍を興して早、一九〇年が過ぎたが帝の威光と恩沢は越の国にも東国にも未だ及んでいない。皇祖が果たそうとした豊葦原瑞穂国の平定を我らが引き継ぎ東と北と西に軍を進めねば為らない。我らが相い争い東征の軍を止めて何の益が有ろう。」
帝は大事を前に小異を捨てて大同に付く事を諄々と説き、国の平定に力を貸す事を促した。日子坐王は最早、此れ迄と悟り帝に帰順する事を誓った。
帝は和睦の証として、始祖、神武天皇と饒速日命の国譲りの故事に倣い、太子の后は日子坐王に繋がる媛を迎え、授かった御子を次の太子とする事を子々孫々に伝える事を約した。